漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

お話の作り方の個人的な方法論関連

 お話を創作をしている友達や雑誌の編集さんと話していて、たまに「それはお話になりますね」と言うことがあります。それはつまり、お話を構成する最小の構成要素がそこにあるので、あとは肉付けすればお話になるだろうなという見通しが立っているということです。

 

 それが実際面白いお話になるかどうかは未知数ですが、お話ができあがるためには、最小の構成要素というものがあると思います。例えばその一例は「何かが変化する」というものです。そのお話を通じて、始まる前と終わった後に何かが変わっていれば、それはお話になると思います。その中でも分かりやすいのは「心」です。お話が始まる前と終わったあとで、一人の人間の心が変わっていれば、つまり、その変わる様子を伝わるように描けばお話になります。

 その最小構成要素さえ決まれば、あとはその変わる前の心と、変わったあとの心、そして何故その心が変わったかを肉付けしていけばいいということになります。

 

 変わるものは別に「心」でなくても構いません。例えば「肉体の変化」でも成立しますし、「人と人との関係性」でもいいと思います。あるいは「世界の変容」でも成立するでしょう。とにかく何かが変わる瞬間を思いつけば、あとはそこに色んな要素を足していけばお話になるという算段がつきます。

 変わって良かった話もありますし、変わって悲しい話もあります。変わる過程がドラマチックな話もあれば、いつの間にか変わってしまった何かにあとで気づく話もあります。

 

 念のため書くと、これはあくまで方法論のひとつなので、何も変わらないことを描く物語も当然あります。

 

 物語を作るときに迷ったときには、この話では何が変わるのか?ということをまず決めるとやりやすくなります。それは読切漫画でもそうですし、連載の中の1話でもそうだと思います。あとは、一つのお話の中で変わるものは、多層的でもいいと思います。ただし、あまりに多すぎるとフォーカスがブレてしまうかもしれません。一息で読めるお話の場合は、変化するものはおそらく3つぐらいが読者の多くが許容してくれる限界なのではないかと思います。

 具体例を挙げるなら、「世界が変容し」「その中で人間関係が変わり」「それによって人の心が変わる」というようなものです。

 

 とにかく何が変わるかを決め、それがどのように変われば読者に効果的に伝わるかを設計すればとりあえずのお話は出来上がると思います。

 何が変わるかを決めるときには、それが変わることに意味があるものを発見しなければならないので、何が変わるといいのかのストックは沢山持っているにこしたことはないと思います。そのための方法は例えば、色んな漫画や映画や小説やゲームなどを見て、自分の心がどこの変化で動いたかを知っておくなどがいいかもしれません。

 

 このような変化がお話になるという考え方で言うと、例えば「世界観を設定する」や「能力の設定を作り込む」などはあまりお話を作ることと関係ないということになります。長大な設定資料を作ったところで、それそのものは変化を含まないのでお話になりにくく(もちろん、世界観や能力が変化するということを描くことはできますが)、それらに時間をかけても、それだけではなかなかお話は完成しないことも多いのではないでしょうか?

 

 もし世界観や設定を作り込むなら、それが何かが変わる前と変わった後、いかに変わるか?ということを簡便に表現する手段として作るのが効果的な方法だと思います。例えば、「感動すると頭から火が出る」というような設定があれば、「人の心が感動した」という変化を、絵的に表現することが簡便になります。

 例えば、「人と人が殺し合うような世界観」があれば、日常では緩やかにしか起こしにくい心理の変化を、急速に起こすことで、短いページで簡便にお話を展開させられるかもしれません。

 

 例えば僕が今やっている連載の「ゴクシンカ」は、「他人と関わることが苦手な人間の心が変化していく様子を描く漫画」として設定してあります。そして、その変化を効果的に描くために、トラウマを視覚化できるという能力を設定することで、心の変化を絵的に見せることができるようになったり、ヤクザの世界を舞台にすることで、人の状況や心を追い詰め易くするすることができるようにしてあります。

 つまり、あくまで描きたい変化を、少ない手数で効果的に描けるようにするために設定は作っており、設定ありきで、そこからお話を考え始めたわけではありません。

 

 僕は感性のようなものが乏しい人間なので、その隙間を理屈で埋めてお話を作っています。変な漫画ばかりを描いていると言われることがたまにありますが、別に変な漫画を作ろうと思ってそうしているわけではなく、合理的に考えて一番効果的な手段を選んだら、それが人によっては変に見えるという感じではないかと思います。

 

