漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

「ミッドサマー」vs「かんかん橋をわたって」

 映画の「ミッドサマー」と漫画の「かんかん橋をわたって」を戦わせたらどちらが勝つのか?誰でも一度は考えたことがあると思います。なぜならこの2つには強い共通点があり、その比較を考えてしまいやすいからです。

 

ミッドサマー

  • スウェーデンに独特の文化を持つホルガ村がある
  • 主人公はそこの祝祭に招かれる
  • 独特の文化との間に困惑が起こる
  • その中で恋人への不信感が発生
  • 主人公はそこに居場所を見つける
  • 9という数字の持つ意味が最後に分かる

 

かんかん橋をわたって

  • 日本に独特の文化を持つ川東という地域がある
  • 主人公はそこの家に嫁入りする
  • 独特の文化との間に困惑が起こる
  • その中で夫への不信感が発生
  • 主人公はそこに居場所を見つける
  • 9という数字が持つ意味が最後に分かる

 

 どうでしょうか?このように都合よく単純化するとおどろくほど似ていますね?

 そして、この2つの作品には大きな違いがあります。ミッドサマーでは主人公は文化側に取り込まれてしまいますが、かんかん橋をわたっては、その文化を一度飲み込んだ上で新しい文化を地域にもたらすことになるということです。

 

 どちらがいいという話ではないかもしれませんが、ミッドサマーはこのあとに主人公にとってあまり良くないことが起こるのではないか?という予感が示唆されていたように思ったので、主人公にとっての頂点はあのラストまでだったのではないか?と思ってしまいました。

 ミッドサマーとかんかん橋をわたって、どこで差がついたのか?慢心、環境の違い、そういうことを考えていきたいと思います。

 

 かんかん橋をわたっての主人公、渋沢萌は「姑が嫁をいびる」という文化の中で、姑の不二子のいびりと戦いながら、ときに勝ち、ときに負け、徐々に強い嫁として成長していきます。川東いちのおこんじょうと呼ばれる不二子に嫁として鍛え上げられた萌は、徐々に地域の虐げられた嫁たちをまとめ上げて連帯し、ついには、この地に嫁姑の確執の文化を作り上げた真の敵との戦いに向かっていきます。

 

 一方で、ミッドサマーのダニーは傷ついた女性です。家族の自殺によって受けた強いショックを抱えたままで、恋人たちとともにホルガ村の祝祭に参加し、その文化を最初は受け入れ、そしてその詳細が徐々に明らかになっていく過程で、それを受け入れていいものかという困惑が生まれます。そこで広がっていくのは恋人への不信、それは心の中に薄々ありながら否定しようと努めていた感情かもしれません。そして、その心の隙にやってくるのがホルガ村からの彼女への受容の態度なのです。

 

 萌とダニーの大きな違いは「独自の連帯」ではないかと思います。

 異なる文化を持つ人々同士が出会ったとき、人がとれる行動は4つです。つまり、「相手の文化を受け入れる」「自分の文化を受け入れさせる」「そのどちらも拒否して去る」、そして「互いに共有できる新しい文化を作り上げる」です。

 ダニーはホルガ村の文化を受け入れる形で連帯を得ましたが、萌は川東に新しい文化をもたらすという独自の連帯を作り上げました。

 

 例えば、ダニーがホルガ村の住人達と、ホルガ村の文化とは異なった形で独自の連帯を築くことができていれば、おそらくあの物語は違った結末を迎えたはずです。ホルガ村の住人達は、村の文化を受け入れて暮らしていますが、しかしながら、必ずしもその文化を受け入れることが完全な幸福ではないということも示唆されていたように思います(ラストの建物の内部などで)。

 ダニーがそこにつけこめば良かったのかもしれません。しかし、ダニーにはそれができなかった。ダニーにはそれができなかったんですよ。いや、ダニーではなくても、そんなことは簡単にできることではないのかもしれません。

 

 では、なぜ萌にはそれができたのか?

 

 それは好敵手であり、ある種の師匠でもあった姑の不二子の存在があったからに他なりません。

 不二子の目的は、かんかん橋をわたっての真の敵、この川東という土地を支配する文化の象徴であるご新造さまを打ち倒すことでした。しかし、そこには「倒すとは何か?」という疑問があります。不二子は強い女です。たったひとりでもご新造さまを打ち倒すこともできたかもしれません。しかし、不二子はそれをしませんでした。

 

 何故か?

 

 それは結局のところ自分ひとりだけのちっぽけな勝利でしかないからです。ご新造さまによって呪いと言ってもいい姑が嫁をいびる文化を植え付けられた川東という土地で、強い女が強い女を倒したとしても、支配されていた人々自身は何も変わりません。勝った自分をその代替品として、再び支配されようとしてしまうかもしれません。だって、支配される人間は、支配されていることが一番ましに見えるから支配されているのです。

 そして、自分が去ったあとはどうでしょうか?そこに残るものは何になるのでしょうか?

 

 だから、不二子は萌を鍛えました。いびっていびっていびり続け、それでもなお、いびられたままではない強い女に萌は成長しました。萌は仲間を増やします。それは決して支配されない心を持った、嫁たちです。

 ご新造さまの支配が一番強かった旧街道沿いの嫁たち、彼女たちは全員嫁姑番付9位の女たちでした。でも、それをただ受け入れていたわけではありません。密かに反旗を翻す準備を進め、萌と連帯して、ご新造さまを打ち倒してみせるのです。

 かんかん橋をわたってでは、こうやって人々が9の呪いから解放され、その前には自由な未来が広がりました。

 

 その一方で、ダニーはホルガ村に伝わる9人の生贄を必要とする儀式に協力することの方を選んでしまうのに。

 

 つまり、ミッドサマーのダニーがホルガ村に取り込まれることになったのは、そこに不二子がいなかったためだと考えることができます。不二子…その名の通り不二の人材…(今回一番書きたかったダジャレがでたので、この先はもう読まなくてもいいです)。

 

 でも、想像してみてくださいよ。ホルガ村にやってきたのが不二子と萌だったとしたら、ミッドサマーがどのような映画になっていたかを。不二子は姑です。姑とは嫁に背負わされた「家」という重荷を「古のものよ」とあわざらい解き放たれた存在なのだと、不二子は言います。

 不二子は古いものに囚われません。古くから続いてきた因習には、もちろん意味もあったりするでしょう。その因習があったからこそ、その集団は生き延びてきたのかもしれません。しかし、それらの因習をただ無批判に受け入れ、その中で生きていくということは果たして良いことなのでしょうか?

