漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

漫画の宣伝をやっている2024年春

 直近で単行本が2冊出たので漫画の宣伝をやっています。

 

 

 なんでやっているかというと、商業媒体で漫画をやっている以上は、「売る」ということが継続的に活動していくために必要な要素であり、自分以外の人が宣伝をしてくれるという身分でもいまのところないため、自分がやるのが適切だろうと思っているからです。

 

 何かの漫画を人が買うには基本的に以下のステップがあると思います。

  1. 漫画の存在を知る
  2. 漫画を手に取ってみる
  3. 漫画を読んでみる
  4. 漫画を面白いと思う
  5. 漫画を手に入れたいと思う

 書評によって買うなど、別の誰かの感性を利用することで3と4のステップは飛ばせることもあるかもしれません。でも、基本的にはこういうことだと思います。人な何かの本を知り、そこに価値を感じ、手元に置いておきたいと思って買います。

 

 そして僕は長年漫画オタクをやっていたため実感としてあるのですが、ほとんどの漫画は、1の存在を知って貰うステップにすら至ることなく買われずに終わっています。漫画の新刊は月平均1000冊以上出ているのですが、皆さんは毎月そのうちのどれぐらいの割合を知っているでしょうか?おそらく知らないことの方が多いと思います。しかしながら、存在を知らない漫画を買うことはほぼありえないため、まずは知って貰う必要があるということです。その中でも自分でできることが宣伝です。

 

 宣伝のコツですが、「頑張らないこと」です。僕の様子は頑張っているように外からは見えるかもしれませんが、気持ちの上ではあんまり頑張ってはいません。頑張るといけません。頑張るといけないのは、「頑張りに見合った結果」が欲しくなるからです。「こんなに宣伝したのだから、これぐらいは売れて欲しい!!」と思ってしまうかもしれませんが、その場合、宣伝したのに実際は特に売れなかった場合、こんなことをしても意味がないと思ってしまうかもしれません。そうすると止めてしまいますし、止めてしまうとより知られなくなるわけですから、売れるかもしれない機会を逸してしまいます。

 なので、精神のエネルギーをできるだけ使わない方法で淡々と続けていくことが大事だなと思っています。

 

 僕の漫画もありがたいことに固定のファンになってくれている人はいるので、出ますと言えば、初動は動きます。でも、電子書籍のランキングなどをみると、初動は動いてもじりじりと順位を下げていってしまいます。同じく初動で動く漫画がその後もたくさん出てくるので当然の現象です。

 ただ、ヒットしている漫画との違いはそこで、ヒットしている漫画は、発売直後に一極集中するのではなく、その後も色んな人が様々なタイミングで前述の1から5のステップを踏んで買っているということだと思います。

 100万冊売れる本には100万人分の、それを買おうと思った物語があります。その物語を作っていくことが本を売っていくことだろうなというのが今の僕の考えです。

 

 そこで重要なのは、本人の自力宣伝以外の、別の人たちが「おもしろいよ」と紹介してくれることだと思います。なぜなら色んなところに情報の発信源があれば、タイミングや場所をずらしながら、そういう購買行動に繋がるうねりが生まれやすいからです。しかしながら、特に無名の新人漫画家にはその機会が訪れることは少なく、待っていても仕方がありません。

 とはいえ僕も先日テレビでGACKTさんがオススメしてくれたので、そういう非常に幸運な機会が訪れることはあります。でも、そこは自分でコントロールできない領域なので、あると期待していると、ないかもしれず、であるならば、期待してもしょうがないので自分でできることをした方がいいなと思います。

mgkkk.hatenablog.com

 

 こういう考え方をすると、漫然と宣伝をするのではなく、自分の宣伝が購買層に対してどのように届くことを期待して、どのように作用するのかということを考えていく必要があります。見てくれた人の中での物語のステップを動かすことが宣伝の目的だからです。

 

 漫画の宣伝で言うと、SNSでバズることは一つの分かりやすいやり方です。バズるということが通常の宣伝とどのように違うかというと、普段自分のことを見てくれている人たち以外の大量の人たちに接点ができる状態であるということです。1の知られるというステップを上手く果たす機能があります。

 バズるためにはその宣伝自体が拡散したくなる内容である必要があり、「漫画が出ます」みたいな情報だけでは、既に自分のことを知ってくれている人以外は拡散したくなったりはしないと思うので、そこになんらかの面白い要素があった方がいいです。

 

 でも頑張りたくないんですよね!!!!!!!!!!

