漫画皇国

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漫画の1巻の初速が大事なことのメカニズム関連

 「漫画は最初の1週間の売れ行きが大事」という話はネットとかでもよく言われていると思います。この辺は僕が知っている限り出版社によっても基準がそれぞれ違いそうなのですが、そもそもの構造としてそうなりがちな性質があると思っているため、僕の認識を書いておこうと思います。

 なぜ書こうと思ったかというと、この辺の事実認識の差で人が揉めている光景を見たからです。

 

 ちなみに出版社が、売れ方と連載継続や増刷に関する詳細な基準までを漫画家に教えてくれることはあまりないと思います。なぜならケースバイケースなので、数字にしてしまうと作家と作家が比較できてしまい、なぜあっちはああでこっちはこうだという話に発展してしまう懸念からではないかと思います。なので僕も別に具体的な数字は教えられていませんし、これから描くのは僕の経験からの推測がベースになっています。

 ちなみに僕が漫画について一緒にやりませんかと提案してもらいやり取りしたことがある出版社は、漫画の大手3社を含む12社程度あり、これまで実際に描いてきた会社だけがこの文章のベースということではありません(変な推測で迷惑がかからないようにと思ってこの一文を書いているので、迷惑がかからないように理解してくれると助かります)。

 

 さて、紙の本には販売上の難しさがあります。その理由は「紙の本は物理的に物として存在する」ということです。情報として存在する電子書籍と比較して、物として存在する紙の本の難しさは、以下の3点です。

 

①複製することに時間とお金がかかる

②流通させることに時間とお金がかかる

③保管することにお場所とお金がかかる

 

 この3点にコストがかかることが発売後1週間で買ってもらえる方が販売上望ましいことの原因となっていると思いますます。ちなみに、電子の場合もこの3点は完全なゼロにはなりませんが、紙の本と比較すれば十分低いコストだと思います。

 

 「コストがかかる」ということは、採算性に影響します。得られる利益よりもコストが上回れば赤字になるからです。赤字になれば本を出し続けることが難しくなります。そのため、「売れ行きに対してコストが適正にする」という考えが必要となります。

 

 まず大切なのは需要に対して適切な量の複製(本の印刷をすることです)を行うということです。刷る前に本がどれだけ売れるかが分かっていればそんなに簡単なことは分かりませんが、ジャンプ漫画ですら連載を開始したものがすぐに打ち切られることの方が多いのを見れば分かるように、世の中に問うてみないと売れるかどうかは分かりません。それなりの予測はできると思いますが、最後は世に出してみて市場に判断されるというところになると思います。

 

 そのため、「まずはそこそこの数で刷って世に出してみて、足りなければ需要に合わせて増刷をする」というのが基本的な流れになると思います。売れるか分からない本をいきなり100万部刷ることはありえず、まずは1万部出してみて、売り切れるようなら増刷を重ねて需要と供給が大きくブレないようにするということが赤字を作りにくくなる方法です。

 

 この場合、難しいのは、①の本を刷るということにも時間がかかるということです。物理的な作業としても時間がかかりますし、印刷所の設備がタイムリーに空いているとも限りません。そして、印刷所で刷られたあとに、出版社から取次に本を移動させ、取次から小売店に本を移動させる流通にも時間がかかります。つまり、増刷をしようと思ってから本が実際に店頭に並ぶまでにはそれなりの時間がかかるということです。②の難しさですね。

 例えば増刷を判断して店頭に並ぶまでの期間を数週間としたとき(状況によると思いますが)、どのタイミングで増刷を決定するかが重要になります。

 

 そうなると一週間というのはその目安のひとつになるということが想像できるのではないでしょうか?なぜなら一週間以内に増刷を判断しないと、増刷された本が店頭に並ぶのが発売から一ヶ月後以降になるからです。漫画が新刊として扱われるのは一ヶ月ぐらいです。なぜなら一ヶ月後には次の新刊が発売されているからです。

 

 一ヶ月が経つと新刊棚から出版社ごとの棚差しに移動するか、返本されてしまうため、書店に沢山の本を置けるタイミングを逸してしまいます。つまり、③の保管場所が限定されているという話です。本が取次や出版社にはあっても、書店に置いて貰えるスペースがあるとは限りません。有限の敷地面積しかない書店で、露出を得られるタイミングは限られています。本が店頭にほとんどない以上、本屋で売れる機会は少なくなります。であるならば、販売チャネルの主はオンラインの書店に移ります。

 

 そして、十分な時間が経ち、取次にとっても売れる機会のもうないと思われる本を保管する意味は失われて返本され、出版社にとっても売れる機会のもうないと思われる本を保管する意味は失われて最終的に断裁処分されたりします。悲しいですね。

 

 こう考えると、紙の本をコストを最小化して効率よく売るための一番の勝ちパターンは、「大きく刷って発売直後に入荷したタイミングで一気に売る」ということであると思います。すでにヒットしている作品はそうなっていますね。そしてまだヒットしていない作品は、そうなるように繋げるというのが分かりやすい方法です。

 ちなみに、最初に刷った本がそんなに早く売り切れるのであれば、刷る部数を見誤っているのではないのか?という考えはあると思います。複製の効率としても少しずつ積み増すよりも一気に刷った方が効率がいいと考えられるからです。しかし、それでたくさん刷って売れ残ると赤字が拡大します。適正な冊数を読むのはとても難しいことなので、なんらか定量的な確証があった方がいいという話になってきます。

 じゃあ、そこにどういう手段があるのかというと予約です。

 

 予約が一定数あれば、具体的な売れ行きが数字を元に想像できるので、計画を立てやすくなります。予約数次第であらかじめ多めに刷っておくことも可能です。予約してくれると助かると言っている作家が多いのも、何冊刷ればいいのかの確度が上がるという意味があると思います。

 

 ただし、ここまでしている話はあくまで第1巻の話で、2巻目以降は確証のある数字の手掛かりがあります。それが「前の巻の売上」です。1巻を買わずに2巻を買う人はあまりいないため、2巻は1巻の売上よりもほぼ確実に下がります。同様に3巻4巻と繰り返すにつれてさらに下がっていきます。それに合わせてだんだんと刷る部数が減っていくのが紙の本です。そしてどう考えても採算が合わない場合に打ち切りになるのだと思います。

