漫画皇国

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三宅乱丈の「ペット」と自分の中の自他の区別に悩む関連

 三宅乱丈のペットがアニメ化されて、毎週楽しみに観ています。

 ペットはめちゃくちゃ面白い漫画なんですけど、これがどのような漫画であるのかについてある程度読み進めないと理解が難しいところはあると思っていて、分かってからまた最初から読み返せば最初からさらにめちゃくちゃ面白いので、アニメで初見の人たちもとにかくとっかかりの理解を得るまで観てくれという気持ちがあり、そして、とにかく最後まで観てくれという気持ちでいます。

 

 ペットは精神感応能力を持つ人々を主軸にした物語です。彼らは生まれながらに他人の精神に感応し過ぎるために、自分の人格を保つことができませんでした。つまり、自分の頭の中にあるものが自分の記憶か他人の記憶か分からないために、自我を確立することができなかったのです。そんな中で、記憶を整理する方法を自力で編み出した男がいました。彼は自分が編み出したその方法を他の人にも分け与えるようになります。

 

 彼が編み出した方法とは記憶を良い記憶「ヤマ」と悪い記憶「タニ」に分けて整理し、人が忌避するタニの記憶で大切なヤマの記憶を囲むように守ることで、自分の記憶が他人と混ざりにくいようにするというやり方でした。これにより彼らはついに自我を持ちえるようになり、その特異な精神感応の能力から、他人の記憶を改竄することを仕事とするようになります。

 

 彼らはヤマを分け与えてくれた人のことをヤマ親と呼び、慕うようになります。なぜなら、彼らにとって自分の一番大切な記憶は、ヤマ親から分け与えられたものだからです。そして、それなしでは自我を保つことができず、自他の曖昧な世界でしか生きられなかった自分を想像してしまうからです。だから、彼らのとってヤマ親とはかけがえのないとてもとても大切な存在で、そのヤマ親に強い思慕を向ける姿は、周囲から「ペット」と揶揄されるようになりました。

 そして、彼らはペットであるために、その絆を利用されて、会社に従わざるを得ないことになります。これはそんな悲しく苦しい物語でもあります。

 

 さて、この物語は特殊能力者の物語ですが、個人的にはとても分かるところがあります。それは、普通の人間だって少なからず他人に感応して生きていると思うからです。他人のことは分かりませんが、少なくとも僕は人と会うことで、その人と同じ気持ちになりやすくなります。悲しい気持ちを抱えた人と話していると自分も悲しくなりますし、楽しい気持ちを抱えた人と話していると自分も楽しくなってきます。

 

 人は自分の記憶と他人の記憶を本当に明確に区別できるものでしょうか?例えば、他人の怒りや悲しみを自分の中に取り込んで生きていたりはしないでしょうか?自分の考えだと思って口に出した言葉が、実は誰かから聞いたものを反復しているだけだったりはしないでしょうか?自分とは本当に自分でしょうか?

 

 この物語は、そんな実は誰にでもある性質を能力として強調することで描いているのではないでしょうか?

 

 ヤマをタニで囲むことを、彼らは「鍵」と呼びます。鍵を強くかければ、他人に感応する能力は抑えられ、より普通の人間に近くなります。しかしながらそれは、一方で自分の能力を抑制する結果にもなります。

 ヒロキはタニの記憶を嫌がり、鍵のかけ方が緩いために感応の力は強くなります。だから、他のペットたちよりも早く感応することができますし、精神世界では自由自在に動き回ることができます。その代償として、周囲の他人の精神に影響を受けやすく、とても不安定な精神性を抱えてしまうことになりました。

 一方、司は鍵を強くかけすぎた男です。彼は他のペットにおいそれと感応されない強さを持つ一方で、他人に感応しようとする場合もその制限を受けてゆっくりになってしまいます。そして、その他者との感応を拒否する精神性は、周囲の他人とのバランスをとることが難しくなり、独自化し孤立し、行き詰った思考に向かいがちになっているように思いました。普通の人だって、周囲の人の影響は受けて生きているのに、司はそれすら拒否しているように思えたからです。だからこそ、周囲の人間は彼のことを助けることは難しい。鍵の強さは孤立の強さだからです。

 悟はもっともバランスがよい存在です。でも、彼とてヤマ親に見つけ出されなければ、自我のないままに日々過ごしていたことは同じです。そのヤマ親と離れて暮らすことの喪失は悟にとってもやっぱり強いストレスで、それをなんとか誤魔化しながら生きていました。

 

 そして、メイリンです。メイリンは「ベビー」とも呼ばれ、鍵を作る前にヤマ親から引きはがされた少女です。だから彼女は、いまだ自我を確立することはできません。彼女の頭の中に流れ込んでくるのは、膨大な他者の記憶で、そして、人殺しに利用されるメイリンの能力は、仕事を重ねるたびに他人の中の陰惨なタニの風景を彼女にもたらします。

 自分自身の意志を持つことを否定され、他人の記憶に無防備にさらされ続け、道具として利用されるしかない存在です。それは、ひょっとすると司や悟、そしてヒロキも陥ってしまったかもしれない恐ろしい可能性です。

 

 鍵をかけること、つまり自我を保つことは人間として最低限必要な尊厳でしょう?他人の意志を再生するためだけの道具にされることはあまりにも残酷ではないですか。でも、考えてみてください。自分が何かを判断し発言し行動すること、それは本当にあなた自身の自我から来たものでしょうか?もしかしたら、誰かが望むように自分の意志を出す暇もなく、ただ、それを再生させられている、そんな可能性はないでしょうか?それに気づいてしまうことはないでしょうか?

 誰かを喜ばせるために、誰かに怒られないように、何かを当たり前だと思わされて、人は自分以外の人間の意志を再生するためだけの部品のようになってしまうことがあるのではないでしょうか?

 

 三宅乱丈はその後「イムリ」でも、類似することを繰り返し描いています。人にとって一番残酷なことはその人から選択肢を奪うことです。そうですよ。誰かの考えたことを再生する装置としてしか生きられないことは、とても悲しいじゃないですか。

 

 そして、世の中にも似たようなことは実際にありますよね?