 

 なので今のところ頑張ってないです。宣伝用に新たな何かを描いたりとかをする手間をかけたくないので、それでもできるのが漫画を1話貼るとかになります。既にあるものだから貼るだけでよく、楽です。

 それに漫画を直接貼ると、2の手にとってもらうや、3の一度読んでもらうまでは達成できるわけです。そして、面白い漫画を描いていれば、4の面白いと思って貰える確率は上がるでしょう。そうなれば、その中から5の購入に至ってくる人も出てくれます。

 

 なので、漫画をSNSなどに貼ることで宣伝するのは理にかなっているなと思います。ここで重要なのは、宣伝がバズらなくても気にしないことです。気にすると止めてしまうからです。止めてしまうと可能性がゼロに近づきます。損ですよね。

 

 作者にできる宣伝がインターネットでの自力宣伝ぐらいだとすると、漫画の内容をバズるための内容にするという方法もあり、これは結構重要な要素だと思います。みんなが言及したくなるような内容であれば、拡散力が強く、多くのまだその漫画を知らない人の元に届けることができます。

 

 でも、そこで難しいのは「拡散力が強い漫画」にしたかったら「賛否両論になる漫画」を描くという方法があるんですよね。それはある種の重要なテクニックであるというと同時に、取り扱いがとても難しいと感じています。

 賛否両論になる漫画とは、例えば「みんなが気にしている話題について、偏った考え方を漫画の中で披露する漫画」です。そうすると、その考え方を叩きたい人と擁護したい人の争いの起爆剤となり、争いの中で拡散されていくということになったりします。

 それによって色んな読者に届くことがある反面、それはあくまで話題提供の役割を担っているだけに過ぎず、4の漫画そのものを面白いと思ってもらったり、それによって5の買って手元に置いておきたいというところには特につながらない可能性があります。そして、賛否両論にしてしまった副作用として、大量のアンチを生み出してしまい、その後、ネットで嫌がらせをされてしまうリスクもあります。

 

 漫画は100人いたら100人にウケるということはありません。「タイムパラドクスゴーストライター」では、そういう理想の漫画のことを「透明な傑作」と読んでいて面白いなと思いましたが、それはありえないと感じているものだからこそ面白いなと思いました。

 Amazonで「寄生獣」の1巻のレビューを見てみてください。星1をつけている人もいます。え??寄生獣のあんなに面白い1巻に星1を??と思ってしまいますが、その人の感性がおかしいわけではありません。人は多様だということです。僕が気にしないようなことを気にする人はいますし、僕が気にすることを気にしない人もいます。それぞれの人の中の複雑な作用の中で、その人にとっての面白いと面白くないは決められていて、それは当人の中の話である限りは全て尊重されるべきものだと思います。

 なので、自分の漫画についても、これをおもしろいと思ってくれるような読者はどこにいるのか?この漫画の存在は、その人にまで届くような状況になっているのか?漫画と読者を繋げられる方法が宣伝であるとするなら、この漫画はどこでどのように宣伝をすべきかということも考える必要があると思っています。

 

 100人のうちの1人しか面白いと思ってもらえない漫画があったとして、その1人に漫画の存在を知らせる方法って何があると思いますか?僕は結局まず100人に読んで貰える漫画にするのが一番近道だったりするのではないかと思うんですよね。そうなると多くのマイノリティに響く漫画を描くためには、まずマジョリティにウケないといけないという話になってきます。

 それぐらい、どこかにいるかもしれないその1人をピンポイントで狙い撃ちすることは難しいと考えています。まあ、戸愚呂(兄)のように根気よく、強さと悪さを兼ね備えた人間だけがキャッチできる特殊な波長の信号を送り続けることもできますし、それだけの時間をかけるという方法もあります。もしくは、そういう感性の人が集まる場所、同人誌即売会でもいいですし、discordのサーバでもいいかもしれませんが、そういうところに入っていくなどもあるかもしれません。

 

