漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

メガネキャラが本気になるとメガネを外す関連

 メガネキャラが戦闘とかになるとメガネを外す描写があります。それはメガネをつけたままだと、殴られたときに破片が目に入って危険だからなのではないかと思いますが、同時に、メガネがないと生活に支障があるからメガネをかけているのに、本当に外して大丈夫なの??という不安もあります。

 

 そのキャラが近視だった場合、外してしまうとぼんやりとしか世界が見えなくないですか?その状態で戦ったりすると、不利になりませんか?戦うときにだって、相手をよく見ることが重要だと思います。それなのにわざわざ見えなくするなんてナンセンスだなと思います。

 

 そういうとき、大丈夫なのかな?と心配になってしまいます。

 

 ただし、メガネを外す合理性があるキャラもいます。例えば、実は伊達メガネだったなんていう方法があります。あとは、なんか人格が入れ替わると視力も変わってメガネが不要になるキャラなんてのも見た覚えがあります。あとは、目に特殊な力があるので、普段は特殊なメガネで抑えているなんてのもありますね(ARMSのキクロプスなど)。

 あとは、吸血鬼のキャラが、太陽の光に弱いのでサングラスをかけているものの、夜に戦うときには外すなんてのもあったと思います。

 

 一方で、メガネをかけることで強くなるキャラもいたりします。つまり、特殊な力のあるメガネなどです。有名どころでは、江戸川コナンくんは追跡機能のあるメガネをかけることで犯人を捕まえることができたりします。「死がふたりを分かつまで」の土方護は、失明している男ですが、特殊なメガネ(サングラス)をかけることで、超音波で認識した物体の形を網膜に投影して物を見ることができるようになります。

 そう、メガネは本来、人体の能力を強化したり補ってくれるものだということを思い出させてくれます。僕も目が悪くなってきたとき、黒板を目を細めて見ていましたが、メガネをかけるようになったら色んなものがくっきり見えるようになって生活の良さが向上しました。メガネがなければ運転もできません。

 

 「岸和田博士の科学的愛情」では、存在がマイナスになってしまった安川くんが、光を上手く認識しなくなってしまったために、岸和田博士がマイナスのメガネを作ってくれ、マイナスの眼鏡にマイナスの眼鏡をかけることでプラスにして、見えるようにしてくれたという心温まるエピソードもあったんですよ。この文章の意味が分からなかったら漫画を読んで確認してください。

 

 散漫な話になってしまっていますが、言いたいことは、メガネは人間にとって必要だからかけているものなんですけど、一方で、メガネが割れたら危険だということです。はじめの一歩でも、普段はメガネをかけている真田がリングに上がるときには外していました。危険だからです。

 メガネは必要だが、メガネにはリスクがあるとき、そこにメガネのジレンマが生まれます。果たして、かけるべきなのか?かけざるべきなのか?

 

 このメガネのジレンマへの対抗策が、「危険性の低いメガネにかけ替える」という方法です。このキャラは、大ヒット漫画に既に存在するんですよね。それが、「スラムダンク」に登場した海南の宮益です。彼は、バスケの試合に出るときに、試合用のメガネにかけ替えるんですよね。

 宮益のように、本気を出すときには本気を出すとき用の眼鏡があればいいと思うのですが、イマイチそういうキャラは少ないように思います。いや、そう言えば、キテレツくんも、キテレツ大百科を読むために専用のメガネにかけ替えていましたね。探せばもっといそうです。

 

 皆さんは本気を出すとき用のメガネを持っていますか?僕は持っていません。

「トリリオンゲーム」と2人だから面で広がる関連

 この前、第一巻が出た「トリリオンゲーム」は、後に世界長者番付に名を連ねることになる2人の青年、ハルとガクが、1兆ドル(トリリオンダラー)を稼ぐことを目標に向けて出発する漫画です。

 

 原作は、「アイシールド21」や「Dr.STONE」の稲垣理一郎、そして、作画は池上遼一です。2人は一度「こぶし侍」という読み切り漫画でもコンビを組んでいますね(おなじくスペリオールでの掲載なので、流れなんだと思います)。

 

 この物語は、コンピュータが得意なもののコミュニケーションは不得意なガクと、コミュニケーション能力の塊であるものの、技術的なことはちっとも詳しくないハルが、IT系巨大企業であるドラゴンバンクに喧嘩を売るところから始まります。

 ガクはドラゴンバンクの入社面接で、自分の強みを上手くアピールすることができず落とされ、ハルはなんなく採用されますが、雇われて使われるよりも、雇って使う側になることを望み、入社式をバックレて宣戦布告をすることになります。

 

 この2人はおそらく、Appleの創業者であるスティージョブズとスティーブウォズニアクを意識した存在だと思います。そして、この物語では当初は何もない青年だった2人が、駆け上がっていく様子が描かれます。

 

 この漫画の特筆すべきと考える点は作画に池上遼一を起用したところだと思います。なぜなら、僕が池上遼一の大ファンだからです。そして、池上遼一のすごいところは「絵がカッコいい」んですよね。

 え?そんな基本的なこと?って思うかもしれませんけど、池上遼一がすごいのは、どんなトンチキな光景であったとしてもカッコよく描けてしまうのがものすごいんですよ!!

 

 例えば、「クライングフリーマン」で白ブリーフを振って手旗信号をするシーンとか、「傷追い人」で自分にションベンをかけろというシーン、「アダムとイブ」で鼻からお酒を飲むシーンなど、普通の人が描いたらギャグにしかならない光景を、とてもカッコよく描くんです。そして、こんなにもカッコいいのに状況はトンチキなんですよ。それが最高にいいんですよね。

 

 近年の連載は、池上遼一の絵のカッコよさを、カッコいいシーンにぶつけることで、カッコよさを倍々にされることが多かったんですけど、トリリオンゲームでは、コミカルなシーンに池上遼一の絵が合わさることで、カッコよさとトンチキさが合わさったような不思議な空間が生まれています。

 2本の線を同じ方向に繋げれば2倍の長さになりますが、違う方向に組み合わせれば、面の広がりを構成することができる、みたいなことなんじゃないかと思っています。

 

 ここには、原作がおそらくコマ割と簡易な絵を含めたネーム形式で描かれるタイプであることも関係しているのではないかと思っています。つまり、ネームに存在するコミカルさやトンチキさを、池上遼一が自身の美学に基づいた筆致で再現しようとすることによって、今まであまり見たことがなかったタイプの良さがそこに出てきているような気がするんですよね。

 

 あ、これって、ハルとガクの関係性とも通じるものじゃないですか??