 本当に必要なのは、その意味を知り、必要なものと必要ではないものを時代時代により分け、再定義していくということなのではないでしょうか?

 

 僕には見えます。そのおこんじょうを武器にホルガ村の人々をもてあそび、自分の支配下においてしまう様子が。あるいは、萌が、そのきっぷの良さと強い心でどんどん仲間を増やしていく様子が。

 今こそがこの世の最先端です。今の良さは、より新しいものと沢山の古いものの両方を知ることができるということです。今に生きる我々は、その中から、何が今必要で何が今必要ではないのかを、より分けて受け入れる権利が昔よりもより多く与えられていると考えることもできます。そして、未来では今以上に。

 

 古いものに意味がないわけではありません。しかしながら、古いからこそ続けていくべきとも限りません。萌という名前には、芽吹くという意味があります。新しく生まれてくるものです。しかし、ただ新しいだけでも意味があるかはわかりません。萌が不二子との戦いの中で成長したように、人は古いものと新しいものを含めて、今とそして未来を生きるために、常に今受け入れるべきものを再定義していかなければならないのではないでしょうか??

 

 そういう個人的な偏った気持ちを込めて、ミッドサマーとかんかん橋をわたってを戦わせたとき、勝つのはかんかん橋をわたってとしたいと思います。決まり手は「おこんじょう」。

 

 以下はおまけで、以前それぞれについて書いた感想です。

 

mgkkk.hatenablog.com

mgkkk.hatenablog.com

僕が影響を受けている漫画リスト2020年春暫定版

 今朝から、自分が影響を受けている漫画って何だろう?と考えていて、それは物語であったり、絵であったり、セリフであったり、テーマであったり、自分はこの漫画のこの部分に影響を受けているなと何らか具体的に説明できるものだけ挙げてみていたのですが(なお好きな漫画はこの何倍もあります)、とりあえず222作とゾロ目になったので、メモ用に公開しておきます。

 またいつか更新するかも。

 

(2020年3月24日 21:18追記)

 家の本棚を見回してみて追加したので250作になりました。

 

