漫画皇国

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「恋のニノウチ」メイキングメモ

 商業誌でまた漫画の読み切りを描かせてもらい、今回は割と珍しくコンセプトから理詰めで話を作ったので、そのメモを描いておきます。長くなると思うので別に読まなくてもいいです。

 

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 きっかけとしては、ある日突然、「ジャンプ+で描いてみませんか?」と提案を頂いたので、やったぜ!と思い、同時にえ?ホントかなあ?と現実感なく思いながらも、せっかくだから描かせてもらうことにしました。

 僕は漫画を三十代半ばで描き始めたこともあり、年齢の割りに漫画を描いた経験が少ないので、描くことで自分の経験値を貯めるという目標と、それはそうと、お金を貰って描く以上、漫画が面白くないといけないという2種類の目標があります。つまり、自分の中での目標と、他人に対する目標です。

 

 経験値を貯めるという方面では、今回は格闘描写を描きたいというものがあって、なぜならあまり描いたことがなかったからです。描かないと上手くなりようがないので、どうにかねじこみたいということがあり、またジャンプ+という場所だと、読者層的にアクション描写へのリアクションももらいやすいかな?という想像もありました。

 そこでやろうと思ったのは、以前同人誌として描いた「少年対組織暴力」という漫画の、違うアレンジの話です。

 

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 僕の漫画は最終的に、2人の人間の言葉のやり取りに収束していってしまうのですが、その場合、2人が立ちっぱなしで話すというようなことになってしまって、言葉は動いていても、体の動きはないので絵面も地味になるという問題があって、それを解消しようと試みたのが少年対組織暴力のコンセプトのひとつでした。

 つまり、戦いながら話すことによって、動きの中に言葉を乗せて、絵の力で言葉の威力をより高めるということです。格闘技の打撃において、拳に自身の体重を乗せるように、拳に言葉を乗せると威力も倍増するんじゃないかな?という雑な考えがありました。

 

 また、少年対組織暴力で描いたテーマ性というものにも思い入れがありました。それは、中野でいちさんの「hなhとA子の呪い」という漫画で描かれていたのを読んで、自分の中にあったもやっとしたものが具体的になったものです(余談ですが、中野さんとは、その後、友達になりました)。

 

 それは、「男性性の持つ加害性によって自ら傷ついてしまう男」という苦しみの話です。人が誰かを好きになるということには、少なからず暴力性があります。自分の欲求を充足させるための他者を求めるということになるからです。それはつまり、他者が自分の欲求に寄り添う形であって欲しいという願いでもあります。

 しかしながら、他者への愛情というものは、その人が幸福な状態であって欲しいという願いでもあったりします。つまり、他者への愛情が強くなればなるほど、その他者に自分の望む形に変わって欲しいと思ってしまうことと矛盾する可能性があります。そのひとつの形としては、自分が好きな女性に対して抱く性欲は、その人に対して抱く愛情と矛盾するように感じられるなどがあります。

 これは他では、「レベルE」の作中作でも描かれています。生殖欲求として異性を捕食する宇宙人が、好きな女の子を食べてしまったことに絶望するという光景はとても印象的でした。

 

 僕はこれは現在の世の中の状況で、より色濃くなってきているように見えていて、近年は「他者を傷つける」ということに対して社会が自覚的になっています。多くの人たちは、自分の発言が他者を傷つける要素を持っていないか?ということを気にしながら喋っていますし、他者の発言で傷つけられた人は、それを我慢せず口に出して良いようになってきています。僕はこれを好ましいことだと思っています。

 しかしながら、その一方で、自分が他者を傷つけないか?ということに対して怯えてしまっている人がいることが目に入ります。恋愛に臆病になっている若い男性の中には、特にその傾向が見て取れることがあって、自分が女性に対して地雷を踏んでいないか?をとても気にしながら、結果的に、恋愛をするに至るまで踏み出すことができないということがあると思うんですよね。

 僕は恋愛はしなければならないものだとも思いませんが、しかし、その理由が他者を傷つけてしまうことへの怯えであったり、それが自分に内在する性欲などの他者へのある種暴力的な欲求への自覚からくるとするならば、それは苦しいことだろうなと思います。

 苦しいものというものがあるならば、苦しみを抱えた人間の変化を描けば物語になると思いました。

 

 予め注意頂きたいのは、ここからの話は、あくまで僕がこういうコンセプトで話を組み立てていったという記録であって、僕の描いた話の正しい解釈というわけではありません。読書体験とは、作品と読者の共犯関係のもとに生まれるものなので、読者の数だけ(その読者にとっての)正しい解釈はあるからです。

 

 少年対組織暴力のタイトルは、もちろん「県警対組織暴力」からとっているのですが、「人間の理性はときに自身の性欲を忌避するが、それでも自分もまたその結果によって生まれてきた」という矛盾する状況を、「生物としての人間」を「組織暴力」に見立てることができると考え、少年がその組織暴力に蹂躙されるという形で決着をつける物語となりました。

