漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

漫画のネームに関しての今の理解メモ

 漫画を描くようになってからもネームというものが描けなくて、ずっといきなり原稿を描いていたのですが、商業誌など、事前に人に内容を見せる必要がある漫画を描く機会を得られるようになって、どうしても事前に人に見せないといけないので、ネームを描くようになりました。

 

 ネームというのは漫画の設計図のようなものです。コマを割ってセリフを入れて、簡易的な絵を入れて、これから細かく作画をしていく漫画がどのようなものになるかを理解できる形になったものです。

 これがどのようにすればできるのかが分からず今も試行錯誤しています。

 

 どのようなものを描くかを箇条書きにしたようなプロットを作ったりすることもあります。それを作るのは簡単に感じていて、30分もかからなかったりするのですが、そこからネームにするのにはどれぐらい時間がかかるのかがわかりません。

 ネームができれば作画に必要な時間はだいたい分かります。しかし、ネームにどれぐらいかかるのかは今のところ全然分かりません。

 

 漫画というのはコミュニケーションの一手段だと思います。というか、漫画に限らず、他人に見せる前提の作品には基本的にコミュニケーション性があります。つまり、そのような作品は、作者の中にあるものを、別の人に伝えるための媒介になるものだと思うからです。

 ここで面白いのは、作者の中にあるものを完全に伝えることが良いとも限らないことです。作者が自分の中の何かを作品に変換し、読者は作品を自分なりに変換して、頭の中に何かを再現します。ここで、作者の頭の中にあったものと、読者の頭の中で再現されたものは、実は異なっていたりします。

 しかし、異なることでこそ、ひとそれぞれ固有の特別な読書体験になったりもするのだと思います。

 

 完全には伝わらないものという前提にしても、作者にはまず何か伝えたいものがあるはずです。それは言葉にできるものかもしれませんし、言葉にできないからこそ、作品で伝える意義があるものかもしれません。作者には基本的に何かがあるはずです。それは、感動的な気持ちかもしれません、悲しい気持ちかもしれません、エッチな気持ちかもしれません。

 プロットには、その何かがズバリ書かれているかもしれません。でも、プロットを読ませても、それは完成作品の読書体験とはかなり異なるはずです。「命は大切だ」ということを伝えたいとして、「命は大切だ」という文字を読まされても、そうだろうねと思うだけかもしれません。それは「命は大切だ」とただ書いてあるとしか思えないからです。

 しかし、それが物語となる場合には読者は読んだないようから、内面に「命は大切だ」と思うだけの何かが浮かび上がってくる内容になっているはずです。そこにあるのはつまり、伝え方が異なるということでしょう。

 

 例えば、「どうしても生きたかった人間が死んでしまう」という物語を読んだとき、人は「命は大切だ」と思うかもしれません。ただ、そんな陳腐な物語で、そう思うなんて侮らないで欲しいと思うかもしれません。

 では、多くの人をその気持ちにさせるためには、どのような伝え方をすればいいのか?それを設計する工程がネームだと思います。

 

 読者に伝えたい核の部分を、どのような言い方で伝えることが最も適切なのかを探る行為です。

 

 物語上の出来事を羅列しただけのプロットにはそれがまだ無かったりします(その段階である程度設計をできる人もいるかもしれませんが)。つまり、世界観やプロットが作れたとしても、それは人に何かを伝えられる物語になっていないということです。

 個人的な感覚ではプロットができた段階では全体の工程の5%以下しか進んでいないように思います。作画の工程は僕の場合(画力的にできることが限られていることもあり)は淡々とやるだけで多く見ても30%ぐらいなので、残りの65%ぐらいのことがネームにあるなと感じたりしています。

 大切であり、大変な工程です。

 

 伝え方には無数の方法があります。試行錯誤をしようと思えば無限にできるかもしれません。僕がネームを作れなかったのはこの部分にあると思っていて、可能性があり過ぎるので、目の前に広がる無数の道の中に怖気付いてどれかを選べないままに立ち止まってしまったところがあると思います。

 僕がやっていた「いきなり原稿を描く」というのは、つまり退路を断つ行為です。今まで描いたことをもう変えることが出来ないということにしてしまえば、その先の選択肢は大幅に狭まります。狭まれば選ぶことがしやすくなるので進められるようになります。

 

 しかし、かつてのようにいきなり原稿にして退路を断つことをしなくなった今、自分がどうやってネームを完成させられているのかが自分でも明確には分かりません。なんとなく出来たり出来なかったりしています。

 ただ、編集さんにネームを送る期日を決めてしまえば、それが退路を断つ行為になって進められたりしている可能性はあります。

 

 ネームというのは、無数の選択肢の中から、どのようなやり方で伝えれば、自分が意図したものが他人の頭の中で再現できるかを考える行為だと思います。

 読者にどういう情報を与えることで、どのように思わせ、それをどのように変化させていくのかを設計することで、最終的に読者の頭の中に何を広げたいのかを考える必要があります。

 できますか?僕は全然できないですよ。

 

 ただ、このようにちゃんとネームが作れない人でも、例えば、別の人が作った作品を見て、この展開がもっとこうだったら良かったと考えることはできると思います。なぜなら、その時点でかなり選択肢が絞られているからです。

 他人の作った作品では、作中に人々や読者が、既に何を知っていて、この先、どのようなものを伝えようとしているかがぼんやり見えていたりします。それならば、そこからの限られた選択肢の中で、このやり方をした方がより良く伝えられるのではないか?ということを考えることは狭い話なので、自分なりに選ぶことができます。

 

 僕は自分の描いている漫画でもそういうことをするのが、ひとつの方法だなと思っています。つまり、とりあえず描いてみて、他人事のようにそれを読んでみることです。そこで、読んだ自分が今何を思っているかを考え、この後どうなれば良いと感じるかに向き合えば、次の選択肢が出てきやすくなります。数ページ描くたびに、そういうなんかなんとなくサイコロを振るような行為をして、出た目の雰囲気をどう感じるか?を考えるというようなことをしています。

 そこからたまたま美しく見えるようなものを見つけられると、なんとなくネームが出来たりするような気がします。

 

 つまり、今は試行回数を増やすことで、たまたま出来ることに賭けています。運でネームを作っています。運で作っていると、ネームにかかる時間が読めないので、難しく感じてしまいます。

 今はこのように全然わかっていない部分が多く、なんとなく出来たり出来なかったりするのが僕にとってのネームです。このままでは、継続的に描くことが難しいので、もうちょっと細かい部分を整理していくことによって、運に頼る部分を狭く出来ないか?ということを考えています。

 

 その方法とは何か?今はまだ全く見当もついていませんが…。

「双亡亭壊すべし」が完結した関連

 「双亡亭壊すべし」が完結しましたね。

 とても良かった。とても良い漫画だと思いました。そして、この漫画はきっと僕のために描かれたものだろうと思ってしまいました。大丈夫!!分かっています!!そんなはずはありません!!