 作中の催眠術や精神感応ほどではなくとも、ある場所で当たり前とされていることが、その場所以外では全く間違っていたとしても、当たり前として受け入れざるを得ないことがあります。どんなに間違っていると思っても、百人のうちの九十九人が当たり前にやっていることを、自分だけは拒否すると毅然と言うことはとても難しい。そんなとき、間違っているとは思っても、仕方なく同じことをしてしまったりはしないでしょうか?そういうものだ。ここでは正しい。逆らっても意味がない。そんな風に言い訳をしながら、やってしまうことがあります。

 それはある種の精神感応をかけられているということなのではないでしょうか?価値観をハックされ、誰かの思った通りに動かされていると言えるからです。

 

 ペットの物語では、他者に強く共鳴してしまうことの危うさと同時に、他者と共鳴することを拒否して思いつめてしまうことの危うさも描かれています。そして、他者に共鳴すること以外を求められないことの残酷さが描かれています。

 それらは果たして他人事でしょうか?

 

 僕は誰に近いかというと司に近いと思うので、鍵を緩めて他人に適度に感応して、周囲と上手くやっていかなければ、どこかの袋小路に入ってしまいやすそうな危うさを自分自身に感じます。そういうところもあって、アニメで改めて司を見るとき、原作で結末まで全て分かっているにも関わらず、その危うさに他人事ではない心配を感じながら観てしまっています。

 良い漫画で良いアニメですよ。よかったですね。

コミティア131にでます情報

 新しい同人誌を作ったのでコミティア 131にでます。以下、情報です。

  • 日時:2020/2/9(日) 11:00-16:00
  • 場所:東京ビッグサイト
  • スペース番号:き03b
  • サークル名:七妖会

 11月のコミティアで一般参加で本を買いに行ったときに、「次はラブコメを描こうと思ってるんですよ」と人に言ってしまったので、そうだなラブコメを描くか、と思って描こうとしたのですが、どうにも自分に人生にラブコメ要素が無さすぎたので、開始数ページで頓挫してしまい、こいつ、どうしてもラブコメに行かないつもりだなという主人公を、どうにか様々な人を配置してみて、自然とそっちに持っていかせようとして、でもそうならないみたいな格闘をした結果、なんとか話を終わらせることに成功しました。しかし、これが他の人が読んで面白いのかどうかは僕には分からないので、読んで確かめてみてください。

 以下は途中までのお試し版です。

 

【お試し版】少年対組織暴力www.pixiv.net

 

 タイトルの「少年対組織暴力」は、梅宮辰夫氏の訃報を聞いたあとぐらいに、「県警対組織暴力」をまた見ていてなんとなく決めたんですが、タイトルが決まったおかげで、タイトルに合わせる形でお話を収束させる力を出せたので、まあよかったです。タイトルは最初に適当に決めておくと助かるなあと思いました。

 

mgkkk.hatenablog.com

 

 この文でも描いたんですけど、自分だけの価値観でお話を作って、それが本になるのはめちゃくちゃ楽しいので、もう既によかったなあという気持ちになっています。

 

 ここのところ、もう気が狂ったように仕事があり、体力的にもギリギリでやっているので、全く人と会うようなことをできる余力がなくて、年が明けてから仕事関係の人以外とは全く合っていない状態で(いや、年始に実家にいたのはありますが)、コミティアでようやく人前に出てくるなあと思いますので、年に数えるほどしか人のいるところに出てきませんが、よかったら来てみてください。

 使ってない対人能力が死んでるかもしれませんが、捻り出す気持ちもあります。

 

 よろしくおねがいします。

同人誌を作ると自分の形が分かって便利関連

 しばらく前にインターネットを見てたら、「コミケに出ることは自分が特別な存在でないことを知ること」みたいな話が流れてきていて、これはつまり、世の中にはすごい人が山ほどいて、自分はすごくないってことを知らされるって話だろうなと思いました。

 

 でも、僕は自分のサークルではコミティア文学フリマしか出たことないですけど、出るたびに自分は特別な存在だな!!!という気持ちになっているので、同人誌即売会に出ることは自己肯定のためにめっちゃいいなという話をしようと思います。

 

 同人誌即売会の何がいいかって、参加するためにあたって本が発生することです。発生するというか、自然に発生するわけじゃなくて、自分が頑張って作っているんですけど、本ができあがったのを見たときがとにかくめちゃくちゃ感動的なんですよ。

 同人誌を作るためには、生活の中からそこそこの時間をつぎ込んでるわけじゃないですか。それまで液晶の画面でしか見ていなかったものが、その労力の果てに紙に印刷された本という物理的な存在になって目の前にあるということ、これがマジですごいんですよね。

 初めて自分で同人誌を作って、初めて文学フリマに出たときに、自分が作ったものが本になったことにめちゃくちゃ感激してしまって、すぐに2冊目を作りました。そこから、ひょっとして自分は漫画も描けるんじゃないかな?という気持ちになったので、三十代半ばの中年が急に漫画の同人誌を作り始めたりして、今もやっているわけです。

 

 同人誌の何がいいかというと、それはその中に自分そのものがみっしり詰まっているものだということです。

 

 同人誌は誰に頼まれるでもなく、全て自分で考えて自分で描いて自分でOKを出しているので、作った本は隅から隅まで自分の価値観で満たされています。例えば、世の中にどれだけ素晴らしい漫画があったとしても、それはたまたま自分に合ったというだけで、自分のために描かれたわけではないですよね?

 でも、同人誌は自分のために描くことができます。そんな特別な本を物理的に存在させることができるの、めちゃくちゃ助かる行為だなーと思ってしまいます。

 

 他人に「あなたはどんな人ですか?」と聞かれたときに、どう答えるでしょうか?○○という音楽が好きとか、××という漫画が好きとか、どういう会社に勤めているとか、配偶者が誰であるとか、色んな言い方をすることができますけど、そういうのって、自分の話をする目的なのに、結果的に自分じゃないものの話をする行為じゃないですか。それって不思議ですよね。

 「もち食感ロール」みたいじゃないですか。もち食感ロール、美味しいのに、名前はもちの話です。もちというすごいものがあって、それに似ているということを名前にしてしまっている以上、こんなに美味しいのに、もちの価値に寄りかかっている雰囲気が出てしまいます。

 同人誌を作ることとは、もち食感ロールから「もち」という言葉を取り除く行為なんじゃないかなと思うということです。そうすることでこれまでも、実は本当は、もち食感ロールにちゃんとあったのに見えにくくなっていた価値が明確に見えるようになると思っていて、だから同人誌を作ると便利じゃないかなと思うんですよね。