 少年は組織暴力のために、かつての理想を失ってしまいますが、それも悪くない結末だよねという話です。

 

 恋のニノウチは、同じ構造的な苦しさを描きながらも、人が異なればまた別の結末もあるだろうと思って考えた、また別の物語です。「恋愛感情に対する忌避感」と「恋愛感情の喜び」という矛盾する状況を同時に肯定するという結末であればいいと思いました。

 なので、コンセプトとしては、恋愛感情および行為の肯定と、その気持ちの動きの変化をバトル形式で描くというものです。

 

 ここで出したアイデアは、「登場する男女を格闘技の擬人化とすること」でした(より正確に言えば、実際の格闘技ではなく、漫画に登場する格闘技概念の擬人化です)。そうすれば使う技そのものを、人の心と直結させることができます。そこでまず思い当たったのが、合気道です。

 合気道には、相手の攻撃を利用する技があります。しかし、相手が攻撃をしてこなければそれを使うことができません。ただし、その争いがない状態を理想的だと、グラップラー刃牙の渋川剛気は言いました。

 「互いに攻撃しない状態が理想的である」というのは、「自身の加害性を認識するあまりに、他者との関係性を作ることに積極的になれない人間像」と一致します。テーマと描写が一致すると思ったので、この辺でなんとか話として構成できるなという確信が得られました。合気道では理想とされるものを覆す解釈を提示することで、驚きも生まれると思ったからです。

 

 合気道と戦うという話になると、相手が八極拳であることがすぐに決まりました。一撃で相手を倒すという攻撃性特化のイメージが得られるからです。また、「エアマスター」あるいはその後の「ハチワンダイバー」に登場する、皆口由紀(合気道)vsジョンスリー(八極拳)に対するなぞらえもできます。

 今回の漫画は、漫画格闘技の擬人化というコンセプトなので、他の僕の好きな漫画からたくさんのパーツを寄せ集めて錬成する形になるので、概念や表現や単語はそこから引っ張ってきても、そのまま使うだけではただのパクりになるので、それらを元ネタの作品では使われなかったような使い方をする必要があります。

 

 大きなところでは八極拳の「一撃で倒す」部分を「一撃で倒せない」ことをむしろ肯定的に描く、そして前述のように合気道の「争いが生まれないことが理想」という部分を「争いがないことは少し寂しい」と描くということです。

 そうであるならば、既に他作品を読んでいる読者に対しては、むしろ、ひっかけ問題として機能するという効果を得られると考えました。

 

 つまり、攻撃性のある八極拳士が自身の攻撃性に怯え、争いがないことが理想のはずの合気道家が争いを求めることで、「人が傷つけあいたくないという理由で、他人とコミュニケーションをとらないことは少し寂しい」という話の流れを構築することができます。

 

 これで大体骨子ができ、キャラクターの名前はその格闘技に関する有名人からとっていきました。主人公の武田惣子ちゃんは、大東流合気柔術武田惣角からとりました。これは、合気道が現在の合気道として成立する以前の、打撃もありの柔術としての側面を描くにあたって、前振りでもあります(そう思って読んだ人がいるかはわかりませんが…)。

 八極拳は当然、二の打ち要らず(一撃で倒す)と呼ばれた李書文をベースですが、名前をどうもじるかの段階で、「拳児」に登場した李書文は本宮ひろ志のキャラを意識して描かれたという話を思い出し、本宮書文くんとしました。

 あとは脇のキャラクターで、女性同士の置かれている立場を話し合う相手として、深雲ちゃんというキャラに登場してもらうことにしました。これは郭雲深からとっています。「半歩崩拳、あまねく天下を打つ」と呼ばれた崩拳の使い手は2人いて、初代が郭雲深、2代目が尚雲祥です。女の子の名前にもじりやすい方として郭雲深を選びましたが、郭雲深は拳児だけでなく、藤田和日郎の短編「掌の歌」にも登場して、これがいい話なんですよね。

 

 ここで問題になるのは、書文くんと惣子ちゃんがなぜ戦わなければならないかの理由がないことです。格闘の攻撃が気持ちのやり取りのメタファーとなるのであれば、攻撃そのものが恋愛の成就と直接的に関係すれば一番話が早いはずです。

 そこで考えついたのが、「人に殴られたら相手を好きになる」という世界観です。であれば、惣子ちゃんが多くの人に暴力で狙われるという、他者からの一方的な好意への忌避感を描くことができ、互いに殴り合い、互いに好きになるという場面を描くことができます。

 これによって、クライマックスが相打ちで殴り合う場面となるといいということになり、しかもそれが最も幸福な場面であるという倒錯も同時に発生するので、わけがわからない絵面になって面白くなるだろうなと思いました。

 