 

 ここで分かるのはこと新人漫画家にとって、「増刷しない連載は続かない」ということです。なぜなら1巻の時点で安全を見て、さほど利益もでない(人件費を考えれば赤字でしょう)部数しか刷られていないため、刊行を続けていくうちに部数が減っていけばすぐに赤字になることが見えているからです。それでも紙を出し続けると、最後は刷った時点で全部売れても赤字が確定しているので、紙の本を出せないという判断がされることもあり、最終巻電子のみになってしまうなんていうこともあります。

 一方で、人気のある漫画家であれば、最初からドカっと刷れるかもしれないため、増刷をせずとも採算の合う本を出し続けられるかもしれません。

 

 このように、紙の本というものは物理的に存在しているため、電子と比較してひとつひとつの行動の実行に時間がかかり、それぞれにコストもつきまといます。

 効率よく売る方法はありますが、効率が悪い本はどんどん売れなくなっていきます。売れないと冊数が減り、冊数が減ると露出の機会が減り、露出の機会が減ると見つけてもらいにくくなり、入手の機会も減っていくことで、そこから部数が増える要因がありません。そうして売れる本と売れない本の差は構造的にとても大きくなります。発売後に十分時間が経ってから何らかのきっかけで知られることがあったとしても、すでに店頭にある本が極小になってしまっていると、そのわずかな冊数が売れて終わりです。

 仮にそこで増刷の判断があったとしても、瞬間的に発生した機会であれば、数週間後に増刷が完了したころにはもう忘れられているかもしれません。

 

 悲しい話ですが、でも今は電子書籍があるのでその瞬間的な需要に応えて買ってもらうことが可能です。いい時代になりましたね。そして紙の本は難しいですね。

 

 まとめると、紙の本はそんなにタイムリーに複製したり、流通させたり、置き場所を確保したりができないので、瞬間的な需要に対しての機会損失が大きい商材です。そのため、発売直後というそれが一番出揃っているタイミングに判断できないと、どんどん負のスパイラルになっていくものだと思います。これは一企業の努力ではなかなかどうにもならない領域であると思います。書店数は減っていますし、漫画の新刊点数は毎月千冊を超えている状況で簡単に打てる手があるようには思えません。

 なので、紙の本は発売後1週間で買ってくれるとありがたいというのは、それが今の環境における負のスパイラルを打破する方法のひとつであり、少しでもそうなるように仕向けるしかないというのが実態ではないかと思います。

 でも実際は1週間で新規読者に見つけてもらうのは至難のわざですし、この構造の中で消えていく本も多いでしょう(皆さんは毎月千冊以上でる新刊のうち何冊を知っていますか?)。そのために各社は既に色々なことをしており、例えば、まず最初の一巻分は雑誌連載と並行して、Webで常に読めるようにしたりしているところもあります。それはそうやることで、発売直後の1週間が終わるまでに、どれだけ多くの新規読者に「この漫画を買おう」と思ってもらうかが勝負だからでしょう。

 

 でもそれって苦しいですよね。紙の本が売りやすいスイートスポットの時期が狭いために、そこに最適化するしかないというのは苦しい状況です。新しいものを人に知ってもらうのには時間がかかるのが普通だからです。ここから解放されるための分かりやすい方法もあります。

 それは、紙で出版することを最初から諦めることでしょう。

 

 ちなみに、今では電子版が売れているから紙では売れていなくても連載が継続する漫画も多くあります。電子ではめちゃくちゃ売れているのに紙では全然という本は既に多くあり、その中で極小でも紙を刷る漫画もありますし、最初から紙を刷らないことにしている出版社ももうとっくに多くあります。

 今はまだ過渡期だと思いますが、近い将来、漫画は紙でも出るものという認識はまったく当たり前のものではなくなり、CDの初回限定版がそうなっているように熱心なファンだけが少し高めのお金を払って集めるものになる可能性もあるのではないかと思います。

 

 実際、僕の漫画は電子版の方が紙の何倍も売れていますし、ネットで宣伝をすれば普通に売れて小金が入ってくる電子版は、自分にとっては活動を続ける上でとても都合がいいものです。なので、僕は漫画活動としては基本的に電子版が売れればいいという認識を持っています。

 でも紙の本は好きなんですよね。自分の本も少しでもいいから紙の本として出て欲しいという欲があります。そして、好きな作家の本も紙で手元に置いておきたいです。

 なので、時間を空けるとどんどん手に入りにくくなっている紙の本を、一番手に入りやすい時期に入手しておいた方が楽だろうと思って、最近は結構意識して予約して買っていたりします。

人が狂っていると判定される基準関連

 僕は全ての人間は主観的には正気で、客観的には狂っていると思うのですが、その狂うにも程度の差があると思います。

 

 いきなり「狂う」という強い言葉を出しましたが、そもそも狂うとは何だと思うかの話から書きます。僕が考える「狂う」とは以下の2つの条件を同時に満たしたものです。

 

①世間的に共有されているものとは異なる価値観に基づいて行動する

②その価値観を遂行することが当人の中で絶対的で周囲の働きかけで変わることがない

 

 おかしなことを言う人でも、他の人と話すうちにその考えが変わるのであれば②を満たさないため狂っているとは思われませんし、自分の価値観を絶対に曲げない人でも、それがたまたま世間的な価値観と合致していれば①を満たさないため、狂っているとは思われません。

 

 このように考えた場合、①の条件から、狂うという状態には他者との関係性が必須要件となります。無人島で一人で奇行を繰り返していても、それが他人に観測されないのであれば狂っているとは思われません。当人にとってみればただ生きているだけでしょう。

 

 また、世間的な価値観というものは流動的なものです。時代や場所によっても異なります。例えば、宇宙人が地球に攻めてくると言ってそのための準備をしている人がいたとします。他の人がそんなことないよと言っても、いや絶対に来ると言って曲げないとき、その人は狂った人と思われると思います。なぜなら宇宙人が攻めて来るなんてありえないと世間の人々は思っているからです。