 自分がどういう形をしているかを、自分以外の要素で輪郭を縁取ることで表現することではなく、そのものを直接的に実体化させる行為が同人誌なんじゃないかなと思うということです(ただし、二次創作だともうちょっと違う文脈もあると思いますが)。

 

 自分が他の誰かと比べて似ているとか秀でているかどうかなどではなく、自分が他人と比較せずともどのような形をしているかを具体化する行為が同人誌を作る行為なんじゃないかなと僕は思っています。なので、僕は自分が作った本が増えるたびに、自分の形をはっきりさせるものがまた増えたと感じてとても嬉しくなります。

 これって自分が誰にも似ておらず特別であることを確認する行為じゃないですか??他の誰かとの比較を利用せずとも、自分がどのようなユニークな形をした人間であるのかを示し、本という形でくっきりさせることができる行為だからです。

 

 創作活動には、そういう便利な面があると思うんですよね。

 

 こういう創作活動は、別に同人誌即売会に出なくても出来ると言えばそうです。でも、人間は〆切が決まっていないとなかなか動けないとかありますし、この日までに入稿しなければならないという気持ちが、いつまで経っても完成しないかもしれない漫画を無理矢理にでも完成に持って行ける力があります。

 そうやって、即売会の朝に、印刷所に会場搬入をしてもらったものを確認すると、前述のようにめちゃくちゃ満たされた気持ちになりますし、自分そのもののようなものが物質になったぞ!!とはしゃいでしまうので、同人誌即売会に参加するのは、その時点で勝利なんですよ。そのポイントは本を完成させることです。

 

 そこから先のことはオマケみたいなものです。僕は本ができた時点で勝利なので、仮に1冊も売れなくても堂々とやりきったぞ!という気持ちでいられると思います。とはいえ、在庫を家に大量に抱えるのも困るので、全く売れなければ刷る部数は減るかもしれませんが。

 

 逆を言うと、他人にウケたいという気持ちだけを抱えて同人誌を作り、売りに行くと、心に傷を抱えてしまうかもしれません。それは結局のところ他人を使って自分をかたどる行為になってしまうからです。他人を使って自分の形を把握しようとしているのに、他人がちっとも来てくれなければ、どんどん自分の形が不定形になってしまいます。自分の形が分からなければ、それは不安なのではないでしょうか?

 別にそれで飯を食うつもりがあるわけでもないなら、好きな物を作ればいいと思うんですよね。そうすれば、その行為そのものに満足感が得られると思うからです。

 

 さて、2月9日(日)に開催されるコミティア131に参加します。今頑張って漫画を描いているので、細かいことはまた告知します。

「龍が如く7」の会社経営ゲームをやってて感じたこと関連

 龍が如く7が出ましたね!

 ここのところ仕事も立て込んでいるくせに同人誌も作っていて、ゲームをやっていられる場合じゃないのですが、なぜだかもう30時間近く遊んでいて、いったいどこにそんな時間が?自分はいったい何を犠牲にして?という疑問が湧いてきますし、順調に仕事も同人誌の進捗も悪く、睡眠時間も削れています。ゲームは体に悪い可能性があります。でも、面白いんだ…。

 

 さて、今回の龍が如く7は従来のアクションゲームからRPGへの大胆な方向転換をしたゲームです。ではありますが、いつものようにミニゲーム集でもあり、街から街へと旅をすることがない代わりに、街の中にある様々な場所に、様々な人がいて、そこに様々な遊びが存在しています。

 

 その中のひとつに会社経営ゲームがあります。

 

 これは潰れかけた煎餅屋さんを立て直すために主人公の春日一番が社長に就任し、経営を立て直すと同時に、新たな物件も買収し、人を雇って割り当てて、お金を儲けていくゲームです。このゲームは、中間目標を達成してひと段落するまで辞めどきがなく、また、役員報酬によってお金を儲けやすいゲームなので、優先的に進めています。

 そして、このゲーム、遊んでいて色んなことを思うんですよね。

 

 「マネーの拳」という漫画があります。元ボクサーが会社を作る漫画なんですが、作中で会社とは何ですか?と聞かれた主人公が「人を雇うことだ」と答える場面がありました。僕はこの答えが好きなので、そうだよなあ、会社とは人を雇うことだよなあと思います。

 

 さて、経営ゲームはそんなに難しいゲームではありません。要は収入より支出を減らせばいいので、ちょっと数字を確認して調整するだけで簡単に儲かっていきます。

 買収した店舗には成長性があって、収益性アップにお金をかけると代わりに要求されるリソース(商品力、サービス力、知名度)も増えます。店舗ごとの各リソースにも成長性があるのですが、マックスまで育てても最高の収益性で要求される量には足りません。そこを補填して辻褄を合わせるのが人の能力値です。人間にも成長性があり、それは仕事を通じた自然な成長と、お金をかけて強制的に成長せることもできます。

 このゲームは、お金を基本のリソースとして、人と物にそれぞれ投資して成長させるとともに、組み合わせて安定的な収益源を確保することで簡単に進めることができます。

 

 このゲームの重要なポイントは金主との約束と、株主総会です。金主との約束は、ある時期までに株価ランキングの何位に食い込むかというものです。それを最初にお金を貸してもらうときに約束してしまいました。そして、株主総会はチャンスです。通常の経営ではじわじわとしか上下しない株価を、株主たちに効果的に対応することで一気に上げることが可能になります。

 株主総会のためには基本となる業績を上げておくと有利ですから、資本と従業員と売り上げの3つの評価軸に気を配らなければなりません。投資をし過ぎて資本を食いつぶしてしまうと、悪い評価の中で株主総会に挑まなければなりませんし、従業員の不満を解消したり(お金を使えば黙ります)、売り上げも達成しなければなりません。

 とはいえ、こちらに株主対応用の能力に長けた人員をちゃんと用意しておき、株主からの不満に対して適切に「人」「物」「金」の3すくみの属性を配慮して対応していけば、ある程度業績が悪くても株主総会を成功させることができます。

 

 ゲームの難度をもっと難しくすることもできたのでしょうが、今のところ普通に遊んでいるだけでは結構ぬるいバランスになっていると思います。

 