 殴られると相手を好きになるという部分については、北斗の拳的な秘孔があればいいなと思い、それに人体のツボの名前を眺めながら、それらしく馬鹿馬鹿しい名前として恋門と名付けました(羽生生純恋の門」も言葉として意識しています)。

 秘孔の場所は、心に作用するので心臓のあたりがいいだろうなと思い、それによって喧嘩商売(稼業)の金剛の危険なイメージも加わります。さらには理屈として、吊り橋効果とかの話を絡めて言い切れば、道理が引っ込むだろうなと思いました。

 

 恋心の加害性というテーマと恋門という設定、格闘技が擬人化されたキャラ、そして、その裏の理屈で相討ちになって両想いエンドというところまで決まりましたが、まだ足りないのがキャラの心の動きの転換の部分です。

 少年対組織暴力では、自然に任せて展開していくと少年側の性愛(組織暴力)への敗北というエンドになりました。人類がずっと紡いできた組織暴力に、たったひとりの少年では抗うことができませんでした。

 しかし、恋のニノウチでは、対等の関係まで少年を引き上げなければなりません。そこに至るためのピースがひとつ足りないことに気づきました。

 

 そこで登場させることを思いついたのが甘犯です。

 

 甘犯とはごく一部でのみ通用するインターネットスラングで、「それでは一生恋愛はできないですね。恋はお互いがその関係を結ぶことに合意した甘い犯罪なのですから」の略です。僕はこの言葉が好きで、言い方が面白いのでイジラれ続けている言葉なのですが、言っていることは別に間違ってないよなと前から思っていました。

 恋愛関係に限らず、距離感の近い人間関係は、快適なことばかりではありません。例えば家族のような、日常的に顔を突き合わす関係では、やはり嫌なこともそれなりにあるものだと思います。年に2回ぐらいしか会わない人ならば許せるようなことが、毎日会う人にやられ続けると怒りが止められなくなったりすることもあると思います。

 

 恋人や家族のような近い距離感で人がいるということは、お互いに良い事ばかりではないが、それでも一緒にいることを選ぶということが必要なのだと思っています。つまり、甘犯と同じだと思います。相手を傷つけるようなことは、できればしない方がいいことですが、近い距離感の人が相手のときには、日々の生活の中で、少なからずそういったことも発生してしまいます。だからこそ合意が必要で、良くないとこともある程度は互いに許し合うことができる関係でなければ、いずれ破綻してしまうものでしょう。

 

 甘犯を導入することで、「暴力はいけないことであるが、対等な2人の互いに合意のある暴力は、例外的に許されうる」という結論を導くことができます。甘犯概念がこの世にあってよかったです。甘犯があることによって、このように物語全体をまとめあげることができました。

 

 このように、恋のニノウチの物語は、恋心の加害性をいかに取り扱うか?という物語的テーマと、漫画表現としての言葉と絵を一致させたいという表現的テーマを同時に達成するために、合理的に考えて作られました。

 変な物語になったと思いますが、僕はこれが最適な形だなと思って至った話なので、完成するべくして完成した話だなと思います。

 幸いそこそこウケて、たくさん褒めてももらえたので、結構上手く行ったかもしれないなと思ってよかったなあと思いました。

 

 よかったよかった。

コミティア138直前!出る情報

 コミティア138出ます情報の続報です。新刊とかの話が確定したので以下に追加でお知らせします。

 

mgkkk.hatenablog.com

 

 新刊としては、以前からぼちぼち描いてたプリティーシリーズ感想漫画のキングオブプリズムシャイニーセブンスターズの部分を切り出した、評論&日記漫画「七王ハンター」が出ます。

 

 

 あと、既刊はもう紙の在庫がない本が多いのですが、ネットで読めるようにしているのも多いので、それが分かる紙を無料配布します。

 

 ちなみに当初は本ごとにリンクのQRコードでもつけるかと思っていたら、マンガフォリオという、ポートフォリオとして過去作のリンクをまとめることができるサービスが始まったので、もうここに集約すればいいやとなり、めちゃくちゃ楽になってしまいました。

 紙のQRコードのリンク先は以下なので、紙は別になくてもいいのでは…となってしまいましたが、せっかくだから作りました。

manga-no.com

 

 あと、また別で記事を書くと思いますが、とりあえず新しい読切漫画が公開されているので、よかったら読んでください。紙にもそのリンクのQRコードを貼りました。

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 相変わらずの一人参加でぼんやりしていると思うので、会場に来る人は良かったら立ち寄ってくれると嬉しいです。以前の記事でも書きましたが、入場に必要なティアズマガジンに僕のサークルのインタビュー結果の記事が1ページ載っているので、待ち時間などに読んでもらえるといいなと思っています。

 以上、直前のコミティア出る情報でした。

「邦キチ!映子さん」の池ちゃんは善良だなと思った関連

 「邦キチ!映子さん」、シーズン7の第8話で描かれる池ちゃんの人物像が面白いなと思いました。

 