 しかしながら、もし宇宙人が本当に地球に攻めてきたとき、その人は狂ってなかったことになります。世間の価値観が宇宙人が攻めて来るということを受け入れるからです。それどころか、狂っていると判定されていた人はさかのぼってずっと狂っていなかったということになるかもしれません。狂っているか狂っていないかということの境界は、そこまではっきりしておらず曖昧なものではないかと思います。

 

 程度の差はあれ、誰しも客観的には狂っていると最初に書きましたが、今現在の世間的な価値観は確立して参照可能なものとして存在するわけではありませんし、個人が持つ価値観とある程度は乖離しているものだと思います。個人も世間も価値観が変わっていくのであればその乖離具合も流動的になるので、人はそれぞれ世間の価値観に照らして狂いが大きくなったり少なくなったりを繰り返しているものだと思います。

 なので、世の中には狂っている人と狂っている人がいるのではなく、社会の中で生きる人は誰しも狂っている部分があり、当然自分にも狂った部分はあるだろうと思いながら生活するのがいいのではないかと思います。なぜなら、それが狂いの大きさをコントロールする手段でもあると思うからです。

 つまり②の条件です。自分の価値観を絶対的だと思い、他者との間で調整する機能を持たない場合、それは「狂う」の条件を1つ満たしているということになります。たまたま①の部分で乖離が少ないと狂っているとはみなされないかもしれませんが、どこかのタイミングで乖離が大きく出てきたとき、その人は突然狂ったと思われるかもしれません。でも、もともと1つの条件は満たしていたので、突然狂ったのではなく下地はあったのだと思った方が理解がしやすいのではないかと思っています。

 なので、狂っていると周囲から判定されにくい人というのは、周囲がどのような価値観で動いているかを常に見ていて、自分の価値観とのすり合わせを柔軟にしていける人だということになります。その人はおかしなことを言わない人であり、なおかつ話し合いができる人とみなされれば、きっと、狂っているとは思われません。

 

 逆に考えると、こだわりが強い人、他人よりも自分の価値観の方が正しいと強く信じている人というのは、狂っている人と判定されやすくなるということになります。特にそういう人がなんらかの論争の中にいるとき、同じ価値観を共有数る味方の陣営からは信念の強い頼りがいのある人に見える一方で、価値観を異にする逆側からは狂った人と思われたりするでしょう。

 

 こういう論争の中で、頼りがいのある味方であると思っていた人が、あるときから狂ってしまったと言われることもあります。それはそれまでの論点であれば価値観が一致しているため気にならなかったものが、別の論点に移行したときにその部分の価値観は共有できていなかったために気づいてしまった場合に起こる場合があることです。つまり、ある日突然狂ったように見えて、別にその人は全然変わっていなかったことも多いように思います。変わったのはそのとき話題になっている論点だけで。

 

 狂っていると何が悪いかというと、他人に狂っていると判定されるとその仲間に入れて貰えないということだと思います。それは自然のなりゆきでで、価値観が異なり、交渉が不可であるため、同じ場所にいるとずっと揉め続けることになるからです。

 

 孤独な人が狂うという話はよく聞きますが、そこには2つの種類の狂い方があるのではないかと思っていて、1つ目は他者との交流がなくなったため、他人と価値観をすり合わせる機会がなくなり、自身の価値観がどんどん独特になってしまうというものです。言うなれば自分自身を参照して時計の時刻合わせをしているようなものです。そしても1つは、孤立は原因ではなく実は結果で、他者との価値観のすり合わせができないために、人間関係を追いやられてしまったという状態です。つまり、もともと狂っていたため孤立してしまったということです。

 

 ただし、他者との関係が極小でも生きていける人にとっては狂っているということはさほどデメリットではありません。仲間に入れて貰えないことが苦しくなく、むしろ自分の価値観を相手にすり合わせることが耐え難い苦痛だったりするのであれば、最適な行動は他者に狂っていると思われたとしても一人でいることになります。いや、他者との接触を断っているのであれば、そもそも狂っているとは判定されないかもしれません。価値観の齟齬を認識するタイミングすらないからです。

 そう考えると狂った人がいたという報告については、自分を曲げることを嫌い、価値観が周囲と異なり独特であるにも関わらず、孤立に耐え切れずに他者との関係を求めてしまった場所で起きるのかもしれません。

 

 この辺の諸問題は、若いころは軽微でも歳を取ると大きく出てくることがあります。その理由は加齢による変化や、逆に変化できないこと、社会の価値観の変化、周囲の人たちとの環境の違いが出てくるため、価値観の違いが色濃く出てしまったりするからです。

 具体例を挙げると、例えばパワハラが当たり前の環境で仕事をしてきた人が、加齢により社内の立場が強くなったこと、加齢による気力の低下で変化を受け入れることが困難になったこと、パワハラが許容されない世の中になっていること、何が何でも仕事が一番という価値観を周囲の人たちが共有していないことなどがあるにも関わらず、自分が生きてきた価値観である「仕事のためならパワハラを辞さず」という行動をした場合、「今のご時世にそれでいいと思っているのは狂っている」と社内で判断されたりします。そのせいで、仕事や役職を下ろされたりすることも最近では全然ありますね。

 

 言いたいことをまとめると以下です。

・人には誰しも狂いはあるもので、狂っていると狂っていないにはそこまで大きな違いはないと思う

・人は他人に狂っていると判定されていても当人がそれがよければそれでいいと思う

・他人と人間関係をやっていきたいなら狂っていると思われない方がいい

・狂っていると思われないためには周囲の人たちとの価値観のすり合わせが継続的にできる必要がある

 

 この辺のことを意識しながら、自分の狂い具合をいい感じにコントロールして生活をしていきたいですね。

役割を担うことと経験の栄養バランス関連

 仕事をしていると素の自分ならやらないようなことを沢山やるようになります。それは仕事上で何らかの役割を担っているので、自分自身ではなく役割の方がやるべきことを決めて、それをしぶしぶやっているような感じです。

 

 2年少し前に課長になってからはそれがより加速していて、課長の役割でも担っていなければ絶対にやらないようなことをやるようになりました。今も毎日のようにもう課長なんて辞めてえよと思いながら数々のプレッシャーの中で仕事をしていますが、一方で、課長という役割を担ったことで素の自分の方にもその影響が生まれていて、その変化自体は気に入っています。

