漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

コミティア134にてフィクションの日記漫画を出します情報

 まず知ってほしいことは、11月23日(月祝)に東京ビッグサイトで開催されるコミティア134に僕が出るということです。

  • スペース番号:ち09b
  • サークル名:七妖会

 久々にコミティアが開催されるところに出るのだから新刊を出そうと思い、日記漫画で一冊作りました。なお、今回のコミティアは色々感染症対策がされている関係から、来場に対しては色んなルールがあるそうです。

www.comitia.co.jp

 

 さて、日記漫画って描くのが難しいなと思います。それは日記漫画は「日記」ではなく、「漫画」だと思うからです。日記である以前に、漫画として面白く読めなければなりませんし、そのためには日記としては不正確になっていまうかもしれません。

 例えば、コマを使って会話を描く以上、言葉の数は少なくした方がいいですし、テンポ感のためには、一つの会話を分割したり、省略したり、分かりやすさのために注釈になる言葉を付け加えた方がよかったりすると思います。そして、その行為は日記であるということからはどんどん乖離していく気がします。

 

 自分ひとりで完結する話ならば、自分が何をして、何を感じたのかを他人に上手く伝える方法としてそれは大きな問題にはならないと思います。でも、他人が何を言ったかに加工を加えることには大きな抵抗感があります。だいたいこんなことを言ったということが合っていても、人間の言葉は少しの違いから細かなニュアンスが出てしまいますし、その人が言っていないことを言わせてしまうことで、別の印象を与えてしまうということも気になってしまいます。

 仮に、僕が他人の言葉を加工して日記漫画に描き、その対象となる人に対して読者からヘイト感情が生まれたとします。その場合、ヘイト感情が生まれたのはあくまで僕が描いた漫画の中の登場人物であって、元になった人自身ではありません。でも、それが取り違えられてしまう危険性があります。それは避けたいことだなあと思います。

 

 そもそも漫画に限らず、人の口から出てくる話には、少なからずその要素があります。ある人が何かを言っていたと伝聞で聞いたとして、聞いたのはあくまで伝聞ですが、その人が言っていたということになってしまいます。過程で勘違いや、悪意的な加工があったとしても、それがあるということを意識されないことだってあります。その場合、それは言葉が生み出した存在しないものなのに、事実に成り代わってしまうということでもあります。

 かといって、それを言わないでこれたかというと、僕自身も沢山言っているわけで、そういうところからは逃れられないんだなと思います。同時に、だからこそ、そこに気をつけたいなという気持ちも出てくるわけです。

 

 さて、日記漫画に他人を登場させるときにはこのように色んなことを考えてしまうので、上手く描くことができません。友達なら、許してくれたり、面白がってくれたりするかもしれませんが、知らない人だったりすると迷ってしまいます。

 そこで至った結論が、「全部を嘘にしてしまおう」という試みでした。日記漫画の登場人物は、僕ではなく、僕をモデルにした架空の人とし、その架空の人物が話す相手もまた架空の人物ということにします。そうやって全てをフィクションにすることで、現実とは切り離すことができると考え、描けるかもしれないという気持ちになりました。

 

 それは日記ですが、基本的に全て作り話です。この日記漫画の元ネタとしてあった出来事における「そのときの僕の気持ち」だけが本当にあったことです。

 

 さて、そんな考えで描いた漫画が「自分のことをヤクザの若頭だと思っているピエール手塚くんのグルメ紀行」で、いかにサンプルを上げています。

 

 これをひっさげて、久々に開催されるコミティアに参加しようと思います!今回は感染症対策を行った上での開催なので、入場制限もあり、どれぐらいの参加者がいるのかもよくわかりません。

 どれだけ対策をしても人が集まるイベントではあるので、情勢的に来てくださいとも言いにくいですが、もし来る人がいたら、僕のスペースまで寄ってみてくれると嬉しいです!

登場人物が言葉で説明することは表現として劣っているのか?関連

 インターネットで、たまに目にするのが「登場人物が状況や心情を言葉で表現するのは良くない」という価値観です。僕はそれを目にするたびに、「そんなもん状況によるだろうがボケ」と思うのですが、その辺についてのことを書こうと思います。

 

 例えば、僕は「うしおととら」の終盤で、うしおが「うれしいなあ」と言うシーンがとても好きです。うれしいときに、とてもとてもうれしいときに、「うれしいなあ」と言うのは劣った表現でしょうか?言葉で説明するのではなく、演出でうれしさを感じさせてくれた方がよかったでしょうか?僕はあそこはうれしいなあと描くのが最高に感動するので、これは言うのが最高の表現だと思ってしまいます。

 なぜなら、これはうしおがうれしいと思っていることを、読者も一緒に感じることこそが求められている場面だからです。

 

 つまり、言葉で説明するということは、作中の描写と読者の理解を一致させる上でとても効果的な手法であると言えます。そして、それが一方で劣った表現であると言われることの理由のひとつではないかとも思います。つまり、場面の解釈を読者に委ねるのではなく、作品側から一意に同定してくるということへの拒否感ではないかということです。

 

 読者と作者では、読者の方が偉いと思います。なお、これは読者の頭の中に限定しての話です。そのため、読者はときに、自分が考え付いた作品の解釈を、たとえ作者がそれを意図してはいないと言ったとしても、自分が感じた理解の方が正しいはずだと主張したりもします。作者にそれを伝えるまでするとどうかと思いますが、これは少なからずどの読者にもあることだと思っていて、自分が至った解釈は、他の人から伝えられたものよりも大切に感じてしまうのではないでしょうか?

