漫画皇国

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藤田和日郎漫画の悪役とマッチ売りの少女の見た幻について

 みなさん!サンデーで連載中の「双亡亭壊すべし」を読んでますか??

 双亡亭壊すべしは足を踏み入れたものがおかしくなって取り込まれてしまう謎の建物「双亡亭」を「壊すべし!」と色んな人が思い、そして実行しようとするという感じの漫画なんですけど、今はその双亡亭を建てた男、坂巻泥努(さかまきでいど)の過去の話がされています。

 それは、少年時代の泥努がその思慕の情を一心に注ぎ続けた姉との間で起こったことの話なんです。都会に出て行った姉の心に住み着いていたのは、その都会で出会ったある絵描きの男で、姉の心は完全にそちらを向いてしまい泥努少年の気持ちは通じるところはなくなってしまったわけです。他に家族がいる男を慕ってしまった姉と、そこを引き裂いた父の行為によって、あの快活とした陽の存在であった姉は消え失せてしまい、田舎に連れ戻されてきてからというもの陰な面持ちのみを顔に浮かべているようになってしまいます。

 泥努少年からあの輝いていた姉との日々を奪ったのは誰でしょうか?なぜ泥努少年からはそれが奪われてしまったのでしょうか?泥努少年の心の中は、その欠落を埋めるようにとめどなく溢れ出る濁った感情でひたひたになってしまいます。泥努少年は自分が欲しいものが決して手に入らなくなってしまったということから狂気に飲まれていきます。この先どうなるかは連載を楽しみにするとして、ひとつ気づいたことがあります。

 それは、藤田和日郎漫画における悪役の多くはその心の根源に、似た渇望を持っているのではないかということです。

 

 つまり、どれだけ求め、手を伸ばしても、決して手に入らないものがあるということが人を狂わせるということが繰り返し描かれているのではないかということです。

 

 「うしおととら」における白面の者は、この世界が生まれたときに底にたまった濁って邪な陰の気が実体を持った妖怪です。白面の者は全ての陽の者を憎んでいます。なぜならば自分は陰の者だからです。

 綺麗で温かい陽の者を外から眺めながら、「綺麗だなあ」と「何故自分はああじゃない」と羨むわけです。しかし、自分が陰であるがゆえに決して陽にはなれないという現実が目の前にあります。求めても求めても決して自分が手に入れることができないものを、当たり前のように手に入れている人間のような存在がいることを白面は許せるでしょうか?許せなかったわけですよ。だから白面は誰よりも陽の者に憧れ、それゆえに全ての陽の存在を滅ぼそうとします。

 これは秋葉流の心にも訪れた感情かもしれません。自分がどれだけ求めても決して手に入れられないものを、当たり前に手に入れている存在を目の前にして、人が正気を保てるのかという話です。

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 「からくりサーカス」で巻き起こった数々の悲劇の全ては、白銀と白金の兄弟が共に、フランシーヌという女性に惚れてしまったということに端を発します。しかし、弟の白金が先にフランシーヌを好きになったのに、フランシーヌは後からその気持ちに気づいた兄の白銀の方と恋仲になってしまったのです。これで白金は狂ってしまうわけです。「フランシーヌは僕が最初に好きになったんじゃないか」と。これは、なんてことのない失恋の話であったとも言えるかもしれません。しかし、白金に異常とも思える実行力と錬金術の知識があったことが悲劇を生み出してしまいました。

 白金はフランシーヌをさらって逃げてしまいました。言うことを聞かないフランシーヌの顔を殴り、泣いて哀願して、自分を愛してくれることを求めます。しかし、さらわれた後のフランシーヌはかつてのように笑ってくれなくなりました。そればかりか、疫病が原因で隔離され、ついには自ら火を放って死んでしまうのです。フランシーヌの死後、空っぽになった白金は彼女そっくりの自動人形を作り出しました。しかし、人ではないフランシーヌ人形には笑うということが分からない。白金はどこまで行っても求めるものを得られないわけです。

 だから白金は、人を笑わせないと苦しみを味わう病気「ゾナハ病」を生み出しました。そして、それを世界にばらまく自動人形たちも一緒に。自動人形で構成された「真夜中のサーカス」は世界中にゾナハ病をばらまき、混沌をもたらします。

 

 白金は、フランシーヌに自分の隣で笑っていて欲しかっただけでしょう。少なくとも最初はそうだったはずです。でもそれが自分に手に入らない未来であったこそ、それを手に入れるために足掻き続け、結果的に世界に大きな不幸をもたらす最悪な存在となってしまいました。