 

 さて、コミュ力おばけのハルが、ガクに対してやることは、「徹底的な信頼」と「全力のサポート」です。ガクはそれまで誰にも期待されることがなく、ひとりで知識と技術を貯めこんでいました。その人知れない力に、ハルによる使う場所が用意され、そしてそこに向かう気持ちも後押ししてもらえるわけです。

 仲良しの友達で企業しても、友情関係と企業の経営の摩擦の中で、仲たがいしてしまう事例は枚挙に暇がありません。その不安に対してハルが言うのは、「友情パワーがものすごい」という答えで、つまり、理屈による裏付けではなく、根拠のない確信なんですよね。

 根拠のない確信は強いです。なぜなら、理屈による裏付けは、逆に見ると、その理屈が破綻すればおしまいになるものだからです。誰かを好きになった理由を具体的に考えてしまえば、その理由が失われたら嫌いになるでしょうか?それで嫌いになるぐらいなら、最初から理由なんていらなくないですか?だって言われた側は、嫌われないためにはその理由が失われないかをビクビクしてしまったりするかもしれないからです。

 その点、ハルはガクに対して、ただ確信だけを提示します。それは他人との関係性に対してビビりがちな人が安心できる道でもあると思うんですよね。

 

 そして、ハルとガクの活躍は、それはハルひとりでもできなかったことですし、ガクひとりでもできなかったことのはずです。

 

 あんまり関係ないかもしれない個人的な経験の話をしますが、2人いるということは、1人ではできないことをやれるようになる環境だという印象があります。例えば、僕は外国に1人で出張に行くとき、現地の常識や雰囲気が全然分からなくて、色んなことが億劫になってしまったりします。その結果、色々面倒になって、食事もその辺の日本にもあるファーストフードで済ませたりするのですが、これが2人以上であれば、ちゃんと店を選ぼうとします。

 2人以上ならできるのは、自分以外の要望があるということもありますが、何より、仮に上手く行かなくても、上手く行かなかったことを共有できる相手がいることが力強いからです。

 そして大きなところでは、「1人でいる」ということは、「多数決で勝つことが不可能」ということです。例えば、旅先でどう考えても目の前の相手の言っていることが理不尽だったとしても、自分が少数派で、向こうが自信満々に徒党を組んで主張すれば、多数決で負けてしまうために受け入れてしまうかもしれません。

 

 でも、少なくとも2人いれば「それはおかしいでしょ」ということを互いに確認することができます。相手を1人にすれば、各個撃破で数でも負けずに済むかもしれません。1人だったらどうしても負けて受け入れてしまうことに、2人なら抵抗できるかもしれませんし、仮に負けてもその負けた悲しさを分かち合うことができる相手がいます。

 だから、人間は1人ではできないことが2人以上ならできるようになります。

 

 それはとても良いことだと思うんですよね。いや、1人なら決してやらなかった悪いことを、2人以上だからやってしまうなんて負の側面もあるかもしれませんが。

 

 トリリオンゲームはハルとガクの2人が、2人だからこそ生まれる巨大な推進力によって前に進んでいく物語だと思います。そして同時に、稲垣理一郎池上遼一の2人だからこそ生まれた力のある物語だと思うんですよね。

 

 どうですか?僕は今、上手いことを言っていると思いませんか??

 

 それにしてももう70代後半の池上遼一氏が、また新しいタイプの漫画を描いていると思えることは、人間ってひょっとして一生成長期で生きて行くことができるんじゃないか?と思って、人間の可能性の力にめちゃくちゃ嬉しくなってしまいますね。

 僕もおじさんになってから急に漫画を描いてコミティアに出始めましたが、ここからまだ数十年成長期があるかもしれないと思うと、世間的には遅くても、全然遅くねえなと思えたりする気がしてきました。

 

 話題はずれますが、この前、コミティア用に描いた漫画を2作、ネットにアップロードしてみたことを思い出したので貼ります。よかったら読んで下さい。

manga-no.com

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 トリリオンゲームは2巻の最初に入るであろう話が、めちゃくちゃな絵面に、カッコよさがあり、その行為には賢い意味があって、そしてやってることはめちゃくちゃみたいな面白い回なので、連載読んでない人は2巻の発売を楽しみにしましょうね。

エンターテイメントに対するコスパ認識関連

 映画を倍速視聴するのはアリかナシかという感じの話題がネットで定期的に盛り上がったりするのですが、僕個人としては、それぞれの人が好きにすればよいと思っていて、それでおしまいの話です。

 

 ただ、コストパフォーマンス(略してコスパ)については、人によって異なる価値観があるように思っていて、それぞれの人が何をコストとして考えていて、それによって何を達成することがパフォーマンスが高いと判断しているかも様々なのではないかと思います。

 

 例えばコストについて、「時間」と考える人はより短い時間でエンターテイメントを摂取できれば満足度が上がるでしょうし、「お金」と考える人は、無料やより安く摂取できるエンターテイメントが満足度が高いでしょう。金はあっても時間はない人なら前者、時間はあるが金はない人なら後者を選びがちかもしれません。

 

 他には、パフォーマンスを「より多くの作品を、既に観たという状態にしたい」なら、「量」ということになりますし、「それを観ている時間が自分にとって良い時間であって欲しい」なら「質」ということになります。

 

 他にも、面白いと言われている作品だけを観ることができれば質が上がる、と感じる人がいるかもしれませんし、自分の手で探したものを観ることに価値を見いだす人もいるかもしれません。あるいは、他の人が悪いと思っているものを良いと感じることに逆張り的な充足感を得る人もいれば、それがなぜ自分にとって良いのかを自分なりに考える時間が重要だと感じる人もいるでしょう。

 

 結局のところ、それは人の価値観に寄るものだと思います。だからこそ、そこで自分が何に価値を置いているか?そして、その感覚が自分に本当に合っているものであるのか?を考えることが重要なのかもしれません。

 

 僕は若い頃には、貧乏ゆえに金にこだわっていたので、食べ放題に行ったとしても、原価率が高いものを優先的に食べていました。その方がお得だと思ったからです。でも、その原価率が高いものが自分が好きなものとは限りません。つまり、別に食べたくないものを食べることによって、お店も儲かりにくくなるという、両方が損をする選択をしていました。