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 池ちゃんは年間映画を85本観る映画好きの大学生で、インスタで映画レビューなどもしているそうです。他にはnoteでも8000字ものレビューなんかをしていて、自他ともに認める映画大好き人間です。そのように友達にも映画大好き人間と認識されていて、日々映画の話を沢山しているようです。

 しかし、友達には漠然とすごいね面白いねとは言われても、それはただの人物として肯定するというような意味であって、話の中身で人を動かす様子はなく、noteのフォロワーも増えません。

 

 池ちゃんが実際喋っている内容を見ると、ある映画の監督や脚本が誰であるだとか、その人が関わった別の作品を挙げることなどに終始していて、それを見た結果、池ちゃんがどう感じたかということに関しては、ぼんやりとした「良かった」「感動した」ということしか分かりません。

 つまり、池ちゃんが喋っていることは情報だけです。そこでは、池ちゃんがその映画でどのように感情が動かされたかということについては語られていないんですよね。でも、話で人を動かす強い力は感情から出てくるものだと思います。だから、池ちゃんの映画の話にはその部分がきっと足りません。

 

 池ちゃんの面白いところは、そこに自覚があるということです。「自分の話は面白くない」という自覚です。だからこそ、映画のツッコミどころを端的に提示しては、部長にテンポよくツッコまれる(つまり部長の感情を動かしている)邦キチに憧れの気持ちを抱いてしまうのではないかと思いました。

 

 これを見て思ったのは、池ちゃんというのはなんて善良な人間なんだ!ということです。例えば、自分には面白い感想を書く力はないが読解力は十分にあるので、それが面白くないということは分かるとき、人には何ができるでしょうか?こういった部分をこじらせると「自分は感想を書かずに、他人の感想にケチをつける」という行動に出る可能性だって十分にあります。

 自分は映画の感想を書く能力がないくせに、他人の感想を探しては、こいつは映画を全然分かっていない!と文句をつける人間、めちゃくちゃウザいと思います。そんなことをされたら、感想を書いている側からすると、こいつと付き合いたくねえなと思ったりするでしょう。

 

 池ちゃんが友達は沢山いるのは、そういうことをしない、つまり「自分が分かっている人間である」ということを「あいつらは分かっていない」とあげつらい、蔑むことで示そうとしていないという善良さがあるからではないかと思いました。

 しかし、そのような善良さは、裏返すと自分への自信のなさとも理解できます。他人にマウンティングするということは、自分が優れているということを示したい、つまり、暗黙的に自分が優れた人間であるという自負が必要です。池ちゃんにはその部分が乏しく見えます。だからこそ、邦キチが自分より面白い感想を言っているとすぐに認めますし、自分を負けている側に置くということに拒否感が見られません。

 

 ひょっとするとそれは、池ちゃんが情報ばかりを羅列してしまうこととも関係しているのではないでしょうか?つまり、相手の知らない情報を提示するということは、相手にとって得があると感じられるということです。人とコミュニケーションをとる上で、自分が有益なものを提供できるときだけ話しかけるという傾向はよくあるものだと思います。

 普段は積極的に人に話しかけないけれど、相手が何か困っているときに解決方法を知っているときだけ話しかけられるとか、誤字脱字を見つけたので報告をするとか、相手の触れていない情報を付加的に提示することはできるというようなものです。

 これはSNSのリプライなんかで可視化されることが多いものだと思います。無邪気に有名人とやり取りをしたいと思って話しかける人もいると思いますが、無名で認識もされていない自分に話しかけられても迷惑だろうと思ってしまうような人でも、「相手に有益なものを提供できる」と思えたときには、そのタガが外れることがあります。なので、そういった相手に有益だと思える情報を、リプライとして送ってしまう人がいると思うんですよね。

 しかし、送られた側からすると、場合によってはそういう指摘は不要だと思っていたり、追加情報は別にいらないと思っているというようなすれ違いも発生したりします。

 相手に有益だと思えることでコミュニケーションをとろうとしても、それは別に上手くいくとも限りません。

 

 楽しいコミュニケーションをする上で大事なことのひとつは、相手から自分に興味を持ってもらうことだと思います。池ちゃんが出しているのはただの情報なので、そこから池ちゃんの内面について知ることはできません。なら、池ちゃんはなぜそれをしようとしないのでしょうか?

 可能性は大きく2つ考えられると思っていて、ひとつは自分について語ることは相手にとって有益ではないと思っているという自尊心の欠如、もうひとつは、自分の考えが間違っていたどうしようという不安です。両方とも、相手に自分の内面を提示したときの反動を考える行動であって、つまり、自分を守るために攻めができないというような感じかもなと思いました。

 

 自分語りは、お前の話なんて知らねえと嫌われる可能性がありますし、映画の観方が間違っていると指摘されても傷つく可能性があります。でも、傷つくリスクがあったとしても、内面を開示できないことには、他人から人間として興味を持ってもらうことは難しいのではないでしょうか?