 2月19日に開催されるコミティアにも新刊として短い漫画を描こうと思っているのですが、それも何が変化する漫画であるかだけは決めてあるので、どのような話になるかはまだ未知数ですが、おそらく完成するだろうということだけは見えています。あとは、他の仕事で手一杯になって描く時間がないかどうかということだけが気がかりです。

 「お話になる」と思ったら、お話が完成することは約束されているなと思います。僕の場合は、このようなやり方をしていますが、他の人には他の方法論があるかもしれません。

 皆さんもどうやったらお話ができるかの方法論を考えてみてもいいかもしれませんね。

仕事で必要だから資格試験を受けた関連

 色々この先の仕事をする上で必要になったので、仕事関係の資格試験を受けました。多分合格圏内の得点はとれた雰囲気なので、まあなんとかなったなという感じでいます。基本的にこういう試験は過去問を解けるようになっていれば大体大丈夫なので、色々と時間を捻出して過去問を解きました。

 あとは法規の問題もあって、そういえば最新の法規を一言一句確認したり、近年の法改正とかをちゃんと追っていなかったかもと思って関連法規を最初から最後まで読んだりしたのですが、結構細かいところ把握していなかったなと思って、せめて自分が関わっている仕事の関連法規ぐらい正確に把握しておくべきだと反省しました。

 

 実務はやっているので、実務系の部分は大体勉強しなくても分かるなと思っていて、ただし、僕が直接業務上関わっているわけではないところは、別の部署の人とやりとりもするので、言葉は知っていたり、それがどういう意味かは分かっているつもりでも、現象を科学的に正確に理解していなかったりするなと思って、本当は分かっていないくせに分かっているふりをしていたなと思いました。

 それでも僕は専門家として扱われていて、向こうに話を振られてもそれっぽい答えを返しているので、向こうからすれば分かっているか分かっていないかが区別がつきにくそうだなと思いました。

 

 AIが適当にそれっぽいデタラメを返すのと自分のそのような発言の間はそんなに広くなくて、なんとなくそれっぽい返答をしているから、伝わってないけど伝わっているように勘違いして上手くいったような気になるのって、日常的にその辺に溢れているように思います。それで割と問題なく回ってたりするんですよね。

 

 就職してからの技術分野の網羅的な勉強をする機会って、こういう資格試験とかを受けるときだけだなと思います。それ以外は大学と大学院で勉強したことからアップデートされてないところもあって、いや、ほんと最新の動向分かってないですよというのと、自分が分かっていないことにも気づく機会ってあんまりないなっって思うのとがあります。

 

 インターネットで技術詳しい人っぽい人のアカウントが、ちゃんと近年の論文とかで技術動向を追ってたら絶対言わないようなことを言っているのを見たときに、この人、自分は理系人間で技術動向詳しいですよって他人に高圧的に振る舞っているくせに、肝心の技術全然詳しくないじゃんって思って、僕が知らない分野についてもどうせ適当なことを言っているんだろうなと思ったりすることがたまにあるのですが、僕自身もそういう人とどれほど差があるかというと、遠くなく、繋がっているだろうと思います。

 

 知ってそうな顔をしていて、誰かにそんなことも知らないのか?とか言ってたら、一見詳しそうじゃないですか。でも、それってそれっぽく見えてるだけで実際どうかは分からないですよね。本人自身にも分からなくなってることってあるので、嘘ついているわけではなくそういう袋小路に入り込むことも多いのではないかと思います。怖い怖い。

 

 結構前の話ですが、会社の中のTOEICの基準点の話で、当時働いていたところではTOEICの最低基準点があったのですが(確か840点ぐらいだったと思います)、別にTOEICの点数が高くても英語でコミュニケーションとれるかは分からないじゃないですかって話をしたことがあって、そのときの返答は、TOEICの点数は英語力を意味しないけど、英語力がある人がTOEICの点数とれないなんてことはないから、あるふりをしている人を初手で弾けるので便利という返答でした。

 

 他の資格についてもそうで、資格を持っているからといって一定の技術力があることは保証されませんが、全く分からないのに知ったかぶりをしている人は資格をとれないので、弾くことができます。

 

 つまり、人を一人一人見るのも大変なので、事前にスクリーニングをするために資格を使っているということで、どんな人か分からない人を相手にするときほど、資格の役割があるなと思います。他には、色んな作業をする上で資格保有者がいないといけないことも多く、今回は僕が現場作業を行う上での責任者になるために必要だった感じなので、さっさととれと言われてしまったのですが。