 当時はそれが良いと考えていたものの、その後、金に困らなくなり、さらに中年太りの恐怖から、食に対して、最小限の量で最高の満足度を追究するようになると、僕にとっては食べ放題自体の魅力そのものが大きく変わってしまいました。

 かつて食べ放題については、たくさん食べれてお得と思っていたのに、今感じているものは、沢山の料理を少量だけつまむことができる環境が嬉しいということです。

 

 なんか理性的で抑制的な話を書いてしまいましたが、よくよく考えると僕はホテルの朝食バイキングでは、今なおパンとご飯を両方食べていることを思い出します。なぜなら、そのホテルの両方の味を確かめたいからです。なので、朝食バイキングでは、主食が2倍でカロリーオーバーをしてしまい、出張でよく太ります。

 

 漫画を読むことや、ゲームをすること、アニメを見ることなんかについても「自分が何を得たいか」と、そのために「何を支払ってもいいと考えているか」を考えて整理すると、それぞれの人にそれぞれの、まあ、そうだなと納得できるバランスの場所があるんじゃないでしょうか?

 

 例えば、新作アニメを全部見ることにしているけど、時間がないために早送りで見て、なんか全部面白くないなと感じてしまったとしたら、それは本当に自分にとって良いことでしょうか?でも、自分は全部見てるぞって皆に向けて主張したいなら、そうしてしまうかもしれません。

 

 漫画だって、商業連載されているものはちゃんと読んだらどれもだいたい面白いと思うので、面白くないと感じる場合には、ちゃんと読んでないことが多いと思うんですよね。僕自身、実際、雑誌でパラパラと読んでいて、ふーんと思っていた漫画を、単行本で腰据えて読んだときに、この漫画ってこんなに面白かったのか!とやっと気づいたりすることがあります。

 でも、全部を腰据えて読める時間がないときに、パラパラとだけ見たりすることも別に悪くはないんじゃないかと思います。いつか面白さに気づけばちゃんと読めばいい話でもあって。

 

 昔のゲームのリマスター版には、倍速以上で遊べる機能があったりします。例えば100時間かかるゲームが4倍速で25時間で再び遊べるなら、時間のコスパが改善するので、もう1回遊ぼうという気にもなるかもしれません。ゲームに関しては、とにかく近年時間がかかる印象があって、100時間もかかるなら、そもそも始められないよ!とビビッてしまうこともあったりもします。

 昔は一日で全部終わるゲームなんてコスパが悪いと思っていましたが、時間に追われがちな昨今では、まとまった体験がたった一日で得られるなんて、なんてコスパがいいゲームなんだ!!って逆のことを思ったりしてしまうこともあるんですよね。

 

 それは、自分にとってのコストの意味するところが変わったということだと思います。そして、無料や定額で体験できるエンターテイメントが増えた昨今では、時間の方が枯渇し、より強い意味を持ってしまいがちな気もしています。

 

 僕も、ネットフリックスなんかで面白そうな映画は、むしろなかなか再生できないことがあります。なぜなら、面白そうな映画はちゃんと腰を据えて観たいからです。なので、2時間などのまとまった時間を確保できるぞ!というタイミング以外では、なかなか再生ができなくて、結局ながらで観るときは、何回も見ている美味しんぼのアニメを再生したりしてしまうんですよね。なぜなら、別に見ても見なくてもいいからです。

 なら、いっそ初めての映画でも一回適当に観てしまって、そこではよく分からなくても、一回観たことでハードルを下げるなんて方法もあるんじゃないかと思います。一回観ておけば、二回目観るハードルが劇的に下がるので、そうやって何回も粗雑に観ているうちに分かってくることだってきっとあると思うからです。ハードルを上げ過ぎて、結局観ないよりはそっちの方がいいっていう考え方だってありそうじゃないですか?

 

 エンターテイメントに関してコスパ意識を持ち込むと良くないという気持ちも分かるんですが、結局、人間はどこかでコスパを考えてしまうんじゃないかなと思います。だって何かを選ぶとき、どっちが良いかと判断する、何らかの基準が絶対あるでしょう?それって何らかのコスパじゃないですか?自分はコスパ概念を持っていないなんて思うのは傲慢な考えじゃないですか?

 ただ、繰り返しになりますが、その中で、自分は何を支払ってよく、何を得たいと思っているかということに向き合うと良いんじゃないかと思います。自分に合わないやり方をしていると、結果的に色々なことがつまらなくなってしまうような気がするからです。

 

 今の僕の漫画に関するコスパで言うと、読んで良かったなと思える漫画が一冊でも多く見つかるといいなと思っています。でも、生活的に時間があるときならじっくりと読めますが、ないときには読めないこともあります。また、お金は最近困ってないので、あまり気にしませんが、もしまた金に困るようになったらそこが変わるに違いありません。

 なので、今の自分に最適なバランスが何なのかは、常に今考えていくしかないなと思っています。なので、それをします。

カイジの班長とハーモニー関連

 伊藤計劃の「ハーモニー」では、人間の脳内に様々な欲求を司るエージェントが存在すると語られます。そして、人間が理解する自身の意思とは、互いに矛盾するような複数のエージェント同士が戦った結果として勝ち残ったものであると語られます。

 つまり、ある問いにイエスと答えたとして、それは100%のイエスとは限らず、60%のイエスと40%のノーが戦った結果であったりもするということです。そのようなとき、脳内には、実はイエスと答えたい様々な気持ちや、ノーと答えたい様々な気持ちがあり、それが葛藤であるわけです。

 

 作中におけるハーモニーとは、そのような葛藤がない状態のことです。人間の脳に機械的に干渉することで、あらゆる行動に対して、100%満額のイエスやノーを答えられるとき、人の内面から闘争が消失します。それはつまり、どちらを選べばいいかが分からない状態に陥る苦しみから解放されるということで、同時に、人間からある種の人間らしさが奪われることを意味すると思います。それは、それゆえ美しく、そしておぞましい光景です。

 

 そのようなハーモニーを阻害することを考えていたとき、思い当たるのが「賭博破戒録カイジ」の地下帝国に出てくる班長です。地下帝国は、借金を抱えた人々が利息を免除される代わりに、非常に低賃金で肉体労働をさせられる場所です。そして、外界から隔離されたその場所では、嗜好品がバカ高い値付けで売られています。

 カイジは、どうにかしてそこから抜け出すため、できるだけ多くの給料を貯蓄し、それを外出権に充てることで一発逆転を狙うことにしました。しかし、そこに悪魔のささやきをするのが班長です。

