漫画皇国

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面白奉行とスベりフリー関連

 僕が「面白奉行」って読んでいる行為があります。それは人が集まっている場において、他人の言動について、何がおもしろいとか何がおもしろくないとかをジャッジする行為なのですが、これがあんまりよくない使われ方をされているのを昔よく見ました。

 おもしろをジャッジするとは、例えば、他人の話について「オチは?」と聞いてきたり、「スベった」と認定してきたりすることです。

 

 大阪に住んでいたときには、「おもしろい人である」ということが、他の土地よりもより意味を持っていたと感じていて、特に若い男なんかは、おもしろい人間であると思われたいと思いがちであったように思います。そのためにおもしろいことを積極的に言おうとすることは、僕は基本的に良いことだと思っていて、なぜなら、周りの人が笑うようなことをお互いに言い合うような場所は楽しいからです。

 

 ただし、ここで注意しないといけないことは、おもしろいことについての絶対的な尺度はないということです。100人いたら100人が笑うおもしろいことということはなく、それぞれの人には何をおもしろいと感じるかという感性があります。また、人間の性質として、100人いたら5人ぐらいしか笑わないことの、その5人に自分がなったときに強烈におもしろくなったりもします。

 だから、おもしろいことを言うということは、きっと目の前の人が何をおもしろいと感じるかに寄り添うということでもあって、そこには他者とのコミュニケーションの問題がある気がするんですよね。

 

 だから、ある場所でウケている人が、他の場所に行くと全然ウケないことも普通にあります。人が何で笑うかには様々な下地が必要だからです。何かしらの共通認識が下地となったおもしろは、それがない場所では伝わりません。そう思うと、お笑い芸人が、舞台の上やテレビの中で、自分が笑わせようとしている相手が誰かを明確に認識することなくお笑いをやることの難しさについても考えることになるわけです。

 個人的な経験としても、インターネットで、この人は面白いなと思う人が自分と同年代であることが分かることが多くあります。それはきっと、世代的な共通の下地を持っていることが多いからではないかと思います。そう考えれば、自分より世代が上だったり下だったりする人たちが、もし自分が分からないことで笑っていても、それは、そこにそれぞれ独自の下地があるからで、決してつまらないことで笑っているわけではないという理解ができます。

 

 さて、話がめちゃくちゃずれたので面白奉行の話に戻しますが、面白奉行とは、他人のおもしろをジャッジする行為であるとともに、「自分、お笑いのレベル高いですよ?」とアピールする行為となることがあります。

 この使い方は危ない行為だと思っていて、おもしろい人はすごいという価値観に寄り添う上で、「他人をおもしろがらせる」というやり方ではなく、「他人におもんないと言いまくることで、相対的に自分がおもしろい人であるということを示せる」と思い込んでいるということです。

 ただ実際、それが効果が出ることもあって、特に年長者や立場的に強い人が面白奉行行為をしてしまうと、立場の弱い人たちは、自分の言うことがおもしろいと判断されるのか?ということに委縮してしまい、口数が少なくなってしまったりします。というか、大阪に住んでたときに、こういうことがちょいちょいあったんですよね。

 場におけるおもしろいおもしろくないを立場の強い人が面白奉行として一手に握っていていることはあって、でもよくよく考えたら、その面白奉行、他人を全然笑わせてなかったりもするわけです。結果として起こるのは、その「別に他人を笑わせることができない人」が、自分はおもしろのレベルが高いとアピールするために、場からおもしろをどんどん減らしていくということになります。辛い。

 

 前述のように、おもしろの尺度は多様です。全世界の誰も笑っていなくても、ひとりの人が自分自身で心から爆笑できていれば、それはきっとおもしろであるはずです。ただ、その人からすれば、世界の残りの全てはおもんないかもしれません。

 それは、その人の中で閉じているなら全然いいんだと思います。そして、より多くの人がおもしろいと感じるからこそより意味があるとも限りません。100人が100人おもしろいと思うものと、100人のうち1人しかおもしろいと思わないものの間に根本的な優劣はないわけです。あるとしたら、「より多くの人を笑わせた方が勝ち」というような、別の価値観を流し込んだ場合でしょう。それだって、100人がどの100人かによって結果が全然変わってきてしまうことです。

