漫画皇国

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「双亡亭壊すべし」が完結した関連

 「双亡亭壊すべし」が完結しましたね。

 とても良かった。とても良い漫画だと思いました。そして、この漫画はきっと僕のために描かれたものだろうと思ってしまいました。大丈夫!!分かっています!!そんなはずはありません!!

 

 僕はただ、自分が構えているミットにストレートに力強いボールが入ってきたので、バシっと受け止めたあと、狂ったようにストライク!!ストライク!!と叫び続けているだけの狂人です。

 

 双亡亭壊すべしは「双亡亭」という変わった建物(二笑亭がモデルのひとつだと思います)を巡る物語です。双亡亭の中には怪異が詰まっており、そこに足を踏み入れたものは、何かに取り込まれて帰ってこれないか、逃げ延びてもどうしようもないトラウマを抱えてしまいます。

 実は、その怪異の正体は、遠い宇宙の果てにいたある種の生命体でした。自らの星の終焉を前にしたその生命体は、生き延びるために空間を超えるゲートを通って、地球にやってこようとします。そして、その場所に建っていたのが双亡亭なのでした。

 

 そして、双亡亭を建てた芸術家、坂巻泥努という男がいました。宇宙の生命体は、人間の精神をそのトラウマを利用して破壊することで、肉体を乗っ取ります。しかし、その生命体の侵略に耐えられる強靭な精神を持つ人間がしました。それが坂巻泥努です。

 かくして、坂巻泥努は、その精神力によって宇宙の生命体を逆に支配してしまい、外界と隔絶された双亡亭の中で、歳も取らず延々と絵を描いていたのでした。ある種の痛快な話です。

 

 さて、僕が心に来た部分は、その泥努が迎えた結末です。以前このような文章を描きました。

mgkkk.hatenablog.com

 

 藤田和日郎漫画の長編漫画のラスボス、白面の者(うしおととら)、白金(からくりサーカス)、オオイミ王(月光条例)にはひとつの共通点があると思いました。それは、彼らが自分が一番欲しかったものを決して手に入れることが出来なかった者たちであるということです。そして、自分が一番欲しいものをどうしても手に入れることができないという苦しみは、世界を滅ぼすほどの出来事を引き起こす動機として存在します。

 彼らはその絶望ゆえに、決して許されないひどいことをしでかしてしまいました。であるからには、主人公に彼らが敗北するという結末は納得のできることで、異論があるわけでは全くありません。

 ただ、「一番欲しいものが決して手に入らないという絶望」という一点においては、彼らに共感可能なものが存在するという気持ちが存在するなと思っていたという話です。彼らがその絶望を抱えていたことは、そこまで悪かったのだろうか?という悲しみがあったということです。

 

 そして、本作、双亡亭壊すべしでは坂巻泥努に救いが訪れる結末が訪れました。それが本当に良かったんですよね。

 

 坂巻泥努もまた、自分が一番求めたものが手に入らないという絶望を抱えていました。そして、彼のしたことが、多くの人に不幸を招いたことも事実です。

 しかし、本作にはそんな泥努に向き合う人間が存在しました。それが主人公のひとりの凧葉です。物語の終盤、絵描きの泥努と絵描きの凧葉は、世界の存亡をかけた絵描き勝負を始めました。彼らは思い思いに絵を描きます。相手の描いた絵を見て、自分の描いた絵を見せます。ときに筆が止まりながら、芸術の話をしながら、世間から隔絶された時間の狭間で、2人はコミュニケーションをします。

 その中で泥努が凧葉とともに至った結論がすごくいいんですよね(それは実際に漫画を読んで確認してもらうとして)。

 

 この物語の中で泥努が救われたことで、僕の中に残っていた一片の気持ちもまた救われたような気がしました。そこに至ったときに、胸のミットにズドンと球が入ったように感じて、大きくストライク!ストライク!と叫んでしまうような気持ちになったんですよね。ああ、これは僕のような人間のために描かれた物語だと思ってしまったからです。

 

 さて、この物語の結末には、月光条例以後の考えがあるように思いました。月光条例は様々な物語を取り扱った漫画で、その中に「悲しい物語の結末を変えてくれ」と作者に頼みに行く場面があります。しかし、作者は決してそれを変えようとはしません。なぜなら、作者は言いたいことがあるから物語を作ったのであって、登場人物が可哀想だから結末を変えるのでは、そもそも伝えたかった内容が壊れてしまうからです。

 だから、作者は自分の死を目の前にしたとしても、結末を変えることをしません。

 

 ただ、それを元にした別の物語を描く道があるということが示唆されます。月光条例そのものがまた、そのような物語です。年端もいかない子供にマッチを売らせ、そして死に追いやった親に対して、青い鳥のチルチルは怒り、子供を救い、父親に怒りのままに銃弾を叩き込んで罰を与えます。マッチ売りの少女の物語は変わりません。しかし、マッチ売りの少女を力づくで救うという、新たな物語が描かれました。

 

 双亡亭壊すべしの物語もまたそうかもしれません。多くの罪を犯してしまった泥努の迎える最期は悲しいものです。彼の気持ちは救われましたが、それで幸せな未来を掴むことができません。そうするには罪を犯し過ぎているからだと思います。

 しかし、凧葉や、時空の歪みのある双亡亭を利用して、別の世界を作ることが出来ました。その世界は泥努は絶望することがなく、異なる結末を迎える未来です。絶望の果てに泥努となった男を救うことができませんでしたが、まだ泥努となる前の少年ならば救うことができます。なぜなら、彼はまだ大きな罪を犯していないからです。

 

 この結末によって、罪には報いがあるというこれまでの価値観と、世界を滅ぼすほどの深い絶望を抱えたものを救うという、矛盾することを同時に達成することができました。それを読んで、ああ、とても素晴らしいなと僕は思いました。

 

 遠い宇宙からやってきた侵略者の生命体も滅びます。彼らを滅ぼすことは人間が生きていくために必要なことです。しかし、彼らは生きるために地球にやってきました。彼らは多くの人間の命を奪い、多くの人を不幸のどん底に落としましたが、それでも彼らは生きるためにそれをしたのです。

 やはりそこには、共感可能な一片が残ります。それを無視するのではなく、それがあるということが描かれました。それが人間に感情があるということでしょう。人間にそれがあるということに対する讃歌かもしれません。

 

 そういえば、これは「寄生獣」とも通じるところのある部分かもしれません。寄生獣では、主人公の新一は、自分たちを捕食する存在でありながらも、必死で生きようとする寄生生物の姿に共感を得てしまいます。そして、彼を見逃そうとします。しかし、新一は戻ってきました。目の前の寄生生物を殺すためにです。

 そのとき新一の目には涙がありました。「君は悪くなんかない。でもごめんよ」、そう言葉にしながら、新一は寄生生物にトドメを刺します。寄生生物を殺すのは、人間が生きるためにです。彼らに喰われて殺されないようにです。しかし、寄生生物もまた、生きるための本能として人間を食べていました。

 その一点において、寄生生物は共感可能な存在です。生きるため、生きたいと思うこと、それは相反する立場の存在だとしても同じことです。しかし、殺すしかありませんでした。殺すことが正しいと新一は思いました。それが人間にとって一番良いことだからです。

 

 新一の右腕に寄生しているミギーは、そんな人間のことをヒマだと言いました。そして、心に余裕(ヒマ)があることを素晴らしいと表現しました。人間には対立する立場の存在にすら共感してしまう感情があります。

 人間のそのような部分が素晴らしいことだと描かれたことが、僕が大好きな漫画の2つで描かれているなと思うと、ああ、それは本当に良いなと思うのでした。