 さて、テンポよく成功体験を積めて、新しい課題に取り組んでいれば、僕の会社は気が付くと株価ランキング10位以内になっていて、本社も一等地のビルに移転しましたし、毎期数億円のお金が入ってくる構造を構築することができました。もうちょっと頑張れば1位にまで行けそうなんですが、その前に、ゲームを遊んでいる僕の心について色々気づきが得られてしまったので、それについて書きます。

 そう、この文章の本題はここからです。

 

 ゲームを進めていくうちに気が付くと、僕は人間を数字としか見なくなっているんですよ。

 

 このゲームでは従業員を街中でスカウトすることができます。様々な事情を抱えた人を条件をクリアするとスカウトすることができ、経営ゲームの中で従業員として利用することができるのですが、ここで、それぞれの従業員には人生があることが分かります。

 例えば、今はホームレスになってしまったが、僕のやっている会社に就職することで、また社会との接点を取り戻していきたいなどの気持ちを抱えた従業員がいたりします。序盤でカードとして手に入る彼らは、レア度が低く、能力値も低いという事情があります。

 だから、会社が拡大していくにあたって、彼らの能力では店舗のリソースを補填するには能力不足であることが分かっていくわけです。1店舗に割り当てられる従業員数は3人までなので、運用できる店舗数にも上限があり、人をどんどん雇える状況になると、彼らに割り当てられる仕事がなくなっていきます。

 そして、収入より支出を抑えておけばOKというゲームでは、彼らの存在は意味なく支出を増やす負債でしかないかのように見えるようになっていくのです。彼らはそれぞれ人生の事情を抱えて働いているのにもかかわらず!!

 

 このゲームの良いところで、ある意味悪いところは、ゲームの最初のチュートリアルで最初に練習としてやらされるのが「解雇」であるところです。初期のどう考えても収入より支出が大きい赤字店舗では、人員整理をすることが簡単な収益化に繋がります。初期は収入も少ないですから、一人雇うか雇わないかが命取りなのです。

 そういう状況にしておいて、ゲームはまずプレイヤーである僕たちに練習をさせるわけです。「ほら、解雇すれば利益が上がるようになったでしょ?」と囁きかけるのです。解雇による利益増という成功体験をまず積まされます。

 

 ゲームの序盤を支えてくれた人たちが、いつの間にか戦力外になっており、その過程で成長のためにそこそこ給料も高くなっており、ただ支出を増やすだけの存在として認識してしまうということが発生します。その先にある合理的な結論は彼らを解雇するということです。そして、僕はもはや気軽にそれをしてしまっています。なぜならそれが目的に対して合理的だからです。

 

 このゲームには解雇制限がないということから、ノーリスクで人を解雇することができます。そして、また雇いたくなったらまた同じ人を雇うこともできることで、罪悪感も減らされます。

 経営という数字を達成するゲームをしていると、個別の人を見ることをだんだんと止めていき、その人がどの数字を達成できるかということしか見なくなります。また、だんだん面倒くさくなってくると、まずは人のレア度を確認し、レア度が低ければ、そもそも能力も確認しないなどということまで発生します。採用も雑になります。

 

 金主からの催促がなければ、のんびり利益を上げて段々と株価を上げてもいいじゃないかと思う可能性もありますが、どうしてもある時期までに株価を上げないといけないとしたら、そうも言っていられません。収益性の低い店舗はすぐに閉鎖し、新しくて大きな店舗を買収してそこにレア度の高い従業員を配属させ、一定時間に生み出す利益をとにかく最大化することに注力します。

 地道なことをやるのではなく、いかにマイナス条件を誤魔化して株主総会を乗り切り、その結果株価を上げるかにばかり興味を持つようになります。

 

 そうやって、いつの間にかステレオタイプな「経営者」になっている自分がそこにいるわけです。自分が自然とそうなってしまったと気づくときに、ああ、面白いなと思うわけです。

 

 会社とは「人を雇うこと」だという言葉に共感を得ていました。しかしながら、ここでいう「人」が「今利益を生み出すのに役に立つ人」の略であるということにも気づいてしまうからです。

 

 こういうことを思いながら遊んでいると、気まずいことが起こりました。

 ゲームの本編ストーリーで、ずっと一緒にやってきた仲間をリスクマネジメントと称して簡単に切り捨てている人が出てくるのです。それに対して主人公の春日一番は、なんでそんなことができるんだ?と憤るわけですが、一方で僕が操作する春日一番は、冷徹な経営者として、かつて一緒に会社を経営した仲間たちを「利益にならないから」という理由だけでバンバン解雇しまくっていて、こいつ、気が狂っとるんか?と思ったりしました。

 しかし、春日一番は悪くない!彼の気を狂わせたのは僕の遊び方だからです。

 

 でも、そういうゲーム設計にしているのは意図的じゃないんですか??

 

 必達することを求められる目標は、そのために生じる犠牲の存在を軽くします。一度やってしまったことを再びやることは、随分と気が楽になります。だから、誰かを何かに引きずり込みたい人は、まず一度体験をさせようとします。表面的に不快なリアクションの無いことは、その裏に実はどれだけの悲しみがあったとしても気になりにくくなります。あらゆる合理性は、大切な非合理を粗雑に扱うことの言い訳として機能します。

 誰かが何かをするのは全てお膳立てされた末のことで、人の自由意志の及ぶ範囲なんてとても狭いのかもしれません。でも、そうやって仕方ないで回っていることも多い世の中ですよ。そして、このゲームの舞台である伊勢佐木異人町は、そんな仕方ないの中で傷ついて生きる人間のるつぼです。

 

 世の中がそうであるということを考えるとき、様々な立場で生きる人々の視点がなければ、誰かの人間性の問題としての理解をしてしまうのかもしれません。でも、それがそう強いられる環境の問題であったとしたならば、その誰かの人間性を否定したとしても、後釜に座った人がまた同じことをしでかすでしょう。

 

 僕は、様々な人を解雇したりして合理的な考えのもとに得られた大金を無駄にはしません。病気の人にポンとお金を出してあげたりします。お金が人を救うわけです。他にも、工場に投資したり、発明に投資したり、選挙資金に提供したり、高額な武器を購入したり、ギャンブルにつぎ込んだりをしています。

 

 それは果たしていいことなのか?そして、それは本当に僕の意志でやっていることなのか?ゲームをクリアするころには、自分なりの答えが出ていることを期待しています。

「ドラゴンボール」の悟空の人間性と、悟飯はその後継者にはなれなかった関連

 ドラゴンボールの主人公、孫悟空人間性については、未だに識者の間でも意見の分かれるところがあり、彼が何を考えでどのように行動しているのかの理解が追いついてなかったりします。そのため悟空の人間性の良し悪しについては、疑問視されることもあり、悟空は酷い人間なのでは?と思われている様子もしばしば目にします。

 物語を読むということは、とても個人的な行為だと僕は思うので、それが作者の意図や、他の人の感じ方とは違っても、ある人がそう思ったならそれがその人にとっては事実なのではないかと思います。

 

 でも、じゃあ言わせて頂きますけど、僕が悟空をどのような人間として捉えているかも、めちゃくちゃ個人的な認識で書いてやりますよ!!!