 

「フフ…へただなあ、カイジくん。へたっぴさ…!欲望の解放のさせ方がへた…」

 

 買い物を節制をしようとするカイジに対して、そんな妥協ではなく、ちゃんと満足を得られるものを買った方が、むしろ次の節制への励みになる、と囁くのです。班長は、その呼び水になるようなサービスまでして、カイジをまんまと歯止めがかからなくなってしまう豪遊に導きます。

 カイジの脳内では、「お金を貯めるために節制をしよう」と「美味しいものを食べ、お酒を飲みたい」という気持ちが戦っていました。それは最初節制の方に軍配が上がっていましたが、班長の囁きによってパワーバランスが変わり、豪遊に傾いてしまうわけです。

 

 これは重要な話だなと思います。つまり、人間の行動を変えることができるのは、論理的な説明や説得そのものでは、きっとないのだろうなという僕の実感と合うからです。

 ある人の行動を変えたいときには、その人が持っていない考えをゼロから植え付けても上手くいかず、その人の頭の中に、どのような欲求エージェントが既に存在しているかを把握して、それらの欲求のパワーバランスに刺激を与え、表面上に出るものを変えることが近道であるように思います。

 

 柿ピーではなく、焼き鳥とビールで豪遊したかったのは、カイジ が元々持っていた欲求です。そして、カイジ をカモとして借金で絡めとるためには、班長にとってはその豪遊をしてもらうことの方が都合がよいことでした。そこで、カイジ にそれをしてもいいだけのちょうどいい理由を与えてやるということをし、節制に豪遊が勝ちやすい状況を演出たのが、すごいことだなと思ったんですよね。

 

 ハーモニーの世界にも、ナノマシン化された班長が存在していれば、脳内の欲求エージェントを上手く調整して、あの結末を変えられたのかもしれません。今書いていて、何を言っているんだ僕は…と思いましたし、なんなんだこの文は。

 

 こういうことを思ったのは、この前、コンビニに行ってホットスナックのからあげ棒をちらっと見つつも、レジにコーヒーだけ持って行って買ったら、レジの人に「からあげ棒もどうですか?」と聞かれてしまい、ああ、見られてたかあという気持ちとともに、「からあげ棒もお願いします」と僕が笑って言ってしまったからです。

 いや、食いたかったんですよね、からあげ棒。でも、今はカロリー計算をしているので、食べるわけにはいかないなと思って我慢したんですけど、そこでレジの人に呼び水を与えられてしまったせいで、観念して欲求に従ってしまいました。

 

 そして、家に帰りながら、世の中は結構こんな感じに動いてるんじゃないかなと思ったりしました。みんな外向きに見せている態度の裏側には葛藤があって、表面に見せているものが全てではなく、それをやってもいい口実を与えられると、それをやってしまったりする気がします。

 

 ネットとかでたまに目にする「イジメられる側に原因があるわけがない」みたいな話に疑問を持つことがあって、それはつまり「原因があるならそれはイジメではない」という考えと表裏一体だと思うからです。

 イジメられた子にイジメられた原因があるということは実際はあると僕は思います。ただし、原因があったとしても責任があるとは思いません。ここでいう原因というのは、それが異なっていればイジメが発生しなかったポイントという意味です。

 

 例えば、大事な約束を破ったということが、裏切りと捉えられ、裏切った人への制裁としてイジメに発展することがあります。その約束を破りさえしなければイジメが起こらなかったと考えれば、それは原因です。でも、原因があるからといってイジメをされて当然だとは思いませんし、イジメられた責任をとる必要があるとも思いません。

 何がきっかけとなってそれが起こったかを把握するためには、そこを目を向けることそのものを避けるとよくないなと僕が思っているという話です。

 

 

 際どい話をしているので若干話がズレましたが、「原因があるものはイジメではない」というのは、イジメをする人が抱えているのを見ることがよくある感情です。そしてそれは、欲求エージェントのバランスを変える力だと思うんですよね。

 「イジメは良くない」というエージェントと、「誰かを攻撃したい」というエージェントが戦ったとき、規範意識が強ければ「イジメは良くない」が勝って、イジメには至りません。しかし、一旦「それはイジメではない」が参戦すると、パワーバランスが変わり、攻撃するということが表面に出てきてしまうんじゃないかと思います。

 こういうことを避けるためには、やっぱりどういう欲求エージェントが頭の中にあるのかということを把握して、自分の中には矛盾する欲求があり、その中のどれにどのような力を与える理屈を採用しているかということに自覚的になった方がいいと思うんですよね。

 

 小学生のときに、僕の持ち物に同級生がめちゃくちゃなラクガキをするという嫌がらせを受けたことがあるんですが、僕はそれを先生に言いつけたものの、先生がそれを見て、「それがどうしたの?」と言っただけということがありました。

 その行為は、先生によって「悪くないこと」としてお墨付きを得てしまったために、歯止めが掛からなくなり、その後もしばらく嫌がらせは続いたんですよね。結局どうしたかというと割と暴力的な解決をしたんですが、まあ、あんまり良くないなという思い出です。

 

 世の中では、自分が考える正しいことと、全く逆の行動をする人を目にしたりします。でも、それをする人たちにも、それをしていい理由がちゃんとあったりします。また、向こうからしてみれば、こちらの方が間違っているという認識かもしれません。

 だからそういうときに、相手に単純に「あなたは間違っている」なんて言っても仕方ないんだと思うんですよね。その人の中では、それをすることが正しいということで辻褄が合っているからです。

 

 そういうときに、その人の中には表面上は見えなくてもどういう欲求があって、その中のどの部分が理解できるものなのかを考えることが重要なのかなと思ったりしています。どこかの部分で共感できるなら、その部分の重要性をお互いに理解することができれば、同じ結論に至こともできるのかもしれません。

 理屈だけ言うなら簡単ですけど、実際やるのは難しそうですね。でも、相手が真逆の立場なのだから、理解することが一片たりとも不可能として、どちらかが相手を力で黙らせるしかないみたいなのは、しんどいじゃないですか。

 なので、そういう風に考えた方がいいような気がするなと思っている日記です。おしまい。

神秘体験に人間の自我は耐えられるのか?関連

 昔何かで読んだ詐欺の方法で、競馬の予想ができると主張する人物が、無作為に大量の人に予想情報を送りつけるというものがありました。しかし、それは実は、送る相手ごとに違った予想を送りつけるものなのです。そして、その中には、確率的にたまたま的中するものもあります。その的中した相手だけを対象に2回目の予想を送り、それも的中した相手には3回目の予想を送ります。そうすると、とても低い確率ですが、本当に何度も的中する競馬の予想を受け取る人が出てくるわけです。