  1. ARMS
  2. 愛気(愛気S)
  3. 愛すべき娘たち
  4. アカギ
  5. 赤ちゃんと僕
  6. AKIRA
  7. アグネス仮面
  8. アシュラ
  9. あずみ
  10. 甘い水
  11. アライブ-最終進化的少年-
  12. アルプス伝説
  13. あれよ星屑
  14. 暗黒神話
  15. イエローハーツ
  16. 行け!稲中卓球部
  17. イノサン
  18. EVIL HEART
  19. イムリ
  20. 医龍
  21. うしおととら
  22. ウダウダやってるヒマはねェ
  23. 伝染るんです
  24. エアマスター
  25. 映画に毛が3本
  26. hなhとA子の呪い
  27. MMR
  28. エンジェル伝説
  29. 美味しんぼ
  30. 王道の狗
  31. 大奥
  32. 鬼斬り十蔵
  33. 鬼切丸
  34. おひっこし
  35. 帯をギュっとね
  36. オフィス北極星
  37. おもいでエマノン
  38. おれさまギニャーズ
  39. 俺たちのフィールド
  40. 俺と悪魔のブルーズ
  41. 女の穴
  42. 海皇紀
  43. 怪奇警察サイポリス
  44. 快速フリーノートブック
  45. 学園帝国俺はジュウベイ
  46. 覚悟のススメ
  47. 家政婦が黙殺
  48. 課長バカ一代
  49. Capeta
  50. カムイ伝
  51. からくりサーカス
  52. カリクラ
  53. かんかん橋をわたって
  54. ガンニバル
  55. キーチ
  56. 黄色い円盤
  57. 岸和田博士の科学的愛情
  58. 傷追い人
  59. 寄生獣
  60. 逆流主婦ワイフ
  61. ギャングース
  62. 今日から俺は
  63. 狂四郎2030
  64. キン肉マン
  65. 銀と金
  66. 銀の匙
  67. QED証明終了
  68. 喰いしん坊
  69. クライングフリーマン
  70. グラップラー刃牙(バキ、範馬刃牙
  71. 群青学舎
  72. けだもののように
  73. 月光条例
  74. 喧嘩商売(喧嘩稼業)
  75. けんけん猫間軒
  76. 幻想ギネコクラシー
  77. 皇国の守護者
  78. 高3限定
  79. 孔子暗黒伝
  80. GS美神
  81. コータローまかりとおる
  82. コオリオニ
  83. 国民クイズ
  84. 孤高の人
  85. 児玉まりあ文学集成
  86. 子供はわかってあげない
  87. 金色のガッシュ
  88. 最強伝説黒沢
  89. PSYCHO+
  90. 3×3 EYES
  91. 雑草たちよ大志を抱け
  92. 薩摩義士伝
  93. サバイバル
  94. ザマークオブワッツェル
  95. ザワールドイズマイン
  96. サンクチュアリ
  97. サンケンロック
  98. ジーザス
  99. 敷居の住人
  100. シグルイ
  101. 実験人形ダミーオスカー
  102. シャカリキ
  103. ジャングルの王者ターちゃん
  104. 13月のゆうれい
  105. SUGAR
  106. 修羅の門
  107. 将太の寿司
  108. 昭和不老不死伝説バンパイア
  109. 食キング
  110. ジョジョの奇妙な冒険
  111. 地雷震
  112. Switch
  113. スプリガン
  114. スラムダンク
  115. 聖☆高校生
  116. 聖闘士星矢
  117. セクシーコマンドー外伝すごいよマサルさん
  118. 総員玉砕せよ
  119. 蒼天航路
  120. 空が灰色だから
  121. そらトびタマシイ
  122. 大日本天狗党絵詞
  123. ダイの大冒険
  124. 打撃マン
  125. DASH
  126. 七夕の国
  127. 谷仮面
  128. ちひろちひろさん)
  129. 超兄貴
  130. 超頭脳シルバーウルフ
  131. 超龍戦記ザウロスナイト
  132. 沈黙の艦隊
  133. ディスコミュニケーション
  134. デイドリームビリーバー
  135. デカスロン
  136. できるかな
  137. 鉄拳チンミ
  138. 鉄鳴きのキリンジ
  139. デビルマン
  140. でろでろ
  141. 天空の覇者Z
  142. 電夢時空
  143. 道士郎でござる
  144. 童夢
  145. 度胸星
  146. 賭博黙示録カイジ
  147. 富江
  148. とめはねっ
  149. ドラえもん
  150. ドラゴンヘッド
  151. ドラゴンボール
  152. 長い長いさんぽ
  153. ナチュン
  154. 七つの海
  155. ナニワ金融道
  156. 南国少年パプワくん
  157. ナンバMG5(ナンバデッドエンド)
  158. ニコイチ
  159. 虹色のトロツキー
  160. 日本沈没一色登希彦版)
  161. ねえ、ママ
  162. のぞき屋
  163. 牌賊オカルティ
  164. 破壊魔定光
  165. バカ姉弟
  166. 運び屋ケン
  167. バタアシ金魚
  168. ハッピーマニア
  169. はなしっぱなし
  170. 花園メリーゴーランド
  171. BASTARD
  172. はだしのゲン
  173. ハチワンダイバー
  174. 犯罪交渉人峰岸英太郎
  175. HUNTER×HUNTER
  176. 蛮勇引力
  177. BEASTARS
  178. 秘拳伝キラ
  179. ヒストリエ
  180. 秘石戦記ストーンバスター
  181. 火の鳥
  182. ヒミズ
  183. ヒメアノール
  184. ビリーバット
  185. ピンポン
  186. ファイヤーキャンディー
  187. 藤子F不二雄SF短編集
  188. ぶっせん
  189. フラジャイル
  190. ブラックブレイン
  191. flat
  192. プラネテス
  193. BLAME
  194. プリンセスメゾン
  195. ペット
  196. ヘルシング
  197. ベルセルク
  198. HEN
  199. 辺獄のシュヴェスタ
  200. ホーリーランド
  201. 僕といっしょ
  202. 僕の小規模な失敗
  203. ぼくんち
  204. 幕張サボテンキャンパス
  205. 魔女
  206. MASTERキートン
  207. 瞬きのソーニャ
  208. 魔太郎がくる
  209. 魔法陣グルグル
  210. 未開の惑星
  211. MISTERジパング
  212. 三つ目がとおる
  213. みんなはどぅ?
  214. 宗像教授伝記考(宗像教授異考録)
  215. 女神の赤い舌
  216. 桃色メロイック
  217. モンキーターン
  218. YAIBA
  219. ヤサシイワタシ
  220. YAWARA
  221. ヤンキー塾へ行く
  222. 幽玄漫玉日記
  223. 勇午
  224. 夢かもしんない
  225. 幽遊白書
  226. 妖怪ハンター
  227. 預言者ピッピ
  228. 弱虫ペダル
  229. ラーメン発見伝
  230. 雷火
  231. LAZREZ
  232. LAMPO
  233. らんま1/2
  234. リバーズエッジ
  235. リヴァイアサン
  236. りびんぐゲーム
  237. 竜の学校は山の上
  238. 龍狼伝
  239. RED-living on the edge-
  240. るろうに剣心
  241. レネゲイド
  242. レベルE
  243. 69デナシ
  244. ロケットマン
  245. ロッタレイン
  246. 龍-RON-
  247. ワッハマン
  248. 我らコンタクティ
  249. ONE OUTS

 

以上

100日後に死ぬワニ最終回予想分類関連

■ワニは死ぬよ派
 ・普通に死ぬよ派
  - 不幸な死に方だよ派
  - 幸福な死に方だよ派
  - 死に意味などないよ派(虚無派)
  - 死よりも今まで生きてきたことの方が重要だよ派(結果より過程派)
 ・死ぬけど生き返るよ派
  - 読者はハッピーエンドを求めているよ派
  - 2パターン作っておいてハリウッドの試写の反応で決めたよ派
  - ワニではなくもっと高次元の存在として生まれ変わるよ派
 ・死ぬワニは別のワニだよ派
  - 別にこのワニだとは言ってないよ派
  - ワニというのは君が思っているワニという概念ではないよ派

 

■ワニは死なないよ派
 ・普通に死なないよ派
  - 枠外の予告は枠内と別の時空でそもそも意味はないよ派
  - 枠外で予告していた奴が読者を試した黒幕だよ派
   - そいつが悪い派
   - そいつは悪くない派
   - それは作者だよ派
   - それは編集者が勝手に書き足したよ派(もうちょっとだけ続くんじゃ派)
   - それはお前自身の心だ!派(自己責任派)
   - それが誰だとかどうでもいいでしょう派
    - そうだねどうでもいいよね派(素直派)
    - どうでもいいわけないだろ!派(説明責任派)
  - 別の時空のワニは死んでいるらしいよ派
   - そう聞いたよ派(伝聞派)
   - それを見てきたよ(多次元トラベラー派)
    - いともたやすく行われるえげつない行為だよ派(D4C派)
    - この世界線に収束したので死んだけど今は死んでないよ派(シュタゲ派)
    - 他の例を全部挙げるのがめんどうになったよ派(おれ派)
 ・肉体的には死なないけど別の意味で死ぬよ派
  - 社会的に死ぬよ派
  - かつての自分が死に新しい人生に踏み出すよ派
  - 意識が失われたまま眠り続けるよ派(人格の死派)
   - そのまま肉体の死を待つよ派
   - その心音が世界中に届けられるよ派(沈黙の艦隊派)
    - ネタバレするなよ!派
    - 20年以上前の漫画のネタバレを今更気にするなよ派
    - ケンカはやめて派
   - コールドスリープして未来の医療に託されるよ派
   - いつか続編が始まるときに目を覚ますよ派(新黒沢最強伝説派)
    - また生死不明になるよ派(新黒沢最強伝説最終回読了派)
    - だからネタバレするなっつってんだろうが!派(最終回未読派)
    - ケンカはやめて派
  - みんなの前から姿を消すよ派
   - その後誰も見た人はいないよ派(昔話派)
   - 見かけたよという目撃証言が都市伝説になるよ派(エルヴィスプレスリー派)
   - 俺の隣で寝ているよ派(NTR派)
 ・死んだ瞬間発生した落雷で沼の中から偶然同じ分子的組成のワニが生まれるので、周囲からしてみれば死んでないのと同じだよ派