 ともあれ、商業誌での活動を継続する以上は、漫画を売っていかねばなりません。そのためには、自分の漫画を買ってくれるかもしれない人に適切に届ける必要があります。それは一朝一夕で突発的そうなることもあるかもしれませんが、そうならないことの方が多いと思うので、いつか来るかもしれない幸運のときへの備えとして、根気よく続けて、ファンとなってくれる人を増やしていくしかないなと思っています。

 今は単行本が出た時期なので、そういうことを淡々とやっています。幸い、初動としては既刊も含めて動いており、でもまだまだヒットしているという領域は遠いので、省エネの工夫をしつつ漫画も宣伝も続けて行こうと考えています。

テレビで漫画を紹介して貰った関連

 先週の土曜日に「メシドラ ~兼近&真之介のグルメドライブ」という番組で、僕の描いている漫画を紹介して頂きました。

 

 

 事前に取り上げて貰うことは聞いていて、なぜなら出版社に書影や漫画のページを使っていいかの確認があったからです。でも、どういう形で取り上げられるのかはよく分からなくて、かなりドキドキしながら見ていましたが、GACKTさんが、今オススメの漫画として、自分の漫画「ひとでなしのエチカ」を挙げてくれたのが、なんでそんなことが起こるんだ??というぐらいびっくりでありがたいなと思いました。

 

 自分の漫画を誰かが誰かにおすすめしてくれているというのは、あまり目にすることがないので、それを見ることができたのがとても嬉しかったです。また、一方的にこちらから向こうを見るだけだと思っていた人が、こちらの作っているものを読んでくれていて、そして気に入ってくれているというのが、言うなればフィクションと現実が繋がったようで、世界観の立て付けが変わるような話だなと感じました。マジ嬉しい。

 

 「ひとでなしのエチカ」は僕がコミティアで毎回30冊ぐらい売ってた同人誌だったのですが、それが漫画雑誌の編集さんの目に止まって、ちばてつや賞の受賞になったり、また別の編集さんから単行本化と連載化につなげて貰ったり、タイトルに勝手に曲名等を使わせて貰っていたamazarashiの秋田ひろむさんから帯に言葉を頂けたり、今回のGACKTさんに推してもらったりと、本当に幸運に恵まれた漫画です。

 

 そういえば、ウチの妹が昔からGACKTさんのファンで、母親と一緒にライブとかにも行ってましたし、実家でもよく曲がかかっていたので聞いていたのですが、ああ、妹に自慢してえという気持ちがすごくあるものの、僕は漫画家をやっていることを実家に一切言っておらず、実家の人たちにとっては、東京でなんだかよく分からない難しい仕事をしているお兄ちゃんという感じだと思うので、言いたいけど兼業で漫画家やってることは言いたくない!という気持ちが反復横跳びを繰り返しています。

 

 この文章を書いているのは、TVerによる見逃し配信が今日の夜21:59までだと分かったので、よかったら見てくださいという気持ちからです。僕の漫画の話が出てくるのは焼肉屋に行った最後の方です。

tver.jp

 

 

 メシドラの放送は4/13(土)だったのですが、4/15(月)に連載漫画の新刊の電子版が出まして、紙の本は1週間遅れて4/22(月)発売というタイミングです。こんな単行本宣伝に都合がいい話がたまたまあるのか?という衝撃もあり、降ってわいたような幸運と嬉しいことがあってよかったですね。

 では、漫画買ってください。おもしろいのを描いていると思うので。

 

課長の仕事の2年目を終えての感想

 絶対向いてはいないが、人に任せて不満だけ抱えるよりは自分でがんばった方がいいかもしれないと思って続けている課長職ですが、2年目を無事終えました。この前の賞与査定も最高評価だったので、まあ上手くやっていると思います。

 

 仕事の詳細は書けないのですが、僕は新規事業を興す仕事をしていて、それが過去の事例のないものであるため、前例に倣うこともできないところが多く、都度都度今何をすべきなのかの判断をしつつ、仕事を進めています。

 今のところ、様々な操舵を小刻みに繰り返しながら、目的にちゃんと進んではいるのですが、そのための人員は足りないし、時間も金も潤沢とは言えず、それでもまあなんとかやってはいます。

 

 課長としてしていることの中で重要だと感じていることは、人を確保し、人を育て、体制を構築していくことです。そのために、対外的にも発表できる仕事を色々して、この仕事はやる意義があると会社の経営陣と社内の人たちに思って貰うようなことをしています。お金と人を投入してもらい、やりたいと思う人を確保したいからです。