 

 具体的に言えば、組織を運営する上での責任を担うことで、自分ひとりのことではなく課のメンバーで構成された系がどれだけのパフォーマンスを出せているかを見れるようになりました。また、外部との交渉能力を手に入れたことで、言われたことをただ諦めてやるのではなく、よりよい仕事や労働環境とは何かについてコントロールできることも増えてきましたし、それでもコントロールできない苦しさをうまい具合に分解して、乗り切ることもできるようになってきました。

 

 この辺の能力は素の自分なら得る機会を避けている領域なので、課長をやることになって色々できることが増えてよかったなと思います。できることが増えると、目の前のシチュエーションに対して選択肢が増えるので、選択肢がなくて苦しんだり、選ぶことができずに停滞することが減ると考えられるからです。つまり、生きる力が大幅に強くなっています。

 

 何かができるようになるためには、その能力を伸ばすための経験が必要です。最初から何もかもできる人もいるかもしれませんが、凡人は練習してできるようになりますし、それを使うシチュエーションが増えることで手慣れてくるようになります。素の自分なら苦手なことからは逃げ回るので、能力を伸ばすための経験自体が不足し、それゆえに能力が伸びないので、さらに逃げ回ることになったりします。

 

 それは経験における栄養の偏りのようなものです。役割を担って、自分とは違う自分となり、その領域で培ったものが自分自身にフィードバックされることで人は変化していくのではないかと思います。好きなことしかせず、栄養を偏らせてできることが少ないよりも、栄養バランスを考えた経験ができるということは自分の生き方から苦しさを減らし、寿命を延ばすのではないかと考えています。

 

 若いころでいえば英語がありました。英語教育は受けているものの新入社員の頃は全然喋れず、海外の会社との電話会議をしたとしても一言も喋らなくて上司に怒られたりしていました。英語が下手だから喋りたくなく、喋らないから上手くならないという負のスパイラルです。

 転機は、国際標準化の仕事をするようになって年に4、5回海外に一人で送り込まれるようになったことで、そこでは自分が担うべき役割があり、会合に出席するほかの人たちに自分の会社の意見を伝えたり、議論をしたりする必要があったため、それを必死でやっているうちに苦手意識はなくなりました。今も別に英語がペラペラというわけではありませんが、自分の意見を英語で伝えようと思ったり、他の人が喋っていることを聞き取ろうとすることへの忌避感は、仕事をするうちに消えたので、逃げる必要がなくなったのでよかったです。

 

 車の運転とかもそうですね。僕は近年は日本全国の色んな場所に呼ばれて仕事をしたりしているのですが、交通の便が悪いところではレンタカーを使うしかなく、でも今仕事をやるまではペーパードライバーで10年以上運転をしていなかったので、運転が怖くてできなかったし、できないから怖いままという状況にありました。でもやらないといけなくなったので、ペーパードライバー講習に行ったりもしつつ、仕事で運転するようになったことで、こちらも忌避感が消え、今ではどこかに行くときに車を借りていけるようになったので、行動の選択肢が増えました。

 

 他にももっと専門的な仕事の関係で色々ありますが、とにかく仕事をしていることで経験における栄養の偏りが解消されていくので、自分という人間が社会生活を送る上でのバランスがどんどんよくなっていることを感じます。これは働かずに暮らせたとしたら自分には起きなかったと思われる変化で、仕事をしていてよかったなと思える部分です。

 

 この辺で思い出したのは、寄生獣に登場する寄生生物のミギーが、5体の寄生生物を人体に宿した後藤に取り込まれる下りの話です。ミギーはそれまでたった一人で右手に擬態して生きていましたが、後藤に一時的に取り込まれたことで、神経系も接続されたでしょうし、大きな集団の中での自己という役割を担うことになりました。ミギーはそれを心地よかったと感じ、そして、再び後藤から引きはがされて戻ってきたときにも、その内部構造に影響を残します。

 これは個人と集団の関係性の暗喩ともとらえることができます。後藤の強さは、寄生生物が受ける信号「この種を喰い殺せ」が五体分集まった強さだと言われますが、それは人間が集団になったときの恐ろしさと同じと捉えることができるのではないでしょうか?そして、それまで個人として生きてきたミギーは集団の中で生きる心地よさを学び、できることが増え、一人に戻ったあとも集団の中で役割を担ったことで変化を遂げます。

 

 そういう意味では、僕は会社という後藤の中で今影響を受け、変化をしている真っ最中で、いずれ会社に外から毒が打ち込まれることによって正気を取り戻し、後藤(会社)の中の重要な器官を引きちぎって去っていくのではないかと思いました。

 そして会社員経験により変化を遂げた僕は、今手元にある経験だけを使ってしばらく一人でやりたくなってしまうのかもしれません。

 

 実際のところはそれはすでに先に来ているような気もしていて、僕が描いている漫画の内容の多くも、会社員生活を送る中で経験したことを物語にしているので、泉新一くんがピンチになることでもない限り、すでに思索の中に耽溺できているのかもしれませんね。

 

 まあともかく会社員を辞めたい気持ちはすごく持っていますが、会社員をやってきたことについては良い影響がすごくあるという自覚をしています。

 もしかするともっともっと会社員をやった方がさらに良い影響がある気もしますが、実際どうかは分かりません。

三国志演義を登場人物3人の4ページ漫画に圧縮する試み関連

 前々回のコミティアに何にも作れる余裕がなかったのに、無理矢理作った4ページ漫画があります。4ページの漫画はA4に印刷して折れば冊子になるので、ホッチキスも不要で簡単に作れ、時間がないときにはこれを作ることにしています。

 

 さて、三国志を題材にした映画「レッドクリフ」を撮影するときにハリウッドプロデューサーが、登場人物が多すぎるので、劉備関羽曹操を一人の人物にまとめられないか?と聞いたという話があります。歴史の話なので、1人にまとめるのはありえないと笑ってしまいますが、歴史のことはおいておいて、物語に必要な登場人物の数はどれだけか?という問いを立てたとき、「歴史にはこれだけの人が出てくるから」という理由からむやみに数をそのままにしてもいいでしょうか?