■ワニは死んでいる状態と生きている状態が重ね合わされているよ派
 ・まだ箱は開いていないよ派
  - このまま箱は開けないままにしておくよ派(それが永遠だよ派)
  - 箱は人類にとってゆりかごだ、いつか開けなければならない派(ツィオルコフスキー派)
 ・今開けようとしているところだよ派(最後は読者の想像にお任せするよ派)
 ・開けようと思ってたけど、開けろと言われたから開ける気がなくなったよ派(中二派)
 ・箱を開けたよ派
  - 死んでたよ派⇒ワニは死ぬよ派に移動
  - 死んでなかったよ派⇒ワニは死なないよ派に移動

 

以上

馴染みのない分野の感想を書くときに気にしていること関連

 感想を書くのは時間さえあればいくらでもできるので、まあ色々書いているんですが、感想を書くときに気を付けていることがあります。その中のひとつが、「自分がその作品の分野についてあまり詳しくないときに、元からその分野が好きな人たちがちゃんといることを念頭に置いておく」ということです。

 

 昔、伊集院光が「鋼の錬金術師」に興味を持ったものの、品川庄司の品川が、まるで自分が描いたかのように褒めているのを見て、なんとなく読む気を無くしたみたいなことを言っていたのが印象に残っています。でもまあ、そういうところはあると思うんですよ。僕が一番ガンダムを上手く使えるんだですよ。自分こそがこの漫画を一番よく分かっているんだ!!と、読んでいる人たちがそれぞれ全員思うような漫画って、きっといい漫画じゃないですか。

 でも、一方で、みんながそれを思うがゆえに、それはお前のものじゃねえよ??みたいな反発もあるだろうなと思います。お互いにです。なので、何かが好きなだけなはずなのに、人間関係の揉めが発生してめんどくせえなあと思ったりします。

 

 さて、このように自分こそがそれを一番分かっていると、その分野における新参が言ったとしたらどうでしょうか?ムカつかれやすいじゃないかなあと思ったりするんですよね。

 

 以前、「コオリオニ」の感想を書いたときには、そこに気を付けた覚えがあって、なぜならば僕は商業BLをあまり読んでいないので、その分野に全然詳しくないからです。その分野に詳しくないということは、たまたま読んだその1冊の面白さが、分野に共通するこれまで積み上げられたきたものの中にあるものなのか、その本が固有に持っている特異なところなのかの区別がつきません。

 例えば、普段巨大ロボットもののアニメを見ない人が、2020年に初めてその分野に属するアニメを見て、「巨大ロボットという新しい地平を切り開いた!」などというような感想を発したらどう思うでしょうか?こいつわかってねえ!!と思ったりはしないでしょうか?文句をつけたくなったりはしないでしょうか?

 

 もっと揉めやすい例を挙げるなら、その分野にはこれまで詳しくなかったけれど、たまたまそれだけを見て好きになった人が、自分がこれまでその分野に目を向けなかったこととの辻褄合わせのために、その1つの作品が、どれほどこれまでのその分野の凡百の作品とは違うかというような感想を書いてしまうケースがあります(凡百と表現したそれをよく見てもいないのに!)。例えば「エヴァンゲリオン」に関する感想などがそのような雰囲気があったように思います。

 その作品も、その分野においてこれまで積み上げられてきたものの上にあるものなのに、そのひとつを褒めるために、それ以外のこれまでのものがまるでダメであったかのように表現してしまうのは、ずっとその分野を好きでやってきた人たちをムカつかせてしまうんじゃないかなあと思うんですよね。

 しかしながら、そのような感想を書いてしまう人には特に悪気があるわけではないと思います。自分が面白かったということを表現したいんだろうなと思いますし、でも、まあ、それによって揉めは発生するよなという想像があります。

 

 僕がそんなことを考えていることもあって、自分があまり詳しくないなと思う分野に関する感想を書くときには、そういったよく知りもしない他の作品との比較や歴史などを語ることはせず、淡々と自分がその漫画のどの部分が自分にどのように響いたのかということだけを書くようにしています。それはどこまで行っても僕自身に閉じた話なので、「こいつがこれをこう感じたのなら仕方ない」という落としどころがあるように持って行けるようにしたいなという作為のためです。

 

mgkkk.hatenablog.com

 結局、このブログに書いたコオリオニの感想は、もともとのBLが好きな人に見つかってしまい、その人たちに話題にされてしまいましたが、少なくともその時にやり取りをした何人かの人たちには、割と好意的に扱ってもらった覚えがあるので、まあよかったなと思いました。

 でも、言わなかっただけで「こいつろくに分かってないくせに偉そう」と色んな人に思われていた可能性も胸に置いています。

 

 自分が新参である分野において、そこにもともとしてずっと好きだった人たちには、「ずっと好きだった」という僕には絶対に敵わないものがあると思います。それを無視して、我こそは一番分かっているパーソンだぞ!と称号を簒奪しようとすることは、あんまりしたくないなと思ったりしてしまうんですよね。僕はちょっと来てすぐ去るかもしれませんが、でも、その人たちはずっとその分野を好きでいるんじゃないかなと思うからです。

 それはすごいことですよ。それが大事にされて欲しいなと思います。

 

 何かの作品の感想は、基本的に自由であってよいと思います。自分がそう感じたのだから、たとえそれが作者の描きたかったことを誤解していたとしても、そう読んでしまった以上はその読者の中で真実なのでしょうし、そういう誤読をした読書体験も、読書体験のひとつではないかと思うからです。