 

 僕はただ、自分が構えているミットにストレートに力強いボールが入ってきたので、バシっと受け止めたあと、狂ったようにストライク!!ストライク!!と叫び続けているだけの狂人です。

 

 双亡亭壊すべしは「双亡亭」という変わった建物(二笑亭がモデルのひとつだと思います)を巡る物語です。双亡亭の中には怪異が詰まっており、そこに足を踏み入れたものは、何かに取り込まれて帰ってこれないか、逃げ延びてもどうしようもないトラウマを抱えてしまいます。

 実は、その怪異の正体は、遠い宇宙の果てにいたある種の生命体でした。自らの星の終焉を前にしたその生命体は、生き延びるために空間を超えるゲートを通って、地球にやってこようとします。そして、その場所に建っていたのが双亡亭なのでした。

 

 そして、双亡亭を建てた芸術家、坂巻泥努という男がいました。宇宙の生命体は、人間の精神をそのトラウマを利用して破壊することで、肉体を乗っ取ります。しかし、その生命体の侵略に耐えられる強靭な精神を持つ人間がしました。それが坂巻泥努です。

 かくして、坂巻泥努は、その精神力によって宇宙の生命体を逆に支配してしまい、外界と隔絶された双亡亭の中で、歳も取らず延々と絵を描いていたのでした。ある種の痛快な話です。

 

 さて、僕が心に来た部分は、その泥努が迎えた結末です。以前このような文章を描きました。

mgkkk.hatenablog.com

 

 藤田和日郎漫画の長編漫画のラスボス、白面の者(うしおととら)、白金(からくりサーカス)、オオイミ王(月光条例)にはひとつの共通点があると思いました。それは、彼らが自分が一番欲しかったものを決して手に入れることが出来なかった者たちであるということです。そして、自分が一番欲しいものをどうしても手に入れることができないという苦しみは、世界を滅ぼすほどの出来事を引き起こす動機として存在します。

 彼らはその絶望ゆえに、決して許されないひどいことをしでかしてしまいました。であるからには、主人公に彼らが敗北するという結末は納得のできることで、異論があるわけでは全くありません。

 ただ、「一番欲しいものが決して手に入らないという絶望」という一点においては、彼らに共感可能なものが存在するという気持ちが存在するなと思っていたという話です。彼らがその絶望を抱えていたことは、そこまで悪かったのだろうか?という悲しみがあったということです。

 

 そして、本作、双亡亭壊すべしでは坂巻泥努に救いが訪れる結末が訪れました。それが本当に良かったんですよね。

 

 坂巻泥努もまた、自分が一番求めたものが手に入らないという絶望を抱えていました。そして、彼のしたことが、多くの人に不幸を招いたことも事実です。

 しかし、本作にはそんな泥努に向き合う人間が存在しました。それが主人公のひとりの凧葉です。物語の終盤、絵描きの泥努と絵描きの凧葉は、世界の存亡をかけた絵描き勝負を始めました。彼らは思い思いに絵を描きます。相手の描いた絵を見て、自分の描いた絵を見せます。ときに筆が止まりながら、芸術の話をしながら、世間から隔絶された時間の狭間で、2人はコミュニケーションをします。

 その中で泥努が凧葉とともに至った結論がすごくいいんですよね(それは実際に漫画を読んで確認してもらうとして)。

 

 この物語の中で泥努が救われたことで、僕の中に残っていた一片の気持ちもまた救われたような気がしました。そこに至ったときに、胸のミットにズドンと球が入ったように感じて、大きくストライク!ストライク!と叫んでしまうような気持ちになったんですよね。ああ、これは僕のような人間のために描かれた物語だと思ってしまったからです。

 

 さて、この物語の結末には、月光条例以後の考えがあるように思いました。月光条例は様々な物語を取り扱った漫画で、その中に「悲しい物語の結末を変えてくれ」と作者に頼みに行く場面があります。しかし、作者は決してそれを変えようとはしません。なぜなら、作者は言いたいことがあるから物語を作ったのであって、登場人物が可哀想だから結末を変えるのでは、そもそも伝えたかった内容が壊れてしまうからです。

 だから、作者は自分の死を目の前にしたとしても、結末を変えることをしません。

 

 ただ、それを元にした別の物語を描く道があるということが示唆されます。月光条例そのものがまた、そのような物語です。年端もいかない子供にマッチを売らせ、そして死に追いやった親に対して、青い鳥のチルチルは怒り、子供を救い、父親に怒りのままに銃弾を叩き込んで罰を与えます。マッチ売りの少女の物語は変わりません。しかし、マッチ売りの少女を力づくで救うという、新たな物語が描かれました。

 

 双亡亭壊すべしの物語もまたそうかもしれません。多くの罪を犯してしまった泥努の迎える最期は悲しいものです。彼の気持ちは救われましたが、それで幸せな未来を掴むことができません。そうするには罪を犯し過ぎているからだと思います。

 しかし、凧葉や、時空の歪みのある双亡亭を利用して、別の世界を作ることが出来ました。その世界は泥努は絶望することがなく、異なる結末を迎える未来です。絶望の果てに泥努となった男を救うことができませんでしたが、まだ泥努となる前の少年ならば救うことができます。なぜなら、彼はまだ大きな罪を犯していないからです。

 

 この結末によって、罪には報いがあるというこれまでの価値観と、世界を滅ぼすほどの深い絶望を抱えたものを救うという、矛盾することを同時に達成することができました。それを読んで、ああ、とても素晴らしいなと僕は思いました。

 

 遠い宇宙からやってきた侵略者の生命体も滅びます。彼らを滅ぼすことは人間が生きていくために必要なことです。しかし、彼らは生きるために地球にやってきました。彼らは多くの人間の命を奪い、多くの人を不幸のどん底に落としましたが、それでも彼らは生きるためにそれをしたのです。

 やはりそこには、共感可能な一片が残ります。それを無視するのではなく、それがあるということが描かれました。それが人間に感情があるということでしょう。人間にそれがあるということに対する讃歌かもしれません。

 

 そういえば、これは「寄生獣」とも通じるところのある部分かもしれません。寄生獣では、主人公の新一は、自分たちを捕食する存在でありながらも、必死で生きようとする寄生生物の姿に共感を得てしまいます。そして、彼を見逃そうとします。しかし、新一は戻ってきました。目の前の寄生生物を殺すためにです。

 そのとき新一の目には涙がありました。「君は悪くなんかない。でもごめんよ」、そう言葉にしながら、新一は寄生生物にトドメを刺します。寄生生物を殺すのは、人間が生きるためにです。彼らに喰われて殺されないようにです。しかし、寄生生物もまた、生きるための本能として人間を食べていました。

 その一点において、寄生生物は共感可能な存在です。生きるため、生きたいと思うこと、それは相反する立場の存在だとしても同じことです。しかし、殺すしかありませんでした。殺すことが正しいと新一は思いました。それが人間にとって一番良いことだからです。