 

 「月光条例」のオオイミ王がどのような存在であったかというと、月光条例という物語の悪役でありラスボスです。その役割を物語に与えられた存在だと思います。だからこそ、彼は物語の主人公になることはできない。また、彼は物語という虚構が世界に存在することを禁じた人々の王でもあります。にもかかわらず、彼は主人公になりたかった男です。自分たちが禁じた虚構の物語に、誰よりも耽溺し、自分も同じような主人公になることを強く望んだ男であったのです。

 でも、彼は決して主人公になることはできません。なぜならば、彼はこの物語の悪役でありラスボスであるからです。オオイミ王は、この物語の主人公である岩崎月光に嫉妬します。月光条例月光条例という物語である以上、オオイミ王は自分があれほど憧れて望んだ主人公になることは許されないのです。それは岩崎月光の役割なのですから。

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 月光条例は、この世に存在する数々のおとぎ話が、青き月の光によって狂ってしまう物語です。青き月の光により、物語の登場人物は筋書きに縛られることを辞め、自由に行動できるようになります。それを元の筋書きに戻してしまうのが月光条例の執行です。

 物語が物語である以上、その筋書きは本来変えられません。「マッチ売りの少女」や「キジも鳴かずば」のように、物語の中で悲劇に見舞われてしまう人々も、その筋書きを変えては物語の意味が変わってしまうでしょう。であるがゆえに、それがどんな悲劇であろうとも、つまり、オオイミ王がいかに主人公になりたかったとしても、それは決して変えられないわけです。オオイミ王は、その身のうちに主人公への強い憧れを抱いたまま、岩崎月光という人間がいかに主人公であるかを描くための舞台とならざるを得ない。そんな悲しみを抱え込んでいるわけです。

 

 月光条例と言う物語は、物語が物語であるがゆえに筋書きを変えることができないという悲しい制約に対して、マッチ売りの少女におけるマッチのような役割を担った物語だと思います。マッチ売りの少女は、寒空の下で凍えて死んでしまう結末を迎えます。でも、それまでの間にマッチをするたびに幸福な光景が見られたわけじゃないですか。そういう可能性が存在したということが救いになるんじゃないかと思うわけですよ。

 マッチ売りの少女の本来の結末は変わらずとも、月光条例の物語の中では、そんな少女を力強く助け、彼女にマッチを売ることを強いた悪い父親に銃弾を叩き込んで思い知らせてやる一場面があったわけです。その可能性がそこにあったことが救いでしょう。

 そして、その可能性がないと決めつけられることが絶望です。それが人を狂わせるわけじゃないですか。

 

 このように藤田和日郎漫画に登場する悪役には、自分がいくら望んでも決して手に入らない何かゆえに狂ってしまったという共通点があります。「運命とは地獄の機械である」これはジャン・コクトーの言葉だと、からくりサーカスに書かれていました。彼らの運命は、彼らに決して味方をしなかった。彼らが心の底から望んだものを、決して与えなかったからです。

 だからといって、彼らが行なった様々な非道が、人を傷つけたことが、赦されるわけではないかもしれません。ただ、彼らはそんな運命に抗おうとしたのだということの一点においてはきっと共感が可能だと思うのです。

 

 僕はからくりサーカスにおいて、ひとつだけ気に食わない点があります。それは白金が、最後の最後に自分を「間違っていた」と表現することです。いや、確かに彼は間違っていたのかもしれない。そしてそれを後悔したのかもしれない。彼が最初に自分の望みを我慢してさえいれば、その後にあった数多くの悲劇は生まれもしなかったのですから。

 でも、そのとき、白金の気持ちはどうなるのでしょうか?そこにある平和が、白金が、自分の望みを望みだと考えないことでしか生み出されなかったのだとすれば、それは本当に真の意味で平和でしょうか?平和のために、我慢を強いられる白金は犠牲者ではないのでしょうか?それを間違いだと言っていいのでしょうか?

 僕が思うのは、白金にも望んだものを望んだままに手に入れられる幸せになれる道が、たとえ可能性だけでもあってもよかったじゃないかということで、それがなかったことがとても悲しくて気に食わないところなのです。自分で間違っていたと認めてしまったことがただ悲しいわけです。

 たとえそれがマッチの火が消えるまでに見えた幻であったとしても、白金にとっての幸福な光景があってほしかったと思ったりするのです(そういう意味では最後のカーテンコールには救われたような気もします)。