 しかしながら、自分が自由であるということは、他者の自由であるということと衝突する可能性があります。それは衝突しないように誰も設計してくれていないからです。ぶつからないように設計されることは不自由だからです。互いの自由同士のなわばりが干渉してしまうときに、そこではきっと揉め事が発生してしまうのでしょう。

 

 揉め事の原因はいつだって、「あいつは自分とは違う」というものです。そして、「あいつが自分と同じにならないのはおかしい」と思い続ける限り揉め続けるのだと思います。

 

 そこで戦うのも別にいいでしょうし、勝ってなわばりを広げていくのもいいと思います。負けてそこを去るしかなくなるのもいいと思います。ただ、僕はあんまり誰かと何かを争いたくないので、そもそも他人と干渉せずにすむぐらいには自分のなわばりのおよぶ範囲を狭めて、ぶつかりにくくしようとしていて、そのために考えていることが今回書いたようなことなのでした。

 

 「動物のお医者さん」の巻末オマケに、あるファンレターに「自分はこの漫画が好きなので、他の人が好きだって言ったときに『ファンをとるな!』と言い続けることでファンをやめさせた」と書いてあったというエピソードが載っていました。自分がファンであることを誇示するために、ファンの広がりを阻害してしまうという話で、うひゃあと笑いながらもひでえはなしだなと思いつつ、そして、自分もそういうことをしてやしないかと考え込んでしまう話でもあります。

 でも、まあ、あるでしょ。自分こそが一番のファンだと思ってしまうこと。そして、色んな人がそう思ってしまうために、揉め事が発生したりするんだろうなということを思っています。

 

 今日もインターネットは揉めていますか?おそらく揉めているのでしょうね。

「しょうもないのうりょく」と先天的才能と後天的能力関連

 「しょうもないのうりょく」は、まんがライフオリジナルで連載されている漫画で、この世界の中では「異能」と呼ばれる特殊能力が当たり前に認知されています。ただし、異能は「食べ物の旬が分かる」とか「紙を崩さずに積める」などの、ちょっとした役には立ちますが、ちょっとした役にしか立たない能力が大半です。この漫画では、主人公は「他人の異能が分かる能力」を持ち、色んな人の色んな異能がある中での毎日が描かれています。

 

 ここ最近のしょうもないのうりょくでは、主人公の働く会社の身売りの話があり、そのためにコンサルタントが会社の査定に来るわけですが、そこで見られるのが、社員の異能と職務のマッチングです。適切な異能を持った人が適切な職務に割り当てられているかどうかで仕事の効率性を見られるわけですが、主人公の働く会社ではそうはなっていないんですよね。

 それを非効率と思う人がいます。そして、異能という先天的なものだけによって仕事を割り振るのではなく、後天的なものだっていいじゃないかと思う人もいます。後者の考えを持つ人物とは社長。だから、この会社はこんな感じなのですが、それはいいなと僕は思ったりするんですよね。

 

 三十路に差し掛かったあたりに友達とした会話で、「僕らにももしかすると運動能力的な才能が眠っていたかもしれないけれど、おそらくそれに気づかない間に全盛期が過ぎてしまったな…」というものがありました。歳をとることは悪くないですが、それでも色んな能力が衰えてきます。体力も記憶力も衰えてきたなという自覚が僕にもあります。

 だから、気づかないうちに花が咲く可能性も失ってしまった能力の種が、もしかしたら自分にもあったのかな?と思ってなんだか面白くなってしまいました。人生はそういうところがいいですよね。無駄にするという贅沢です。

 

 ただ、それを知らないから笑っていられますが、知っていたらどうだっただろうな?と思います。しょうもないのうりょくには、そういう示唆もあって、だって、異能が人生を決めるのなら、生まれた時点で既に色んなことが決められてしまっているじゃないですか。

 実際、それに近いことも世の中にはあります。例えば、偉大なスポーツ選手の子供は、周囲が同じ道を歩ませようとしてしまうでしょうし、僕が知る開業医の息子たちは、子供の頃から自分も医者になるものだと周囲の雰囲気から読み取って自覚していました。そう思うことで、跡取りとして周囲が喜んでくれることも分かっていたのでしょう。でも、自分の歩む道が生まれたときに決まっているということを不幸と感じてしまうこともあるかもしれません(もちろんそうでない幸福なケースもあるでしょうが)。

 

 「ナンバデッドエンド」という漫画があって、これは「ナンバMG5」という漫画の続編なのですが、ギャグであった前作から、一歩シリアスに踏み込んだ悲しく苦しいことが描かれた漫画でもあります。主人公の難波剛はヤンキー一家の子供として生まれ、有名なヤンキーであった兄からの期待もあり、自分の夢はヤンキーとしての関東制覇をすることだと無邪気に思って育ちました。

 でも、喧嘩に明け暮れる中学生時代に、剛は普通の高校生の生活に憧れるようになり、親には内緒でヤンキー高に進んだと見せかけて普通の学校に進学をしてしまいます。家では最強のヤンキー、学校ではシャバい男、その二重生活は早々に破綻し、同じ学校の生徒を守るために戦う、マスクを着けて特攻服を着た謎のヤンキーとして剛は有名になってしまいます。身にかかる火の粉を振り払っているうちに、結局自分が望むか望まざるかには関係なく、剛はどんどん関東制覇に近づいてしまうのですが、ここで話はデッドエンドに切り替わります。

 

 剛には暴力の才能がありました。そして皆に頼りにされる人望もあります。剛は自分の才能を求められるままに発揮して、どんどんヤンキーの道を歩んでいきます。でも、剛は本当に最強のヤンキーになりたかったのでしょうか?周りはそうすれば喜びます。助けた人たちには感謝をされます。でも、それのどれひとつとして剛自身が望み、選んだものではありません。

 

 シャバい学校へ進学したことで、剛は絵を描くことが好きな自分に気づきました。そして、将来はこの道を進みたいと思うようになりました。それは剛が自分だけで初めて見つけたものです。そして、その後天的に見つけられた望みは、剛の抱える先天的な宿業によって破壊されてしまいます。親や兄に嘘をついていた嘘はバレてしまいます。喧嘩を続けてきてしまったことは、学校にバレ、進学の道は閉ざされてしまいます。