 それを受け取った相手からすると、本当に当たる予想結果が送られてきたのだから、この人は、本当に競馬の予想を的中させる能力があるに違いないと信じたくなってしまいます。それを根拠に、今度は大きな詐欺を行うわけです。

 

 これを実際行う場合には、非常に多くの人に予想を送りつけないといけないので、ネットが発達し、情報が流通しやすい世の中では、その過程で簡単にからくりがバレてしまうかもしれません。しかし、このような神秘的な結果を見せつけられたときに、人は本当にそれに抗うことができるのか?ということを考えてしまいます。

 

 自分はインチキにはハマらないと思っている人が、まんまとこのような詐欺に引っかかってしまうような事例はあります。それはなぜなら、確固たる結果が目の前にあるからです。目の前の疑いようのない結果は、人に対して強い力を持ちます。人には、過程から帰納的に結果を得るのではなく、目の前の結果から演繹して過程を類推する能力があるからです。

 人間には、あらゆる分野における専門的知見を得ることはできません。なので、自分が専門的な知見を持っていない分野に関しては、専門的なものに対する判断を、専門的な知見以外から得るようなことをしています。

 例えば、もし嘘だった場合、明日には絶対にバレるようなことを言う人に対して、「明日には絶対バレるようなリスクのあることを、わざわざ今日言う人はいないだろう」という、リターンに対してリスクが見合わないので、「信じてもいいんじゃないか」と判断するようなことがあります。

 それは、人の言うことの真偽そのものについては全く検討をしておらず、周辺事情からの類推で、真偽を判定しているということです。

 

 道端で知らない人に渡された飲み物を飲むでしょうか?まだ蓋の開いていないペットボトルであれば、中身が危険なものに入れ替えられているリスクは低いと思って飲めるかもしれません。でも、蓋が開いていない場合でも、中身が何かしら危険なものにすり替えられたり、小さな穴が空けられていて何かが混入されている可能性はあるかもしれません。ただ、自分がその対象になる可能性は高いでしょうか?いや、無差別にそんなことをする人がいたこともあります。

 じゃあ、道端で知らない人ではなく、お店が無料で配っていたらどうでしょうか?もしそれで何かが起きた場合、営業は停止するでしょうし、オーナーや従業員の身元は分かるでしょう。そんな状況で、リスクに見合うでしょうか?そのお店が昔からずっとあれば、より信じてもいいという気持ちは高まるでしょう。

 

 しかし、ここではやはり、その中身については一切検討されていません。

 

 疑おうと思えばいくらでも疑える世界の中で、全てを知ることもできない身の上で、それでも人は、色んなリスクを判断しなければならないのです。詐欺師につけ込まれる隙もそこにあります。

 

 僕が思うのは、「自分は疑り深いので詐欺には引っかからない」という気持ちを、どれほど自信を持って言えるかということです。ちなみに僕は比較的疑り深い人間だと思います。例えば、学生のときに友達と旅行に行ったときに温泉に入って、脱衣所で他の皆が財布を盗まれたのに、僕だけ盗まれなかったということがありました。なぜなら、僕は疑っていたからです。誰かに盗まれる可能性があるということをです。

 その温泉には、鍵のかかるロッカーがなかったのですが、僕は「こんなの誰でも盗めるじゃん」と思ったので警戒して簡易的な対処をしていました。僕がやったことは、ズボンから財布を抜いて、タオルに包んで奥に入れておいただけのことです。ただこうすると、盗人がいたとしてもごそごそとあさらないと財布は見つからないので、短時間で盗むことが難しくなります。それが見事有効に機能した事例です。

 

 とにかく常に疑っています。一人で喫茶店やファミレスに長居するときも、トイレに立つときには絶対に貴重品を手放しません。盗まれるリスクがあるからです。前に、人がタッパーで持ってきてくれた食べ物を、まず匂いを嗅いでしまい、すげえ怒られたこともありました。何か変なものを持ってきたとでも思ったか?という怒られ方です。でも、これは自分の中では無意識にやってしまうことで、食べるものについては、本当に食べてもいいものなのかを絶対に疑ってしまうんです。それ子供の頃に、山でその辺に生えているものを食っていた経験も関係しているかもしれません。

 目の前にある食べ物が安心して食べられるものであるかの確証がない世界で生まれ育ったということです。

 

 とにかく疑ってしまう僕は、何の条件が満たされていれば信じてもいいのか?ということにすごく注目しています。インターネットで投稿された体験談も、こんなのどうとでも捏造で書けるじゃないかと疑ってしまいますし、完全な嘘でなくとも、書いた人の主観でいくらでもゆがめられるものだと思ってしまいます。

 コミティアで出版社の人から名刺を貰ったとしても、名刺なんていくらでも勝手に作れるので、本当に出版社の人かどうかを警戒したりします。その後、出版社のドメインから来るメールを、アドレス偽装がされていないかも確認して、やり取りが成立した上で、ようやく信じてもいいかなという気持ちになります。

 

 そんなふうに全てを疑い続けると、何も信じられるものがなくなるので、一歩の動けなくなります。なので、もし嘘だった場合に生じるリスクを考え、最悪騙されてても問題ないなと思うものに対しては、それ以上疑うことをやめたりもします(生活の知恵)。

 

 とにかく疑り深い僕ですが、それでも、いや、だからこそ、自分が神秘体験的なものに直面したときのことを考えると怖くなるんですよね。それを本当に疑うことができるのか?ということをです。もしかすると、そこに意味を見出し、信じられる理由を考えてしまうかもしれません。普段警戒しているからこそ、そこに無防備にさらされる自分を想像すると、恐ろしくなってしまいます。

 

 例えば、世界中の人が参加するトーナメントのジャンケン大会が開催された場合、そこでは1人だけ、一回も負けずに勝ち続けた人が生まれることになります。これは当たり前のことですが、同時にとても奇妙な体験かもしれません。なぜなら、その勝者には、「なぜか33回程度連続でジャンケンに勝ててしまった」という体験が付随するからです。