 つまり、自分の考えが作者の描いたものよりも偉いという価値観に則れば、直接的に描写をされるのではなく、そう読者が自分で感じられるように促してくれた方が、よりその表現を大切に感じてしまうということに繋がります。

 あるいは、言葉にすることは、読者を信用していない行為であると思われるのかもしれません。わざわざ言わなくても分かることを、わざわざ言われることによって侮られていると思ってしまうということです。

 

 このように「言葉で説明すること」が、「正解をひとつに限定してしまうこと」であれば、確かにそれを嫌う人はいるかもしれません。それ自体は理解可能だと思います。しかし、最初に例示したように、それが読者と作品の間で誤解を生まず、同じものを共有できるという良い効果を生み出す場面もあるということにも目を向ける必要があると思います。

 

 つまり、解釈をぶれさせたくない場合には、明示的に言葉にした方がいいですし、間接的な表現によって読者の脳みそをパーツのひとつとして使うことを避けることで、より込み入った表現をすることが可能になります。例えば、ハンターハンターのキメラアント編における戦闘描写はその極地のひとつです。

 キメラアント編の特に王の城への突入のあたりからの戦闘描写は、一挙手一投足にその解説が文字で説明されます。登場人物が何を考えて、その行動を行ったのか、そして、相対する敵は何を考えてその行動に反応し、結果起こったことは何なのかが丁寧に言葉で説明されます。

 これによって、より深く戦闘描写を描くことが可能になります。

 

 これは例えば、スポーツの解説のようなものです。そのスポーツを見慣れていない視聴者は、目の前で繰り広げられている攻防を正確に解釈することはできません。

 例えば、サッカーの細かいプレーの意味が分からない人にとっては、その試合からは点が入ったか入らなかったかぐらいの意味しか読み取ることができないはずです(ちなみに僕のことです)。そんな人にとってみれば、サッカーは退屈なスポーツです。なぜなら、その場合、サッカーは長い一試合の中で片手で数えられるほどの数字が増えるのを見守るだけのスポーツにしか見えないからです。

 

 ある描写について、ひとつひとつ言葉で解釈してくれることは、つまりは、読み取る力が高い人の理解を共有してもらえることと同じです。それによって、描写の解釈力がなくとも、とても精緻にひとつひとつの描写を理解していくことができます。言葉で説明することは、上手く使えば、読者にとって大量の情報を流し込めるようになり、あるいは、その後の描写の理解を補助するための訓練にもなるやり方です。

 

 僕は言葉で説明することについてこのような理解をしているので、その表現そのものが劣っているとは思えず、使いどころの問題だろうなと思います。僕が最初にボケと思うと書いたのは、「このような表現をしているから、即ダメである」という短絡的な考え方をしていることにであって、実際、何かの作品において、ここで言葉でひとつひとつ説明されたら台無しだよ~と思ってしまうことは僕にもあります。

 

 また、言葉を使うことの他の弊害としては、言葉を使う場合には瞬間的な理解が難しくなる点もあると思います。例えば、「AはBという理由でCをした」という文章を理解するには、文字を追ってその意味を解釈しなければなりません。その文章が長くなるほどに読むことに時間がかかりますし、意味をとるのに解釈の時間が必要になってきます。さらにアニメや実写などで発声されたものを聞くならば、言い終わるまで聞かなければなりません。

 ここからは僕の独自理論ですが、人間の感動というのは、穴の開いたバケツから水を溢れされることに似ていると思っています。つまり、バケツに流れ込む水の流量が少なければ、穴からどんどん流れ出て行ってしまい、感動に至ることがありません。穴の開いたバケツから水を溢れさせるなら、同じ量の水を入れるにしても瞬間的に一気に入れる必要があります。つまり、「穴から漏れ出てしまうよりもずっと早く水を入れる必要がある」ということです。

 ここで言う水というのは人間の感情的なもののことです。つまり、文字でゆっくり説明していると、ゆっくり水を入れている間に穴から沢山漏れ出てしまい、じんわりといい気持ちになったとしても、一気に感情が溢れ出てしまうような体験にはなりづらいと考えています。

 貯め込んでいる感情を一気にバケツにぶちまけるには、一枚の絵でそれを示すなどが効果的です。それを見た瞬間に「AはBという理由でCをした」ということが読者の頭の中で一瞬で理解できれば、そこに至るまでのページで、同じものを積み上げて来ていたとしても感動度合いが変わってくると思っています。これは一枚の絵ではなくて、短い言葉でもいいと思います。

 つまり、それまで積み上げてきた感情を、ある一コマで一気に解放させて感動に繋げるには、それを瞬間的に解放させられる鍵(絵や短い言葉)が適切であるという考えです。

 

 ちなみに、僕がこの仮説を思いついて表現として試してみようとしたのがこの漫画です(それが上手くいっているかは読んだ人それぞれだと思うので、よかったら確認してみてください)。

comic-days.com

 

 この考え方に則れば、言葉で長々と説明される表現では感動をしづらいということになります。ただ、これに対しても結局は使いようという認識なんですよね。

 

 結局、僕が言いたいのは、ある表現が単体で良いか悪いかということはなく、「それが作者が表現したいことに対して、適切な選択であったかそうでないか」の話であって、「この表現だから即ち悪いみたいな短絡的な判断は、雑過ぎるだろう」と思っている感じです。

 そして、言葉で明示的に描かれない場合の弊害としては、読者が勘違いして理解しているということも多いわけです。モノローグで心の内が語られない登場人物が、このときどのように思っていたかというのは、読者が好きに想像できるため、色んな解釈があったりもします。

 そこを曖昧にしたければ曖昧にするのが適切な表現ですし、明確にしたければ明確にするのが適切な表現だと思うので、世の中の全てがそうであるようにケースバイケースだと思います。

 

 なので、登場人物が状況や心情を言葉で語る表現が良くないと思ったとして、なぜ、そのシチュエーションでは言わない方がいいのか、また、もし言わなかったときにそれは弊害なく本当に良くなるのか?ということがないと、主張としては明確ではないなと僕が思っているという話でした。

 

追記(2020/11/11)

ブックマークのコメントがついていたので、返事が必要そうなものについて書こうと思います。

f:id:oskdgkmgkkk:20201111234753p:plain

 僕は、匿名ダイアリーの何かを見てこの文を書いたわけではないので、「件の増田」というのが何の話かはわからないのですが、この部分は本が手元にない状態で書いたのでざっくりと書きましたが、正確引用するなら、