 

 限られた時間の中で物語を作るときには、適切な人数というものがあるはずです。果たして、三国志という物語を描くために最低限必要な人数とは何人なのか?と考えたとき、これは面白い考えだなと思いました。つまりそこで、「自分が三国志という物語をいかに捉えているか」を表現することができると思ったからです。

 

 三国志における物語の本筋とは何かを捉えれば、それ以外のすべてを捨てても背骨は残るため、物語として成立します。その話を友達としていたときに、登場人物を3人に抑えるなら、誰だと思うという言い合いをしました。

 

 僕の答えは、劉備諸葛亮馬謖です。この3人がいれば三国志は描けると思いました。そしてそれを4ページで描くとすれば、切り取るのはもちろん「泣いて馬謖を斬る」の場面です。

 

 三国志という物語は、後漢の時代が終わり、新たに統一される時代が来るまでの混乱の時代です。様々な争いの中で、中国は魏呉蜀の3つの国に収斂し、そしてすべて滅びていきます。

 つまり、三国志という物語のテーマとは何か?それを僕は「継承の失敗」だと考えました。

 

 後漢の皇帝が、その権力を次代への継承するのに失敗することから始まる物語は、主人公として描かれる蜀の劉備を含め、魏の曹操も、呉の孫権もすべて失敗し、中国を再び統一するのは司馬炎です。子供の頃に読んだとき、それまで出てきた数々の魅力的な武将たちが次々に死んでいき、最後はこうなるということがとても印象に残りました。

 なので、継承の失敗に関する思いを描けば三国志になると考えます。

 

 三国志の物語の構成要素として、「三国を描く」「継承の失敗を描く」の2つを描ければよいとなれば、劉備の跡を任された諸葛亮を描けばいいことになります。諸葛亮劉備に対して、中国を3つに分ける天下三分の計を進言しますし、そして、劉備は遺言として、子の劉禅に才覚がなければ諸葛亮が跡を継ぐようにと言い残されているからです。しかしながら、諸葛亮劉禅を立てることを選択し、そして魏に戦いを挑みます。しかし、諸葛亮は何度も試みたその戦いに失敗し志半ばに死んでしまいました。これが継承の失敗です。

 

 そして、そんな諸葛亮が目をかけていたのが馬謖です。馬謖は任された戦の中で、諸葛亮の命に背き、独自の判断で陣を立てることに失敗し、その責を負って斬られてしまいます。処刑を命じたのは諸葛亮です。これが「泣いて馬謖を斬る」という言葉の語源です。目をかけていた馬謖を斬る判断をした諸葛亮の目に浮かんだ涙の話です。そう、これも継承の失敗です。

 

 劉備は中国全土を統一する皇帝の代わりになることができず、諸葛亮劉備の代わりになることができず、馬謖諸葛亮の代わりになることができません。ここに同じ構造の収束するポイントがあるため、諸葛亮馬謖を斬る場面を描けば、三国志そのものになると考えました。

 

 ここで描くべきは諸葛亮が、劉備の遺志を継ごうとしたこと、そして戦に敗北し、それに失敗してしまうこと、そして、それは馬謖も同じです。諸葛亮の代わりにいいところを見せようとしたのに、失敗をしてしまいました。ここで感情導線を描けるなと思いました。

 つまり、馬謖諸葛亮が同じであるならば、馬謖を許さない諸葛亮は、自分を許さない諸葛亮ということです。跡を継ごうと頑張っているのに上手くいかない自身の不甲斐なさに憤る諸葛亮ならば、馬謖を許すことは自分の失敗を許すことであり、そんなことは許してはならないという話になります。

 

 諸葛亮馬謖に見出すのは自分の愚かさ、そして代わりとして上手く働くことができない不甲斐なさです。それを涙を流すということで表現すれば、単純な出来事だけでなく人の心の動きを描くことができるので、お話になるなと思いました。

 

 そしてできたのがこの4ページです。これは三国志演義の物語の一部を切り出したのではなく、三国志演義の物語そのものを不要な部分と登場人物を限りなく取り除いて圧縮してできた結果です。そこにあるのは、何を物語の背骨であり、どのように残すかという思想です。






 実際描いてみて、4ページは無謀だったなと思いましたが、ホッチキスで留める作業をしたくなかったので仕方ありません。本当は8ページぐらいあるとよかったので、そのうち描き直すかもしれませんが、それにしてもコマの窮屈さを変えるだけで、描く内容としてはこのままで過不足ないと思います。

 

 これを描いたことで、自分が三国志演義において、どのような捉え方をしているかが分かって面白かったなと思いました。別の物語でも圧縮してみたときに、誰が最低限必要で、何を描けば成立するのかも考えてみたいなと思いました。

退路を断つ方がいいのか退路がある方がいいのか関連

 ガールズバンドクライというアニメを見ていて、大学受験のために予備校に通っている主人公が、バンドに本気になるために予備校を辞める宣言をしていました。

 友達とその話していて、予備校は辞めない方がいいと思うよ(バンドも勉強も頑張った方がいい)ということを言ったら、まあアナタはそう言うだろうという反応があり、自分は会社員を続けながら漫画家もやっているので、確かに一貫性があるかもしれないと思いました。

 

 ここから先は特にガールズバンドクライの話ではなく、僕が思っていることの話です。

 

 退路を断つとチャレンジングな道に進むことができる、というのは確かにそういうところがあると思いますが、それは退路を持っている人の言い分だなと思っていて、最初から退路なんてない立場の人からすると、「退路がない」ということが、だから「チャレンジングな道に進むことができる」ことを意味しないことも多いと思います。つまり、逃げ場がないために、是非を別として今目の前にあることをやるしかないという状況になってしまったりします。そこに苦しさを感じたり、長期的な損得よりも短期的な損得を考えるはめになり、それがじりじりと自分を追い詰めていく可能性もあります。

 

 つまり、間違えても戻れる場所があるなら、失敗したら戻ればいいんだしという気持ちでチャレンジもできますが、一回失敗するとおしまいという退路が断たれている状態では、失敗ができないという状況に追い込まれることがあります。もちろん、居心地のよい退路から一歩も出れないということもあるかもしれません。

 

 なので、これはどちらかが正しいという話でもないと思います。どちらも正しいというか、実はそもそも退路のあるなしの話ではない気がしていて、つまり、「理想に向かって進んでいくことは難しい」という話です。退路を持ち合わせている人は、自分には退路なんかがあるから進めないのだという解釈をし、退路を持ち合わせていない人は、自分にもし退路があれば怯えることなく進んでいけるのにと思ったりするのではないでしょうか?