 それはそんなに簡単にはいきませんが、この1年でどうにか新しい人材も確保でき、一緒に仕事をしながら、その人たちに専門的な知識と経験を積んでもらっています。社内的に色々動いたおかげで、この4月からは予算も新しい体制も構築できて、だんだんとなんとかなってきたような気がします。

 

 若い人が育って、自分がいなくなってもこの事業が進んでいくようになるといいだろうと思っています。それが見えてきたら気兼ねなく辞められるなと思うので、早くそうなって欲しいです。

 

 人って教えられただけでは育たないと思うんですよね。教えてもらうのはきっかけでしかなくて、教えられただけでは意味が分からなかったことを自分で再発見したときに、初めてそれが身になるように思っています。

 

 思い返せば子供の頃に、色んな大人が話してくれたことの意味が、今になってようやく分かってきたと感じることが多いです。答えはとっくにあったのに、そこに実感を込めて理解できるようになるのにとても時間がかかりました。そこにはその教えに対応する実体験が必要だったのだと思います。

 先人と同じことを自分で発見した時に、ようやくその教えの意味が分かるような気がしています。だから、人に教える時にも、教えることそのものは教えにはならないだろうなと思います。その人に自分で発見してもらう機会が多分必要なのだろうと考えているので、若い人たちにその機会をできるだけ設定するようにしています。そこで困ったら頼って貰えるようにはしつつ。

 

 課長になってよかったのか?と問われると、とにかくずっとしんどいので、やめときゃよかったなと思うことも多いです。でも、とても重要なやってよかったこともあります。それは最初にも書いたように、自分でできることの範囲が広がることで、他人のせいにしなくて済むということです。

 

 平社員の頃は、上司が何かをしてくれないということに不満を抱えて、でも上司が何かをしてくれなければ不満を抱えたままです。不満を抱えていると自分が正しいような気がしますし、やってないのに正しいような気持ちになると楽なので、そこに居続けてしまいそうになります。

 なので、自分の成果がでなくても上司のせいで会社のせいで、自分は悪くないし、そこに浸っていれば楽になれましたが、でも、問題が解決していないんですよね。解決したかったのであれば、それを自分の頑張りでなんとか手を打てるようになったことは良いことです。誰かをバカだと言ってなにもせず、不満の前に座り込むみたいな不毛なことをせずに済むからです。

 

 お金が足りない、人が足りない、新規事業だからまだ体制がない、それらは全て僕が抱えていた不満でしたが、それぞれ手を打って、少しずつ解消に向かっています。問題が解決すると不満を溜めずに済むので、少しずつ気が楽になります。自分の頑張りで不満が解消されるなら、もう少し頑張ってもう少し解消しようとなるサイクルが生まれますし、それが生まれているということに救われているところがあります。

 

 40歳を超えて思うのは、日本というのは自分だなと思っていて、例えば景気が悪いと言っても、その景気をやっているのは、そのごく一部だとしても自分の仕事で、今は日本社会の中で一番働いて実務を動かしている年代だと思うので、自分達がやらにゃあなというような気持ちがあります。もうおじさんなんですよね。大人に庇護される存在ではなく、若い人を庇護するのが自分の役割だなと思います。

 働く環境を少しでも良くして、若い人が働くことを面白いことだと感じられるような会社組織を作って維持したいんですよ。おじさんが若い人にできることなんてそれぐらいだから。

 

 これをやりきれたら自分のことをやり遂げられた人間として、さらに好きになれるだろうなと思います。どうにか頑張って事業立ち上げを完遂し、自分がいなくなってもそれが続いていくことを信じて、そして、辞めてえなあ…と思っています。

ピエちゃんは会社辞められへん関連

 会社、この3月末で辞めようかなと半年ぐらい前には思っていたのですが、結局辞めていません。次の辞めチャンスとして、この前までは、自分がやらないとみんなが困りそうな仕事が終わる7月末かなと思っていましたが、僕が課長をしている課のメンバーで、長期休みに入る予定がある人の話を聞いて、じゃあ、彼が復帰するまでは働くか…と思い、辞めるかものタイミングをまた延ばしました。