「うれしいなァ。うれしいなァ。うれしいなァ。うれしいなァ。」

「でも…みんなと一緒だ!」

「みんな知らねーと思うけど、お役目のおばさんっていたんだ…その人がいってたんだ…みんな仲良くしろって…オレ、それ人間だけのハナシかと思ってたんだ………でもちがうんだ。人間だけじゃ白面にゃ勝てねえ…もちろん妖(バケモノ)だけでも…白面(ヤツ)は強いさ。ああ、獣の槍だって、人間の自衛隊だって、やられちまった…だけど…人間と妖(バケモノ)が一緒に戦ったら わかんねえよな そうとう強いぜ…オレ達!」

「うれしいなァ…おばさんのいったとおりだ。強えおまえらと…一緒だ!」

うしおととら 32巻 92-95ページ) 

という一連のセリフなので、少なくともなぜ嬉しいかは明確に言葉で書かれています。

 

f:id:oskdgkmgkkk:20201112000129p:plain

 また、こちらのコメントに関しては、「作中の登場人物に向けた言葉」と「読者に向けた言葉による説明」が排他であるという前提が明確ではないと思います。作者は少なくとも、読者にうしおが嬉しく感じた理由を明確に提示するために、このセリフを書いているはずだと思うからです。

 それを、例えばモノローグのような自己完結する方法ではなく、他者への語りかけという形式にするのは技法として自然さを出すことができる優れたやり方であるというだけだと思います。

 

 この文章の主旨は「言葉で説明することそのものが、言葉で説明しないことよりも100%劣った表現である」ように言われることに対しての考えを述べたもので、世の中に「説明的過ぎるために問題がある表現」が存在していることは全く否定していません。

 藤田和日郎の漫画のように、言葉による説明をとても素晴らしい演出方法として使うこともできるということを例示しているだけです。

 

f:id:oskdgkmgkkk:20201112001833p:plain

 前述のように説明しなくて良いことを説明している表現がよくないケースはあると考えているので、ご指摘には当たりません。なお、ここでは「言葉で説明しなくても良いようなこと」というのが曖昧だと思います。世の中には沢山の読者がいるので、ある人には明確なことが、別の人には明確とは思えないかもしれません。その場合、誤解を避けたい部分を明確に書くということには一定の意味がありますし、その方法をとるかとらないかは作者の判断であって、ある人がその説明なくわかったとしても、それをしない方が優れているとは言い切れないと思います。

 

f:id:oskdgkmgkkk:20201112002148p:plain

 僕の考えとしても、どのような表現を使うかは作者の選択の結果であって、優劣はないと思います。言葉で書かれていても誤解をする人がいるのはそうですし、登場人物が発した言葉が心情を嘘偽りなく語っていない保証もありません。場合によります。

 念のため補足しておくと、この場合、言葉で説明することと言葉で説明しないことの比較をしているので、その言葉が登場人物の心情として本当か嘘かにかかわらず、一度言葉にされることで、理解の補助になるという効果はあると思います。

 

 ざっと見て目についたものについては補足として書きました。もし、他に何かあれば追加でお願いします。気づいたら返答します。

ファブラノヴァクリスタリスファイナルファンタジーとゲームで物語ることの模索関連

 ファブラノヴァクリスタリスとは2006年に発表されたファイナルファンタジーシリーズ(以下、FF)の共通コンセプトで、FF13(とその続編であるFF13-2ライトニングリターンズFF13)とFF零式(発表時はアギト13)、FF15(発表時はヴェルサス13)がそれに当たります。

 先日、FF16が発表され、この十数年、FFのナンバリングが抱えてきたファブラノヴァクリスタリスが終わったんだなと思いました。

 

 ちなみに僕は上記を全部プレイしましたが、FF零式のみ、途中のどこかで詰まったまま止まっていません。そのうちリマスター版等をやり直そうという気持ちはあります。

 

 ファブラノヴァクリスタリスは、その背後に共通する神話を抱えるゲームシリーズです。神話については、作中でも語られはするのですが、色んなものを見ないとイマイチ分かりにくいというか、僕もいまだによく分かっていない気がします(なので以下の理解も間違っているかもしれません)。

 

 ただ、このゲームシリーズに対して僕が感じたのは、ゲームという枠組みそのものを神やその代行者に置き換えることで、それにいいように操られてしまう人間の悲しさや、そこに反逆する人間の意志などを描くシリーズだったのかな?ということです。
僕は両方好きですが、FF13FF15も、国内有数の代表的RPGであるにも関わらず、かなり歪なゲームです。そして、僕はその歪さが何らかの足掻きの結果のように思え、遊びながらそこに色んなものを感じることになりました。

 

 この神話には、神とファルシとルシが登場します(なお、FF15ヴェルサス13からの変更のせいか直接的な言葉は消えましたが、その精神性は残っているように思いました)。ファルシとは神に作られた何らかの役割を持つ代行者、言うなれば機械で構成された天使のような存在です。ファルシは、人間をルシという存在に変化させます。ルシとは何らかの使命を帯びています。そして、使命を果たせばクリスタルとなり、使命を果たせなければシ骸という化け物に変えられてしまいます。

 また、FF13ではプレイヤー以外のルシはシ骸になったあと冥碑という存在となり、果たせなかった使命をプレイヤーに託すという形で、サブクエストのシステムを担う役割もあります。

 

 FF13ではルシに変えられた主人公たちが、その背後にそれぞれ別のファルシの存在がある、コクーンとパルスという2陣営の争いに巻き込まれていきます。

 シリーズを通して描かれているのは、ルシという存在の哀れさではないかと思います。そして、それは、それまでゲームが描いてきた物語への懐疑に繋がっていると思いました。FFの過去作には、クリスタルに選ばれたということが名誉のあることであり、その選ばれた人間が世界を救うために戦う物語があったりします。そして、そこに感じrう懐疑とは、選ばれたということは果たして本当に良いことであったのか?ということです。

 