 

 ただし、何らかの場においては、この辺に考える余地があると思います。おもしろに優劣も貴賤もありませんが、その場が全体として結果的に楽しくなるかならないかという差はあり、僕はあまり楽しくない場所にはいたくないので、この手の面白奉行行為をされると非常に嫌です。

 誰かをおもしろくないと言うことで自分をおもしろい人間であると言えるのであれば、周りの全員をおもしろくないと思う人が一番おもしろいことになります。さらに、他人を笑わせることから一番縁遠い人がおもしろいということになっている場所だったりするとき、その場所ってめちゃくちゃ居心地が悪くないですか?

 

 だから、僕はそういう場所からはスッと逃げるか、面白奉行を完全に無視するかみたいな感じになってしまったりするんですよね。

 

 今ここで出した面白奉行行為についてはとても極端な例示です。誰しも心の中に、ある程度の面白奉行は飼っているでしょうし、他人のおもしろについてジャッジしてしまうのは、ある程度は仕方ないとも思います。その上で、皆がいる場所で、どの程度のことをやっていくかが、まさにコミュニケーションなんだと思うんですよね。

 場にいる人がどのような人でも、絶対に勝てるやり方はありません。そこには自分の価値観と相手の価値観があって、その相互作用を読み取って、場所をいい感じの雰囲気にしておくことが求められているんじゃないかと思います。

 そのために必要なのは、自分がおもしろい人であるということをアピールすることではなく、目の前にいる相手を笑わせようと思うことなんじゃないかと思っていて、そういう気持ちでいる人が集まると楽しい場所ができる感じがしています。

 

 だから、僕は大阪に住んでて、気の合う友達と一緒にいる時間はめちゃくちゃ楽しかったです。

 

 面白奉行への対抗策として、存在しているのは「スベりフリー」という概念です。おもしろいおもしろくないのジャッジはどうしても完全には無くせないと思いますが、それが無くせる特殊な時間と空間がスベりフリーです。それは、今からスベるという概念は消失しましたと宣言することで、誰がどれだけおもんないことを言っても、それを一切否定しないという時空間をあえて作ることで、皆が好き勝手ものを言うようになるんですよね。常にそれだとアレかもしれませんが、これがたまにやるとめちゃくちゃ楽しいんですよ。

 自分の中で、これはおもんないなと思って外に出さなかったようなことを、うっかりスベりフリーに乗じて出してみると意外とウケてしまったりして、自分自身のジャッジは当てにならねえ!と思ってしまったり、友達が思ってたけど言わなかった新しい側面を出してきたりして、まあとにかく楽しくなります。

 なので、スベりフリーはすごくオススメです。

 

 おもしろの話をしてきましたが、これっておもしろに限らない話だとも思います。例えば、漫画や映画、ゲームに対しても、何かをおもんないと世の中に向かって発言する人が、「自分はその作者よりもおもしろの本質に近い」と思っていることがあると思います。それはきっと、その人の個人としての頭の中に閉じていればそうなのだと思います。しかし、何をおもしろいとするかの絶対的な基準が世間的にその人であることはありません。

 

 ある種の批評家が嫌われるのも、そのような理屈だと思っていて、つまり「自分がその分野で秀でているという自己アピールのために、他人が作った何かをおもしろくないと言っている」という態度が、どれだけ出ているか?(より正確には、出ていると思われているか?)という話ではないかと思います。

 ただし、そのような気持ち自体は誰しもの心から完全には分離できないとも思います。だから、自分で振り返る気持ちがあるかないかという感じもしていて、自分も振り返った方がいいなと思ったりするんですよね。

 

 誰の心にも少なからず面白奉行はいると思います。でも、面白奉行だけに囚われてしまうと、場がめちゃくちゃ楽しくなくなっていく感じがしていて、僕はそういう場所にいるのが嫌だなと思ってしまいます。