 

 一方で、邦キチについては、その映画を見てその部分をチョイスする??というような提示を行っていると思います(あえてやっている)。それは聞く人のポイントを外すと興ざめされるかもしれませんし、実際、「邦キチ!映子さん」を、取り上げられている映画のファンが読んだ場合に、あの映画のその部分をピックアップする??と思って興ざめしているケースもあるのではないかと思います。

 つまり、邦キチの感想が場において面白く成り立っているのは、邦キチの話に対して部長が毎回ツッコむからこそ成立しているという話ではないかということです。そこにあるのは部長と邦キチの人間関係であって、つまり、それが池ちゃんにはないものだと思います。

 

 自分の何かしら偏った内面を開示しても、それに的確に反応を返してくれる人がいれば平気です(邦キチに関しては、それが無くても大丈夫そうですが)。だからこそ、恐れずに自分の思ったことをガンガン言っていくことができると思います。それがないなら、スベるリスクを怖れて、ぼんやりとした否定的なことを言われにくい情報だけの提示で済まそうとしてしまったりもするのかもしれません。

 

 一方で、この「自分の感想が面白くない」という池ちゃんの身も蓋もない内面開示に対しては、ネットで多くの反応が寄せられました。つまり人間は、人間のどうしようもなさのむき出しの部分に興味があって、それが提示されたときには反応を返してしまうんだと思うんですよね。

 この文章もまたそういった気持ちから書かれています。

 

 つまり、池ちゃんに必要なのは、感想において「自分がどう感じたのか?」という部分を隠さずに喋るということではないかと思っていて、そして、それを怖がらずにやるための、まず受け止めてくれる人間関係が必要という話ではないかと思いました。

 

 この話はまだ前編で、後編がどうなるかはまだよく分からないので、僕がめちゃくちゃ的を外したことを書いている可能性もあるのですが、ともあれ僕が思ったことの開示としてこの文章は書きました。

 なお、この文章は3000文字ぐらいです。

コミティア138出ます情報

 2021/11/21(日)開催のコミティア138に出ます。東京ビッグサイト青海展示棟開催で、スペース番号はH09bの「七妖会」です。

 

 それでお知らせなのですが、

 なんと今回は、ティアズマガジンにインタビューをしてもらった記事が載ります。良かったら読んでください。

 これまでプッシュ&レビューに何度か載せてもらったり、宣伝漫画を描かせて貰ったり、今回インタビューをしてもらったりしたので、今後も継続的に参加して、いつかは表紙なんかを描かせてもらえたら、コミティア育ちのある種の到達点まで行けるな!と思ってしまいますが、そんな話は今のところ全然ありません。

 

 とにかくそれは良かったな、やったぜ!という話なのですが、今回もできれば新刊なりコピー本なりペーパーなりを何か出したいとは思っているものの、今のところ、本業の仕事と他にやってることで全てが手一杯で何も目処が立っておらず、でも何か新しいものは出したいような気がしています。

 手がちょっとでも空いたら何か作るとして何が出せるかな?と思うのですが、今日でもう10月も終わりって話じゃないですか。時間が全然ないじゃないですか。厳しい。

 

 でもなんか出しますよ!きっと。いや、出なかったとしても僕は現地にいるでしょうし、前回の新刊も若干残っているので、売るものはありそうです。まあ、来る人がいたら、寄ってみてください。

 なんか描ける目処が立ったらまた報告します。

漫画で格闘シーンを描くのは難しい関連

 この前、新しく描いた漫画(そのうち掲載情報を告知します)で格闘シーンがあったのですが、なんかすごく難しかったんですよね。

 

 人が喋っているシーンは、顔とセリフが描けたらなんとなく成立するんですけど、格闘シーンって動きを描かないといけないじゃないですか。人と人がどういう位置関係にいて、どのような攻撃をした結果、受けた相手がどうなったかというように伝えないといけないものがとても多いです。

 漫画を描くのも基本的にはコミュニケーションだと思います。なので、僕が描いた絵と文字は、読者が意図通りに理解してくるような形になっていなければなりません。そのための技法に関して、僕自身にストックがなく、じゃあどうやったら頭の中にあるこの動きが伝わるのかなあと考え込んでしまいました。

 

 でも、それ以前に僕の頭の中にある動きが納得感のあるものなのかどうか?という課題もあります。

 

 八極拳の使い手を漫画に出したんですけど、そもそも八極拳について主に漫画、そしてゲームのバーチャファイターぐらいでしか知らないので、実際どういう原理で攻撃力が発生しているのかの理解があやしいなと思いました。

 そこで、YouTube八極拳の動画を色々見たんですが、それで分かったのは、僕のこれまでの理解の間違いみたいなところです。

 