 

 僕が孫悟空は、「目的に対して最短距離しか走れない人間」だと思っています。イメージするなら、「魁!男塾」の直進行軍です。直進行軍とは、ただただまっすぐ歩く訓練です。つまり、目の前に壁があろうが他人の家があろうが、とにかくそれらを壊してでも、ただまっすぐ歩くというものです。

 人間の多くはこれをすることができません。ある地点Aからある地点Bに移動するとき、直線で進むのが一番早いのは間違いありませんが、そのためには障害にぶち当たってしまうので、普通は回避をするのです。

 このように、まっすぐ進むことが距離的には一番近いことを知っていながらも、それを回避して遠回りしてしまうのが普通の人間で、そこで最短距離を突き進むことができるのが変わった人です。

 

 悟空はそんな特異な人物なのではないかと思います。

 

 これはもう少し細かく言うと、悟空は普通の人と比べて葛藤することがとても少ないのだと思います。葛藤とは、僕の理解では、自分の中に複数の評価指標があり、一方では良しとされることが、他方では悪しとされてしまう状態ではないかと思います。

 なので、ある判断をするときに、それはある評価指標では良いことであるが、別の評価指標では悪いことでもあったりして、本当にそれを選んでいいのかの躊躇が発生してしまいます。だから、人は、その指標の優先度や重み付けをよく考え、乗り越えることで、ようやく自分にとっての最良の決断をするのです。にもかかわらず、やはりそこには何かしらの悪い要素も残ってしまいがちです。だから、決断したことにすっきりできなかったりして、それがまた次の決断の足かせになったりします。

 しかしながら、こと悟空にとっては、このような状態のときに内面と外面の乖離がほとんどないのだと思います。そして、内面が持つ評価指標も矛盾せずにほぼひとつに統一されているようにも思いました。

 だから、悟空はあらゆるシチュエーションにおいて、すぐに明確な答えを出せます。そして、それを実行することに躊躇がありません。なぜなら葛藤がないからです。内面の中でも、外面との境界でも、矛盾がなく、ただあるがままであればよいだけだからです。

 

 もちろん、これは悟空が作中で百パーセント常にそうだったということでもありませんが(予防線)。

 

 内面の葛藤が少なく、考えた通りに即実行に移せるという性質は、強くなることや問題解決においてはとても強い性質です。どうすればいいかの答えを出せずにまごついている時間なく、目的を達成するための行動だけに集中することができるからです。戦うことの意味や意義や価値を考えずとも、強くなるということに集中することができるからです。

 このような性質を抱えた悟空は、戦闘民族サイヤ人であるという土台を元にどんどん強くなっていきます。ハンターハンターのキメラアント編でも、人間と他の生物と融合して生み出されたキメラアントたちは短期間で強くなっていきました。それは人間的な規範から解き放たれた彼らは、強くなるための欲求に素直だからです(悟空との対比は誤解を招く悪い例えかもしれませんが)。

 そして、悟空はどんどん頼られる存在となっていきます。ベジータ戦でも、ギニュー特戦隊戦でも、フリーザ戦でも、悟空の到着は遅れ、そこにいかにして間に合うかという話になります。圧倒的な力の差があったとしても、それでも「悟空ならなんとかしてくれる」という気持ちを皆が抱えるようになります。

 

 悟空が心臓病で死んでしまった未来では、悟空を知る誰もが悟空さえいればという気持ちを抱えていました。その気持ちが理解できないのは悟空を知らないトランクスだけです。悟飯もトランクスもスーパーサイヤ人になれる未来では、悟空の戦闘力が突出していたというわけではありません。それでも敵わないぐらいに人造人間たちは強いのに、それでも、皆は「悟空さえ生きていれば」という気持ちになるのです。

 どれだけ悲惨な状況でも、どこかあっけらかんとしていたのがドラゴンボールの漫画の世界です。しかし、悟空のいない未来の外伝では、とてつもなく閉塞感のある世界が描かれました。それこそが悟空がいる意味です。悟空がいること、悟空がいさえすれば、どんな状況でもなんとかしてくれると思えること、それが、この世界に光をもたらしていたということが分かります。

 だから、ブルマはタイムマシンを発明し、トランクスを過去に送り込んで悟空が生き延びる未来を生み出しました。

 

 このように人造人間編の序盤において、悟空の存在の神格化は始まっていたように思います。悟空がいれば未来は明るく、悟空がいなければ未来は暗いということ、いつのまにか悟空はそんなものを背負う存在になっていました。天下一武道会でピッコロを倒したあとに、地球の神を引き継がないかという提案を断った悟空が、知らずに信仰の対象のような存在にまでなってしまっていたのです。

 

 僕が思うに、悟空にはこのとき既に自覚があったのではないでしょうか?心臓病の治療が終わるまでの眠りから覚めたあと、悟空の在り方は少し変わったように思いました。それはつまり、自分がいなくなったあとのことを考え始めたのではないかということです。

 「悟空がいたから楽しかった」は、ドラゴンボールGTの最後の言葉です。GTの意味のひとつは悟空がいたから楽しかったです。でも、悟空がいないから楽しくない世の中でもいいのでしょうか?いや、よくないでしょう。だってそれなら悟空はいつまで経っても去ることができないし、ドラえもんが安心して未来に帰れないわけですよ。

 

 そして、悟空は自分の後継者として息子の悟飯のことを考えたのではないでしょうか?精神と時の部屋での2人っきりでの修行の中で、悟飯の持つポテンシャルは自分よりも強いことを感じ取り、自分がより強くなるために修行をすることを止め、完全体のセルに対しても早々に敗北を認めて「お前の出番だぞ」と悟飯に呼びかけます。