 

 辞めたいです。なぜ辞めたいかというと、こんなに沢山働く意味がないからです。生活に必要な額の何倍も稼いでも、使いもしないので意味がありません。生きるために働くのであれば、もっと楽な仕事でいいし、あとは資産を回しながらぼちぼち漫画を描いていれば、生きて行けそうな感じになっています。

 

 辞めない理由を挙げます

・今やってる仕事を最後までやりきりたい

・今やってる社会的意義のある仕事を途中で降りることの申し訳なさ

・今辞めたら困る人が沢山近くに見えている

・仕事環境を良くするという自分との約束を守りたい

・物価と給料が上がっているときに資産を頼りに辞めるのが不安

・仕事上の不快な人間関係があることで自分の頭がハッキリすることがある

・仕事で役割を担ったり、経験することで自分がよりよく変わっていると感じられている

・仕事を進める中で色んな気持ちになることが漫画になっているという自覚がある

・仕事を辞めたら家を出なくなり引きこもりが加速するかもと思う

・自分の社会的信用力は会社から生まれていると感じているので失うことに不安

・生活をガラリと変えることへのストレスがあり現状維持が楽

 

 今書き連ねていて分かりましたけど、会社の仕事をしたいという部分が全然ないですね。辞めるのが嫌なのはあるけど、続けるのが好きなわけではないということだなと思います。

 これって悲しい状況かもしれません。

 

 会社は辞められるなら辞めたいです。やりたいゲームができないから。気が済んだらまた会社員として就職すればいい話でもあります。でも、辞められないんですよね。とりあえず上記に挙げた項目をひとつひとつ潰していければ辞められるかもしれないので、それを頑張ってみます。

札幌までサイン会に参加しに行ってきた関連

 先週末、札幌旅行をしてきました。三宅乱丈先生のサイン会に参加するためです。

 

 サイン会は日曜にあったんですけど、せっかく遠くまで行くのだからと、土曜日から行って、月曜日に会社の休みをとって、二泊三日にしました。

 札幌は、いい街です。本屋が大きいから。ジュンク堂はいい本屋でした。僕の単行本が全部あったからです。

 

 僕はまだ十代の頃に読んだ「ぶっせん」から、三宅乱丈先生のファンで、単行本はだいたい持っているのですが、中でも特に好きなのが「pet」でした。

 「pet」は割と短く完結した漫画なんですけど、当時大学生だった僕は、あんなに面白い漫画はもっと読みたかったと嘆いていて、でも、その後の三宅乱丈先生の作品もずっと面白かったので、それはそれでよかったです。

 

 何年か前に「pet」がアニメ化され、それも良かったのですが、最終回のあとに続編の「fish」が描かれることが発表されたのを見て、狂喜乱舞してしまい、ビームコミックスとしてリマスターエディションが出たときに、実は3部作の構想で、「pet」はその第2部にあたると描かれていて、でも読むのを諦めていた第3部があるんだ!と思って、読めるんだ!と思って嬉しすぎておかしくなってしまいました。

 

 その後、コミックビームの編集さんにウチで漫画を描いてみませんかと声をかけてもらったときに、三宅乱丈先生の漫画が自分はとても好きで…と話し、同じ雑誌に載ってやりたいという欲望をおさえきれずに漫画家になった、みたいなところもあります。

 

 そして、その「fish」が来月完結し、三宅乱丈先生のサイン会があるということで、速攻でチケットをとってしまいました。

 たしか10年ぐらい前にもサイン会があって、そのときはさすがにサイン会のために札幌までは行けない…と断念したのですが、今の自分にはお金も行動力もある!行ける!行かねば!という気持ちも背後にありました。人には後悔がありますが、それを乗り越えるチャンスもあることが多いです。

 

 ちなみに三宅乱丈先生は僕が連載していた「ゴクシンカ」を読んでくれていて、僕がサイン会に行くということも編集さんに話したら伝わっていたので、コミックビームで連載をしていて得をしたなと思いました。

 同業者がサイン会のためだけにわざわざ札幌まで来てくれることなんてないよと言って歓待して頂き、自分はキモいファンだからな…と思ってたため、めっちゃよかったです。

 