 例えばすごい動体視力があるだとか、心理戦に長けているだとか、機械が瞬間的に判断した情報を教えてくれるイカサマだとかであれば説明がつきます。正気でいられます。しかし、ただ何も考えずにジャンケンをしたのに、延々勝ててしまうとき、それは確実に起こり得ることですが、自分が体験として考えると、同時にあり得ないことだとも思ってしまうでしょう。

 

 例えば、周りの人間が結託して、僕を勝たせようと画策していると疑うかもしれません。あるいは、それを何かの神秘体験として、神の存在を信じ始めてしまうかもしれません。

 おそらく五回、十回と勝ちを重ねていくにつれて、手足が震えてくると思います。そして、そこからさらに一回一回繰り返すたびに、なぜかずっと勝ててしまうということに説明がつかなさ過ぎて、頭が変になってしまうかもしれません。

 でも面白いのは、この体験は1人に対しては絶対にあることだということです。80億人の人がいれば、80億人分の勝ち負けがあります。それぞれの意味は確率的に等価ですが、人間は全勝に対して強い意味を見出してしまいます。そこで見出した意味が、個人で抱えきれる以上に大きかったとき、自分はいったいどうなってしまうのでしょうか?

 

 僕はその神秘的な体験によって、それまで持っていた自我を崩壊させてしまうかもしれません。

 

 これよりずっと小規模ではありますが、似たような事例が昔ありました。僕が大学生のときの、学科内の研究室配属を決める集まりでの話です。今では成績順に選ぶ権利が付与される仕組みだと聞いたことがありますが、当時は、完全に自由に希望を書いて、割当人数を超過した場合にはジャンケンで決めていました。

 僕は当時そんなに人気があったわけでもない研究室を最初に選んだのですんなり決まりましたが、別のところでは、盛大なジャンケン大会が開催されていました。

 

 つまりそこに1人、ジャンケンに負け続けた人がいたわけです。第一希望のジャンケンに負けて、第二希望でも負け、何回負けたのかは分かりませんが、最後まで負けて、残っていた一番不人気の研究室への配属が決定していました。そして、彼はその場で泣きわめいてしまいました。

 だって、きっと説明がつかないわけでしょう。自分のこれからの人生を決定づけるかもしれない場において、普段なら勝ったり負けたりするジャンケンにおいて、何回ジャンケンをしても負け続けてしまうという事実にです。彼はそれを受け止めきれなかったからこそ、泣いてしまったんだろうなと思いました。めちゃくちゃ可哀想だなと思いました。

 これが後に成績順になったのは、まあ良かったなというか、分かりやすい説明がつくと人間には合理的な納得が発生して、精神がズタボロにされにくくなると思うからです(副作用としては、成績の良い学生が人気の研究室に集中してしまいそうですが…)。

 

 こういうことを考えていると、自分が知っている科学的知見においてあり得ないと感じるものを、目の前で見てしまったときに、人はどうなるんだろうと思ってしまうことがあります。これは悪いことの話とも限らなくて、例えば、光が波と粒子の両方の性質を持つという科学的認識に対しても、最初は科学的に信じられないと捉えてしまった人が多かったのかもしれません。でも、目の前の実験の結果はどうしてもそれを指し示してしているとき、そのときに起こることは「科学的知見の方が書き換えられる」ということです。

 仮にその目の前の結果がインチキによるものだったとしても、個人レベルでは同じことが起こってしまうかもしれません。自分がそれを疑って疑って、疑いきってもインチキだと指摘できなかったときに、それを受け入れてしまう瞬間があるのではないかという想像です。良いとか悪いとかを抜きにして、人がそうなってしまう瞬間の精神状態は、スゴいだろうなと思います。

 

 ジャンケンの例え話では、実際に1件確実に起こることで、それは科学的に疑いようもないものであるからこそ、人間の疑い抗う力が無効化されてしまうという怖さがあります。そして、そこに意味を見出さずにいられるほどに人間の自我が強くないことから起こるエラーみたいな感じでやばそうだなあというか、このような種類の神秘的な体験(と解釈しうるもの)に自分が接してしまったときのことを考えてしまうんですよね。

 

 シャーロックホームズも言っていました。「あり得ないことを除外して、残ったものがどれだけ奇妙に見えても、それが真実である」と。

 「岸和田博士の科学的愛情」のあるエピソードでは、これを効果的に使います。密室殺人を解決するためにやってきた岸和田博士が、様々な検証の結果、どのような方法でも被害者を殺害することは不可能であるという結論に達し、だから、奇妙に見える真実として「この被害者は生きている」と主張しました。頭に斧が刺さり、首を絞められて毒を飲まされていても、彼を殺す手段がことごとく不可能である以上は、彼は生きているというのです。

 これはギャグでしたが、色々な示唆も含んでいると思っていて、つまり、その人が「何を疑い続けることができるか?」ということが、結果的に「何を真実として捉えるか」ということと密接に繋がっていて、そこから任意の「奇妙に見える真実」を得ることができるということなんですね。

 そして、疑うことができないときに人間は弱い。

 

 人間は面白いですね。そして怖い。

昔のゲームが今も遊べて欲しいけど、実際はそんなに遊ばない関連

 PS3やPS VITA、PSPのゲームストアが近々サービス終了するとの報せがあり、残念だなという気持ちと、仕方ないよなという気持ちがあります。

 

 特に近年、新作ゲームを遊ぶ時間を確保するだけで手一杯で、家に既にたくさんあるゲームを久々に遊ぶかと手に取ることもあまりなく、ちょっと手に取ったところで、数時間遊べば満足してしまったりします。

 結局のところ、昔のゲームを今遊ぶことがあまりありません。でも、一方で、ずっと遊べる環境が存在して欲しいというワガママな気持ちがあります。だって、いざあれを久々に遊びたいと思ったときに、遊べる環境が存在しないということにショックを受けてしまうからです。

 だから遊べてくれ!!と思ったりしますが、その環境を維持するのもタダじゃないんですよね。

 

 何かが手に入る状態を、常に維持してもらうということにはコストがかかります。実店舗では、店の一角を占有するわけですし、デジタル販売のサーバでも、長期間維持すること費用はゼロではないわけです。でも、いつでも買える状態を維持することそれ自体には、人はお金を払わないじゃないですか。お金を払うのは買ったときです。それがいつになるかは分かりません。

 いつ買うかも分からないお客さんのために、ずっと買える環境を維持できるかは、全体の売り上げの中から、それを十分にまかなえる状態であることが必要です。そして、それは古いものに対しては段々とできなくなっていきますよね。だから仕方がないなと思います。