 しかし、悟空には誤算があります。それは、悟飯は悟空の悟空性を受け継いでいなかったということです。強い力を抱えながらも、悟飯はその内面に葛藤を抱えた普通の人間でした。父親から期待されていることは分かっても、それを実行することができません。そのやり方が分かりません。

 そして、怒りとともに力を解放したあとにも、悟飯はセルをいたぶってしまいます。これも悟空にはない性質でした。悟空は戦う力や戦意を失った相手にとどめを刺すことにはこだわらず、ただ、脅威を収めることでよしとします。もちろん、それでも敵意を失わず人を傷つけようとする相手にはとどめを刺しますが、それそのものが目的にはならないわけです。目的さえ達することができれば、それ以外のことにはこだわらない悟空に比べ、悟飯は、相手を苦しめることを求めました。そして、そのことがセルの自爆へと繋がる隙を作ってしまいます。

 

 そして、悟空は膨れ上がったセルを連れて界王様の星に瞬間移動しました。皆を助けるためです。巻き添えにされた界王様はたまったものではないですが、それでも悟空は十分に考えた末にその決断を行ったのです。セルの自爆から皆を助けること、その代わり自分と界王様とバブルスくんが死ぬことを天秤にかけ、出た答えをあっけらかんと実行します。それがいいと思ったならば、こともなげに実行できてしまうこと、それが悟空の悟空たるゆえんなのではないでしょうか?

 また、悟空は自ら退場することを望んでいたふしもあります。そこには、悟空の息子は特別な存在である悟空とは異なり、別の人格を持った人間だったと分かったということも関係しているのかもしれません。

 

 神話の時代に自ら幕を引き、代わりに残った、かつて自分を頼った人間たちに世界の舵取りを任せて、悟空は自ら表舞台から身を引くことになるのでした。

 

 しかしながら、そう簡単にはいきません。神は死に、人間の時代が来たと思いきや、ドラゴンボールの世界の在り方は、それを許しません。死んだはずの悟空を呼び戻し、魔人ブウとの戦いに雪崩れ込みます。

 魔人ブウ編は、悟空の悟空性と世界との齟齬の物語と読むことができるかもしれません。これまで悟空の価値を生み出してきた率直さと目的に対して最短の解を出す素直さが、むしろ、悟空を悪く見せるように機能しているからです。そして、ここには悟天とトランクスという、悟空を知らない子供たちがまず悟空に向けるのは懐疑の目がありました。

 神のいない時代に生まれた子供たちは、信仰の意味を知りません。そんな中で、悟空は自分の力で倒せたはずの魔人ブウを見逃しました。それは現世の人々の力で倒せた方がいいと思ったからです。

 

 それによって、悟空がいたから助かる世界ではなく、悟空がいなくとも助かる世界を望むこと、つまり、自分がいなくなることをむしろ望むことが、一度は幕を引いたはずの神話の時代の先に、悟空が再び成し遂げようとしたことではないでしょうか?

 

 それでも、フュージョンの力で悟空に匹敵する戦闘力を獲得した悟天とトランクスも、老界王神の力でおそらくはそのとき世界で一番強くなった悟飯もやはり悟空の代わりを務めることができません。魔人ブウは何もかも吸収して強くなり、悟空とベジータも合体することでそれに対抗します。

 そして、魔人ブウはこれまで吸収し続けた人々を失い、悟空もベジータとの合体が解けて、最期の戦いに向かっていきます。

 

 ここでの印象的な出来事は、ベジータが悟空をナンバーワンだと認めるということです。常に対抗意識を持ち、勝つために敵に心を売るまでしたベジータが、魔人ブウとの戦いの中でついに、自分は力不足と認め、悟空に戦いを託すのです。これは良い話でした。感動しました。しかし、感動する良い話ですが、それによって決定的に破綻するものがあります。

 ついにベジータまでもが、「悟空助けてくれ」になってしまうのです。悟空を信仰の対象としてしまうのです。沢山の人の気持ちを一心に背負うことになった悟空は、もしかすると、とてつもない孤独になってしまったのではないでしょうか?

 

 誰も彼もが、自分自身で戦うことを放棄し、戦う役目を悟空に押し付けたと捉えることもできるからです。

 

 悟空に祈れば何でも叶います。それはさしずめ何でも願いを叶えてくれるドラゴンボールの別の形なのかもしれません。願いを叶えてくれる存在を手に入れた人々は、自分たちで戦うことを止めてしまいます。なぜ、悟空がその責任をたったひとりでとらなければならないのでしょうか?

 しかしながら、ここには救いがあります。魔人ブウを倒すために決定的となった元気玉は、地球の人々の力を集めたものであったことです。それは悟空を知らない、悟空を信仰していない人々の力です。

 

 それは、たったひとりの絶対的な存在になりそうだった悟空を、その責務から解放してくれる強い力です。

 

 魔人ブウにとどめを刺す瞬間、悟空はブウのことをねぎらいます。たったひとりでよく戦ったということをです。考えてもみてください。あの場において、誰もが自ら戦うことを放棄したとき、孤独に戦い続けたのは、悟空と魔人ブウだけだったじゃないですか。

 倒されたのは魔人ブウですが、もしかすると悟空でもあったのかもしれません。元気玉魔人ブウが倒されたとき、このドラゴンボールの世界において、悟空という神が死に、遂に人間の時代が、それも英雄ではなく普通の人々の形作る時代が来たのです。

 

 調子こいて書きましたが、この後のドラゴンボール超の話をすると、この辺めちゃくちゃ矛盾が出てくるので、これはあくまで原作漫画だけで完結した与太話だと思ってください(予防線2つ目)。

 

 結局のところ、悟飯は悟空の後継者にはなれませんでした。悟空は神格化された存在であって、悟飯は人でしかなかったからです。でも、それが悪いわけではありません。神話の時代が終わり、人間の時代が来たのなら、そこでは人間として生きることの方が良いと思うからです。

 そして、悟空は、魔人ブウの生まれ変わりであるウーブとともに去ることで物語は終結します。それはつまり、たったひとりで戦い続けたウーブこそが、悟空の後継者になり得る存在であって、そして、そんな彼らの居場所はもうなかったということなのではないでしょうか?