 

 僕が漫画の連載を始めるにあたって会社員を辞めたりしなかったのは、いつまで続くのかも分からない連載と、売れるのかも分からない自分の漫画に専念することの怖さからです。会社員という退路があるので、生活は会社員の方で成り立つという安心感から平気で漫画の仕事ができるのであり、そうでなければ貯金が尽きる不安の中で苦しみながら仕事をしないといけなかったかもしれません。

 もし、連載が決まったタイミングで会社を辞めて退路を断っていれば漫画の仕事が今よりもより順調になったでしょうか?なったかもしれませんし、ならなかったかもしれません。わかりません。ただ、少なくとも僕にとっては兼業する前提でしか漫画の仕事をすることを選べなかったというのが真実です。怖かったからです。

 

 以前受けた相談で、漫画家になるためには仕事を辞めた方がいいだろうか?というものがあり、そのときも「辞めない方がいい」と答えたと思います。そのときも他の友達の反応は、まあアンタはそう言うだろうねという感じでした。

 

 いや、でも、辞めたっていいんですよ。それを止めたいわけでもありません。専念してみて上手くいけばいいですし、上手くいかなければまた再就職してもいいと思います。ただ、一回両方をやろうとしてみたときに、自分の心が把握しやすくなるんじゃないかとも思っていて、何を危惧しているかというと実は「漫画家になるために仕事を辞めたい」のではなく「単に仕事を辞めたい」という気持ちを「漫画家になりたい」という言い訳で無自覚に隠している可能性があることです。そして、実際自分が無自覚でそうだったとき、仕事を辞めた時点で目的を達成してしまい、その後も漫画家になるための活動をすることができず、余裕をどんどん食いつぶしていく中でさらに行動ができないくなるという辛い状態を想像してしまいます。

 なので、忙しくてもできるぐらいには漫画をやりたいのだと、辞める前にまず確認してみてもいいのではないか?と思います。

 

 会社員として忙しい中で漫画を描くのは仕事量的に大変ではありますが、メリットもあって、時間も体力気力も有限なので、その制約がある中で漫画を描こうとするとどうしても効率化をしていかないと成り立たなくなります。効率化を行おうとすると、自分がどこに時間を使っていて、それは何故なのか?それを短くする方法は何があるのかを考えて、自分に適用して効果を見て、上手くいけば採用しますし、上手くいかなければ別の方法を考えます。このような試行錯誤によって僕の月々の漫画生産量は始めた頃の数倍にはなっていますし、そのおかげで兼業漫画家生活を続けられています。

 兼業の限られた時間の中で成果物を作らなければならないという制約が、自分の作業効率化を促したので、そういう時間はあってもいいのではないかと思います。

 

 ここで気づいたかもしれませんが、実は、退路を断たないために兼業をやっているように見えて、兼業の限られた時間で連載を続けなければならないという形に退路を断っているとも言えるんですよね。この観点から言えば、十分な時間のある専業の方が退路を確保していると見ることもできます。

 なので、最初にも言ったように、退路を断つ断たないはそんなに重要ではなく、成果を出せるか出せないかという話ではないかと思いました。自分が成果を出せると思った方をすればいいと思いますし、僕の場合はどちらかに専念するのではなく両方やる方が成果が出ると思っているからやっています。

 でもどちらかに専念していたら今よりもすごい成果が出ていた可能性もあるかもしれません!!だったらどうしようと思いますが、僕は結局怖くて選べないだろうなと思いました。

「トラペジウム」を観た関連

 アニメ映画の「トラペジウム」を観ました。すごくおもしろかったです。特に主人公が良くてめちゃくちゃ好きなタイプだなと思いました。

 本作は、アイドルに憧れる少女が、アイドルになろうとするお話です。同時にこの物語は主人公に対する理解を深めていく物語だと思いました。


 本作は主人公の東ゆうが、自分が結成するアイドルの仲間を見つけようとするところから始まります。自分の考えるアイドルを自己プロデュースするため、自分を東として、東西南北の方角になぞらえられる3人の仲間を探そうとします。彼女がなぜそれをしようとしているのかが最初はあまり語られません。彼女が何らかの理由で、目当ての女の子とまず友達になることから始め、そしてゆくゆくは四人のアイドルユニットになるための計画を遂行していくのを見守ることになります。

 

 彼女は目当ての人たちを友達とし、アイドルに興味を持ってもらうように仕向け、そして、たまたまテレビに取り上げられるように計画的に立ち回り、アイドルになるための可能性を高めることを図ります。

 しかしながら、その過程は実際は失敗続きで、思った通りには全然なりません。でもそこで足掻いた先に、ついに彼女たちはテレビに取り上げられ、番組の1コーナーを任されるようになり、そしてアイドルとしてデビューを果たすにまで至ります。

 

 僕が一番面白かったのは、そこでアイドルになることに成功した主人公が、「なぜオーディションを受けなかったのか?」と問われるところです。彼女はその問いにちゃんと答えませんが、一人になったあとで、実は受けたオーディションに全部落ちたということを独白します。

 

 ここが本当に良かったです。それによって、主人公は物語の冒頭の時点で、とっくに大きな挫折に直面していたということが明確に分かったからです。アイドルになりたくて、誰かに見つけて貰おうとアイドルのオーディションを受けたけれど、全然受からなかった、夢を叶えられなかった人間だと分かりました。

 そして、それでも諦めなかった人間だと分かりました。

 

 映画を見ながら僕が思い出していたのは、「グラップラー刃牙」に登場する格闘家、ジャック・ハンマーのことです。ジャック・ハンマーは強くなりたいという気持ちを人一倍持ち、強くなるために異常なほどのハードトレーニングを自分に課します。しかしながら、その結果は失敗です。強い気持ちはあったとしてもそれは科学的に間違ったトレーニングだからです。強い気持ちを抱えながら、ジャックの肉体はその気持ちに答えてくれません。誰よりも強さを欲しながら、世界一ハードなトレーニングをしている、弱い格闘家です。