 とりわけ八極拳がそうですが、漫画中国拳法の原理は「踏み締めた足(震脚)から上がってくる力を螺旋状に巻き上げ、打突部分に集中して吹っ飛ばす」みたいな感じだと思うんですけど、実際の動きを動画を見た感じだと、基本的には体当たりというか、大木のような太さを感じる体幹を相手に対してぶつけているというように見えました。

 つまり、直接ぶつける部分が肘であったり、背中であったりするものの、体全体を一体化した重みとして、相手にぶつけているようなイメージです。

 

 そして、ネーム(コマ割りとセリフを含めた漫画の設計図)で描いていたアクションは、漫画中国拳法の方だったので、早々にリアルな拳法の動きを描くのは諦め、嘘を描くことにしました。嘘とはいえ、その原理を読者に理解できる形にしなければならず、誇張表現としては震脚の強さと、流線による力の動きの表現を入れることにしました。

 力がどこから発生して、どのように伝わるかが描ければ、そこに理解できるものが生まれるのではないかと思ったからです。また、その威力は、攻撃を受けた相手が吹っ飛ぶことで表現できると思いました。

 

 衝撃の強さに関しては、ホワイトの飛沫を飛ばせば強調できるなとか、学ランの黒ならば、動きの流線と服のシワを一体化させることで見せやすくなるななどと、色々なことを考え、どうにか格闘アクションのシーンを組み立てていきましたが、すごく難しくて、それが上手く伝わるかどうかは、読んでもらってという感じです。

 

 色々細かいことが分からないんですよね。例えば、デカい擬音を描けば、威力の強さが出ると思うわけじゃないですか。でも、デカい擬音って絵を隠してしまうので、少しでも伝えるために描いている絵が隠れたら伝わりにくくなるかもしれません。

 僕はリアルじゃなくて記号的リアリティのある絵を描いているという自覚があって、例えば、光源的に何も正確ではない影であったとしても、描いておけば立体感を補足する情報と使えるとか、手前と奥に何かものをおけば、空間があることを演出できるとか、ちょっとした描写で上手く見る人の脳を騙して、頭の中でいい感じに再現してもらおうとしているわけです。

 でも、記号的であるからこそ、その記号部分が隠れたら意味が通らなくなりますよね?例えば「め」と「ぬ」の右下の部分が隠れていたら、文字情報は上手く伝わりません。記号は完全な形をしていなければ記号としてのていをなさないわけです。

 

 なので、擬音をデカく描きつつ、記号のディテールを隠さない配慮が求められるわけで、その方法としては、擬音の中を透明で抜くとか、キャラの後ろに擬音を回り込ませるみたいな技法が必要となってくるわけです。

 そういう気持ちで別の格闘漫画などを読み直すと、ほんと実に様々なアイデアとともに配慮の行き届いた表現がされていて、すごいなー!!って気持ちになったりしました。

 

 ちょうどその漫画を描き終わった後に、大ベルセルク展に行ったのですが、自分が格闘シーンを描くということを一回やってから見ると、本当にベルセルクの格闘シーン(というかバトルシーン)が、洗練されたアイデアとともに、高度な演出技法で構成されているものであることがよく分かった気がして、本当に感激してしまいました。

 

 ベルセルクは本当に高度な演出技法で作られた漫画だと思って、伝えたいものを万全の形で読者に伝えるということに対して徹底的に考え抜かれています。威力を表現する際に、どこから力が発生し、それがどのように伝わって、結果何が起こるかの組み合わせだけでも大量のバリエーションがあり、めちゃくちゃ伝わってきます。

 これはきっとバトルシーンだけではなく、それ以外の部分でもそうで、何かを伝えるときに、それを過不足なく効果的に伝えるということで僕は読みながら感激していたんだなという理解が深まりました。

 

 何か伝えたいものがあったときに、それをどのように伝えるのか?という部分があるわけじゃないですか。漫画はネームが命であると言われるのは、そこに「いかに伝えるのか?」という演出の設計図があるからではないかと思います。伝えたいことのテーマ性みたいなものが一致している作品があったとしても、そのいかに伝えるかという部分によって大きくその伝わり方が異なってしまうのではないかと思います。

 なので、物語の出来事の羅列としてのプロットや、そのつなぎ合わせのストーリーみたいなものは、読んだ側に訴えかける力としては、演出よりも重要度は実はかなり低くて、そこにある良さをどうすれば読者に伝えるか?という演出を考えるところがめちゃくちゃ重要なんだなと思いました。それがネームの部分である程度決まるので、だからネームを描くのは難しいんだろうなと思います。

 

 漫画の原作でも、文章原作とネームまで描く原作は、演出手法の記述という意味でかなり異なっていて、原作の意図する演出までを効果的に伝える手法がネーム原作で、より原作者の意図が明確になったものなんだろうなと思います。

 

 ほんと難しいですね。漫画はそのうちどこかに掲載されるので、その時がきたら読んでくださいね。

無自覚なパワーハラスメント関連

 「パワハラは悪い」ということは、賃労働に従事する上で、まともな遵法意識があれば合意できることだと思います。しかし、世の中にはパワハラ は存在し続けています。でも、そのパワハラ をする人が法律なんて守る必要がないと思っているとも限りません。