 

 その後、ドラゴンボール超が始まってしまったのは、また神話の時代が求められてしまったということなのかもしれませんね。時系列的に言えば漫画の最終回よりまだ手前なので、結論は同じなのかもしれません。この捉え方を念頭に置いたとき、物語の再開のきっかけとなった映画が「神と神」だったのは、果たして偶然でしょうか?

 

 これは偶然ではありません!!なぜなら、僕がそれに寄せようと思って書いたからです。おしまい。

「マイブロークンマリコ」と物は壊れるし、人は死ぬ関連

 「マイブロークンマリコ」は喪失の物語だと思った。

 

 世の中のあらゆるものはいずれ壊れて失われる。でも何かが壊れたら、同じものを手に入れて埋めることもできる。スマホを落として壊したら、また同じものを買えばいい。でも壊したスマホと新しく買ったスマホは実は違うものだ。同じ外観と機能を持っているから忘れさせる力が強いだけの話だ。

 何かが失われると、人は代わりの何かを手に入れてその喪失を埋めようとする。そうすることで、世の中から常に何かが失われていることを忘れることができる。喪失の痛みに気づかないでいることができる。

 でも、失われてしまったものがあまりにも大きいとき、それが埋まるまでに時間がかかることがある。そういうときに、人は失われてしまったものが失われてしまったことを直視せざるを得ないのではないだろうか?そして、場合によっては、自分がそれを似たような別の何かでその喪失を埋めようとしてしまうことを自覚し、それを拒否してしまうかもしれない。

 

 この物語は、マリコが失われてしまったことを知らされることから始まる。マリコ睡眠薬を大量に飲み、転落死をしたことを主人公のシイノはテレビのニュースで知る。この前も会ったばかりの友達のマリコが、子供の頃からずっと近くにいたマリコが、ある日突然永久に失われてしまったことを知らされてしまうのだ。

 シイノは、マリコの実家に乗り込み、骨壺を奪って逃避行を図る。なぜならば、その骨が父親の下にあることが許せなかったからだ。自分の子供を虐待し続けた父親の下に、死んだあとまでマリコを置いておくことができなかったからだ。

 

 そして、失われ、生き返ることなどないマリコの骨とともにシイノは旅に出る。

 

 マリコは壊れた女だった。少なくともそう自称する女だった。彼女の周りでは、様々なトラブルが起こり、彼女はそれによって傷つけられていく。そのトラブルを起こす周囲の人々は決まってそれを「マリコのせい」だと言った。

 確かに、その不幸な出来事が起こる原因の一端はマリコにもあったのかもしれない。それは責任があるということではなく、悲劇の被害者でありながら、悲劇の構造を維持する行動をとってしまうという悲しみの話だ。

 シイノの記憶に残るマリコは、変わることを恐れる人間のように見えた。少し持って回った言い方をしたのは、この物語にはマリコは登場しないからだ。この物語の中のマリコは常に記録と人の記憶の中にだけ登場する。誰かの中に残るマリコは、果たしてマリコそのものと同じ人物だったのかは分からない。

 

 少なくとも記憶の中のマリコは、必死で何かを維持しようとしていた。父親を怒らせないため、母親を繋ぎとめるため、男に望まれた通りに、シイノが自分から離れないように必死だった。何かが変わっていればよかったのかもしれない。でも、そのマリコはただ今が変わらないことを望み、そのために、そこにある歪みの責任を引き受けて、傷つき続けながらもそこにいようとし続けたように見えた。

 シイノは、マリコにそんなところから逃げ出せるように変わって欲しかったのかもしれない。だけど、マリコは変わることでそこから逃げ出すことができなかったのだ。そして、マリコは死んだ。これはそういう話だと思う。その事実は何をどうしたところで変わることがない。

 

 人間は弱い生き物だから、すぐに不安を解消しようとする。何かの不安があると、そこに理由を求めてしまう。理由がありさえすれば、それは説明可能なものになり、安心するからだ。だから、人間はすぐに「こう考えれば辻褄が合う」ということと「それが事実である」とうことの間の距離をいきなりゼロにしようとしてしまう。

 マリコはそんな弱い人間のために都合がよい存在だった。その歪みのはけ口になってくれるからだ。それが事実とは異なっていても、マリコは自分がそれを受け入れさえすればいいと思ってしまう人間だからだ。そして、何でも受け入れてくれるマリコは、それゆえに傷ついていく。壊れていく。

 

 シイノは、旅をする中でマリコのことを思う。マリコに貰った手紙の束の中には、可愛くいじらしいマリコの姿があり、そして、シイノの記憶の中には、それだけではない面倒くさい女であるマリコの姿もある。マリコはもういない。だから、マリコの存在は、写真や手紙のような記録と人の記憶の中と、骨壺の中に残ったものしかない。それらは全て断片的だ。

 シイノにはマリコが何を思って死んだのかもわからない。何もわからない。その死が意志だったのか、事故だったのか、もしかすると誰かの作為だったのかも分からない。人が死ぬとはそういうことだ。確認のしようがない。

 だってもういないのだから。だから、シイノは仕方なく自分の中のマリコを探し、そして、シイノの中のマリコ像は断片的でバラバラになった骨のように繋ぎ合わせることができず、壊れている。生きていたそれまでには分かっていたように思えたはずのものが、指の間をすり抜けるように断片的でつかめないバラバラなものであったことを突き付けられる。

 

 そんなシイノの前にマリコの幻影が現れる。そのマリコは、シイノの抱える苛立ちのすべてをマリコのせいにしてしまえと囁きかける。でも、シイノにはできない。できっこない。それは、だってそれは、マリコの父親が、母親が、男が、マリコに押し付けたことと同じじゃないか。

 その妥協をしてしまえば、マリコという人間をひとつに繋げて理解することもできるかもしれない。そんな女だったと言えるのかもしれない。でも、理解とはなんと残酷なことだろう。無数の情報を持っていたひとりの人間を、ほんの少ない言葉だけに圧縮してしまう。圧縮できなかったものは、なかったことにされてしまう。

 ついこの前までは、生きて存在していたはずのものが。全て何らかの賢しらな理解に変換されて消え去ってしまう。

 

 この物語が描いたものは、喪失の穴なのではないかと思った。読者が見せられたものは、その穴にかつてどんなものが詰まっていたかということだけだ。それをシイノと同じ気持ちになるまで、見せつけられるだけだ。そして、この物語の中で、その穴はもう二度と同じもので埋まることはないということが事実だ。