 ただ、どうしても面白奉行は完全には分離できないわけじゃないですか。だから、付き合っていくしかないんですけど、たまにスベりフリーをやると、そこから一時解放されたりして楽になったりしますよという話でした。

「タイムパラドクスゴーストライター」をおもしろく読んでた関連

 タイムパラドクスゴーストライターは、ジャンプで連載されていて、この前完結した漫画で、終わる直前は特にかなりおもしろく読んでいたので、短く終わってしまって残念でした。

 

 おそらく打ち切りで終わっており、もっと長く続くなら回収されるはずだったと思われる要素のいくつかも宙ぶらりんの状態でしたが、短く終わったために結果的にテーマ性のようなものはむき出しになったように思ったので、そこが分かりやすくなっていったのが終盤おもしろく感じていた理由のひとつではないかと思います。

 

 この物語は、連載をどうしても勝ち取れず、編集者に強めにダメ出しばかりをされていた漫画家の卵の佐々木くんの家に、ひょんなことから未来のジャンプが家に届くようになり、そこに載っていたとてもおもしろい漫画「ホワイトナイト」を、うっかり無自覚に盗作してしまうところから始まります。

 僕が序盤で感じていたことは、佐々木君がやってしまう盗作という事実の悪さと、人間としての善良さのバランスの合わなさであり、また、佐々木くんが抱えている美学がイマイチよく分からない感じだったりしたことがあったための困惑でした。

 

 主人公なのに、どういう考えのもとに何を正しいと考えているのかがよく分からないという、作中の倫理観や美学の基準が全然分からなくて、これはいったいなんなんだ?というのが当初読みながら思っていたことです。

 僕が思うに「漫画を描く」ということもある種のコミュニケーションの形態のひとつで、だから「誰かに何かを伝える」ということが重要ではないかと思うのですが、佐々木くんは漫画を読んでほしいのは特定のどういった人ではなく、漠然とみんなだと言いますし、内容としてもそこに対して自分の中にある誰かに伝えたいものがあるわけでもありません。

 それは悪いことではなく、ただ平凡なだけだと思います。いや、特別な何かになりたいのに、平凡でしかないということは、限られた人しか立てない場所に立とうとする上では不利なことなのかもしれませんが。

 

 なので、最初の方ではよく分からない漫画だなと思っていました。

 

 ただし、「透明な傑作」という概念の説明が登場してから、そこはがらりと変わります。透明な傑作とは、後にホワイトナイトを描くはずだったアイノイツキちゃんが抱えていた概念です。それは、作家がどうしても持ってしまう個性としてのクセを極限まで排し、全人類の誰が読んでも気兼ねなく楽しむことができる究極の漫画のことです。実際、日本で一番売れている漫画でも単巻では数百万部が限界です。

 日本人口から言うと、95%以上の人たちは単行本は買わないということを選択した漫画と考えることができます。それを100%にすることは現実的に可能でしょうか?不可能だと思います。

 でも、そんな不可能な場所を目指してしまう人間がここにいたと考えれば、全て辻褄が合うと思いました。そこで今まで分からなかったことに対する理解を得たと思ったわけです。

 

ここでもうちょっと詳しく書いてます。

mgkkk.hatenablog.com

 

 囲碁漫画の「ヒカルの碁」で、塔矢名人とどうしても打ちたいと言った幽霊の佐為に対して、ヒカルは佐為の存在がバレてしまわないように、15目差で大勝することを目標とさせるハンデをつけるなら…という条件付きで打たせるという展開がありました。同等の条件でも勝てるかどうかが分からない相手に、大差で勝とうと思えば、それは一見むちゃくちゃな碁になってしまいます。ただし、名人に対してそんな勝ち方をしようとする人がいるなんて思えないため、その真意に気づける人は普通はいません(塔矢名人は気づきましたが)。

 タイムパラドクスゴーストライターもこれと同じじゃないかと思っていて、そんなむちゃくちゃな場所を目指しているのならば、これまでのはちゃめちゃな展開をその解釈で読むことができるということに気づくわけです。そのスケールのデカさを目指しているならば、正攻法な面白い漫画を作ろうとしている編集者との意見が合うわけがありません。

 