 

 最近色々見たものがあるので、それで思ったことを書いておきます。

 

 パワハラ は悪いと思いながら人がパワハラ をしてしまうことがあります。その矛盾する状態は、その人のパワハラ 行為に対して「これはパワハラ には該当しない」と認識するだけで辻褄が合います。

 そして、その境界は割と曖昧なものなのだと思います。ある人が、これはパワハラ に該当しないと思っても、別の人はそれはパワハラ だと判断することがあります。

 

 パワハラ の定義は以下の3つの全てを満たしたものです。

  1. 優越的な関係を背景として
  2. 業務上必要かつ相当な範囲を超えたものにより
  3. 労働者の就業環境が害される

 ここで曖昧となりやすいのは、「業務上必要かつ相当な範囲を超えたもの」という部分をどのように解釈するかという部分だと思います。パワハラ をする側はそれを「必要で仕方のないこと」だと考えようとし、された側はそれは「必要なことではなく相当な範囲を超えている」と判断したりします。

 また、法律の範囲でパワハラ に該当しないレベルのものであっても、そのようなやりとりは人のモチベーションを大きく下げたり、離職のきっかけになったりもします。でも、人は何かの基準を自分に甘く他人に厳しく捉えようとしてしまいがちなので、そういうことは世の中の至る所で日々起きています。

 

 僕個人が考えているところでは、自分が仕事で部下に何らかの指示をするとき、相手が僕のこと指示を聞く根拠が「僕が上司で、相手が部下だから」しか見つからなければ、そこには何らかの境界を踏み越えてパワハラ が発生する可能性があるだろうなと思っています。

 つまり、上司と部下という関係性だけを元に言うことを聞かせる場合、そこには役割しか存在しないということだからです。そこでは、それ以外の人間的な部分は考慮する対象から除外されてしまいます。

 人間と人間としては問題のあるやり取りであったとしても、「自分が上司で、部下であるアナタは、職務上の内容なら言うことを聞かなければならない」ということになると、そこに何らかの澱のようなものが溜まってくるものだと思います。その領域では無自覚に踏み越えたことを言ってしまう可能性が高まってしまうと思います。

 

 最近見た事例では、パワハラ をした人は、自分では正しいことを言っているという自信があるようでした。しかし、それはやはり問題視されていて、処罰が発生してしまいました。

 なんでこんなことが起こってしまうのかなと思うのですが、思い当たるのは「拙さ」です。結局のところ、他人に自分の言うことを聞いてもらう方法が、「有意的な立場によって命令をするだけ」という方法しか身につけることができなかったという悲しさがそこにあるような気がしました。

 

 他人に言うことを聞いて貰う方法は他にもたくさんあります。例えば、持ちつ持たれつの関係性になることで、過去の恩義をベースに言うことを聞いてくれたりします。あるいは、相手に好かれることで、こちらを助けることが相手側にも喜ばしいこととして捉えられる状況になるなどもあるでしょう。他には、目的を共有することで、それぞれが納得づくて、同じ目標に向かうことを勧めることもできたりします。

 他人に指示を出す上で「相手の望まないことを、優越的な立場を背景に無理やり言うことを聞かせる」以外の方法は他にもたくさんあります。いや、そもそもは、そういった部分がなくとも動けるのが、仕事の良い部分でもあるとも思います。でも、働きやすい環境というものは、そういう雇用契約には含まれていない領域に対するケアが、少なからずあることでやっとできるものなのではないかとも思うんですよね。

 

 それがなくとも働きやすいと感じられるのだとしたら、イレギュラーを全く含まない、完璧な計画と、それをしていさえすれば品質を満たせる完璧な基準、そして、働く人がその条件を決して逸脱しないことが条件になってしまうと思います。その状況であれば、無理に言うことを聞いてもらう必要はなく、淡々とこなせばいいだけだからです。

 でも、現実にはそんなことがあり得るのはごく一部の領域だけだと思います。もちろん不確定要素はできるだけ排除するようにしますが、それでもイレギュラーなことは絶対に起きます。外的要因でスケジュール変更が発生したとき、やらなければならないことが不確定で、試行錯誤の中で見つける必要があるとき、部下があげてきた仕事が、求める品質に満たなかったとき、様々なイレギュラーが存在し、それを何とか目標に向けて軌道修正して納めなければなりません。

 

 そういった場所で大きなイレギュラーを前に、当初の目標に向かって大きく力を使って制御をしなければならないときに、他人への強い指示が発生します。そして、そこでパワハラも発生しうるものではないかと思います。しかし、指示している側は、目標に向かわなければならないのだから、それをしなければならないのだと思っているだけかもしれません。それでも境界を踏み越えるほどの強い力を発生させてしまえば、それはパワハラになってしまうことでしょう。