 

 代わりの誰かを助けたって戻ってこない。届かなかった手紙が届いたところでやっぱり戻ってこない。失われてしまったものを本当に埋められる代わりのものなんてないではないかと思う。

 それでも人生は続いていく。人生の大半はそれに気づかないふりをしながら続いていく。今も多かれ少なかれ何かが失われ続けていて、それが二度と戻ってくることはない。でも、それが嫌だから生きないわけにもいかないんだ。

 

 物は存在して壊れていくし、人は生きていて死んでいく。普段はそこから目を背けて生きているけれど、目を向けてしまうこともある。人間はその中で生きているんだよなと、なんかそういうことを思った。

作品の感想を作者に伝えることの難しさ関連

 世の中に公開される何らかの作品というのは、基本的に多に向けて作られていると思います。作者は大勢に人に見られる形でそれを公開しますし、それが世の中に広く届けば、一本の幹から別れた無数の枝のような形でそれぞれの受け手に届くかもしれません。それぞれの枝の先からさかのぼれば、幹までは一本道です。でも、作者からの視点では無数のうちの一本です。そこを見誤ると、なんかバランスがおかしなことになるんじゃないかなと思ったりしています。

 つまり、そういった場合、基本的に作者と受け手は1対1の人間関係ではないのではないのかなと思うということです。

 

 年始に「推しが武道館にいってくれたら死ぬ」を最初から読み直していたのですが、漫画が面白いこととは別に、しんどい気持ちにもなってきたりしていて、それは作中の描写から喚起される何かしらが、自分の感覚を色々引っ張り出すからだと思いました。

 「推し武道」はマイナーな地方アイドルと、それを応援するファンを描いた漫画です。そこではアイドルがマイナーであるために、ファンの数、つまり前述の枝の数がまだ少なく、ファンとアイドルの関係性が双方向に一本に見えやすくなってしまったりします。しかも、強いファンは多くのCDを買いますし、それに比例する時間だけ握手会などで直接対面もしますから、より1対1の人間関係に近似してしまいます。

 アイドルというものは1対多のコミュニケーションの構造を持つものだと思うんですけど、そこに1対1の人間関係的なコミュニケーションに近似したものが生じてしまうことには、矛盾があり、その歪みがどこかに出てきてしまうものなのではないかと思います。その人間模様が、この漫画の面白さのひとつであると同時に、僕が読んでいて感じてしまうしんどさの一因なのではないかと思いました。

 

 僕は漫画の感想を書いていますけど、作者に直接送ったことはほぼありません。それは、作者が僕が書いた感想を読みたいかどうかが分からないからです。作者に直接送らずに、ネットにぼんやり出しておけば、もし読みたければエゴサーチして読むでしょうし、読みたくなければ読まなくて済みますから、そこで何らかの事故的なものが起きにくくなるのではないかと思ってそうしています。押し付けられたのではなく、覚悟を持って読んだんでしょ?という言い訳が立つからです。

 それとネットに書くもうひとつは、感想を書くということが広がりを持つことに繋がった方が良いような気がしていて、それならば、作者しか見ないところに送るよりも、人の目に触れるところに書いた方がいいのではないかとも思ったりするからです。まあ、でもそれを言い出すと、僕のようなどこの誰とも知らない人が書いた感想が、何かの作品を広げるための手がかりになることはまれなことではないかと思うのですが。

 

 作者に直接感想を送ってしまうことは怖く感じるところがあるんですよ。それは前述のように、相手が望んでいないものを読ませてしまうかもということもありますし、こちらに「1人の人間としての対応」を求めてしまうことでもあるかもしれないからです。

 人間にはひとりひとりを人間として丁寧に応対することができる数に限りがあると思っていて、それは僕自身が特にそうで、例えばTwitterでたまに自分のしょうもない発言がバズったときにリプライには返信をしないこともその理由からです。全てのリプライに個別にちゃんと返信するとしたら、自分の一日分のコミュニケーションに使える精神力を一瞬で使い切ってしまうかもしれません。

 

 作者は僕だけの相手をするわけではないですし、にもかかわらず手間のかかる返信を求めるような形になってしまったり、さらには、こちらがわざわざ感想を送っているのだから喜んでほしいなんて思ったりしてしまうのは、ひどく勝手な考えだなと思って、まあなんというか、とにかく先方に負担をかけたくないんですよね。相手が良い人ならなおのこと、気を遣ってくれてなんかいいことを返そうとしてくれたりもするわけじゃないですか。それが負担になるんじゃないかなと思ったりするんですよね。

 負担をかけたくないのは、嫌われたくないからです。自分が好きな作品の作者には絶対嫌われたくないじゃないですか…。

 

 なんでこういうことを書いているかというと、さっき、ネットのまとめみたいなので、作者に感想を送ったのに邪険にされたみたいなのの愚痴を言っている人が大量にまとめられているものを見たからですが、それが悲しいのは分かるけれど、作者の人だって、ひとりひとりに人間的な対応をするほどのリソースないことだって多いでしょって思うんですよね。

 

 広く作品を公開するということは1対多のコミュニケーションを試みているのに、それを無数の1対1にしようとしてしまうと、よほどのバイタリティがある人でなければ無理が出るんじゃないかと思っています。百万人のファンがいたら、百万の枝が伸びているということです。自分からみれば1本でも、幹からすれば、その百万の枝の一本一本はやっぱり個別には見れないんじゃないでしょうか?

 ただ、これはアマチュアになってくると、枝の本数が少ない分、もしかしたら1本1本を見れるんじゃないかと思ってしまうことが、しんどさのきっかけになってしまうのかもしれません。

 

 この辺の、好きな作品の作者には直接相対したくない(向こうが得をすることがないと思うので…)という感情は長年感じていることがあって、それが「推し武道」を読んでいるときにも分野は違っても喚起されて、ウワッこんな辛いことを物語として描いている!と思ってしまったりもするような気がしました。

 とはいえ、好きな作品を作っている人で交流のある人もいて、でも、そういうときははそっちから僕の感想とかに触ってきたんだからな!じゃあ、ちょっと!ちょっとだけ交流させてもらいますが!??みたいな、こうなんか、そこまで迷惑にはならないのではないかという外堀を、すごい慎重に埋めるみたいなのがあります。でもやっぱり、そういうのはそんなにできないので、そんなにないです。