 半端に周囲の期待に応えず、最初から正直に言っていればよかったのかもしれません。でも、無邪気に寄せられる期待や、自分ならば助けられるという状況を無視できることは剛にはできなかったわけです。

 

 果たして何かの才能があるということ、そしてそれに周囲から期待が寄せられることは、本当に無邪気に幸せだと思っていいことなのでしょうか?(ナンバMG5とナンバデッドエンドはめちゃくちゃ面白いのでよかったら読んでください)

 

 「バガボンド」の柳生石舟斎は、戦乱の世の中で、自分の強さを様々な有力者のために役立てなかったことを「石の舟は浮かばず」と肯定的に語りました。その力を発揮したとしたら、むしろそれが柳生を潰すことになっていたと思ったからです。

 悪い想像をするならば、自分を含めた人間には、犯罪者の才能なんていうものもあるのかもしれません。表には出さずとも、心の中では汚いことばかり考えてしまう人だっているのではないでしょうか?僕自身、自分が綺麗なものだけで構成されていない自覚はあります。

 その汚さが例えば先天的にあったとしても、それを表に出して他人にぶつけることなく、そのまま一生を終えることもできるかもしれません。いや、多くの人はそうなんじゃないでしょうか?

 

 人を極限状態に追い詰めたときに出てくるのが本性、というのは、それは実際そういう側面もあるのかもしれません。それでも、極限状態になりさえしなければ相手に対してその本性を出さずに済むことができるということが、素晴らしいこととは思いませんか?いかに人間が先天的な邪悪さを抱えていたとしても、極限状態でさえなければ、手を取り合うことの方を選べるのだとすれば、その後天的な社会性を尊ぶべきなのではないかというふうに僕は思ってしまいます。

 

 調子こいて書いてたら話が逸れましたが、人間が持って生まれるものは様々だと思います。それは遺伝子に刻まれたものもそうかもしれませんし、生まれ育った環境や与えられた立場など、自分で選び、コントロールすることができない領域というものは多々あります。

 そういったものだけで自分の歩き方が全て決まってしまうということは、それがたとえ社会として一番効率のよいことだったとしても、それを構成している部品としての人間の幸福さとはあまり関係がないのではないかと思っていて、非効率だったとしても、部品のひとつひとつとしてのそれぞれの人間が、あまりにすり減らされることがないような世の中であってほしいなということをずっと思っています。

 

 しょうもないのうりょく、まだ単行本も出てないですが、単行本化してくれ~と念を送っています(竹書房に向けて)。

「ミッドサマー」を見ていて思ったローカルとグローバル関連

 「ミッドサマー」を見ました。スウェーデンの人里離れた集落で、独自のルールで生きている人たちと、そこに招かれた人々の間で起きる文化的摩擦とその解消、みたいな内容なのですが、すげえ面白かったです。この映画では、集落の外のルールからすると残酷な行為を、集落の中だけでは風習として当たり前として繰り返しているみたいな部分が文化的摩擦となる部分です。

 しかしながら、積極的に伝えてはいないものの、その文化そのものは特に隠してないんですよね。集落の寝床の壁に描かれている絵などに、これから起こることがだいたい描かれているので、え、これがこの先起こるんかよ…と思ってビビッてしまい、そして起こるみたいな映画でした。

 

 ルールというものは、プログラミングにおける変数と似ているなと思うことがあります。変数というのは、計算した結果の値などが格納される名前のことで、変数にはローカル変数とグローバル変数があります。ローカル変数とは、ひとつのプログラムの中だけで通用する変数で、別のプログラムからは直接参照することができません。一方で、グローバル変数は、複数のプログラムから参照することができるという違いがあります。

 ここで厄介なのは、ローカル変数とグローバル変数には同じ名前をつけることができるということです。その場合、プログラムは通常ローカル変数の方を参照して、同じ名前のグローバル変数は参照しないという動きになります。

 平易に書いたつもりですが、分かるか分からないか、それともそんなこと知ってると思うのは皆さん次第ですが、僕はこれが世間一般のルールの取り扱いと似ていると思っていて、つまり言いたいことは、似たようなものを取り扱うルールがあったとき、自分が属する社会集団の中で一番内側のローカルなルールが優先されるということです。

 

 例えば、日本の一般的なカレーの具にちくわは入りませんが、ある家庭の中でちくわを入れるのが当たり前ならば、その家庭のローカルルールではカレーとはちくわが入った食べ物になります。あるいは、万引きはいけないことですが、親が万引きを推奨している家族であれば、子供にとって万引きはやってもいいことになります。世間一般では悪いことになっていることでも、ある集団の中に入れば、それが当たり前に行われているなんてことはよくあり、それはつまりグローバルルールよりもローカルルールに従って人は動くということです(もちろん例外的な人はいます)。

 

 その状態を解消する方法は、集団の中に入ってローカルルールを変えるか、集団の外からローカルルールをグローバルルールに合わせるように圧力をかけるか、あるいはその社会集団自体を解体することです。

 

 そのどれもができず、なおかつその集団からも抜け出る方法がないとき、人は仮にそれにどんなに疑問を持っていたとしても、ローカルルールを受け入れるはめになってしまいます。

 

 これはローカルルールで動いている人たちは恐ろしいねという話ではありません。なぜなら、あらゆることがそうであり、自分たちもまたそうであるという話だからです。何らかの集団に属することになったとき、そこにあるローカルルールを守る必要が出てきます。例えば労働基準法違反が常態化している会社に就職したとしてもそうなりますし、引っ越しした先の地域や、結婚相手によってもそうなるものだと思います。集団で共有されているローカルルールに違反すると、それがその外では問題ないことであったとしても罰則が発生するかもしれませんし、そのような罰を与えたいと思う側に自分たちがなることだってあるはずです。

