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「双亡亭壊すべし」と「サユリ」と「パックマン」に見る、非対称な関係性が生む恐怖について

 「双亡亭壊すべし」の坂巻泥努さんがすごく好きなので、今週のサンデーなど、泥努さんがとても魅力的に描かれている回は、めちゃくちゃ楽しくなってしまいます。

 双亡亭壊すべしは、足を踏み入れたものを不幸に陥れる謎の建物「双亡亭」を巡るお話で、連載が進むにつれ、その正体が何であるかということが明らかになっていきます。

 

(ここからネタバレがあるので、未読の人は判断して読んでください)

 

 さて、双亡亭に巣食う者の正体は、遠い異星よりやってきた侵略者です。彼らはある星を食い尽くしたのちに、次のターゲットとして地球にやってきました。そのゲートとなる場所にたまたまあったのが双亡亭です。しかしながら、彼らにとって不幸であったのは、その風変りな建物に住んでいた絵描き、坂巻泥努という男が、人智を超える強大なエゴを持った存在であったことです。

 水で満たされた異星よりやってきた侵略者たちは、地球の空気に含まれる窒素を弱点とします。彼らは地面から染み出る水の中にその身を隠し、双亡亭に現れます。彼らは窒素からその身を守るために、人間の体も利用します。その心を恐怖によって破壊し、その隙間に入り込むことでその体を奪ってしまうのです。

 彼らは当然のように泥努の肉体も奪おうをしました。しかし、それは失敗してしまうのです。なぜならば、泥努の心はそんなことでは壊れなかったから。侵略者に支配されなかった泥努は、逆に侵略者たちを支配してしまいます。そして、彼らを自分の思った色を映す絵具として使い、時間の流れも曖昧になった双亡亭の中で、絵を描き続けているのです。

 

 人間の心を破壊するために恐怖の感情を使う、脅す側だったはずの侵略者が、凡百の人間たちがその恐怖に心を破壊され、思うがままに動かされ続ける哀れな人形に仕立てられてしまうにも関わらず、泥努に対しては、逆に脅されてしまうというところに、ある種の痛快さがあります。

 

 さて、この構図に思い当たる他の漫画として押切蓮介の「サユリ」があります。

 

 こちらは家に憑りついたサユリという霊が、そこに引っ越してきた家族を理不尽にも呪うという内容の漫画です。ホラーでありがちなように、家族は次々をサユリに呪い殺されます。そして、残るは主人公とボケた祖母だけになりました。しかしながら、次は自分たちかもしれないという恐怖の中、すっかりボケていたはずの祖母が突如として正気をとりもどすのです。それだけでなく、自分の家族を殺したサユリに対して復讐の宣戦布告をするのでした。

 祖母と主人公はサユリの抱える因縁を明らかにしながら、逆にサユリを精神的に追い詰めていきます。今までなすすべがなく、あちらからは攻撃できても、こちらからは攻撃も防御もできないような非対称な関係が逆転し、無理やりこじあけた隙間から、サユリに怒りのこもった攻撃を当てられるようになります。すると、それまであんなにも恐ろしい存在であったサユリは、弱々しく哀れな存在にも見えるようになってきました。

 サユリの強さは、自分には攻撃が当たらないという非対称なルールという虚飾に守られたものでしかなかったように思えるようになりました。対等に殴り合うならば、それほどではないのです。

 

 「サユリ」と「ばあちゃん」、「侵略者」と「坂巻泥努」の関係性は似ているように思います。一方的に殴られるだけだった非対称な関係性を、逆転し、こちらから殴ることができるように転換させられるほどの巨大なエネルギーを抱えた存在のすごさです。

 

 それはあるいはゲームの「パックマン」にも似ているかもしれません。敵に触れば死ぬ状況で、追われて逃げるしかないはずの関係性が、パワーエサをとることで逆転します。今度は今まで自分を追いかけてきた敵たちが逃げ回る番で、こちらが接触すれば食べることができるようになるのです。

 それは痛快な話だと理解できるでしょう。しかしながらそれは、自分を苦しめていたものと同じ感覚を自分が追体験してしまうという倒錯したものでもあるかもしれません。なぜなら、自分がその一方的な蹂躙を楽しいと感じるのであれば、自分がそれまで苦しめられてきたことも、相手からすればただ楽しかったのかもしれないと思えてしまうからです。

 

 いや、泥努やばあちゃんはそんなことを感じないかもしれませんが。

 

 もしかすると恐怖とは、それに対する抵抗不可能性と密接に関係しているのかもしれません。敵を殲滅できるほどの弾薬が供給されるようになった頃の「バイオハザード」では、弾薬の節約のためにゾンビから逃げるしかなかった頃よりも恐怖心を感じずにプレイできるようになっていたように思います。

 坂を下るとき、ちゃちなブレーキしかついていない自転車と、しっかり止まれるバイクでは、同じ速度で下っていても、感じる恐怖心が全然異なります。それは恐怖心の源泉が速度そのものではなく、止まれるか止まれないかと関係しているからではないでしょうか?

 

 人が恐怖と対峙するとき、それは、自分には抗うことができないかもしれないものと目を合わせることと似ていると思います。恐怖を克服するとは、それに抗えるようになったことを意味するのかもしれません。

 

 双亡亭壊すべしでは、泥努の存在によって、当初侵略者たちの持っていた恐怖は薄れてきたように思います。なぜなら、侵略者たちも無敵の存在ではなくなったからです。しかしながら、今度は泥努が、双亡亭を壊すべしと訪れる人々にとって、抗うことができない恐ろしい存在として立ちふさがります。そこに立ち向かえるのは、抗うことを諦めず戦うことを選ぶ「勇気」かもしれません。もしくは、相手を「理解」することで、自分を脅かす存在ではなくしてしまうことかもしれません。

 

 双亡亭壊すべしでは、絵描きの凧葉が、絵描きの言葉で会話するときだけは、泥努の持つ恐怖が薄れるような印象もあります。戦って打ち倒すことと相手を理解すること、どちらの先に、双亡亭壊すべしの結末があるこかは分かりませんが、僕はなんとなくそういうことを思いながら連載を読んでいます。