 

 日本では博士後期課程がそんなに重要視されないというのは、僕自身が研究機関で働いているときに思って、僕も前期課程のみで研究をやっていたのですが、ただ、海外の企業で働く話を貰ったときには後期持っとけよって言われたりして、それは結局僕が何かができるということの保証がないからだろうなと思いました。

 一方で、日本だと、研究者は学校推薦で就職が決まったりするので、その部分で何ができるかを見られていたりもするんじゃないかと思っていて、人間の能力の保証が、資格ではなく、どの先生のもとでやっていたかというような部分でとられているのかなと思ったりします。

 

 こういうところの悪い部分では、色んなことを分かっている顔をして、実際はろくに正確な専門知識がない人が、専門家のような顔をしているという状況があるということです。会社でもそうですし、インターネットなどではそれ以上でしょう。

 

 大人は試験を受けさせられないので、詳しい人と詳しいふりをしている人が見分けにくいですし、AIが適当に生成した嘘の情報を本当だと信じてしまう人がいるのも、検証プロセスがあるということに思い至らないための弊害ではないかと思います。

 

 この人が言っていることは正しいのか?ということについては、誰かが間違っていると言ってくれないと気づけないのであればしんどい感じがします。なぜなら、その間違っていると言っている人も間違ったことを言っている可能性もあるからです。

 検証プロセスがなければ、最終的には人を信じるか信じないかという話になってきますが、人は正しいことも言えば正しくないことも言うんですよね。間違ったことをよく言う人が常に間違ったことしか言わなければ、そんなに楽なことはないですが、この人の言うことだから間違っているんだろう、みたいな粗雑な態度で接していると、たまに正しいことを言ったときに、その足を取られてしまうと思います。

 

 何が正しいかをきちんと検証するプロセスがなければ、そういった党派の話にしかならないので意味がないなとよく思います。

 

 色々よくないなと思っていることがあるのですが、とりあえず今回は試験勉強の過程で、自分のよく分かってなかったところがいくつか分かったので、分かったぶんだけ少しはましになったなと思いました。

 こうやって少しずつましになっていきたいと思います。天国じゃなくても、楽園じゃなくても、あなたに会えた幸せ、感じて。

初めて作った同人誌の漫画をリメイクしました関連

 今出ているヤングキングに「ひとでなしのエチカ」シリーズの、「つじつま合わせに生まれた僕等」というエピソードの後編が掲載されています(前編は前号に掲載されているので電子なら買えます)。本作は僕が6年半ぐらい前に初めて作った同人誌の内容をリメイクしたものです。

 

 描き直しながら、この同人誌を作っていた当時は、自分に商業の漫画仕事をする機会があるとは思ってもいなかったので、色々あったなと思いました。

 同人誌の元データが古かったので絵はコマ割からやりなおしたり、台詞も修正したり、ページは多少追加したり、別の作品の入っている下りを省いたり、色々変えましたが、できるだけ当時の描きたかったことをそのまま再現しようと思って作業をしました。

 

 6年半経つと、自分の中でノウハウも増えているので、当時は使えなかったテクニックも沢山使って、出来栄えは良くなったと思うので満足感があります。

 

 最初の同人誌はかなり難産だった記憶があります。ネームが全然完成せず、このままではせっかく初めて申し込んだコミティアで本が出せない!と思ったことで、いきなり完成原稿を描き始めたのも良い思い出で、そうやって1ページずつもがきながら描いたことで、お話の作り方に対する手がかりもいくつか手に入れたので、その後は継続的に同人誌を作れるようになりました。

 

 僕が「つじつま〜」でやりたかったことは、「窮屈な人生の行き詰まりとその打破」というもので、その後も別の話で繰り返し描いている構造の話になります。「自分の人生が周りによって決められてしまっていて、自分はそれを受け入れる以外の余地がない」という苦しさは、僕自身がずっと感じていたことで、そして、そこから逃げるためには人生を降りるしかないという追い詰められに対してどのような答えを出せるのか?ということが、この話を作る上での重要な部分でした。

 

 今思い返して、当時なぜ話が上手く作れなかったかというと、自分の描いた描写にツッコミが入ってしまうからだったと思います。この描写は正しいのか?その前にちゃんと前フリがあるべきではないのか?ここでこう描くことはお話全体の構造として良いことなのか?絵が単調ではないか?アップに頼りすぎでないか?描きたくない絵を誤魔化していないか?などなど、色んなツッコミが自分の漫画に対して発生し、それを直さないと先を描けないと思っていたために、延々行ったり来たりと直してしまっていた、というような状態だったと思います。