 

 新一の右腕に寄生しているミギーは、そんな人間のことをヒマだと言いました。そして、心に余裕(ヒマ)があることを素晴らしいと表現しました。人間には対立する立場の存在にすら共感してしまう感情があります。

 人間のそのような部分が素晴らしいことだと描かれたことが、僕が大好きな漫画の2つで描かれているなと思うと、ああ、それは本当に良いなと思うのでした。

「ジョジョの奇妙な冒険」における呪い関連

 ついに完結しましたね、ジョジョの奇妙な冒険第八部「ジョジョリオン」。面白かったものの、分からないことも多々残っており、それは分からなくてもいいのかもしれませんが、何年かして急に分かるのかもしれません。

 

 僕は例えば、5部の最期の眠れる奴隷のエピソードや、6部のプッチ神父の言った幸福の話、7部の回転の話などについては、リアルタイムに連載を読んでいたときには上手く受け取ることができていませんでした。しかし、ときどき読み返しながら、何年も経ってやっと「分かったかもしれない…」という気持ちに至ったりしています。

 

 特に近年のジョジョには作者の荒木飛呂彦による思想性が強く反映されており、それがとても面白い物事の捉え方であるがゆえに、僕が分かったと思えるまでに少しタイムラグがあったりします。なので、ジョジョリオンについても今分かっていないことが分かるかもしれません。ただ、取り急ぎ、今の僕の理解について書いておこうと思います。

 

 ジョジョリオンは「呪いを解く物語」として始まり、呪いが解かれて終わる物語でした。では、その呪いとはいったい何で、それがどのように解かれたのかが重層的であるように僕には感じられました。

 

 ジョジョリオンの中で解消された分かりやすい呪いは「土地の呪い」あるいは「血縁の呪い」ではないかと思います。東方家の一族が代々抱えていた、人の身体が岩のように変化する呪いがそこにありました。それは血縁の呪いのように見えますが、もしかすると土地の呪いであったのかもしれません。なぜならば、東方家のあった土地は特別な場所であったからです。

 

 7部には「悪魔のてのひら」という場所が登場しました。そこに踏み入ったものはスタンド能力に目覚めるという特別な土地です。それはある種の土地の呪いです。

 東方家の土地も特別な場所でした。その地面に埋められたものの中味が入れ替わるという不思議な現象が存在します。その土地と、東方家の肉体に訪れる呪いと関係があるのかは最後まで描かれませんでした。そして、その土地を特別なものとして岩人間がやってくることの意味も描かれません。

 ジョジョリオンの中では岩人間と土地の関係性の中に1部と2部に登場した石仮面や、4部以降に登場したスタンド能力を発現させる弓と矢とも関連づけられて描写されています。呪われた土地は、人に力を与えるという描写がそこにあります。岩人間はそこで得られる何かを求めていたのかもしれません。

 

 ひとつ明確に描かれたのは「ロカカカ」と東方家の土地の力で生まれた「新ロカカカ」です。ロカカカは、人の身体の悪い部分と良い部分を好感させるなぞの力のある果実です。これが中身を入れ替える土地の力と合わさることで、誰かの肉体の悪い部分を、別の誰かの肉体の健康な部分を奪うことによって修復する力が生まれました。

 岩人間は新ロカカカの力を求めました。それが何のためかは分からない部分があります。巨額の金を稼げるというビジネスという側面は描かれましたが、ひょっとしたら、岩人間は彼らの肉体に欠けている何かを、別の何かから奪うことを求めていたのかもしれません。

 

 岩人間は、人間とは別の可能性として存在する生物です。彼らは社会を築くことができず、人間社会に寄生して生きています。しかしながら、人間よりも長い寿命や、定期的に発生する長い眠りは、彼らをそんな寄生した社会の中でも孤独に追いやります。岩人間の女は人間の男と子供を作れますが、岩人間の男は岩人間の女としか子供を作ることができません。

 人間よりも強く、長く生きる生物であるがゆえに、彼らは個体数を増やすことも緩やかで成り立ち、つまり、それゆえの孤独がプログラムされていると解釈できると思いました。

 

 彼らには欠けている部分があり、それを埋めたいという渇望があるとするならば、2部に登場した柱の男たちとも似ています。彼らにとって欠けた部分とは、太陽の克服でした。エイジャの赤石を手に入れることで、ついに太陽を克服した完璧な生物になるということ、柱の男であるカーズは、ついにそれを成し遂げることができました。

 もしかすると、8部の岩人間も新ロカカカを手に入れることで完璧になりたかったのかもしれません。だとしても、その野望は潰えてしまいました。

 

 岩人間の透龍は、新ロカカカにより、東方家の土地の呪いを引き受けさせられる形でその最期を迎えます。少なくとも東方家の呪いはこれによって解けたのだと思いました。

 

 さて、ジョジョリオンの中で解けた呪いは、これ以外にもあるのではないかと思います。それは「ジョースターの血統」という血縁の呪いです。ジョジョリオンの主人公、東方定助は、どこの誰でもない人間でした。彼は空条仗世文と吉良吉影の2人から、新ロカカカの力で生まれた存在です。吉良吉影の死体が別で出たことから、彼は空条仗世文をベースにして生まれた人物ということになります。

 しかし最終回で、空条仗世文はジョースターの血統でないような描写がされました(ただ、よく分からないのは空条仗世文に星型のアザがある写真もあるんですよね…)。しかし少なくとも、最終回の描写を見る限り、血統については描かれず、名前だけが偶然受け継がれたという描写となりました。

 仗世文がジョースターの血統でないならば、これはつまり、ジョジョの奇妙な冒険におけるジョジョという存在は、「血統による継承が行われるものではない」という描写になると思います。いや、でも、ジョースターの血統である吉良吉影のパーツと融合したことで、やっぱりジョースターの血統であるとも言えるかもしれませんが(どう理解するのが適切かが難しいんですよね)。

 

 自分の中でまだ上手く整理はつけられていませんが、ここには「ジョースターの血統であるジョジョが、各部の主人公を継承する」ということは、ある種の呪いとして捉えられるという問題があると思います。ジョースターの血統であるからこそ、過酷な運命を背負わされるという呪いです。

 つまり、ジョジョというものが「血統」ではなく、例えばジョジョリオンの最終回に出てきた言葉を使うなら「使命」によって継承されるというシフトがあるように思えたわけです。

 

 そう考えると、星型のアザはジョースターの血統だからではなく、ある種の使命によって存在するものであって、つまり、空条仗世文はジョースターの血統ではなかったものの、使命を帯びていたからアザを持っていたと解釈できるかもしれません。

 

 ジョジョリオンというタイトルは、「ジョジョという福音」と読むことができます。つまり、ジョジョという使命がどこからやってくるのか?を描いた物語であると考えることができます。ジョジョジョースターの血統の呪いから解放するということが、8部で描かれたことなのかもしれません。