 佐々木くんとアイノイツキちゃんの漫画を盗作してしまいましたが、その一方で、この物語の中で、他の誰にも理解できない同じ場所を目指している数少ない同志だということになります。そして、未来のジャンプが届かなかった場合の別の未来では、むしろ佐々木くんの描いた漫画がアイノイツキちゃんに影響を与えていたという事実も告げられます。

 

 このように、ありえないような理想の場所に向かって突き進む無謀な人たちであったということが分かったことで、この物語に対する理解が僕の中に生まれました。また「透明な傑作」は現実的にはあり得ない漫画であったとしても、漫画の中ならば存在することができると思います。

 それがどのように生まれるのか、生まれないのか?もし否定されるなら、どのように否定されるのか?彼らが目指すべきところはどこなのか?そして、そこに辿り着くことはできるのか?ということにとても興味が湧いてきました。

 

 例えば、そんな「透明な傑作」は、ひとりの力ではできなかったとしても、時空をゆがめてそれぞれの人が時代時代に積み重ねたものを継承し続けた果てには、もしかすると生まれ得るかもしれません。もしかすると、それがタイムパラドクスゴーストライター、時空の歪みの中で誰が生み出したのかも曖昧なままで生まれる究極のクリエイティブなのでは?などと想像したりしました(なお、この想像は全く外れています)。

 

 現代の漫画表現も、過去の様々な漫画家たちが生み出したものの上にある最先端です。ひとりの人間だけでは生み出せなかったものを、これまで読んできた沢山のものを取り込んで前に進んでいることに自覚的な漫画も沢山あります。例えば、ジャンプではチェンソーマンがそうですし、他には忍者と極道もそんな漫画だと思います。影響を受けたものを隠すことなく取り込み、推進力として、ひとりの人間のクリエイティブだけでは突破できない先に行こうとしている漫画です。

 

 この物語は、最終的にアイノイツキちゃんを救うことを目的とした物語だということが分かりますが、その過程の無数の試行錯誤があり、どうしても助けられない誰かを助けようとする無限の試行錯誤の中で、遂にはその透明な傑作が生まれたりするのではないのか?そして、それはいったいどういうものなんだろうか?ということを期待したりしていたんですが、実際、最後まで読んでみるとそういう感じにはならず、割と落ち着きそうなところに落ち着く話になってしまったように思いました。

 

 まだ完結巻も出ていないので、ここでは終わり方はぼやかしておきますが。収まりのいい話としては落ち着いたように思います。

 

 ただ、個人的にはどうせなら突き抜けて欲しかったような期待を勝手に抱いてしまっていたんですよね。爆走する車が上手い具合に駐車場に止まるよりも、なぜだかさらに加速して空を飛び、大気圏の外に飛び出してしまうような感じに。

 

 話を綺麗に収めてしまったのは、短く終わらせることになったからということも関係しているように思うので、もしもっと連載が続いていたら、どのような展開や終わり方をしていたのか?というところは気になります。

 

 僕は漫画をテーマ性みたいなもので読みがちなところがあって、僕が言うテーマ性とはつまり価値観のことです。何を良いと考えて何を悪いと考えるか。物語が何に寄り添っているのかという価値観が持つ個性に興味が湧いて読んでいることが多いです。

 漫画を誰のために描いていて、そこで何を描こうとしているかというのは、僕自身が漫画の同人誌を作るようになって考えることがある話で、だから分かる話だと思うんですよね。

 

 そういえば、僕自身の感覚はそれをそのまま漫画にしてみるかなと思って描いたやつがあります。

誰ガ為ノ草枕www.pixiv.net

 ここで描いたものは、同人誌でもあるし、結局自分は自分が読みたいものを描くしかないなと思って、それを同じく面白く思ってくれる感覚の人が他にもいるということを祈るという姿勢でした。それが自分にはしっくりきたんですけど、まあ狭い話だなとは思っていて、そういうところにも、なんかもっとでっかい何かに対する期待があったのかもしれません。

 

 タイムパラドクスゴーストライターは、せめてあと1巻分多く続いたら、もう少し駆け足でなく色々描けることもあっただろうになと残念な気持ちになりましたが、世の中は色々仕方ないので、仕方ないなと思います。