 それに対しては、今も上手く解消できているとは思えないのですが、でも、そんなに窮屈でなくても良くない?と思ったことで、「話の内容」と「漫画の作り方」が構造的に一致したので、そう思った時に「終わらせられるかもしれない…」と思った覚えがあります。

 

 物語という存在は、ときに現実よりもずっと窮屈です。例えば、読者のヘイトを稼ぐ人物には罰が当たって欲しいですし、苦労をしている人には報われてほしいと思います。同様に、その人が救われるべき理由、罰されるべき理由が描かれていなければ、納得がいかなかったりします。そのため、物語上の出来事は必然に近いものとなり、そこに抜け出ることのできない窮屈さがあります。

 であればアンチ物語にすれば終わらせられるだろうなと思ったんですよね。物語はこうあるべきという前提をなくして、現実のように全く唐突に理不尽に、何かが起こってもいいじゃないかと思いました。それは作劇手法で言えば、デウスエクスマキナというものと似ていて、神のような存在が急に表れて全てを解決するというようなものになります。

 

 僕は物語の中でも、前フリなくいきなり降ってきた隕石が、登場人物の頭を直撃したっていいじゃないかと思います。福満しげゆき先生もそんなことが起こる漫画を以前描いていました。

 「つじつま~」の物語の中盤に登場した木下直純という男が担っているのはまさにそういう役割です。彼はその場その時の感覚で何でもできる人間として登場してくれています。直純はページをめくったら、全く理由なく誰かを撃ち殺すことができる人間です。彼がいることで、この物語は、どの角度からでも終わらせられるようになりました。いざとなったら唐突に彼が現れてその場にいる人を殺せば、なんにせよ話が終わるからです。

 

 それはしばしば読者からの納得を得られない作劇手法ですが、しかしながら、この物語はそのような窮屈さの中で選択肢がないことに苦しんでいる人の物語であったので、彼のような物語に囚われない人間の存在が「救い」と捉えられるものになります。唐突に現れ自分を殺す者が、自分の人生にとって救いとなる存在であるという皮肉な構造がひとつ意味のある話になると思ってこういう話になりました。

 

 僕がお話を終わらせられるようになったのは、このような考えに至ったというところがあります、それまでは整合性にこだわっていて、それゆえに自分を細かい部分で雁字搦めにして動けなくなってしまっていました。それを壊したっていい、繋がっていなくても、矛盾があったとしても、それを飲み込むような力があることの方が重要で、ロジカルではない作り方をすべきだとロジカルに考えることの大切さを考えるようになりました。

 「何かしてはいけないことをしていないか?」を考えるのは大切なので足を止めて考えるのもいいですが、足を気軽に進めるためには、自分のそういった縛りプレイを止めたりして、「していいこと」を増やすといいんだなと思いました。

 

 今もお話作りでは色々悩みながらやっていますが、それでお話が完成して面白くなると思えば、何をやったっていいんだという気持ちは大切だなと思い直せたので、リメイクできてよかったなと思いました。

サイン会のチケット争奪戦の記録

 1/28~2/19に大阪の画廊「モモモグラ」で、「ブラッドハーレーの馬車原画展」が開催されます。絶対見に行くぞと思っていたところ、沙村広明先生のサイン会が2/5に開催されるということが分かり、そのチケットがWebのストアで販売されるということを聞きつけ、せっかく埼玉から大阪まで見に行くならサイン会にも参加したいと思うようになりました。

 

 チケットの販売は、抽選ではなく早い者勝ちの売り方で(モモモグラは少人数で運営しているところなのであまり大掛かりなことができないそうです)、4回に分けて販売されることが告知されました。

 販売タイミングは以下の日程でした。

①1/21(土) 12:30

②1/21(土) 18:00

③1/22(日) 12:30

④1/22(日) 18:00

 

 参加可能人数は40名、つまり各回10名ずつということになります。競争率が非常に高いことが予想されましたが、ここにチャレンジすることにし、まずは忘れないようにスマホにアラームをかけて販売開始を待つことにしました。他の準備としては予めストアにクレジットカードを登録し、入力時間を削減する準備をしました。

 

・1回目のチャレンジ

 12:30に変わった瞬間にストアをリロードし、販売開始になっていることを確認し、クリックしてカートに入れます。その後、決済方法などの入力を確認していると、在庫不足のアラートが出て、自分が買えなかったことが分かりました。敗北です。