 サイン会は、色紙の他に単行本にもサインをしてくれるということで、家にあった本を何冊か持っていったのですが、まずは色紙に絵を描いて貰えるので、桂木(petの登場人物で一番好きな男)をリクエストして、嫌われ者のときの桂木って言ったら、昔の単行本を確認して描こうとなったのですが、そんなこともあろうかと僕は袋から「pet」の最初の単行本を取り出し、昔からのずっとファンであることをアピール、三宅乱丈先生にもよく持ってるねって言われて、でへへとなってキモいファンであること全開で、単行本の方には若い頃のカッコいい桂木を描いて貰いました。

 

 20年前にまだ大阪に住んでたとき、近所の本屋でこの単行本を買った頃のピエテヅ!おまえは20年後にその本に桂木の絵を描いてもらえるぞ!しかも、続編も描かれていて、おまえは漫画家になっていて、同じ雑誌で連載もしているし、それを読んでもらっている!と伝えたら、そんなことあるわけないだろ!と怒るんじゃないかと思いますが、あったんです!あってよかった!嬉しすぎる!!

 

 夜には三宅乱丈先生と編集さんたちの打ち上げにも混ぜてもらって、色々お話させてもらったり、他に持ってきた漫画見せたり、単行本化されてない連載の話とかをして、ファンアピールをしたりしました。

 あと、三宅乱丈先生が持ってきてくれた「ゴクシンカ」の単行本にサインをし返したり、念のため持ってきた「ひとでなしのエチカ」の単行本もお渡しして、こっちにもサインしてよって頼まれたので、ウキウキしながら描いてしまいました。

 

 こんなにいいことがあっていいのか??わだすの人生に!という時間を過ごさせてもらい、もうほんとずっと嬉しかったです。

 僕は漫画家もやってるだけの漫画オタクなので、一介のオタクが、そんな抜け駆けのようなことをしていいのか?他のファンに怒られるのではないのか?と思ったりもしますが、それはそれとして、漫画家になってよかったなと思います。得をしているから。

 

 漫画家になってから、色んな昔から好きな漫画家さんに自分の漫画を読んでもらったり、面白いと言って貰ったりしているのですが、自分が子供の頃から好きな人に、自分が描いたものを面白いと言って貰えるの、嬉しさのボルテージがほんとすごいですよ。

 皆さんも漫画を描き、それを好きな漫画家さんに褒めて貰うのはオススメです。嬉しすぎるから。

 

 三月末締めの会社で働いているので、今はすごく忙しい時期なのですが、なんとか時間を作って行ってよかったです。ほんとよかった。

アウトプットってインプットだなと思う関連

 僕は、商業漫画を描いたり同人漫画を描いたりブログを書いたりウェブラジオに参加したり、SNSでも発言が多く、それ以外に会社の仕事もゴリゴリやっているため、「アウトプットが多い」という評価を人から受けることがあります。

 でも、個人的な感覚では、そのほとんどはアウトプットではなくインプットとしてやっている感覚があって、特にこのブログなんかはほぼ完全にインプットとしてやっていると思います。
    
 つまり、何かに関する考えをまとめるて書くということは自分にとってのインプットの側面があります。なぜなら、外部の刺激を受けたことについて、自分の中で考えを整理することは、自分の中にその考えを定着させるというプロセスのひとつであると感じているからです。なので、ここで文章として書いたからこそ、それをインプットとすることができ、他でやる何かのアウトプットに転用をできていたりします。

 

 そういう認識なので、僕自身は色んなアウトプットを頑張っているというよりは、アウトプットを継続するために、その下地として何かを書いたり作ったりするタイプのインプットを繰り返していると感じています。

 

 例えば漢字を書けるようになるときに、漢字を見るだけじゃなくて、書き取りをしてみるじゃないですか。そんな感じです。自分で実際に書いてみるときには、見ていただけのときには分からなかったことがわかったりします。書いてみることで、いろんな角度からその感じを見ることができるようになったりします。

 

 映画観たり、漫画読んだり、ゲーム遊んだりしたときも、その感想を書いたときにやっと観終わった読み終わった遊び終わった気持ちになったりします。それぞれの作品から自分がその時点で何を得られたと感じているかが明らかになるからです。ゲームのリザルト画面を見ているような感覚です。そこで一気に経験値が入っているような。

 