 そういうものです。

 

 今回のことによって、PSのゲームアーカイブスを遊べる環境がなくなっていくことになりました。もしかすると、そのうちPS5が対応してくれるのかもしれませんが、少なくとも今のところ、その計画があるとは聞いていません。

 そして、このような昔のゲームを電子配信の単品販売で安く買えるというビジネスは、結局あまり上手くいかなかったんだなと思いました。

 

 理由は大きく3つだと思います。

  • 結局昔のゲームを今の人はたくさんは遊ばない
  • 単価が安くて薄利なので多売しなければならない
  • 売る以上は事前テストにそれなりのコストはかかる

 

 いや、コストが見合わないという意味では、理由は結局1つなのかもしれません。ともあれ、これらを解決する方法は、既にいくつも提案されていて、そちらの方は上手く行っていたりもします。

 一つは抱き合わせ販売です。メーカー単位などで、なんとかコレクションと銘打ち、十本以上の抱き合わせ販売にして、フルプライスで売れば、薄利多売を避けることができるので、上手くいく可能性が上がります。

 そこに専用のハードウェアをつける商売も盛り上がりました。遊ばないゲームも抱き合わせで買わせて、単価を高くすることができれば上手くいく可能性があがります。専用ハードウェアは、ずっとサービスを維持するわけではなく、ハードウェアの生産を終了すれば、一区切りつけられるという意味でも、採算性を考えやすい商売だったのかもしれません。

 

 もう一つは、リマスターです。現代のゲーム機で快適に遊べるように手を加えたゲームを、そこそこの値段で売ることができれば、こちらも薄利多売を回避することができます。実際、リマスター版の方が、いろいろ行き届いた遊びやすさへの配慮があったりして、快適に遊べるので助かります。昔のゲームを昔のままに遊ぶのはやっぱりしんどいのではないかと思ってしまったりします。

 

 そして最後が、サブスク化です。月々の料金を得ることができれば、ペイできる可能性が上がります。任天堂が、ファミコンスーパーファミコンでこれをやっています。任天堂のやりかたの上手い点は、昔のゲームをやるための月額課金ではなく、ネットワークサービスのひとつとして、これもまた抱き合わせしているところでしょう。

 その点でも、結局昔のゲームを遊びたいだけのために、月額課金のサービスに加入する人は少数だろうなという想像があります。

 

 ゲームは、それが動くハードウェアとセットでなければ遊べません。そして、ハードウェアが更新されていく以上、ゲームはどんどん遊べなくなるはずです。とはいえ、独自に昔のゲームが動くハードウェアを作っている会社もありますし、パソコン上で吸い出したROMを遊べるエミュレータもあるので、非合法なものを含めれば、それによって遊べる環境としてはどこかで維持されていくのかもしれません。

 

 でも、やっぱり不安になります。3DS立体視のように、特徴的なハードウェアのあるゲームは、未来には遊べなくなっているかもしれないとか、ディスクのゲームは残っても、ネットワークで配信されたパッチはサービス終了とともに手に入らなくなるのでは?とかもあるじゃないですか。既に、携帯電話で動いていたゲームはもう遊べる環境がなかったり、サーバとの連携が必要なモバイルゲームは、サービス終了したら、もう人の記憶やプレイ動画の中にしか存在しなくなっているかもしれません。

 そう考えると、永遠に遊べる環境なんてないのかもしれないなと不安になります。なっても仕方がないんですが、百年後の人たちは、僕が今遊べるゲームをもう遊べないのでは??と思ったりしてしまいます。

 

 結局、商売として成り立つものであれば、自然と色んな方法で遊べる環境は維持されていくのでしょう。百年後でもFF7とかはまだ遊べそうじゃないですか?でも、ドラクエ9すれちがい通信とかは難しそうですね。大掛かりなアーケードゲームもそうです。

 そして、商売として成り立たないものは、どこかの誰かが頑張って維持しようとしなければ消えていくのだと思います。

 きっとこの先も色んなゲームが遊べる環境が失われていくんだと思いますが、でも、昔のゲーム遊んでないじゃんって言われたら、遊んでないな!と思うので、そこで辻褄が合っちゃうんですよね。結局、そんなに遊ばないわけですよ。

 

 でも、遊べる環境が、自分にとって低コストで維持できるうちは維持したいので、PSPのゲームとかゲームアーカイブスとかはストアの終了前にいくつか買っておきたいですね。

 あとは文化事業として、どこかの誰かが頑張って環境の維持をしておいてくれ!という無責任な願いだけがあります。

綾波レイとしろがねと、他者とのつながりとしての笑顔関連

 「シンエヴァンゲリオン劇場版」のネタバレと、「からくりサーカス」のネタバレが含まれているのでご注意。

 

 「からくりサーカス」のしろがねは、綾波レイの影響を受けているキャラクターなのではないかと思っているのですが(特に証拠はなく、僕が勝手に共通点を見いだして思っているだけです!)、2人には、似ているところとか違うところとかがあるなと思ったので、その辺の話をします。

 

 綾波レイは、無垢な少女だと思います。それは別に良い意味として言っているわけではなく、普通の人ならば持っているものを、持たないままに生きている少女という意味です。普通の人は、他人に向かい合う界面の数だけの自分を持っています。例えば、親に接するときと、先生に接するとき、友達に接するときには違う自分を作るはずです。しかし、綾波レイは、それがとても少ない人です。

 それは言うなれば小さい子供に近いかもしれません。他者と接するときに、自分の行動がどのように他人に影響を与え、他人の行動が自分にどのように影響を与えるかを、あまり意識することがなく生きています。

 

 ここにはひょっとすると、彼女を作り出した碇ゲンドウの意志が介在しているのかもしれません。なぜなら、テレビ版で最初に生まれた綾波レイには、幼いながらにして、他人にその人が嫌だと思っていることを、あえて伝えるような意地悪な人格があったからです。

 

 2番目の綾波レイは他人に対してどのように接すればいいのかをまだ知りません。だから、それをひとつひとつ学んでいきます。でも、それは実際に他人と関わらなければ学べないことです。

 そして、彼女は学校で孤立しており、所属するネルフでも、パイロットとしての役割が大きく同年代の人間との接触が乏しい状況です。だから、彼女には他人に接するときの自己を学ぶ機会がなかなか訪れません。

 

 だから、彼女は碇シンジと出会い、そこを中心にアスカや他の同級生たちとの接点を持つことで変わっていくのだと思います。他人と接するという、人が当たり前にやることを、彼女はゆっくりと知っていきます。