 この時点でまだ12:31分になる前であり、自分があまりにも甘々の甘ちゃん、これが秒を争う戦いであることを自覚していなかったことを思い知らされます。

 

 ちなみにこの時点で、Selenium等を使ってブラウザ操作を自動化し、最速で購入する方法も頭に浮かびましたが、他の人たちが手でやっている場合、なんか卑怯なのではないか?そんな方法でチケットを入手したサイン会を心から楽しめるだろうか?と思い、自分の中で却下します(なお、これは個人的なこだわりなので他の人が使っているのは別にいいです)。

 

・2回目のチャレンジ

 購入するときに必要な手順を改めて確認しました。迷っている暇など一瞬もないので、どのような操作をすればいいかを予め確認しておく必要があります。住所やクレカ情報は先に入れてあるので、チケットを選び、決済方法でクレカを選択し、購入のボタンを押せばいいことが分かりました。

 また、時刻が変わった瞬間に作業を開始するため、リロード時間も考慮しつつ秒単位の時計を見ながら、開始の時を待ちます。

 

 結果は買えませんでした。1回目とは異なり、購入のボタンを押せるところまでは行けたのですが、購入前に規約に同意するチェックボタンを押さなければならず、確認した素振りではその工程が抜けていたので、一瞬のやり直しが発生し、その隙に在庫なしのエラーが出てしまいました。

 ちなみにこの回では20秒程度で売り切れとなることが確認できました。チャンスはあと2回です。

 

・3回目のチャレンジ

 注文に至るための全ての工程を確認し、準備は万端、これで買えなければもう無理という準備をし、精神を集中しながらデジタル時計の秒表示を眺めます。今度こそと思い、自分に出来得る限り最速での操作をしましたが、結果はまたしても敗北。全てを上手くやり切った上での敗北なのでかなりの絶望感がありました。

 

 ダメだったと分かったあと秒を確認したところ18秒。おそらく操作自体は15秒程度で終わっていたかもしれません。これはもう10秒を切らなければならないのでは??と思い、人間の反射速度に挑む必要があるな…と思いました。

 この時点でもう買えないのでは?という気持ちと、とはいえ既に30人の猛者は買い終わっているので、あとどれだけ猛者が残っているかという話になります。

 

 お友達のジュンスズキさんも同じくチャレンジをしており、買えておらず、ラストチャンスこそはと励まし合っていましたが、一方で同じチケットを争うライバルでもあるな…とも思いました。

 

・4回目のチャレンジ

 結果から書きますが、買えました。やったぜ!!

 僕のやり方は3回目と同じですが、かつてなく集中した効果もあったのかもしれません。購入後に興奮していて秒数の確認は忘れていましたが、多分15秒以内には手順が終わっていたと思います。ジュンスズキさんも同じく買えていたので、10秒以内で動ける猛者たちが過去の3回で価値抜けて、強いライバルが減っていた可能性もあります。

 

 とにかく買えました!良かった良かった!2/5には大阪に絶対に行きます!!!

 

 僕は、描いている漫画を読んでくれた人から、沙村広明先生の影響が見えますねって言われて、「正解!」って思うぐらいに影響を受けているわけですが、特にコメディ方面の会話劇の雰囲気などに影響を受けていると思います。絵も真似したいですが、上手すぎて全然真似できていません。

 

 サイン会などに参加すると、毎回いつも絶対に好きな漫画家さんを前にしてキョドってしまい、その後、それを思い出しては凹み続けるのですが、それでも楽しみです。

 

 最近は色んなこと(主に会社の仕事)で逼迫していて大変な毎日なのですが、先に楽しみなことがあると良いので、直近ではこのサイン会を楽しみに日々をやっていこうと思っています。

漫画家はTwitterをすべきではないか?関連

 ちょっと前にWebラジオでこういう話をしたので、自分の中でのまとめとして書きます。

www.youtube.com

 

 すごい漫画家はTwitterを常用しないということは実際その傾向があると思っていて、商業的にヒットをした漫画家さんがTwitterをやめたり(商業の名前を出してないアカウントはやっているかもしれない)、仕事の告知のみになったりすることはいくつもの事例があります。また、何百万冊も売るようなヒット作家はそもそもTwitterをやっていないことも多いです。やっていても頻繁につぶやいたりしなかったりします。

 

 すごい漫画家がTwitterをやるべきでない理由もいくつか思い当たります。

 