 

 ちなみにこのジョジョという呪いについては、「名前の呪い」という形で、6部の最後にも描かれていたと思いました。一巡した世界の徐倫は、アイリンという名前に変わっていたからです。つまり、ジョジョではなくなっていました。

 また、6部の決着をつけるのはジョジョではなく、エンポリオです。それはこれまでジョジョが継承してきた使命を受け継ぐ者は、ジョジョでなくともよいという形の決着だと考えることができます。それは、代替わりをするごとにジョースターの血統と、ジョジョという名前によって主人公になるという形で課せられた呪いが解放された場面であったかもしれません。

 

 最後に、呪いについては、もうひとつ解釈があるのではないかと思います。それは「一巡する世界の呪い」です。例えば、1部のジョナサンジョースターと、世界が一巡した後の7部のジョニィジョースター(本名:ジョナサンジョースター)と名前以外にも多くの共通点を抱えます。

 7部の終わり方には多数の1部の終わり方へのなぞらえがあるからです。そしてそれは8部でも同様のことが起こりました。

 

 しかし、東方定助はあの土の下から生まれたときに始まった人間であると描かれました。

 

 つまり、東方定助は、空条仗世文と吉良吉影、そして一巡前の東方仗助の3人の性質を何らか受け継いでいるように思えて、彼は彼として、全く新しい一人の人間であるという話になるということです。受け継がれているものがその人を縛るということは、ある種の呪いです。

 7部の最期で、1部とは異なる生き残るという運命を勝ち取ったかに見えたジョニィジョースターは、その後、結局、首から上を失うという、一巡前の世界と同じ形での死を迎えました。運命からは逃れることができないという苦しさをそこに見て取ることができます。

 

 そこからひるがえって思うのは、東方定助とは「一巡前と似た道を辿る」という「運命という呪い」から何らかの意味で解放された人物なのだろうか?ということです。

 

 ジョジョ奇妙な冒険の中では「運命」という言葉が象徴的に語られます。5部の最後では人は運命の奴隷であるということが語られました。6部のプッチ神父からは、運命を覚悟することで幸福に至れるという道が語られました。7部では、一巡前との運命の対比が描かれています。

 もし、8部で、その一巡前という運命からの解放が描かれたのだとしたら、続く9部では、その先の全く新しい何かが描かれるのかもしれません。

 

 仮タイトル「JOJOLANDS」だけが発表された状況ですが、とても楽しみですね。

 

 余談ですが、1巻の最後の方の話で定助の記憶にフラッシュバックで出てきた男が、その後結局出てこないことが気になっています。途中から路線変更したことによる矛盾という捉え方もできますが、物語の中の情報から解釈をしてみることもできるのではないかと思いました。

 定助が、物語冒頭で土から出てきた以前のことは、夢や想い出であるという話がされています。そう考えると、この物語は実は一巡後というよりは、実は何巡もしていて、6部の最後で、自分のこれからの運命を見た人々がいたようなものと捉えられるかもしれません。つまり、あの記憶は単純な過去ではなく、以前の宇宙の記憶だということです。

 それを裏付ける証拠は何もなくただの妄想なのですが、さすがに気にせず放置するには大きい絵面だったので、そういうことを考えて自分の中で辻褄合わせをしたりしています。

漫画の作画作業の工程管理方法関連

 お金を貰って漫画を描くという仕事を、読み切りで3話分(1話+前後編)やったので、その進め方で色々試しているメモを書いておきます。

 

 先日、編集さんと話していて、僕が以前、作画作業の進捗を聞かれたときに「工程管理表だと進捗率70%ぐらいなので、〇〇日までには終わると思います」みたいな返答をしたのが面白かったらしく、今までそういう返事をした人を見たことがなかったらしいので、そういう管理ってあんまりされていないか、されていたとしてもあまり共有されないことなのかなと思いました。

 

 作画作業は、ネームが出来ていて、ページ数もそこに描くものも決まっているので、全体の作業見積もりもしやすく、工程管理と相性が良い分野だと思います。ただ、管理方法は単純な方がいいなと思いました。一人でやっていることなので、管理するために必要な工数を大きくしても全体の効率が落ちるからです。

 そこで以下2点だけをやることにしました。

 

  1. 全体の工程の中での今の進捗率の把握
  2. 納期に対して現在の進捗率が適切かの評価

 

 ここでまず重要なことは「全体の工程をどのような単位で管理するか」ということです。最初にやったときはページ単位での進捗管理を行いました。しかし、これはあまりよくありませんでした。なぜなら、1ページの全コマを完全に終わらせないと、進捗率が上がらないからです。

 これは気分的な問題ですが、何かの作業をやったら数字が上がっていくというのは分かりやすいモチベーションになります。作業をしたのに数字が変わらないと、その作業をしたという意味を実感しにくく、やっても何も変わらないという認識になるとやる気が減っていくので、よくないなと思いました。

 なので、すぐに結果が出る方がいいなのと思いましたが、一方でやたら細かく管理すると管理することそのものが面倒になるので、増やしすぎてもいけません。なので、作業を以下の4単位にざっくりと細分化しました。

 

  1. コマ割り
  2. 人物
  3. 背景
  4. 仕上げ(トーン処理など)

 

 この分類の中でそれぞれの範囲での進捗率を見ることで、作業を進めるごとに進捗が変化する感を見て行くことにしています(ちなみに僕はネームをそのまま下描きとして使っているので下描きをするという工程はないです)。この辺何で管理するかなと思いましたが、今回は単純にエクセル表でやることにしました。予定ページの数だけ行を作り、作業内容ごとに列を作るというシンプルなものです。

 

 「コマ割り」の工程ははデジタルで描いていると、1ページあたり1分もかからず終わる工程なのですが実はとても重要なものです。なぜなら1ページごとのコマ数をカウントする工程と同時に行うことができるからです。コマを割ったあと、エクセル表上で、完了フラグを立て、割ったコマ数を入力します。このコマ数をその後の工程のセルにコピーすることで管理する単位の入力が完了します。

 そうすると「人物」と「背景」と「仕上げ」のセルにも、コマ割り時に残りコマ数が入力されるので、そこから1コマごとの工程が完了すると数を減らし、0になればセルの色を変えるようにしました。そうするとパッと見た面積で、どれぐらいが終わったかをなんとなく見えるようになります。これは管理上はあまり意味はないのですがなんとなく進んでいるような感じが見えるので、気分の問題です。

 

 さて、これによって各工程ごとの残り作業数が数字で管理できるようになりました。あとは、ここで増減する数字を使ってどのように納期までの進捗管理をするかということです。

 

 結局、あんまり多くの数字を使って細かく進捗を管理しても意味がないと思ったので、単純に残りのコマ数で管理するのがいいということになりました。つまり、全ページのコマ数を足して、残りの日数で割った数を一日に最低限進捗させるコマ数として設定するということです。