 そんな彼が出会ったのはドーピングでした。薬物を使うことで、彼の肉体は彼の強い気持ちに答えてくれるようになりました。ジャックは自分の命を縮めるような方法で、ついに自分の気持ちに追いつく肉体を手に入れ、それを成したのです。

 

 主人公、東ゆうはアイドルになることを諦めなかった人間です。そして、自分には周囲が見出したくなるようなアイドルの才能がないことを分からされてしまった人間です。このまま誰かが何かをしてくれることを待っていても、決してアイドルになれないことを理解してしまった人間です。そして、そんな中でアイドルになるために必要なことをどんな手を使ってでもやっていくことに決めた人間です。

 だから、自分ですべてをやることにしたのでしょう。アイドルのコンセプトを考え、自分の考える才能のある人たちを見出し、グループとしての魅力を使って自分をドーピングすることで、かつて自分に目を向けてくれなかった人たちの目を向けさせようとします。

 

 そして、その計画は全然上手くいきません。諦めたくなるようになるタイミングだってあったと思います。それでも続けたという強い意志があり、そしてついにアイドルになります。しかし、なったあとも順風満帆ではありません。自分が集めたアイドルの才能のある仲間たちと比べれば、自分には目に見えて人気がありません。

 そして、自分の高い志に対して、別にアイドルになりたかったわけではない仲間たちはついてこれなくなります。

 

 ジャック・ハンマーもトーナメントの決勝戦で戦いながら、ドーピングの副作用がピークを迎えてしまいます。その状態が「マックシングだ」と呼ばれますが、東ゆうが作り上げたアイドル「東西南北(仮)」もマックシングを迎えてしまったなと思いました。

 

 どんな手を使ってでもアイドルになろうとした人間が、自分が作り上げた歪な夢のアイドルを崩壊させてしまったところに僕はめちゃくちゃ痺れました。

 

 そこから先が、この映画の本題と言えるものなのかもしれません。東ゆうにとってアイドルとは何だったのか?そして彼女がその先をいかに生きていくのかのお話です。

 東ゆうは、自分の目的を達成するために、周囲を利用した人間です。よくない人間です。彼氏の存在を伝えていなかった仲間に対して、友達になるんじゃなかったというようなひどい言葉を発したりします。もうアイドルを続けることが難しい仲間に対しても、どうにか続けさせようとしてしまい、それがさらに人を追い詰めます。でも、そんなものが長く続くわけはなく、彼女は必死で積み上げた全てを失います。

 

 あれだけなりたかった、ついになったと思ったアイドルである自分は、まるで幻であったかのように消え去り、何も残らなかったように思えました。


 ここで面白かったのは、その後、主人公に利用された仲間たちが、決して彼女を恨んだり憎んだりしない結論に至ったことです。その様子を見ながら、許すのかと思って驚きましたが、仲間たちが一方的に利用されたというのも一面的な見方でしかないということでしょう。

 仲間たちにはそれぞれ、主人公と出会い一緒に過ごした時間があり、それは悪いことばかりではなかったんだろうなと思いました。仲間たちはそれぞれ自分がいた場所で浮いた存在で、そんな子たちの居場所になるところを作ったのは主人公だったからです。

 主人公のまず友達になる作戦も、相手が好きなものについて調べて勉強し、合わせて、手伝うというようなやり方でした(それも上手くはできていませんでしたが)。もしかすると、主人公のアイドルになることへの想いに対しても、仲間たちが同じようなやり方で友達であろうとしてくれていたのかもしれません。ただ、それをいつまでも続けられなかっただけで。

 

 主人公は、自分が今まで上手く見えていなかった、アイドルを目指す自分の姿を肯定してくれていた人たちの姿を目にします。決して上手くはいかなかったものの、何もかも無駄ではなく、そこにあったものを胸に、主人公はそこから先に進んでいきます。

 

 本作を見終わってから思い出して色々思ったのは、車いすの少女が、10年後の自分というテーマで、アイドルの服を着たい思った気持ちを押し殺す場面です。代わりにそのアイドルの服を託された主人公は、その女の子にだけこっそりと、自分はアイドルになると打ち明けます。

 見終わってから思ったのは、このくだりは、アイドルになる才能がないと一度挫折した主人公だからこそ意味が出てくる場面だと思っていて、自分は車いすだからアイドルになんかなれないと最初から諦めてしまう女の子に対して、才能のない自分でもアイドルになってみせると約束する場面と捉えられると思うんですよね。

 「才能がない」ことが「アイドルになれない」ことなんて意味しないと自分が証明してみせるという表明です。できないことなんてないと、自分は絶対にアイドルになって見せてあげると、人間の可能性を諦めない心強い場面です。

 

 そう思ったときに、主人公に対してこいつはすごい奴だよと思う気持ちが追加で湧き、いい物語だったなと思いました。

 なので、観て良かったなと思いましたので、オススメです。

petからイムリ、そしてfishへの流れ関連

 三宅乱丈先生の「fish」が今月発売の6巻で完結しました。本作は「pet」の続編で、petは20年ぐらい前にスピリッツで連載していた漫画です。petはその後、ファミ通コミッククリア(Web媒体)での追加エピソードの掲載を経てコミックビームのレーベルからリマスターエディションが発売されました。リマスターエディションのあとがきで書かれていたのは、petは3部作の構成で、その2部に当たるという話です。第一部はpetの中に一部エピソードが組み込まれ、そしてその先の構想があったということでした。

 

 その後しばらくして、謎のタイミングでpetのアニメ化があり、その最終回で続編「fish」の開始がアナウンスされます。つまり20年待った万感の最終回で、いろいろな気持ちが溢れました。謎のタイミングでアニメ化されたのは、この傑作漫画をいつかアニメ化してやろうという思いを抱えていた人たちがいたということだと思います。その気持ちに間違いはありません!!