(1)一対大量のコミュニケーションのストレス

 人間はそんなにたくさんの人間とコミュニケーションをとれるようにはできていません。例えば、一つのツイートに対して数百のリプライがつくほどの人気者がいた場合、その数百人に対して個別に反応を返せるでしょうか?その場合、時間がいくらあっても足りません。なので、一方的な発信にならざるを得ないと思います。

 また、沢山の人に見られる場合に、そこには様々な立場の人がいます。人は自分の考えと異なる人を見ると「違う」と指摘したくなるものだと思うので、大量の人を相手にすると、何を言っても誰かに「違う」というコメントをされてしまうと思いますし、中には悪意を持って「傷つけてやろう」とするようなコメントをされることもあります。

 最初から全て見ないと思っていればいいかもしれませんが、自分の言葉がどこかにぶつかっている様子を常に見せられるとそこに精神力を持って行かれる可能性がありますし、普通にしんどいだろうなと思います。

 そのため、非常に沢山の人に見られてしまうようなすごいクリエイターは、一方的な告知などをするだけの使い方をするか、コメントを一切見ないという鉄の意志を持たなければ、日常のリソースを対人の認識に多く持っていかれるので、生活を持ち崩してしまう可能性があるのではないでしょうか?

 なので、やらないことにもやめることにも正しさがあると思います。

 

(2)思いついたことはツイートではなく創作の形で発表する方が得

 初めて見た新鮮さというのは大事なことで、僕自身、僕の描いている漫画を友達が読んで「何が面白いのか分からなった」とコメントを貰ったことがあります。それは「お前が日頃から言っているようなことが描いてあるだけだから」という理由でした。ただし、僕と日頃から喋っていない相手には新鮮な意見として映ったという感想も貰っており、その内容に触れるのが最初か最初出ないかということは読んだときの感想に関係してきます。

 なので思いついたことをTwitterなんかに書くぐらいなら創作で表現した方が効果的ですし、その方が作品の方をより多くの人に面白がって貰えるかもしれません。

 

(3)作品に作者というノイズをまぎれさせない

 作者と作品を完全に別物として認識できる人はまれです。また作者も人間である以上、人間としての好悪が生まれます。Twitterでの振る舞いが人間的な好悪の悪として判断された場合、作品の方を素直に読んで貰えない可能性がありますし、読みながら作者の顔がちらつくことで楽しめなくなる可能性もあります。

 とりわけ政治的な話題のような人によって立場が異なる話題については、そうなりがちです。なぜなら、ある立場の人は、別の立場の人の意見を許容できないことが多くあるからです。政治的な立場というのは、本人の意志程度ではどうしようもないものだと思っていて、生まれ育った場所や置かれている環境によってどうしようもなくあるものであったりすると考えています。なので、ある人にとっての正しい政治的な立場が、他の人にとってもそうだとは限りませんし、他人の立場からの意見を受け入れると、自分の立場が不利になることもあるので許容しづらく、共存も難しい場合も多々あり、それゆえにその意見表明が多くの人との間に溝を作ってしまうことがあります。

 僕はこれは仕方がないことだと思っていて、むしろそうであるからこそ、政治というものが社会で大事な事項として色々と揉めながらも議論され続けているのだと思います。

 

 例えば、「みんな揉めずに仲良くしましょう」というのは、実は立場の弱い人の意見表明を封殺することかもしれません。だから政治の話というのは常に揉めるものだと思っていて、何かの立場の表明は別の誰かの立場に否定であったりして、人が自分と異なる立場の他人の政治的態度を許容できないのは割と普通のことです。

 それ自体は当たり前のことだと思いますが、それによって作品を楽しんで貰える人が少なくなることが、クリエイターとして不利になるということはあると思います。それならばそこがノイズとならないように、クリエイターの名前では発信をしないというのもひとつの判断です。

 

 このあたりが代表的な理由として思い当たり、沢山の人の注目を集められるようなすごいクリエイターは、Twitterを人間という立場でやるほど嫌な気分になることが増えるのではないかと思います。影響力が強いということはそんなに良いことばかりではなくて、自分が発した言葉の力も大きく跳ね返ってきてしまいます。そんなストレスにわざわざさらされる必要が感じられないなら、やらなかったりやめたりすることに正しさがあるだろうなと思います。

 

 じゃあ、すごくない漫画家というか、僕こと、インターネットのなんでもないアカウントが最近急に漫画家になった立場としては、今後もTwitterをこのままやっていくのかというと、「やっていく」という判断になります。理由はすごくないからです。すごくないので上記のデメリットがそんなに大きくなく、逆にメリットも多くあります。