 ファルシにルシとして選ばれた人々は、それまでの自分が望んでもいなかった使命を与えられ、それを果たすために動かなければなりません。選ばれたということは世界を救うという名誉ある特別な立場と捉えることもできるかもしれませんが、誰かの考えた目的のために選択肢なくそうさせられてしまうという運命の奴隷であるという解釈もあります。

 

 ファブラノヴァクリスタリスのシリーズでは後者の理解がされているように思いました。プレイヤーの操作するキャラクターはゲームによって選ばれ、世界を救うという使命を、まるで呪いのように与えられた哀れな存在です。

 

 その意味に沿って考えていくと、FF13FF15は対になっているゲームだと捉えることができます。僕の理解では、FF13はゲームに与えられた使命から解放されていく物語で、FF15はゲームに与えられた使命を受け入れさせられる物語です。

 そして、ゲームの構造も対比するような作りになっています。FF13ではひたすらリニアなゲームプレイがなんと20時間以上ぶんぐらい続いたあと、ようやく広いフィールドに到達して自由なゲームプレイになります。そして、FF15ではオープンなフィールドでの自由なゲームを好きなだけ続けたあと、終盤に至るリニアなゲームプレイに押し込められます。

 これは、主人公が不自由から自由に至るFF13と、自由から不自由に至るFF15の物語という意味で、ゲームの構造とその物語性が一致しています。

 

 ゲームにおいて、決まった物語をプレイヤーに与えるという意味では、リニアなゲームの方が向いています。プレイヤーがどのような体験をするかを設計しやすいからです。オープンなゲームでは、プレイヤーがどのように遊ぶかを制限しないことに意味がありますし、人によって必ずしも同じ体験でないからこそ意味があります。

 その意味で、FF13FF15は、それぞれが極端な形で物語とゲームの構造が一致していて、そこを面白いと感じました。

 

 また、FF13に関しては、PS3に移行してHDのゲームを作るということにおけるリソース配分を改めようとした事情もあるのかな?と想像しています。なぜそう思うかというと、FF13は、かなりカッコいいゲームの作り方をしていて、取捨選択が潔すぎるようにも思うからです。

 従来のRPGを新世代に持ってくる上で、何を残すべきと考えて、それ以外の何を削ってもプレイヤーが欲している体験を再現できるかという判断において、マップを探索することを排除していたり、ショップをセーブポイントと一体化したり、バトル敗北時には直前からリスタートできるようにしていたり、他にもそれまでのFFに存在した様々なものを排除しています。

 つまり、物語の背後に感じた思想がそうであるように、システム面でもRPGの当たり前を見直そうとしていたように思いました。ただし、カッコよすぎたので、世間的にはあまり受け入れられていたようには思えず、続編では方針転換をしていますが。

 ゲームは何でもできるように進化しているので、むしろ、何をしないかに、その思想性が現れるように思います。

 

 ファブラノヴァクリスタリスはとにかくRPGの色んなものを問い直そうとした試みであったように思います。それは上手く行ったものも上手くいかなかったものもあるとは思いますが、僕はFF15の最後で、今までプレイしたFFの中でも最も大きく感情が揺れ動いたので、ゲームを通じて物語るという意味では、ひとつの到達点に至ったような気がしました。

 

 ちなみに、僕のFF15の感想はここで書いています。

mgkkk.hatenablog.com

 

 そういうこともあって、色々変なゲーム群だなあとは思いましたが、ゲームを使って何かを物語るという意味では非常にユニークな体験があって、僕はそれがとても面白く感じたんですよね。

 個人的には、ファブラノヴァクリスタリス以後も、FFはどんどん変なゲームであってほしいです。FF16にも期待しています。

人格の大部分はリアクションで出来ているのかも関連

 人間が目で何かを見るとき、物そのものは見ていません。見ているのは物に当たった光の反射です。だから光がない場所では、人間は物を見ることができません。そして、それは物以外でもそういうところがあるのではないかと思ったりします。

 

 僕は人間の人格というものは、どれほど明確にあるのだろうか?と考えることがあります。

 

 人格というものについても、他人から見ることができるのは、実はあくまで反射でしかないのではないか?という疑念があるということです。反射とは、つまりリアクションです。何かに対してどのようなリアクションをとったかの積み重ねが、その人の人格の形を見えるようにしてくれているのではないかと思いました。

 そして、そう考えたときに、自分の発言もその多くがリアクションに分類されるものであることに気づきます。本を読んで感想を書けば本へのリアクションです。美味しいものを食べた報告をすれば美味しいものへのリアクションです。世の中で話題になっていることに言及すれば、話題になっていることへのリアクションです。誰かの発言に反応すればリアクションです。

 自分が自分の外に発する言葉を分類していくと、それは実は自分の中から出てきたものではなく、自分と自分以外の何か接したときの反応でしかなく、つまり、その大半がリアクションに分類できることであるかのように思えてきます。

 

 そう考えた場合、他人が僕を見て認識する人格は、そのリアクションをかき集めた総体のはずです。僕の人格そのものではありません。いや、僕自身にとってすらそうなのではないか?という疑念もあります。自分がどのような人間であるのかを、自分でちゃんと理解していない気がします。なんか、自分が何かに反応しているときに、初めて自分が思っていることが分かることがあるんですよね。

 

 そのように、自分の形というのは全然分からないことが多くて、自分が何にどのように反応するかを確かめることが、自分の形を確かめる手段になりやすいのかもしれません。

 だからこそ、自分以外の何かに言及するということを、人は好んでしてしまうのかもしれないなと思いました。なぜなら、それは、自分が何者であるかということを周囲に知らしめる行為であり、同時に、自分自身が何者であるかを自覚することができる行為だと言えるからです。

 

 自分自身ですら、自分の姿を何かに対する反射でしか認識できないのだとしたら、何に対して自分の姿を映すかが重要なのかもしれません。

 