 

 さて、petからfishに至る途中には、コミックビームでのイムリの連載があります。僕はイムリが始まったとき、petで描き残した部分をこのお話の中でやるのかなと思ったところがあって、なぜならpetとイムリ異なる舞台で描かれる漫画であるものの、物語の構造の中には多くの共通点があったからです。

 

 petは、強い精神感応能力を持った人々を中心とした物語です。彼らはその能力により、他人の思考が頭の中に流れ込んで来てしまうため、自分の思考と他人の思考を区別できず、記憶も入り交ざり、自我を確立することができません。しかし、そんな能力者の中に林という男がいました。彼はそんな能力を持ちながらも独自の手法で自分の記憶を整理し、他人と自分の区別をつけ、自我を獲得したのです。

 その方法とは、自分のとって一番大切な記憶をヤマと呼んで確保し、その記憶の周辺を自分にとって忌避すべき記憶をタニと読んで囲むことで、不可侵の領域を作るという区別の方法です。

 彼は自分と同じ境遇の子たちにヤマを分け与えながら、記憶を整理する方法を教え、自我のある人間としての生活をできるようにしてあげます。彼らは自我を抱えながらも他人の記憶にアクセスする能力を持つため、記憶を改ざんする能力者として悪い会社の中で生きることになります。普通の人間ならば太刀打ちできない能力を持つ彼らはペットと呼ばれ、能力を持たない人々の策略によって不自由に生きています。

 

 一方、イムリは侵犯術という他人の自我をコントロールする術を使う者たちを中心とした物語です。この物語はカーマとイコル、そしてイムリという3つの種族の戦争のお話で、カーマはイコルを侵犯術によって奴隷化して使役しています。彼らはかつてイムリとの間で大きな戦争を起こしました。カーマはその科学力と侵犯術を駆使し、栄華を誇っています。主人公のデュルクはそんなカーマの中で生まれ育ったイムリです。デュルクは自分がイムリであることを知りませんでした。

 

 petとイムリは、ともに他人の精神を支配することができる能力を持つ人々を中心とした物語です。しかしながら、強大な能力を持つはずの人々が、能力としては劣る人々によっていいようにやられて生きています。そこで利用されたのはペット同士、イムリ同士の信頼関係で、彼らは何らかを人質にとられたことにより、自分たちが思う通りに生きることができません。

 そして彼らを支配している会社やカーマには恐怖があります。自分たちが敵わない存在への恐怖です。会社の中心人物である社長と、カーマの中核を担う術師のデュガロには、それぞれ傷ついた過去があり、それゆえに支配する側に立つことへの執着があります。

 

 この、恐怖を背後に、持たざる者が持つものを支配することで安心を得ようとする構造が、petとイムリに共通する要素です。そこには人の心を支配するための手段があり、そして、がんじがらめになった中で生きる道を見出そうとする人々がいます。

 

 ペットやイムリを支配しようとする人々が求めているのは安心です。つまり、他人を信用することができないという気持ちがそこにあります。侵犯術により本音を喋らせたり、記憶を改ざんすることで自分を裏切らないようにしたてた人間、あるいは血のつながった身内以外をそばにおくことができません。

 

 ここから見出せるのは、「なぜ人と人は手を取り合うことができないのか?」という課題でしょう。そうなってしまう理由としては、人の心にかつて裏切られたという傷が存在するからです。その傷が深い者が、人を信頼するのではなく支配するための仕組みを作り、維持しています。

 

 ペットはそこから逃げ出すことができた人たちの物語です。そして、向こうに残してきてしまった人たちへの強い気持ちが描かれたところまでで物語の幕を閉じます。そして、イムリではその先、分かり合うことが難しい人々の戦争の中で、巻き起こる衝突と悲劇、その中で相手を殺したり支配したりする以外の選択肢がないのか?ということが丁寧に描かれます。それは争いの物語であり、差別を巡る物語です。世の中に、争いも差別もある以上、それを簡単に解決するようなお話にはなりません。もし、この争いの先に希望があるのならば、それはどの道の先にあるのか?が描かれます。それは希望の物語です。

 

 さて、僕はイムリを読みながら、petのその先が描かれたなと思いました。であるならば、その続編のfishではそれ以外の何が描かれるのか?ということを考えることになります。

 

 fishの最終巻を読んで僕が思ったのは、再生の物語です。奪われたものがあり傷ついた人がいる世界の中で、欠けたものを抱えた人たちが、生きることを選ぶ物語です。物語の中ではジンの姿がじっくりと描かれます。

 彼女は社長の肉親という敵の立場でありながらpetの物語の中で、主人公であるペットたちの行動によって大切なものを奪われた女性です。彼女は自分の手で父親を殺してしまいました。その心についた傷はとても大きく、決して完全に癒えるものではないかもしれませんが、それでも彼女は奪った者たちに復讐をすることではなく、手を取り合う未来を選択するようになります。

 ジンは誰かの記憶が失われること、人が死ぬこと、誰かの自由を奪うこと、自分が苦しみとして感じるそれががまた、自分たちがしてきたことと罪としてつながることを理解し、実感していきます。決してもう失われてはならないということを思うようになります。描かれたのは、傷付けあい憎みあった人たちが、自分たちそれぞれの罪に向き合い、手を取り合おうと思う物語であったように思いました。

 

 奪われた傷を抱えていた人たちが、fishの物語の中で再生し、生きていく希望が描かれたように思えて、この続編を読めてよかったです。

 

 先日、三宅乱丈先生とご飯を食べたときに、リマスターエディションの最後で3部作って書かれてたのにびっくりして!と鼻息を荒く言ったら、当時は描くことになるとは思わなかったけどという話をしてくれました。コミックビームでリマスターされ、アニメもあり、連載があり、最後まで読めたということが、もう本当によかったですよ。

 

 なんでこんな文章を書いているかというと、今petもイムリもfishもめちゃくちゃ安くなるセールをやっていて、一冊ほぼ99円になっているので、これを機にまとめ買いをして欲しいと思っています。絶対買って読んだ方がいい。

 僕が今日伝えたいのはそれだけです。

 

 

 

 あとこれは余談で完全な自慢なのですが、fishのあとがきに三宅乱丈先生が僕のことを少し書いてくれています。そればかりか僕の絵を真似た絵も描いてくれています。petが終わってしまったときにもっと読みたかったと嘆いていた当時大学生のピエテヅくんは、20年後にこんないいことがあると想像できたかな?できるわけがない。