 

 思うのは、計画通りに淡々と何かをやっていられれば、パワハラが起きる機会はグッと減るだろうなということです。そして、イレギュラーに立ち向かうために強い指示をしなければならないときにも、優越的な立場の行使以外の方法も身につけていれば、その力を強くしすぎないで済むだろうなということです。

 僕が直近で見た事例では、大きく何かを動かさないといけないのに、そこで強い言葉で命令する以外の選択肢を持たない、拙さを抱えた人がしでかしてしまったことだと思いました。人が悪いというわけでもないんだよなあと思いながらも、やったことはやったことなので、相応の処罰を受けてもらうとして、そういったことがそもそも起こらなくなるような環境や状況を整備することもできた方がいいだろうなと思いました。

忍者と極道展に大阪まで行ってきた日記

 「忍者と極道」の原画展に行ってきました。

 

natalie.mu

 

 グッズ絶対欲しいなあと思ったので、どうせ行くなら売り切れる前に買いに行くのが正解!と思って初日に行きました。今はまだワクチンの効果が高く、世の感染の情勢も落ち着いているので、久々に遠出をするならチャンスだなと思ったからです。

 なので、朝早く起きて新幹線に乗り、大阪は日本橋のモモモグラまで行ったのでした。

 

 そういえば、僕が最後に大阪を訪れたときもモモモグラに来ていたことを思い出しました。

 僕は埼玉に住んでいるので、会場は遠いんですが、なんとかチャンスを見つけて行っています(徳島県に帰省する途中とか結構色々タイミングがある)。他には山田参助展や山口貴由展にも来たと思います。

 

 会場が13:00に開くので、12:45ぐらいにと思って着いたのですが、既に列が形成されて整理券が配られて一旦解散という状態だったようで、僕は追加で刷られた整理券をもらって番号は106、前に100人以上いるので、おそらく入場は16:00頃になるだろうということでした。

 もうちょっと早く入れるかなと思っていましたが、思った以上にめっちゃ人気で嬉しくなってしまいますね。普段はネットでの盛り上がりしか見ていないので、リアルに人間がいるということに本当にネットの向こうには人間が存在するんだ!と思いました。

 

 とにかくそこから3時間どこかでつぶすことになったので、散歩がてらラーメン屋に行っていました(鶴橋のひるドラというお店です)。

 

 

 その後も、散歩したり、喫茶店で漫画を描いたりしつつ、モモモグラツイッターをチェックして入場タイミングを確認していましたが、結局、当初の予告通り16:00入場となって、着いてからも人数調整でしばらく待った後でついに入場。

 

 そんですげえ満足しましたね。みんなも忍者と極道が好きなら行った方がいいです。

 

 原稿は最終的にはデジタルで仕上げをされているので、展示されているのは、主にキャラクターのみがペン入れされた原画なのですが、展示されている原画のチョイスが本当に好きなページばかりで、選定を行った劇画狼さんのセンスが本当に信頼できるなあ!と思いました。写真も撮ってよかったので手元に色々ありますが、まだ始まったばかりなので貼りません。行ける人は行って見てください。

 とにかく、どうやって見せるかというアイデアが画にいっぱい詰まっていて、面白くて、そしてカッコいい。ほんと今一番面白い漫画のひとつだと思います。

 

 また、連載前のプロトタイプのネームの展示もあり、実際に描かれたものとの一部大きな差があって、完成版になるにあたってどういう変遷を辿ったのかも想像できて面白かったです。

 

 さて、絶対買おうと思って思ってたグッズの話ですが、既に灰皿と湯呑みが売り切れており、セリフの入った湯呑みは絶対ほしかったので、その場で次の生産の予約注文を頼みました。増産されるそうで、通販もこの週末ぐらいから始まるので、欲しい人は買いましょう。

momomogura.base.shop

 

 僕が買ったのはTシャツ2種類、ロゴ入りライターセット、マスキングテープ、クリアファイル(オタクはいくらクリアファイルを買ってもよい)です。あと、帰りがけにガチャガチャを一回だけと思って回したらシークレットが一発で当たったので、それも入手しました。

 

 また、現在は既に品切れになっていますが、グッズを11000円以上買うと、一点ものの本物の下描きがもらえるキャンペーンもやっていたので、それも見事手に入れることができました。

 ほら!見てもいいですよ!逢魔賀くんが野球のバッティング対決をする場面で、めっちゃ好きなところなのでよかった。

 

 とにかくよかった。夜には人と会って、とにかくよかったという話をしました。

 

 翌日は朝からラーメンを食べに行き(布施の魚々麺 園)、

 

 友達と会って、パフェ的なものを食べ、

 

 551の豚まんを買って帰りました。

 

 久々に出歩いて楽しかったです。原画の展示物は前期が「忍者編」で後期が「極道編」に変わるそうです。特に関西に住んでいる人は行きやすいと思うのでオススメです。