 実際、何かのシチュエーションで、事前に自分がもしそうなったらそうするだろうなと思っていた行動を自分が全然しないことがあって、そんなときに、自分ってこんな感じの人間なんだなと気づくこともあります。あるいは、人と喋っている中で、それまで思っていなかったようなことを、さも前から思っていたかのように喋ってしまったりすることもあります。そんなふうに、自分で自分を発見しています。

 そのように考えていくと、自分は自分だけで自分になるのではなく、周囲の人に対するリアクションとしての自分が、自分の中の多くを占めているような気がします。何にリアクションをとるかということが自分自身を規定することもあります。

 

 「自分探し」という言葉が流行ったとき、「ここではないどこかに自分がいると思うのか?」という疑問も数多く言われていたと思います。でも、それは実は、「環境探し」だったのかもしれないなと思います。自分がどの環境に接したときに、自分にとって好ましいリアクションをとれるのかということです。

 自分の存在の多くの部分が、周囲と接したときのリアクションで作られてしまうのだとしたら、自分がこうあって欲しいと思う姿になるためには、どのような環境に身を置けばいいのかという話になってきます。自分にとって最良な環境とは何かを知るために、色んなところを探すことには意味があるのではないかと思います。

 

 自分というものを掘っていって、自分の人格の色んなものを解体していくと、その先には何かしら人格の核のようなものはあるのかもしれませんが、実は解体する際にはがしたものの方が皆の思う自分なのかもしれません。その先に何かしらの核があったとしても、結局他人の目には見えないし、それよりも見えるガワの部分の方がよほど具体的だからです。

 

 昨日読んだ、「ここは今から倫理です」の最新話が、自分の心が言葉に引っ張られてしまうというような話で、すごくいい話だったので、詳細は雑誌を読むかそのうち出る単行本で読んでほしいのですが、そういうことはあるよなと思います。心の中にあるものは曖昧な形で、それに意味を与える言葉がどのように出るかで、形が変わってしまうようなことがあるように思います。だから、意図的にどのような言葉を口に出すかに意味があるような気がします。

 

 僕は自分はなんか虚ろだなと、ひとりでいるときにはよく思うのですが、一方で、他人と一緒にいるときには、いくぶんかはっきりしてくるように思っていて、それが嘘の姿というよりは、他人を写し鏡にすることで、そこにおける自分の姿がはっきりしているだけなんじゃないかなと思ったりします。

 そして、何に映すかによって自分の形は変わってしまうものなんじゃないかなと思います。だから、何に映すかに自覚的であった方がよく、どういうものに映しているときの自分の姿を好ましく思うかというところに、注意を向けるといいのかなと思っています。

 

 もともと仕事以外では人にろくに会わない生活なのですが、コロナ禍でそれが加速し、ここ半年以上、仕事関係以外の人と会ったのは1回きりです。そんな状態だと、なんだか自分の姿がどんどん曖昧になってきた気がしていて、あんまり良くないかもなと思っていたりします。

 ただ、来月久しぶりに開催されるコミティアのスペースがとれたので、久々に人に会えるなと思って今からウキウキしています。コミティアで僕のスペースまで本を買いに来てくれる人と喋るのは、ほんと好きですね。

 自分の姿は、そういうところに映しておきたいなと思っています。

漫画の人体損壊描写のストレス関連

 漫画を読んでいてたまに思うのが、あ、このキャラ多分死ぬなという予感です。そう思う根拠として、人体損壊描写があったりします。

 そりゃ人体が損壊したら死ぬ可能性高いでしょというのはそうなんですけど、ここで着目しているのは、命そのものには関係のない損壊が、死を予見させるということがあるという話です。

 

 例えば指です。刀で斬られるなどで、手の指がごっそり斬られてしまう描写を見ると、このまま死にそうだなと想像してしまいます。なぜならば、仮に生き残った場合に、手の指がない人をずっと描かなければいけないからということを考えてしまうからです。その傷が残ることは、その痛みや不便さの痕跡が延々残ることを意味します。人は、それを描くことにも、読むことにもある程度のストレスを感じてしまうのではないでしょうか?

 あるいは、顔面の大きな損傷です。例えば、顎がなくなってしまったりという描写にはその後に食事をするときの不便さなどを想像してしまいますが、顔は人物描写の重要な部分なので、それを描き続けなければならないということになります。

 だから作者側からも読者側からもストレスを抱えなくて済むように、その状態は意図的に避けられるようにされているのではないかと感じています。

 ただし、これは結構危うい感覚だと思っていて、現実には大けがをしたとしても、そのまま生きていくことになるからです。その、実際にあるようなことを忌避的なものとして捉えてもいいのだろうか?という感覚の疑問が個人的にはあります。

 

 とはいえ、この辺の想像から、どうせこのキャラはこの後すぐに死ぬから、思い切った人体損壊をやってしまうということがあるのではないか?と勝手に読み取ってしまうことがあります。損壊の結果が先の話でもずっと残り続けることはストレスになると思うので、それを避けがちなのではないかと思うからです。

 

 それは斬られる側からしてもそうですし、斬る側からしてもそうです。例えば、日常生活に不便が出るほどに損壊を与えてしまったキャラにその後の人生があるとき、それがいかに悪い相手であったとしても、何かしらの罪悪感が生まれやすいのではないでしょうか?