 

 メリットというのは、これまでも書いている宣伝効果の話で、新人漫画家の自力宣伝手段ってほんと「ない」んですよね。店頭に本が置かれるのも新刊として取り扱われる最初の1ヶ月だけでどんどん手に入りにくくなりますし、雑誌を読む人が減っているので、その漫画が存在することそのものがあまり知られていません。出版社の宣伝も、基本的にはどこの出版社も、売れているものに宣伝を集中させるので、新人に手厚いことはまれです。

 

 なので、新人の漫画って放っておくと特に話題にもならないままに消えていくのが普通だと思っていて、僕自身が読者として、こんなにも面白い漫画が世間で話題にならずに終わっていくなんて!!と憤っていたことも昔から多々ありました。近年は電子書籍で買いやすくなったこともあり、連載が終了後に、やっと面白いということが世間に広まってきた漫画も色々あって、それで連載が再開された作品も色々あります。再開するぐらいなら、最初から止めなければよかったじゃないかと思わなくもないですが、その時点では結果がでなかったのは仕方がないことでもあると思っていて、面白いものが今描かれているという時間の流れと、それが世間に広まるという流れの足並みが一致しないことの方が世の中には多いのではないでしょうか?

 

 Twitterに情報を流すのはその流れの足並みを揃わせられるための手段のひとつで、「Twitterなんてやらない方がいい」と言えるのは、ネットでの宣伝なんかしなくても全然漫画が売れている人だからこそ言えることだなと思ったりします。ワイのような知名度も実績もない者にはTwitterでお伝えするぐらいしかないんや…。

 

 宣伝を頑張っているおかげでフォロワーの数も増やすことができ、副次的に良いこととしては僕が好きな漫画の宣伝にも協力しやすくなったというところがあります。面白い漫画はあるのに、それが十分に人に届いていないという問題とはずっと向き合っていて、自分の漫画もそうなのですが、自分が好きな漫画もできるだけ僕が思っている面白さに見合う以上に売れて欲しいと思っています。

 

 実際、世界は自分とは違うのでそれは一致しないかもしれませんが、漫画家はTwitterなんてやるべきじゃないと言ったときに、Twitterをやらない方が漫画がより面白くなり、漫画がより売れたりするでしょうか?答えは漫画家の数だけあり、それぞれの人が選んでいく話だと思います。

 やってもいいしやらなくてもいい。僕はやる方が得だと思っている。そういう話です。

2022年の良かったこと悪かったこと関連

■良かったこと

第1位 漫画の連載を始められ、単行本も2冊も出せて、いろんな人に漫画の内容を褒めて貰えた

 

第2位 人間関係に恵まれ、憧れの人を含めた色んな人との出会いがあり、何かしらの集まる会や、イベントに呼んで貰えたりする機会がたくさんあった

 

第3位 HUNTER×HUNTERの連載が再開して、あまりにもおもしろい

 

■悪かったこと

第1位 会社で管理職になる覚悟を決めたものの、想像以上にやらないといけない範囲と量が多く、とてつもなく疲弊をしている

 

第2位 仕事のストレスに美味しいものをぶつけて相殺しようとしてせっかく順調に痩せてたのにまた太り始めた

 

第3位 HUNTER×HUNTERがまた休載に入った(次の再開に希望は持てるので全然待ちます)

 

 色々ありましたね。トータルだとすごく良い一年でした。来年も良くあってほしいです。

 ちなみに今日新しくあった良いことは、一年ぶりに会ったら二足歩行をするようになっていた甥っ子に向けて手を伸ばすと、ハイタッチに応じてくれるようになっていたことです。

 

 

インターネットでの距離の詰め方とその是非関連

 ダ・ヴィンチ・恐山さんを僕が毎週参加しているWebラジオ「人生思考囲い」のゲストのお呼びしました。僕はもともと恐山さんとARuFaさんがやっている匿名ラジオのリスナーで、好きだったので、とても良かった話ですが、少し前まで何一つ面識があったわけではなく、Twitter上でリプライを交わしたことすらありませんでした。

 

youtu.be

 

 きっかけのひとつは僕が自分の漫画「ゴクシンカ」を、この人ならこの漫画のことを分かってくれるはずという一方的な思い込みから恐山さんに送り付けたことで、それに恐山さんが反応してくれたということにより、やりとりが可能!という認識になったので、とても嬉しい出来事でした。