 あとは毎日、その数だけコマを淡々と描いていければ締め切りまでに間に合います。

 

 実際にやってみて良かったのは、コマ単位で管理することによって作業量の調整がやりやすかったことです。僕の本業の仕事の状況は日々違うので、仕事が終わったあと、漫画に十分時間を割ける日もあれば割けない日もあります。なので、その日、すぐに描き終わるコマをやるか、時間がかかるコマをやるかによって、ノルマのコマ数としては平均的にしながらも、一日単位の作業量を日の状況に合わせてコントロールすることができました。

 今日は時間がとりやすいから、背景を描き込むコマをやろうとか、今日は時間がないから、人の顔だけ描けばいいコマをやろうとか、そういうことをしたということです。

 

 このやり方をしていくと、基本的には大丈夫なのですが、問題点としては進め方に、僕個人の気持ちが無意識に現れることによって、後の工程にあんまり描きたくないコマが残ってきます。描きたくないコマとは、例えばモブキャラが多いコマなどです。モブキャラをあまり凝ってもお話の本筋には大きな影響がないので、重要でない割には手間がかかるコマになります。作業量の割に達成感がないので、あんまりやりたくなりません。

 じゃあどうするかというと「それでもやる」というだけなのですが。ただし、この段階になってくると、あともう少しで完成するという状態になってきているので、もうちょっとだから頑張ろうと思えることもあって、なんとかモチベーションが途切れないように終えることはできました。

 

 とりあえず3本やってみて、工程管理はしてよかったなと思います。また、僕がやっている漫画作業の進捗管理の難度は、別に難しくないものだなと思いました。本業でやっている開発の管理に比べると、他人に頼んでその内容が期待していたものと違っていたり、想定していた期日までに仕事が上がって来なかったりすることがないからです(ここには僕がひとりで描いているという事情もあります)。

 ネームを描くのは時間が読めなくてしんどいんですが、作画に入ると淡々とできるので、割と気楽に出来て良かったなと思いました。

 

 工程管理をすることのメリットは、全体の作業量を見ながら進めることができるので、もしイレギュラーなことがあって作業が遅れても、遅れているなりに残り時間の中で作業量を調整しやすいというところがあります。もし描くのが面倒なコマが残っている場合に時間が足りないなら、残り時間を考えて、そのコマをどのように描くかを変えて調整してもいいです。

 時間が足りないなら、それが早め早めに分かるので手を打つことができます。そうすることで、締め切り間際になっても、無理せずできるぐらいの仕事量になっているので特に困ることなく作業が終わりました。

 このやり方によって、7月に発売されたコミックビームに載った読切32ページと、8月に発売されるヤングキングに載る読切前編32ページ+後編24ページは、スケジュール通りに終わらせることができました。良かったですね。

 

 そう!今月はヤングキングに読み切りが載るんですよ。ちょうど今日前編の載った雑誌が出ました。

 

 ということなので、もし良かったら読んでみてくださいね。

「進撃の巨人」と自由はそんなに自由じゃない関連

 「進撃の巨人」の最終巻も出たので、そろそろ最後まで読んで思ったことの話でも書こうかと思います。

 

 進撃の巨人って結局何の話だったのかな?と思うんですが、僕が思ったことのひとつは、人間と人間のコミュニケーションの物語なのではないかということです。

 

 主人公のエレンが住んでいた壁に囲まれた国において、壁というのは、人間と人間の間にある壁でもあったと思います。エヴァンゲリオンで言うところの人と人の心を隔てるATフィールドという話とも言えますが、個人間ではなく、異なる文化圏同士の間に作られた壁と捉えたほうがしっくりくるかもしれません。

 壁の外と壁の内側はコミュニケーションが断たれています。これは意図されたもので、過去発生した巨人大戦の終結させた王が、パラディ島へと渡り、壁を作るとともに、壁の内側の人々から壁の外の記憶を奪って作りあげた状況です。

 そこには、争いを止めるためにはコミュニケーションを断つことが重要であるという思想があったと思います。そうすれば、人と人の文化的摩擦を発生させることがなく、平和に過ごすことができます。僕自身、何かの集団に属することに消極的で、人間関係を最小限に留めることで日々心を平穏に保つようにしているので、その気持ちがよく分かります。

 

 しかし、その状態も永遠に続くわけではありません。エレンたちが壁の外に自由を求めたように、人には他者とのコミュニケーションを求める衝動があることも多いはずです。僕自身、誰ともコミュニケーションをとらずに生活をしているとどんどん具合が悪くなってきます(近年は世の情勢的に特にそうです)。他者を拒絶することは「心を平穏に保つこと」であると同時に、「心の枯渇も招いてしまうこと」という矛盾する状況があるように感じています。

 壁を作ることと壁をなくすことの両方への渇望が存在し、矛盾する状況の中で葛藤が存在することから、そこに人間を感じてしまいます。僕は葛藤が存在することに人間を感じてしまうからです。そして、壁の存在は何も内側からのみ感じるものではありません。外からも感じられ、そして外から破壊されることもあるはずです。いくら他人を拒絶して壁を作ったとしても、外から暴力的に乗り込まれることもあるでしょう。

 そう考えると、巨人とはそういう理解をすることができます。外からやってきて、こちらを傷つけてくる存在です。そして重要なことは、巨人とは話し合うことができないということです。少なくとも最初はそう思われていました。そうなると、こちらも相手を駆逐するしかありません。

 

 殺らなければ殺られるからです。

 

 話し合うことができなければ落としどころを見つけることができず、互いに境界線と認識した場所まで相手を押し戻すため、傷つけあうことしかできません。ならば話し合えばいいという話ですが、話し合えるということは当たり前でしょうか?話し合えないことは悪徳でしょうか?世の中には、どうしようもないことだってあるんじゃないでしょうか?

 

 進撃の巨人で描かれている大きなことのもうひとつは、どうしようもなさだと思います。壁の外も内も、大きな流れがあって、人々はその流れに飲み込まれるように進むしかありません。それは個人と個人でもそうですし、国と国だってそうです。そして、時間の流れもまたそうなっています。大きな流れの中では、一個人の意志のような小さなものはどうしようもありません。

 

 エレンは、かつて巨人となり、自分たちの生活をめちゃくちゃにしたライナーに、それは仕方がなかったよな?と確認します。そして、ライナーは、それは仕方なかったわけではなく自分が悪いのだと語ります。エレンはそう答えたライナーを認めます。自分がしでかしたことを他の何かのにするのではなく、その全ての責任を自分で受け止めようとするライナーの姿にです。

 それは大きな流れに流されてしまうということを、仕方ないこととして受け入れていない態度であったからではないでしょうか?