 その怪我によって生活上の様々な不便を抱えながら、かつて倒した敵が生きているのを見せられ続けるとき、いかに正しい目的のためになしたこととはいえ、主人公側の正しさに傷がついてしまうことはないでしょうか?いっそ、殺してしまった方がすっきりすると感じてしまったりするという、乱暴な考え方もあるかもしれません。

 

 このあたりの解決方法としては、回復役が存在することや、補う何かが存在するなどがあります。「ジョジョの奇妙な冒険」では、きつめの人体損壊描写が多い印象がありますが、シリーズごとに回復役がいることが多く、損壊描写を行ったあとに再び治せることで、気持ちよく人体損壊をしたあとに引きずるものをなくしてストレスを軽減させています。

 一方で、今連載中のジョジョリオンでは、これまでのそれを逆手にとったのか、肉体の失われた部分を取り戻す装置として、物語の根幹に存在するロカカカという果実を置き、その利用の結果がグロテスクに描かれています。

 

 もうひとつの解決方法である「補う何か」とは、例えば義手などのように、肉体としては失われていても、機能的には実質的に存在しているのと同じような状態になることです。結局のところ、その後のキャラの生活に不都合が存在し続けることに人はストレスを感じてしまうと思うので、そこがちゃんと補われていれば軽減されるということだと思います。

 その点で、「寄生獣」で右手に寄生していたミギーとの別れによって、心の欠損が、腕の欠損によって箸が上手く使えないというところと重ねられたのは、巧みな描写だなと思いました。

 

 失われることがストレスであるという意味で言うと、例えば、敵に強靭な再生能力があるということは、読者のストレスを軽減させる効果もあると思います。なぜなら、敵の傷がちゃんと治ることで、主人公側の暴力から取り返しのつかなさがなくなり、他人を傷つけるという部分における罪悪感を感じる必要がなくなるからです。敵の強い再生能力は、主人公側に不利な状態のように見える一方で、実は読者目線では気楽に読めるようにしてくれているのではないかと考えたら不思議ですね。

 そして、主人公たち側が再生能力のない普通の人間であれば、痛みは痛みのままなので、失われてしまうことの大きさを描くことができ、敵の悪さを強調することができるようになります。

 この辺は暗黙的に、様々な気の遣われ方がされて描かれているように、読者としては読み取ってしまうんですよね。

 

 最後に例外の話をしますが、代表的なもののひとつに山口貴由の「シグルイ」があります。シグルイは人体を損壊する描写に非常に真摯な漫画です。

 刀で人が斬られるとき、ストレスを軽減するためには、記号的な斬られ方が選ばれることも多いです。例えば、人の首が斬り離されるのは、記号的なのでストレスが低いです。ここで言う記号的でない描写というのは、例えば顔の表面を斬られて、太刀筋の通りに、顔の内部の断面が表出するなどの描写になります。人間は特に人間の顔から多くの情報を得ているため、顔が壊れるということに対しては、強いストレスを感じるものだと思っています。

 そして、シグルイのような、「人が人を斬る」ということをいかに力強く描くかという漫画では、そこをあえて描くことに意味があります。。そして、シグルイでは、そのような記号的ではない斬られ方をした人が、死なずにそのまま生きている描写も多く見られます。それによって、人と人が真剣で斬り合うということのリスクを、あるいは立場を変えれば愚かしくも思える行為として、描いているように思います。

 

 ある人間が何年も鍛錬してきた結果が、たった一度の戦いで、もう再び戦えなくなり、全てが無に帰すほどの欠損を残すこともあるわけです。だからこそ、現代の格闘技の試合では、いかに取り返しのつかなさというストレスを減らして互いの力を比べ合えるようにするかというための、道具やルールの発達があるのだろうということを思わされます。

 

 今思い出したのをさらに書きますが、戦いの漫画以外で人体の欠損が思い出されるのは、麻雀漫画の凍牌です。凍牌では、目が覚めた主人公の足の小指が切り落とされていて、麻雀で勝って帰ってこれたら繋げてやると言われるくだりがあります。指を再び繋げられるのにはタイムリミットがあります。そこまでに帰って来れなければ、主人公の足の小指は永遠に失われてしまいます。しかしながら、主人公は勝っている麻雀を続けることに意味を見出し、自分の足の小指を取り戻さないという選択をしました。

 取り返しのつかないことを選択できるという主人公の心を描くという意味で、いいエピソードだったのですが、ここでも「足の小指」という、その後、「普段は描写されない部分」を欠損の対象とすることでストレスを低減する施策も行われているように思いました。

 今連載中の展開では、麻雀に連動して人質の足が冷やされ続けており、凍傷になりつつあるという異常な状況で麻雀を打っているのですが、読んでいる僕としては、あらゆる展開の会話の中で、「でも。この時間の間も人質の足は取り返しのつかないことになりつつあるんだよなあ」と思いながら読んでいるので、ずーっと落ち着きません。

 何かが失われて取り返しがつかない状況ということは、やっぱりストレスがあるんだよなと自分の実感としても思ってしまいます。

 

 人は、人間から情報を得ることが得意なため、人体が損壊するという描写に必然的に注目してしまうところがあると思います。それは強い意味のある描写であると同時に、摂取し過ぎてしまうと強いストレスに繋がってしまうという危惧もあるのではないかと思います。だからこそ、漫画の描写では読者の受けるストレスが強くなり過ぎないように、色んな手当てが行われているように思いました。

 それは例えば、壊れる部分が記号的となることで許容され得るというものであったり、壊れても何らかの方法で取り返せるという状況を作るなどという部分だと思っています。

 

 なので、世の中では、一見残酷な描写のように見えても、このような適切な手当てを行うことで、残酷すぎないように読者に届けることができたり、そこをあえて踏み越えることで読者の心を刺してくることができたりしているのではないかと思いました。

「鬼滅の刃」と絆の呪い関連

 昨日、ローソンに入ったら映画のキャンペーンもあるのか、これでもかと鬼滅の刃コラボの商品が並んでいて、家に帰ってきてからテレビをつけていたら、そこでも映画のキャンペーンで鬼滅の刃の話をしていたので、僕もなんかいっちょ書くかなと思ったので書きます。

 

(免責:雑誌連載で読んだきりでその後読み返してないため、細かいとこ間違ってるかも)

 

 鬼滅の刃は、人を鬼に変えることができる鬼舞辻無惨という鬼が、お話の中核となって生み出された物語です。この物語は、無惨によって、主人公、炭治郎の家族が殺され、妹の禰豆子を鬼に変えられてしまったところから始まります。炭治郎は鬼を殺すために組織された鬼殺隊に入り、無惨を倒すための戦いに身を投じます。

 