 例えばオタク集団の中でも、「二次創作の可否について公式に問い合わせるのはご法度」みたいなルールが出てくることがあります。それを問い合わせることは、世間一般のルールでは何の問題もないはずです。しかしながら、一部のオタクの中ではそれは「悪いこと」となっているのではないでしょうか?問い合わせをしてしまう人をルール違反だと糾弾したくなったりはしないでしょうか?そのオタクの人たちの中ではそういうルールが生じた経緯があり、それを守ることによる利害的な良い結果もあるのでしょう。なので、集団の内部であれば、それがご法度なのは当たり前とも思えることかもしれません。ただし、その集団の外にいる人からすれば、特に守るべきルールとはみなされないかもしれません。

 それはあくまでローカルルールでしかないからです。

 

 このようなそれぞれの人が抱えているルール同士の齟齬からくる摩擦は、多かれ少なかれ現実によくあることなので、物語の中にもよく登場します。好きな漫画で言えば、牛型の宇宙人に人型の宇宙人が食べられることが喜びという文化のある「ミノタウロスの皿」や、夜這いの風習が残り続けている村に都会の少年が訪れる「花園メリーゴーランド」、コールドスリープから目覚めると一度終焉を迎えた文明がまた新たに始まりつつあった「望郷太郎」、姑が支配者として君臨する地域に他所から嫁いできた嫁の話の「かんかん橋をわたって」、人喰いの風習が密かに残る山村を舞台にした「ガンニバル」、「マイホームヒーロー」の過去編では宗教によって支配される山奥の集落の話をいままさにしています。そして「寄生獣」です。そこでは、人間を喰い殺すことを目的として生まれた寄生生物と人間との文化摩擦が描かれます。

 

 「きみは悪くなんかない…でも…ごめんよ…」は今まで読んできた漫画の中でも屈指に好きな台詞です。

 

 これは寄生獣の主人公、泉新一くんが後藤にとどめをさすときに出てきた言葉です。後藤はその名の響きの通り5体の寄生生物が寄り集まり、人を喰い殺す本能の権化となった存在です。この言葉はつまり、寄生生物側にもルールがあり、後藤はそのローカルルールに過適応する形で従っているだけなのだということを新一くんが理解したということです。そして、同じく自分を含めた人間も人間のルールに従っているだけです。

 神の視点にグローバルルールがあるとした場合、そのどちらかが悪いわけではありません。仮に人間のローカルルール側からは悪く見えたとしても、それが寄生生物の生き方である以上、仕方がないことです。寄生生物の本能は人間にとって悪だから、お前たちは人間の都合のために死ねと言うことは正しいでしょうか?それをもし、自分たちが別の存在から言われたときに正しいと思えるでしょうか?だから、悪くなんかないわけですよ。でも、新一くんは後藤にとどめを刺します。それが人間のローカルルールだから。後藤を生き伸びさせることは人間にとって害であるのだから。それはあくまで人間の勝手な都合でわがままでしかないということを背負う決断をするわけです。

 

 これは互いに共存共栄するルールを持ちえることができなかったということについて、とても誠実な認識で行動なのではないかと思っています。自分たちのルールはただのローカルルールであり、それをグローバルルールとしてすり替えて認識することを拒絶したわけですから。

 とはいえ、寄生生物たちはその後ローカルルールを変更し、あまりおおっぴらに人を喰うことがなくなっていくことが示唆されて物語は終わります。

 

 自分たちとは異なるローカルルールを持つ集団に対して、どれほどのことを言っていいのだろうか?ということについては、未だ明確な答えを持っていません。自分の感覚では明らかに人権を蹂躙する許せないものだようなものだと思ったとしても、別のローカルルールで生活している人たちからしてみれば、それが最適解であり、それを単純に崩しただけでは別の悲劇が起こる可能性もあります。

 これは例えば採集を食料を得る主な手段として生活している集団では、一定の地域に住む人数が多くなりすぎると資源が枯渇するリスクがあり、口減らしをする合理的な理由が生まれてしまう状況などを想定しています。

 

 そして人はローカルルールに固執してしまうものでしょう。自分たちだってきっとそうです。共同体の外部者から彼らのルールで「お前たちは間違っている」と言われたところで、それを「じゃあ変えます」と簡単には受け入れられないことの方が多いのではないでしょうか?

 だから法律というグローバルルールがあったとしても、それに反するローカルルールとの揉め事が起こってしまうのだろうなと思っています。

 

 そして、法律も実はグローバルではなくローカルかもしれません。日本の法律はあくまで日本でのみ通用するものだからです。日本の法律では犯罪でも、海外であれば犯罪にならないかもしれません。大麻の使用が認められている国がある一方で、日本では犯罪であるとき、大麻の使用の是非については国と国のローカルルールの話になります。

 日本のローカルルールで裁かれたくないと、外国に逃亡した人もいました。

 

 全ての人が共有できるグローバルルールというものはあるのでしょうか?それがあるということを信じ、少しずつ世界に広められてきているのが近代化の流れなのかもしれません。しかしながら、それは同時に、その流れに乗りたくない、自分たちのローカルだけでやっていて何が悪い?と思ってしまう人たちの姿も明らかにしています。

 

 同じルールを誰かと共有するということは簡単な話ではないわけですよ。その過程で発生する無数のルール同士の摩擦を乗り越えた先にもしかすると達成できるかもという期待があるだけのことだと思います。

 

 「ミッドサマー」を見ていて思ったことは、これは特殊なルールを持つ人たちの中に入っていく普通のルールを持つ人たちの話という認識でいいのかな?と思うということで、実は特殊なルールを持つのは自分たちの側もそうなのではないかということです。

 

 例えば、若干曖昧に書きますが、とてもとても危険なことがあったとして、でもそれをしないと世の中が回らないだろうという事情からその危険なことが横行していたとします。それがおかしいということは何回も指摘されていたものの、でも、それをしないと世の中が回らないだろうと言われて何も変わらないということがあります。しかしながら、その結果、人死にが出てしまったときにいきなりルールが変わったりします。これは概念的に言えば人柱と同じことだなと常々思っていて、人が死ぬという行為を通過しなければ、何かを変えることができず、何かを変えるために人が死ぬことを願ってしまう人も出てくることでしょう。

 これは残酷なことではないでしょうか?その残酷さを自分たちのせいではないと様々な理由付けをしながら、社会の中に取り込んで気づかないふりをしていることだってあるわけです。果たして、我々は正常なのだろうか?と疑問を抱えてしまったりすることがあります。