 その後、少ししてプリティーシリーズのライブを幕張に見に行ったあとに、同じライブを見に来ていたあらばきさんとニャロメロンさんと晩ご飯を食べていて、「恐山さんにいつかじんしこ(人生思考囲いの略称)に出て貰ったりできないですかね?」と雑談をしていたら、それをニャロメロンさんがその場でつぶやき、そしてそのツイートにすぐに恐山さんが反応してくれたので(恐山さんとニャロメロンさんはオモコロ関連でつながりがある)、やりましょうという話に一気になりました。

 

 お話できて楽しかったですし、またやりましょうという話になって良かったですが、距離の詰め方が異常だなとも思います。視線も合わせておらず、間にそこそこ距離があったように思えたのに、いきなりダッシュで詰め寄った感じになったからです。

 

 こういうのは今回はたまたま上手くいきましたが、危険な動きだなとも思います。だって人と人との距離感ってすごく大事なので、急に詰めたら前蹴りされて距離をとられることだってあると思うからです。そこで蹴られるのも悪い話ではなくて、人と人の間には適切な距離があり、互いに適切だと思える距離にあるのが平和です。その適切な距離をじりじり探るのが人間関係だなと僕は思っていて、いつも探っています。

 一方で、どこかでグイっと近づかないと、いつまで経っても近くはならないということもあり、僕も最後の一歩は勇気を出して、向こうに嫌われるかもという覚悟を持ちながら、それをやったりしています。

 

 この前も書きましたが、僕が人生思考囲いに参加することになったきっかけのひとつも、コミティアであらばきさんと中野でいちさんのスペースに、自分の本を持って行き、押し付けて挨拶したということです。それまでも名乗らずに本を買ったりしていましたが、あるとき意を決して名乗りました。

 他には漫画家のいそふらぼん肘樹さんと友達になったきっかけも、Twitterを見たら、半径数十メートル以内にいることが分かったため、道端でいきなり声をかけたという出来事があり、完全に不審なネットストーキング野郎なので、それによって嫌われても仕方がないような状況だったと思います。

 また、寺沢大介先生との繋がりも、エゴサしたら、僕の漫画を読んでくれたと言っていたので、意を決して話しかけ、本を買って貰ったり、イベントに一緒に登壇したり、ご飯を食べる会に呼んで貰えたりと嬉しいことになりました。

 

 意を決してグイっと距離を詰めるということは、このようにこれまでもやっていて、それによって仲良くなれたという嬉しいこともありますし、ただ上手くいったからいいけれど、それによって好きな相手に嫌われる可能性も高めてしまう危険なことをしているという認識もあります。

 ただし、全くの無から距離を詰めるということはしていなくて、恐山さんについても、送った本に反応してくれたからとか、つぶやきに反応してくれたからという、双方向のやり取りの中で、近づいても大丈夫かなと段階的に判断したりしています。

 そのあたりは、他にも、例えばTwitterで相互フォローになったとか、ツイートをお気に入りにしてくれるかとか、漫画に好意的な反応をしてくれたかとか、いくつかの、向こうに嫌悪感は抱かれていなさそうだな…という確認ポイントがあり、もしそこに悪いものを見つけていたら、グイっと距離を詰めることなどはなく、途中でこっそりと引き返していると思います。

 

 そういう意味で言うと、インターネットで人間関係を作る上で重要なことのひとつは、「好意を示す」ということなのかもしれません。相手から何かしらの好意を示して貰えていれば、僕から話しかけるときの怯えが減りますし、逆に自分が相手に明確に好意を示しおけば、向こうから話しかけてもらうときのハードルを下げられるかなとも思ったりします。

 

 僕は、好きな相手については、「その人がそのままでいること」を見ることがまず嬉しいので、特に個別に人間関係を構築する必要もないのですが、仲良くなれたなら、それはそれでまた嬉しいことなので、実際今ある人間関係については良かったなあと思います。

 

 他人に対する警戒心って、持ってしまうものではないかと思いますし、それがある限りは距離感は遠いままだと思います。僕自身があまり心の根っこの部分を見せようとしない(その理由は無防備にそれを出すことが怖いからです)ため、普通にしていると、誰とも距離が近くならなかったりします。なので、その辺は意識的に内面を出すことで、社会の中で居場所を作っていけるのではないかと思っています。

 

 そういう感じにおっかなびっくり他人との距離を詰めたりしていますが、自分は黙っていても人が寄ってきてくれるようなタイプの人間ではないため、そういうことをしなければ生存できず、そして、ときにはそれによって痛い目にも遭うのだろうなと思っています。