 

 後に、エレンが受け継いだ進撃の巨人の能力は、過去と未来を見通せるものであるということが分かります。この能力を得た時点で、エレンは過去と未来の流れを、変えられない一方通行ではなく、大きな形あるものとして認識してしまいました。その形の中で、自分が何をなすべきかが分かり、そのために何を果たすべきかが分かっています。自分は、この残酷な運命の歯車でしかないという事実を突きつけられてしまいます。

 壁の外に自由を求め、理不尽を変えられるほどの大きな力を手に入れたエレンに待ち受けていたのは、一切の自由のない、どうしようもないような運命です。その運命に屈するのは仕方ないことでしょう。そして、仕方ないと思っていいのか?ということです。

 

 誰よりも大きな流れに雁字搦めになってしまっているエレンだからこそ、それを仕方がないものとして受け入れないライナーの姿に理解できるものを見たのではないでしょうか?

 

 進撃の巨人の作品としての特徴は、作中の登場人物たちが、自分たちの抱える加害性から目を背けないところだと思います。

 多くの物語の中には多くの「仕方がない」が存在していたりします。例えば、「暴力はいけないことだ」と言えば同意を得られると思いますが、だとすれば物語の中で、正義と悪が互いに暴力で戦っている場合、それは両方間違っていることになります。それでも物語は正義の暴力は正しく、悪の暴力は間違っているという認識をできる作りになっているでしょう?なぜなら、正義の側には、暴力を振るっていいだけの仕方ない理由があるからです。

 代表的なもので言えば、悪の暴力に傷つけられたなら、その反撃や報復や予防としての暴力は、良い暴力ということになるということです。暴力は悪いことだが、これは例外的に良い暴力であるということを示すことで、読者に不協和による不快感が発生しないように作られています。

 しかし、それはあくまで主人公側の視点においてのことでしょう。逆の視点からすれば、それはまた許されざる悪い暴力であって、そちら側にはそちら側の自分たちの暴力が許される理由を抱えているかもしれません。

 

 悪には悪の理由があるということを描く物語は多くあると思います。しかしながら、主人公側がどうしても擁護ができないような理不尽な暴力を自覚をもって行使するという物語はあまり多くはありません。その暴力に蹂躙される側の感じる理不尽が描かれた場合、それを痛快として感じることは難しいからです。

 しかし、進撃の巨人ではそれが描かれます。そしてそれはお互い様なものとして描かれます。そうやって傷つき傷つけられた者同士が、終盤になって一つの輪を囲むシーンがとても良かったです。

 

 相手をどうしても許すことはできないという気持ちと、相手の事情を理解しようとしてしまう気持ち、自分たちもまた犯した罪の話、すんなりとは整理できない葛藤を抱えた人間が、互いを許すことはできなくとも、同じ目的のために動き出すことになります。

 その向かう先は、一番大きな理不尽です。それはエレンであり、今の巨人の力の源である始祖ユミルです。

 

 最初に書いたように、僕はこの物語は、人間と人間、そしてそれらがそれぞれ寄り集まって作る文化と文化はなおさら、接すれば摩擦が起きる話として捉えました。だからこそそれを隔てる壁が作られ、しかし、壁で隔てて引きこもっておけばいいという話でもないという葛藤の物語です。

 壁を取っ払った先にある自由は、それほど自由ではありませんでした。そこでは、誰かの自由と誰かの自由がぶつかり合い互いに傷つけあうために、傷つかないための争いが起こり、結果的により一層、不自由でどうしようもない世界でもあるように思いました。

 最終巻で追加されたエピローグで、結局この問題は根本的には解決していないことが示唆されます。それは誠実さだなと僕は思いました。誠実さであり、そしてどうしようもなさだと思います。

 

 この物語で最後描かれたのは、長く続いたひとつの理不尽の連鎖が断ち切られた様子だと思います。ただし、その後も同じものは何度も生まれてくることが示唆されます。しかしだからといって、それをどうしようもない仕方のないものとして巻かれることを良しとしない物語です。今を生きる人が、それをおかしいものとして断ち切るという、この終わりのない苦しみの中でのひとつの希望の物語だと思います。

 その希望すら、一番大きなどうしようもなさに取り込まれたエレンが、それを断ち切る唯一の方法として、大きな罪を犯さざるを得なくなるという形で描かれました。

 

 エレンは自由を求めました。しかしながら、壁の外に出たエレンは不自由になったようにも思えます。なぜならば、その壁の先には自由と自由が衝突する場所があったからです。巨人が訪れず、壁の中にずっと引きこもっていることができていれば、その中で、他者とぶつかり合わずに済む、壁によって制限されてはいても、ましな自由があったかもしれません。

 しかしそれはいつまでもそうあることができなかったという話です。そして、壁の外には、人の自由と人の自由が衝突し、結果的に誰もが雁字搦めになる苦しく不自由な世界が広がっていました。

 

 物語の最期、エレンは自由になれたのでしょうか?少なくともエレンが囚えていたもののいくつかは断ち切られたと思います。しかし、それでよかったのかどうかはよく分かりません。

 人が生きていくということは、相反する自由と自由の闘争から逃げることができないものなのかもしれません。多くの物語では偏った視点が持ち込まれることで、勝った方の自由が正しいものとされることで、話のやるせなさを軽減しようとします。

 しかし、進撃の巨人では、どちらかが絶対的に正しいというような偏った視点を可能な限り排除するように、平等に誠実であろうとしました。そして、だからこそ悲惨になってしまう世界を結末までを描き切ったように思いました。

 

 それこそが進撃の巨人という物語のすごさであるように、僕は思いました。

アラフォーが急に漫画家になろうとする関連

 

 2021年の抱負としては漫画家になろうかなと思っていたのですが、なりました(本当になったかどうかについては諸説あります!!)。

 

 このブログでは最初から報告していると思うんですが、2016年に30代半ばにして、急に漫画を描いて同人誌を作ってみようかなと思い立ち、コミティアにえいやと申し込んで、どうにか本をひねり出して参加をしました。

mgkkk.hatenablog.com

 

 その後、年2回ペースで参加を継続し、そのうちなんだか楽しくなって年4回開催されるコミティアにフル参加をし始め、毎回新刊を作っては売っていたという経緯があります。 

 

 当初、友達に配ったりもしつつ30冊程度をなんとか捌いていた僕の同人誌ですが、今では気が付けば、参加すればコンスタントに百数十冊は売れるようになりました。どういう経緯で僕の本を買おうと思ってくれたかは個別に確認していないので分かりませんが、最近は事前にネットで公開した部分を見て来ましたと教えてくれる人も多いので、ネットを経由した人の繋がりによるものなのだろうなと思っています。

 

 僕はオッさんになってから急に同人活動を始めたので、そもそも全然プロ指向ではなかったというか、本業でも徐々に出世もしたりしていて責任のある立場になったりしていましたし、この歳で今の環境を捨てて漫画家を目指す??さすがにないない!!って思っていました。