 この物語に存在する大きな価値観としては、「変わるもの」と「変わらないもの」の話があると思います。ざっくり言うと、変わるものは人間であり、変わらないものは鬼です。

 無惨が求めているのは、変わらないものです。永劫不変な完璧なる到達点を目指しています。そのために必要なのは、自分の弱点である太陽の光の克服です。だからこそ、太陽の光を克服できる変異を遂げる個体を生み出すために、鬼を増やしていました。

 そして、人間はそうはいきません。人は死にます。人は変わります。人から失われたものの多くは二度と戻ってはきません。

 

 だからこそ人間には絆があります。ここで絆というのは、人と人の繋がりのことです。誰かが誰かに想いを託すことも絆です。人の肉体は滅びても、想いは別の人間に引き継がれ、一人の人間では成し遂げられなかったことを成し遂げます。

 

 この物語は絆の物語だと思いました。

 

 そして、絆の物語であることのもう一つの意味は、人から鬼に対する怨みです。誰かに何かを奪われてしまったということによる、奪った相手への執着という意味での負の絆です。

 この物語は、そんな負の絆を手繰りながら、人から人への正の絆をより合わせて、不変なるものに挑む物語であったと思います。

 

 この絆で雁字搦めにされてしまった物語の中で、そこから最も自由であったのが無惨です。彼には特定の誰かに対する強い想いがありません。彼にとって自分が鬼に変えた者たちはただの道具であり、自分を殺そうともくろむ鬼殺隊も、その中でかつて自分を脅かす恐怖を与えた剣士、縁壱に対しても、邪魔とは感じていても、個人に対する強い執着の気持ちはないように思いました。

 彼が見ているのは、あくまで自分の境遇への不満、どれだけの強さを持ちえたとしても克服できない、太陽の光へのコンプレックスです。

 

 だからこそ、無惨は自分の存在に執着する鬼殺隊を理解しません。鬼殺隊が抱える自分に対する負の絆を、自分を大災になぞらえて一方的に断ち切ろうとします。自然災害で自然そのものに怒ることを無意味と捉えるように、自分が行ったことに対しても、何代にも渡って怨みを抱え続けることは無意味だと断じます。

 

 無惨が生み出す鬼は、そんな無惨の変わらないという理想を体現する存在でもあったと思います。彼らの中には、人間であった頃に強い怒りと怨みの気持ちを抱えていた者たちが少なくありません。自らの境遇に対する絶望から、鬼になることを受け入れた者たちがいるのです。しかしながら、彼らは鬼になり、長い時間が過ぎる中で、ただ感情だけを残して、自分が何に対して怒っていたのかも、何を怨んでいたのかも忘れていきます。

 彼らは純粋に、その感情だけを保存する器として、完成していきます。彼らの抱える負の感情は解決されることがありません。なぜならば、自分たちがなぜその気持ちを抱えたのかも忘れてしまっているからです。具体性を失った、純粋な感情を擬人化したような存在と化してしまいます。だからこそ、説得は無意味です。説得は、具体性に対して行われるものだからです。例えば、なぜか分からないが怒っているという人に対して、人にはかけられる言葉がありません。

 

 鬼の中には、過去の記憶を取り戻して死んでいく者たちがいます。彼らは自分たちが何故怒っていたのか、何を怨んでいたのかを取り戻し、自分の中で決着をつけていきます。

 変わらない存在であった鬼が、変わってしまうことによって自分たちの人生に決着をつけていきます。

 

 この物語は、変わらないものを追い求めていた無惨が、変わらないものを追い求めるあまりに、ついに変わっていくことで決着を迎えます。無惨は、最期の最期に、永劫不変なるものとは完璧なる自分自身ではなく、人間たちが紡いできた人の絆の中にあることを理解します。

 それによって、それまで誰に対しても強い絆を求めなかった無惨が、自分の力を継ぐことができる存在に対して、初めての絆を見出そうとしました。千年の探求の果てに、遂に、変わらないものは、変わりゆくものの中にこそ存在しうるという矛盾するような結論に至るのです。

 

 しかし、その絆は拒絶されてしまいます。多くの人々に対して長きにわたって自分に対する負の絆をばらまき続けてきた男が、自分から初めて唯一求めた絆を拒絶されることで、この戦いは終結に至るのです。

 それは、その絆が、人を絡めとる呪いでもあるからでしょう。

 

 鬼滅の刃の物語は、絆によって呪われた物語ではないかと思います。誰もが良くも悪くもその糸に雁字搦めにされていました。その全てを断ち切ることができた世界で物語は終わります。

 

 ここで、「断ち切る」とタイトルの「刃」をかけて締めたら、なんかカッコいいのでは??と思って、なんかいい感じにして文章を締めくくれるのでは??と思ったのですが、なんか上手くいかなかったので終わります。

 いや、鬼という存在を、不変なる感情、負の絆としてなぞらえた場合、それらを全て断ち切った物語として、鬼滅の刃というタイトルを理解すればいい感じですか?どうですか??

 なんか分かりませんので、もういいです。

いともたやすく行われるえげつないマリオ35関連

 皆さんは今月頭に配信されたスーパーマリオブラザーズ35をやっていますか?僕はぼちぼちやっています。

 

 さて、スーパーマリオブラザーズ35は35人で対戦するマリオのバトルロイヤルゲームです。このゲームはファミコンスーパーマリオブラザーズをベースにしているのですが、マリオで対戦ってどういうこと?って思いますよね。

 

 公式サイトの記述を見るとこのゲームは「おくりあいバトル」と書かれています。そう、マリオ35では倒した敵を別のプレイヤーのコースに送り込むことができるのです。

 このゲームの敗北パターンは3つです。敵にやられるか、地形にやられるか、時間切れになるかです。つまり、もともとのスーパーマリオブラザーズと同じですね。ただ、ここに「倒した敵を別のプレイヤーのもとに送り込める」という要素が入ることで、様々な面の様々な敵を、大量に誰かに送り込むことができるようになり、白熱してくると、どうしようもない量の敵が、本来なら出てこないような場所にまで送り込まれまくることになり、パニックになって楽しくなってきます。

 一瞬の判断ミスがヤバくなり、目の前に迫る危機に瞬間的に判断をし続けるということに、人は夢中になってしまいます。

 

 そんな感じにぼちぼち遊んでいるのですが、このゲーム、何かに似ていませんか?