 

 世の中には無数のローカルルールがあります。そして、それは共有すべきグローバルルールに反していても、今なお存在し続けているのを目にします。いつしか、ローカルとグローバルの齟齬が問題なく解消できる日が来るのかもしれませんが、少なくとも今はまだローカルとグローバルも、ローカルと別のローカルも、バチバチに文化的摩擦を起こしまくっており、それが特にインターネットでは日々見えています。

 自分もまた当然ローカルを抱えています。例えばネットでした発言や、描いた漫画などが、別の誰かの抱えるルールに違反していることもあるでしょう。それに対して、非難を受けるかもしれません。そこで、相手との関係性を保ちたいことから自分のルールを修正することもあるかもしれません。あるいは、「きみは悪くなんかない…でも…ごめんよ…」と思ってしまうこともあるかもしれません。

 

 とにかく色んなことを思いました。

「児玉まりあ文学集成」と魔法としての言葉関連

 手塚治虫文化賞の候補に「児玉まりあ文学集成」がノミネートされているっていうじゃないですか!これは選んだ人たちはなかなかええセンスしとるやんけ!!と思わざるを得ません。ここで言う「ええセンス」とは何か??それはつまり「僕のセンスと同じ」ということです。僕は僕の世界にとって唯一無二のモノサシだからです。

 

 児玉まりあ文学集成はめちゃくちゃすごい漫画なので、皆さんも読んだ方がいいと思うのですが、ここで言う「すごい漫画」とは何か?というと、「読む前と読んだ後で、物事の捉え方が変わってしまう」という意味です。どうしても強く影響を受けてしまいます。

 

 児玉まりあ文学集成が何の漫画であるのかと言えば、文学の漫画であり、言葉の漫画です。

 言葉とは何か?それは、物質ではないものであり、エネルギーではないものです。それはつまり、この世のあらゆる物理法則から、本来自由であるもののはずです。しかしながら、我々の使っている言葉は、ときにとても不自由です。児玉まりあ文学集成は、その不自由な言葉を自由に解き放ってくれる鍵のような漫画です。

 

 第一話の冒頭、「木星のような葉っぱ」という言葉が出てきます。その意味を問われても、そこに意味はありません。葉っぱのどこに木星の要素があるのか?と問われたら答えることができません。ならば、「木星のような葉っぱ」という言葉は存在し得ないのでしょうか?つまり、それが不自由です。言葉が存在するには、そこにはそう表現するに足る十分な理由があるべきだと思うということが、本来言葉の持っている可能性を制限しています。

 「木星のような葉っぱ」という言葉は、本来結びつきのあるはずのなかった二つの存在の間に関係性を生み出します。言葉の上でだけ。

 

「それが文学よ」

 

 児玉さんは言いました。

 このように、第一話の冒頭の数ページだけで、「文学とは何か?」という問いにとてもとてもシンプルかつ明瞭な答え方が提示されています。言葉は物質でなければエネルギーでもありません。であるならば、因果関係にも囚われませんし、ゼロサムになるような保存則も存在しません。融通無碍、全てであり、全てでなくあることができる何にも束縛されない可能性です。

 しかしながら、僕たちはその無限の可能性のある言葉を、そのような文学として利用することを、ときに忘れてしまいます。児玉さんは、それを教えてくれ、あるいは思い出させてくれる少女なのです。

 

 僕は魔法という概念が好きです。現実にはありえるはずのないと思われることが起こり得ることが魔法だからです。それは、現実の外側に踏み出せるための足場だからです。しかしながら一方で、物語に登場する魔法は、ときに疑似科学のようなものに巻き取られがちでもあります。魔法の原理が詳細に設定され解説されるとき、そこには理屈があり、理屈がある以上はできることとできないことが生まれてしまいます。

 もちろん疑似科学だって面白いですよ!それでも、魔法が疑似科学となることで削られてしまう領域と言うものがあるわけです。

 だから、僕はドラえもんひみつ道具に惹かれてしまいます。あれらは科学の成果物と言われながらもとても魔法的、つまり、原理という過程を必要とせずいきなり結果を実現できる存在であるからです。もちろん制約はゼロではありませんし、理屈の必要な科学と理屈の不要な魔法を繋ぐグラデーションの中にあるものでもあるのですが。

 ジョジョの奇妙な冒険スタンド能力も、ハンターハンターの念能力も、過程を必要とせず、結果を得られる概念です。しかしながら、それらは完璧な魔法ではなく、疑似科学的な制約のグラデーションの中にそれぞれのポジションがあります。

 

 人は理屈に取り込まれてしまいやすいのではないかと思います。絵を描く場合でも、人は割とすぐに禁則を作ってしまいます。僕自身で言えば例えば「人の目を描くときに、黒目を点だけで描く」ということをできるだけしないなどの謎の縛りを抱えています。それは、「だって人間の黒目は点みたいに小さくないでしょ…」っていう理屈からなんですが、本当はそんな縛りがない方が多様な表現ができるんじゃないかという悩みを抱えているわけです。

 あるいは、デッサンは重要なことですが、デッサンに強く囚われてしまうと、デッサンのとれていない絵を間違っていると思ってしまったりするんじゃないでしょうか?絵だって本当はもっと自由にできるものでしょう?それをいつの間にか勝手な理屈で狭めてしまい、気づけばその中に入り込んで出てこれなくなったりしてしまうわけです。

 

 言葉には質量やエネルギーがないおかげでそこでは何もかもが可能です。世界の支配者に実際になることはなかなか難しいことですが、「自分が世界の支配者である」と名乗ることは今この瞬間からでもできます。無から有を作り出すことができます。無限をゼロにしてしまうこともできます。

 

 詩や文学の存在は、あるいは人が自由であることそのものなのかもしれません。そう、言葉の上でだけならば。

 

 「児玉まりあ文学集成」を読んでない人は、読むことで、自分が思ったよりも自由であることに気づきましょう。この世には魔法があることを知りましょう。

 願わくば、手塚治虫文化賞が多くの人にとってのそのきっかけになりますことを。

 

(2020/03/08追記 以下で読めます)

to-ti.in

comic.pixiv.net