 僕は若い頃からずっと漫画オタクですが、周囲で漫画家や編集者のようなプロ指向だった人たちは、とっくにプロになったり、アマチュアとしての活動に意味を見出したり、プロの夢を諦めたりしていて、周囲との切磋琢磨なんかがあったとしたらそのチャンスは五年、十年前に過ぎていました。

 なので、毎回コミティアで自分の好きなことを漫画にして、同人誌を作るだけでも満足していたと思います。

 

 その気持ちに変化があったのは、確か2019年の2月のコミティアです。いつものように会場の自分のスペースでぼんやりしていたら、夕方にヤンマガの編集さんが来てくれて「この本を朝買って読んだのですが、面白かったので、ちばてつや賞に出してみませんか?」という提案を貰いました。

 そのままでいいなら出してみようかなと思って、原稿のデータを送り、どうなったのかなと思っていたら、佳作を受賞しましたと連絡を貰って、ほんとかな??と思っていたらヤンマガに受賞情報が載っていたので、本当だったんだなーと思いました。

 受賞作はこれです。

comic-days.com

 

 そのときに、色んな人に漫画を褒めてもらったりして、仕事をしながらでも漫画を描ける調整はできるかもしれないという話も編集さんとして、そこで初めて、自分が漫画家になるという道が現実としてあり得るんだなと思いました。

 当時既に37歳なので、先が見えてきたオッさんのくせに、自分の人生にいきなり色んな可能性が現れた気持ちになったので、面白くなってしまったと思います。

 

 ただ、そこからが、あんまり上手く行かない感じでした。連載に向けてのネームを作ってみたのですが、読み切りの同人誌をこれまでは作っていたので、短いひとつの話を始めて終わらせることはできても、続けて長い話を作るというノウハウが全然なく、連載用のネームを作っている途中で「これおもしろいか?」という気持ちが後から後から湧いてきてしまって、全然描き進められなくなり、色々上手く行かないなと思っていたら、そこでコロナ禍に突入しました。仕事の状況も色々激変して、その忙しさにかまけていたら、いつの間にか2020年も終わってしまっていました。

 今思うと完成度は低くても早めに編集さんに相談してたら、この停滞はなかったような気もするのですが。

 

 停滞していながら思っていたんですけど、このまま本業の仕事を淡々としていても僕の人生は大丈夫なんですよね。でもだからこそ、漫画をやらないと思ったら、やらないままにすぐに何年も経ってしまうだろうな…と思いました。

 そして、40代に突入したらきっと今より体力はなくなっていくので、後になるほどに余計にどんどんやれなくなるだろうなと思ったりもしました。可能性がゼロになっていきます。

 

 だから、「やるなら今だろうな」と思ったのです。なので、2021年は漫画家になろうかなと思いました。

 

 ここからはやけに都合のいい話なんですが、気持ちを盛り上げて、ヤンマガ用の連載ネームに再び手を付けようと思っていた矢先に、コミティアの同人誌やネットに公開していた漫画をきっかけとして、複数の雑誌の編集の方々からちょうどよいタイミングで声をかけて頂いて、とりあえず一回読み切りを描いてみませんか?という提案がありました。

 実際そんな都合がいいことがある??と思いましたが、あったんだから仕方がありません。読み切りならば、お話作りは同人誌と同じはずななので、最後まで描けるかもしれないと思いました。まずはできることからやっていこうということです。

 

 そこで描いたもののひとつが今月発売されたコミックビーム(2021年8月号)に載っている「へレディタリー/極道」という漫画です。こちらは、2020年に商業用のネームは描けないと言いながらも、なぜか同人誌の方はスイスイっと描けてしまっていたので、2020年の秋に開催されたコミティアで出したものをベースにして、別物としてリメイクした内容です。

 

 編集さんとやりとりをしながら最後まで完成させられた経験としては初めてのもので、おかげで当初案よりも面白くできたなと思って良い経験になりました。面白い漫画ができたと思うので、良かったら買って読んで下さい。

 

 ここで、単発の読み切りとはいえ、原稿料を貰って商業誌に漫画が載ったので「漫画家になる」という今年の目標はひとまず達成されたなと思います。ただ、自己認識として自分が漫画家か?と聞かれると、今はまだ、たまに趣味で漫画を描いている中年漫画オタクでしかないのですが…。

 

 ただ、コミックビームに掲載されたのは本当に嬉しかったです。なぜかというと、僕は三宅乱丈先生の大ファンで、特に「pet」という作品が大好きかつ、さらにビームで連載されていた「イムリ」も大好きだったので、同じ紙面に載ることができるということがめちゃくちゃ嬉しかったからです。

 なおかつ、今は「pet」の続編の「fish」の連載が始まっており、大学生のときにpetの最終回で終わってしまった悲しさに暮れていた自分に、お前は十数年後に同じ雑誌に漫画が掲載されるぞ!と教えてあげたくなります。

 感想も色々書いています。

mgkkk.hatenablog.com

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 さて、続いて、来月発売のヤングキングに「いじめ撲滅プログラム」という漫画が載ります。こちらはページ数が多いので前後編の構成の読み切りですが、ヤングキングは月2回刊行なので、8月に出る2冊にそれぞれ掲載される予定です。

 

 ヤングキングの編集さんからは2020年の春先に一度声をかけて頂いていたのですが、その後、コロナ禍があり、その中での仕事のやり方とかが落ち着いてきた数ヶ月前から、やり取りを再開したという経緯があります。

 こちらは原作がある漫画なのですが、元々の原作は漫画用のものではなく、ドラマのシナリオの形式だったのもあって、これを漫画として演出するというのは自分にとって勉強になりそうだなという打算もあってやらせて貰うことにしました。

 

 つまり、ある物語があったときに、それが漫画になるという変換の過程で、自分が漫画をどのように捉えているかが明確になるのではないかと思ったからです。ネームを作る過程で、色んなことを考えたので、かなり自分の考え方を言語化することができました。そして、かなり好き勝手に再構成させてもらったので面白かったです。

 こちらも面白い漫画になったと思うので、是非読んで頂ければ嬉しいです(前編掲載号は2021年8月6日発売です)。

 

 今後の活動としては、まだモノになるかが不透明なので何も言えませんが他にもいくつかの出版社からも話を頂いていて、ネームを提出したりしています。

 とにかく漫画を描くということに対して始めるのが遅く、年齢に対して経験が少ないので、何でもいいから商業誌に載せることを想定した完成原稿を1枚でも多く作ることが自分のスキルアップに繋がると思うので、幸運にも色々話を頂ける間は積極的に引き受けていきたいなと思ったりしています。

 なお、もっと早くからやってればなあという気持ちは特になくて、自分が漫画を描いたりできるようになったのがこのタイミングだから仕方ないなという認識があるだけです。

 

 自分がいつになったら心から「漫画家になった」と思えるのかはまだ分かりませんが、連載をするとか、単行本を出すとか、色々まだやっていないこともあるので、次の目標としては、そこまで辿り着けたらいいなと思っています。