 そう、ジョジョの奇妙な冒険第七部スティールボールランに登場した、アメリカ合衆国大統領ファニー・ヴァレンタイン大統領のスタンド能力D4C」=「Dirty Deeds Done Dirt Cheap(いともたやすく行われるえげつない行為)」にとても似ているんですね。

 

 D4Cは、無数の並行世界(作中では多次元と呼ばれる)を行き来することができる能力です。

 大統領は、この能力を使って、死にかけた自分を別の世界の自分と入れ替えたり、別の世界から連れてきた人を、この世界の人とぶつけて、そこに生じる矛盾から消滅させてしまったりします。

 この能力の発動条件は「物と物の間に挟むこと」です。自分を物と物の間に挟むことで、別世界に移動したり、他人を物と物の間に挟むことで、別世界に飛ばしたりすることができます。

 

 ここで思い出してほしいのは、マリオ35で倒した敵は別のプレイヤーのもとに送り込まれるということです。マリオが敵を倒す方法とは何か?踏むことです。踏むとは、足の裏と地面の間に「敵を挟む」ことです。ほら、繋がりましたね。マリオが使っているのはD4Cの能力なのではないでしょうか?

 

 35個の多次元世界の中でそれぞれ生きているはずのマリオたちを繋げているのは、おそらくD4Cの能力です。ファニー・ヴァレンタインの能力と同じタイプのスタンドを身につけたマリオが多次元で戦うゲームこそが、マリオ35なのではないかと思いました。

 空条承太郎スタンド能力スタープラチナが、DIOのザ・ワールドと同じ「時を止める」能力を使うとき、それをスタープラチナ・ザ・ワールドと呼称します。

 ならば、マリオが使うその能力はきっと「マリオD4C」なのでしょう。

 

 あッ!!!!ちょっと待ってください!!??

 

 D4Cとはもしかして16進数で解釈できるのではないでしょうか?だとするならば、D4C=13*16*16+4*16+12=3404となります。10進数になおせば「マリオ3404」ですね。なるほど、これはどれだけ卑怯な手を使ってでも「マリオ35」と繋げたくなってきました…。

 

 マリオ35には1-1から8-4までの計32個のコース、そしてチビマリオ、マリオ、ファイアマリオの3つの姿があります。つまりコースとマリオの組み合わせは96通り、ここにD4Cの3404を足して3500になります。ここでマリオは100枚のコインをとると1人生まれることから、100で割ると35になりますね。

 

 別解では、2Dマリオの基本となったスーパーマリオブラザーズと、3Dマリオの基本となったスーパーマリオ64に着目する方法もあります。

 その2つのマリオが同一人物の場合、

 2D×スーパーマリオブラザーズ=3D×スーパーマリオ64

 となり、

 両辺を2で割ると

 D×スーパーマリオブラザーズ=3D×スーパーマリオ64/2

 つまり、

 D×スーパーマリオブラザーズ=D×スーパーマリオ96

 となります。これを移項してまとめると、

 D(スーパーマリオ(ブラザーズ-96))=0

 です。

 D(ディメンション)は多次元なのでゼロではないですし、スーパーマリオも存在していることからゼロではないので、ブラザーズ=96ということが分かります。

 

 あとはこれをD4C=3404に足して、同様に100で割れば、またしても35という数字が現れました…。こんな一致が偶然であるとは思えません…。

 

 これで大体の謎は解けたかと思いますが、マリオでは、敵を踏まなくてもファイアボールを当てれば敵を倒せるのに、それでも別世界に飛ばされてるやんけというツッコミがあると思います。これもスティールボールランを読めば解消される話で、D4Cの能力以外で多次元を超えることができるものがあります。

 それが重力です。

 

 この重力を扱える能力こそが、スティールボールランジャイロ・ツェペリが、そしてその教えを受けたジョニィ・ジョースターが使う「黄金の回転」なんですね。ジャイロは黄金の回転を鉄球に与えることで大統領と戦います。

 つまり、ファイアボールの正体は、黄金の回転を与えられた鉄球のことなのではないかということです。黄金の回転は、動植物のような自然物の中から黄金の長方形を探すことを基礎としています。ファイアボールも、ファイアフラワーをとることで使えるようになります。

 繋がりましたね。

 

 さて、これで最後ですが、聖なる遺体の能力を得た大統領は「D4Cラブトレイン」という新しい能力を発現します。

 「D4Cラブトレイン」とは光の線の能力です。その光の線の中にいる限りは、「吉良(きちりょう)なるもの」だけがそこに集まり、「害悪なるもの」はその外に誰かのもとに吹き飛ばされます。

 これはスターをとったマリオととても似ているのではないでしょうか?

 

 スターをとったマリオは無敵になります。その身に触れた敵はどんな敵でも一撃で倒されてしまいます。そして、マリオ35では別の世界に吹き飛ばされてしまいます。まさしく「D4Cラブトレイン」の能力そのものではないですか。

 

 ここまで読むことができたあなたは、もはや、マリオ35とはマリオのガワを被せられただけの、ジョジョの奇妙な冒険第七部スティールボールランのゲームであることを理解することができたと思います。

 

 ジョジョの聖なる遺体とマリオのスターが同一のものであるということに、これを書きながら気づいたときには本当にびっくりしてしまいましたが、確かに、遺体はスタンド能力を発現させる力がありますし、スタンド能力は隕石に付着したウィルスの影響であるという話もあるんですよね。

 この、「遺体」と「スター」という一見全く別の存在が、スタンド能力という補助線を引けば繋がるという驚きがありますし、さらに星型の痣はジョースター家の血統の象徴でもあります。

 

 その意味は今の僕には分かりませんが、今後のジョジョの展開についての重要なヒントが「スーパーマリオブラザーズ35」には隠されているのかもしれません…。