 僕が今漫画を描けているのは、若い頃から漫画の感想を書いたり喋ったりし続けてきたおかげだと思っています。それが自分にとっての大切なインプットとなっていて、自分自身にとって漫画がどのように面白く作用しているのかがそこで言葉になっていたので、それを手がかりにしながら今の漫画のアウトプットをやっています。

 さらには、漫画を描く中で分かってくることも多くあるので、漫画を描くというアウトプットがさらにインプットとなって、さらにアウトプットするときに作用してくるというサイクルが回ってくるので、漫画の仕事を始めたばかりの頃より、色んなことを考えて描くことができるようになってきました。

 

 漫画を描くというときに役立つインプットは漫画を描く中に沢山あるので、継続的に描けるようになると、とても効率がよくサイクルが回るなと思います。

 なので、アウトプットをするためには、そのためのインプットとして、少しでも多くの完成原稿を作るといいんじゃないかと思って、できるだけ仕事を引き受けたり、コミティアで本を出していたりする感じです。

 

 今年もできるだけ漫画を描きたいなと思っています。

結局人が死なないと変わらないんじゃないかと思ってしまうこと関連

 世の中はまだまだ完璧ではないので色んな問題が出てきますし、一度は上手く解決していたと思えたはずの問題だってだんだんと綻びが見えてきて再び問題となってしまうこともあります。そのため、人はその視界の範囲に問題を認識していて、ああ問題があるなと思ってはいるものの、それが上手く解決していないという状況の中で生きることも多いです。それはそこそこストレスがあるので、どうしたものかなと思ったりします。

 

 例えば、安全管理上問題のある運用がされているものがあったりします。それに対して、「危険だから止めましょう」と言えば一時効果はあったりしますが、結局すぐに戻ってしまりしたりして、その理由を聞けば、危険なやり方の方が早く終わるからとか、いちいち許可をとらなくてもいいからとか、やらなくても問題は起きていないのにやる意味が分からないとか、そもそも人手が全く足りていないのに、そんな労力を出すことはできないとか、様々なやらない方が得になるという理由が出てきます。

 

 そういうときに一瞬頭をよぎるのは、これはもう一度、この危険なやり方で人が死んだりしないと徹底した対応はできないでのはないか?という考えです。これは本当に悪い考え方で、つまりは自分の目的を達成するために誰かが死んでくれと望むことに等しい考えです。人柱を求めているようなものです。なので仮に一瞬よぎったとしても、この考えを決して認めてはいけません。

 

 しかしながら、人の生死は社会的な大きな意味を持つことが多いため、そういった呪術的な認識により、「人の死によって何かを変えたい」と思う動きは、実際世の中に存在していると思います。以前、自死をしようとしたことがある人と話をしていたときに、その人は、自分のしようとした自死は前向きな自死であると思っていたいう話をしてくれました。つまり、自分が死ねば、それによって周りが深く反省をしてくれて、自分が嫌だと思う状況が改善されるかもしれないという願いの話です。

 それは具体的に例えるなら、過重労働が問題視されている仕事場で、過重労働による自死が起これば、その仕事場でやっと過重労働が亡くなる方向に動くのではないか?というような願いです。つまり、前述の人柱問題に対して、人柱とする対象を自分自身にすることで、自分が加害者となる抵抗を感じることなく目的を達成しようとする話だなと思いました。

 

 それは、よくない考えですよという話をしました。実際にされなかったことはよかったですし、それにきっとそれを見た人が一時気にしても、深く反省なんて別にされないだろうし、また戻ると思います。

 

 このようなことは、最初に「問題が解決してほしいという」願いがあることだなと思います。そして、そのための方法として人の死が出てきてしまう話です。

 つまりは、そもそもは人の死の話では全然なかった話のはずです。問題の話だと思います。本来は人の死なんて話に出て来なくていい話で、問題が直接的に解決できる状況であればそもそもそんな話にはならないものだろうなと思います。

 

 何が言いたいかというと、人の死によって何かが動いたり、動きそうなときに話した方がいいのは、「そこで人が死ぬことの是非」ではなく、そんな話にまでなる必要がないように「そもそもあった問題を先に解決すること」だろうなと思うということです。

 

 なのでそういうことを日々やっていかないといけないなと思って、手の届く範囲でそれをやっています。