 本業の仕事をしながら、どれだけ取り組めるかがネックなので、お話作りや作画をどれだけ速度を出してやれるかが重要なところだと思います。そこは、本業でやっているプロジェクト管理や作業プロセス改善などを、自分自身に適用して上手いことやれればと思って試行錯誤をしている状況です。

 

 自分で言うのもなんですが、この状況って結構面白くないですか?普通の人ならとっくに夢を諦めてるような年齢になって、なんか好きなようにしていたらいつの間にかお金を貰える仕事になったりしているというのが。

 

 あと、大学時代の漫研の先輩に先日言われたんですけど、漫画が好きで、自分が好きな漫画を良いの悪いのばっかりずっと言って来たような人間は、いざ自分自身で創作しようと思ったときに作れないことが多いのに君は不思議だねって話がありました。

 ただ、これは逆じゃないかと思っていて、僕は自分が好きな漫画のどこが好きかをこのブログとかでずっと淡々と書いてきていたので、つまり、自分が作るときにも、自分が面白いと思うものが何であるかが既に具体的に言語化されていたんですよね。なので、それを応用した、自分が良いと感じる内容を自分なりに再現すれば、自分が好きなような漫画は作れるということです(ただし、それが他の人にとっても面白いかは未知数)。

 それを考えると、漫画を読むのが好きすぎて漫画が作れなくなるというのは、おそらく、漫画の悪いところを見つける方に注力してしまう場合かなと思います。つまり、そっちの場合、自分が作ったものでも悪いところばかりが目につくので、自分が作っていることそのものが苦痛にまみれてしまうからなのではないのかということです。

 

 とにかく、漫画家になるぞ!と思ったら、ある種、漫画家になったような雰囲気にはなったので、やってみるもんだなあと思いました。皆さんも中年になってからでも、急に何かをやってみると面白いこともあるのではないでしょうか??

「ルックバック」と物語の無力感関連

 先日公開された読み切り漫画「ルックバック」がすごく良かったのでその話をします。良かったのは気持ちに来たなと思ったところがあるからで、ただ、それを面白かったと言っていいのかは分かりません。

 これを面白いという感情に回収していいのかが分からないからです。

 

shonenjumpplus.com

 

 ルックバックは2人の少女の関係性と漫画を描くことを追っていく漫画です。

 この漫画はその中で、「漫画を描く」ということについて描かれた漫画だと思いました。人間がなぜ漫画を描くのか、描き続けるのかということを最も簡潔に分かりやすく描いたのがこの形だったのではないかということです(143ページありますが冗長ではなく必要十分だと感じました)。

 そして、僕が読みながら思った一番大きなことは「物語の無力さ」でした。

 

 一回しか読んでいないので、色々見落としがあるかもしれませんが、初見時に自分の中でこの物語に呼応するように思ったのが、そこにある「物語の現実に対する無力感」でした。これを思うのは、僕が昔から抱えている気持ちだからだと思います。例えば、差別を取り扱った漫画があったとして、その作中で世の中にある差別が完全に解消されたとして、「だから何だというんだ?」と思ってしまうということです。

 なぜなら、作中の何らかの方法でそれが達成したところで、依然として世の中に差別はあるからです。 実際に起こっている悲しい出来事を、物語の中でどのように描いたところで、その悲しい出来事そのものを変えることはできません。もちろん、せめて物語の中でだけでも、現実には起こらない解決ができるということにも意味はあるのかもしれません。実際にその悲しみを抱えている人にとってのその物語は、慰撫となる可能性もありとは思います。でも、その慰撫を安易と感じると、馬鹿にするなと思ってしまうかもしれません。

 

 この物語の後半には、ある不幸なことが起こります。そして、その悲しみの中で始まるのが、あり得たかもしれない別の可能性の話です。その可能性の世界の中では、元の世界にあった不幸は回避されます。

 しかしながら、物語は再び元の世界に戻ります。そこではやっぱり不幸は回避されていません。別の可能性として描かれたものが一体何なのか?それは主人公の妄想であったのか?あるいは並行世界の出来事であったのか?何かしら魔法のようなものがあったのか?それは僕には分かりませんでしたが、別に重要なことではないなと思いました。

 重要なのは、「もし何かが違っていれば、別の可能性もあったかもしれないという想像力がある」という話です。そして、その想像力の存在は、現実に対して何かそれを改変するような力は発揮してくれません。そこがこの物語の抱える誠実な部分だなと思いました。

 

 なぜなら、この物語には実際にあった事件を想起させる部分があるからです。その記憶が人の中でまだ生乾きである状態で、都合良く改変されたハッピーエンドを見せられたところで、僕はだからなんだというんだ?と思ってしまうような気がするからです。

 

 ただし、それはこの物語の中で現実には力を持たない何かとしては描かれました。その2つの世界は互いに干渉することができない別個の存在です。ただし、ひとつだけ行き来することができるように演出されていたのが漫画です。隔てられた扉の下をくぐった4コマ漫画だけが、もうひとつの世界に届くように描かれました。

 ただ、それもまたそう思えるというだけなのかもしれません。別の世界からやってきたように見えた4コマ漫画も、こちらの世界で偶然描かれたものとしても辻褄が合うように描かれているからです。

 

 ただ、漫画という想像上の物語だけが、本来干渉することができない世界を行き来するかのように演出されて描かれたことが、この漫画そのものを暗示しているようで良かったなと思いました。その想像の力が描かれることと、それがやはり現実に対しては無力であるということの両方を捉えて、それが漫画であると描かれているように思ったからです。

 

 つまり、漫画を描くということは無意味だと言われれば、それはきっとそうなのでしょう。でも、現実そのものは改変不可であったとしても、その一瞬を別の世界に繋げる可能性だけは漫画は持っているということが描かれたと思ったからです。

 

 この漫画では、どうしようもなく目の前にある「無力ならば描く意味はないか?」という命題に対して、それでも描く意味が存在しているということが描かれたように感じられました。そこに、漫画を介してのみ交流ができた相手がいたことや、その漫画を喜んでくれた人がいたことを含めて、描くということに対して意味を見いだせたという過程が描かれたように思ったからです。

 

 最初に、これを面白いと言っていいか分からないと書いたのは、不幸な出来事を面白いものとしてエンターテイメントに昇華するということに、個人的に罪悪感を感じてしまうからです。だから、仮に想起させるようなものであったとしても、実際に起きた事件とはあまり繋げて感じたくないなと思ったというか、そういう読み方しか自分にできないなら、良い話ではないなと思えてしまうなと思ってしまいました。

 なので、そういうことを抜きにしても、なぜ漫画を描くのか?そして、それを描く漫画はなぜこの形をしていなければならなかったのかということが、上述のように自分の中で分かる部分があり、そして、その分かる部分がすごく分かるなと思ったので、良い漫画だなと思ったという話です。