 

 一方で、しろがねは笑い方を忘れた女です。彼女の本名はエレオノールと言います。エレオノールは、ある男にかけられた呪いによって、自分は笑い方を忘れたかわいそうなお人形であると思い込まされてきました。

 そしてそこには、彼女に、ある2人の女性の記憶が混ざっていることも影響しました。一人はフランシーヌ、貧乏で不幸な身の上でありながら明るい笑顔で生きた女性です。そして、もう一人がフランシーヌ人形、フランシーヌをモデルにした自動人形です。そして、その2人の顔はしろがねにそっくりなのです。

 

 錬金術師の白銀(バイイン)と恋仲になったフランシーヌは、直後、白銀の弟である白金(バイジン)に攫われてしまいます。なぜならば、白金は白銀よりも先にフランシーヌのことを好きだったからです。だから、兄とフランシーヌが結婚することを許せなかったのです。

 攫われた先での生活では、フランシーヌはかつてのような笑顔を失ってしまいました。それは、白金が自身の欲望のためにさらったはずのフランシーヌと接することを、その目で見られることを怖がってしまったからともリンクしているかもしれません。彼女はその笑顔を、他者への表現手段として持つ意味を失ってしまったということです。

 フランシーヌが亡くなったあと、白金は、その代替物としてフランシーヌ人形を作ります。しかし、フランシーヌ人形は笑えません。人ではないからです。笑顔の意味を知らないからです。

 

 からくりサーカスは笑顔を巡る物語です。笑えない女だったしろがねが笑顔を手に入れる物語です。笑顔を失ったフランシーヌが、死の間際にとびきりの笑顔を取り戻す物語です。人ではなく笑顔の意味を知らなかったフランシーヌ人形が、最期に笑顔を獲得する物語です。

 

「笑えばいいと思うよ」

 

 碇シンジは、感情表現が分からないと言う綾波レイにそう伝えました。それはまさに、他人と接すると言うことに対して自覚的になったレイの、歩み出しの場面でしょう。それを伝えるのが、他人と接することを怖がっていたシンジであることにも意味があると思います。

 

 綾波レイもしろがねも、笑えない女です。綾波レイは笑顔を知らず、しろがねは笑い方を忘れていました。ただ、綾波レイが近いのはフランシーヌ人形の方かもしれません。2人とも、その後、笑顔を知っていくからです。

 

 シンエヴァンゲリオン劇場版では、綾波レイのコピーの一人である少女、「そっくりさん」が、農村の生活の中で、共同生活を初めて知っていく場面があります。そして、人がどのように生まれ育っていくのかを学びます。

 これは、他の自動人形たちとともに笑うことを模索し続けることに疲れたフランシーヌ人形が、日本の黒賀村にやってきたときの光景と共通する部分があります。

 

 自分を捨てた造物主(白金)に求められた、「笑う」という願いを果たすために、世界に災厄をばらまく一助を担ってしまったフランシーヌ人形が、ここで初めて人間と接することになります。人間と接して、コミュニケーションを学んでいきます。そして、後にしろがねとなる少女、エレオノールが生まれる場面に立ち合い、人が生まれること、生きて行くこと、その意味を知りました。

 フランシーヌ人形は、黒賀村で死ぬ直前、最初で最後の笑顔を見せます。それは、エレオノールを、泣く赤ちゃんをあやすために生まれた笑顔です。

 フランシーヌ人形は、最期の最期で笑顔の意味を知りました。それは他人に向けられるものとしての笑顔した。フランシーヌ人形が知ったのは、人間と人間のコミュニケーションでしょう。だから、それまでのフランシーヌ人形は笑えなかったのです。誰も人間がいない場所では、それを学ぶすべがなかったからです。

 

 無人島で一人で暮らすのでもなければ、人はコミュニケーションから完全に逃げることはできません。そして悲しいことに、対人コミュニケーションは嬉しいことばかりではありません。

 他人の目に自分がどう映るかを意識することで、どのように映るかを想定した振る舞いに縛られてしまうこともあります。その他人の目に映って欲しい自分の姿が、それ以外の自分と大きく乖離している場合、コミュニケーションは苦痛の連続と感じてしまうかもしれません。

 それでも、ほとんどの人は、人の中で生きて行くしかないのです。

 

 からくりサーカスでは、人が他人と接する中で笑顔を獲得していく素晴らしさが描かれ、一方で、誰とも上手くコミュニケーションをとれなかった全ての元凶の白金が、ついに他人に向き合うまでの姿が描かれています。

 エヴァンゲリオンの旧劇場版では、人と人との傷つく可能性のある界面が失われ、融和した世界を拒絶しながらも、それでもやはり、他人と接することは苦しいという吐露が描かれました。そして、シンエヴァンゲリオン劇場版では、それらを乗り越え、やはり人の中で生きて行くしかないことを背中を押すように描いているように感じました。

 

 からくりサーカスエヴァンゲリオンという2つの作品が影響を受け合っているのか自体は分かりません。しかし、取り組んでいるのは同じ問題なんじゃないかと僕は思いました。人と人とのコミュニケーションの話です。

 そこで、同じ問題に別のアプローチで取り組む様子がそれぞれの作品に現れていて、それが作家性的な部分なのかなと思いました。

 

 なんでこういうことを考えたかというと、シンエヴァの序盤の村のシーンを見ながら、黒賀村のフランシーヌ人形やなーと思ったのがきっかけであるのですが、もうひとつ、新劇場版Qとシンエヴァ劇場版の間に、からくりサーカスがアニメ化されていて、そこでフランシーヌ人形の声を演じているのが林原めぐみだからです。

 

 しろがねやフランシーヌ人形の林原めぐみの演技には、綾波レイを経たものが反映されているかもしれません。そして、そっくりさん(仮称アヤナミレイ)の演技にはフランシーヌ人形を経たものが反映されているんじゃないかとも思ったんですよね。

 そう思えば、さらばと言われた「すべてのエヴァンゲリオン」の中には、エヴァンゲリオンだけでなく、エヴァンゲリオンと関係のある、他の作品も含められているという解釈も可能です。

 エヴァンゲリオンを作品単体でなく、社会現象として捉えるということです。

 

 これは別に正しいと思って書いた文ではありませんが、そのような仮定を置いて考えてみたときに、なんとなくそれっぽく思えたりするのがなんだか面白いですね。