 何か僕が思いもよらなかった概念や、読んだ後、自分の考えられる範囲が広がるのではという可能性があっただけで十分面白く読みましたし、それが描かれるぐらいに連載が続いていればもっと良かっただろうなと思います。残念。

「ダンガンロンパ」と希望と絶望関連

 「ダンガンロンパ」、前からやろうかなと思いながらずっとやってなかったのですが、スマホ版が半額セールをやっているのを聞きつけてついに遊び、クリアしました。

 

 ダンガンロンパに対する事前情報をほとんど持っておらず、色々勘違いしていたところがあって、なんとなくのイメージとして普通の学園生活の中で何かの事件が起こって、学級裁判の中で解決する話なのかなと思っていたのですが、全然違っていて、デスゲームだったのか…と思ったのが遊び始めて最初の驚きです。

 

 ダンガンロンパは、日本全国から超高校級の才能を持った人たちが入学する高校に、たまたま入学できる運が良い人(超高校級に運が良い人)として主人公が入学するところから始まる物語です。学園に入ってすぐに意識を失ってしまい、次に目が覚めたときには学園の様子は変貌していました。全ての窓は金属でしっかり固定され、外の様子は分からず、外への扉も閉じていて、出ていくこともできません。

 そこに現れたのは謎の人形モノクマです。彼はそのとき学園にいた15人を集め、誰かを殺した人間だけが外に出ることができるということを教えるのでした。しかし、ただ殺すだけではダメです。人の死が確認されたあとに開催される学級裁判の中で、自分が犯人であることを暴かれないということが条件です。

 主人公たちは、次々に死んでいく同級生と、その犯人がこの中にいるという状況の中で、生き残りをかけた推理バトルを行います。

 

 ダンガンロンパの学級裁判における推理バトルの特徴的なところは、そこに時間制限とアクション性があるということでしょう。そして、裁判の沢山の参加者が次々に発言する中で、事前に調査して獲得した証拠、あるいは、他の人から採取した発言を弾丸として、流れてくる別の発言に撃ち込んでいきます。

 ダンガンロンパで巻き起こる事件は、割と親切に証拠が提示されるので、裁判開始前に真相の7~8割は分かっている状態になっています。

 ただ、この大体分かっていると思っている状態で挑んでいるはずなのに、時間制限やアクション性と組み合わさるとゲームの難度が結構変わるのが面白かったです。なぜかというと、落ち着かない状態にさせられると僕自身の思考能力が低下するからです。自分の頭の中にある真相を、目の前の他の人たちの会話の中で、どのように提示すれば上手くプレゼンできるかを判断しないといけませんが、手元の操作に気をとられて、思考が上手くできなかったり、タイミングよく指摘できなかったりして、実生活で喋っているときにもこういうことはよくあるなと思いました。

 

 ただし、これはゲームなので、同じ会話が何度もループしてくれます。あと、ゲージを消費しながら会話の流れを遅くするボタンがあったのですが、スマホのインターフェースだと、画面をタップ操作に気をとられて、僕が終盤までその機能を使っていなかったのが、勝手にゲームの難度を上げてしまっていました。

 

 そして、相手を追い詰めるときには何故かリズムゲームとなり、最後の真相当ては、事件を描いた漫画の抜けている部分に、手持ちのコマを当てはめて、分かっているかどうかを確かめられます。

 

 推理が様々な形でゲーム化されていますが、その背後にあるのは、ゲーム側からプレイヤーへの「お前、ホンマに分かっとるんやろな?」という問いかけだと思います。推理のゲームとはつまり、与えられた材料からプレイヤーが自分の頭の中で真相を想像するということ、そして、ゲームのインターフェースを通じて、自分が真相を分かっているということをどうすればゲームに伝えられるかというコミュニケーションです。

 ダンガンロンパは、「はっはっは、おれは真相分かったで!」と自分が思ってから、その事実をゲームに分からせるという部分で大変な気持ちになったりします(僕がゲームが下手だから)。そして、真相に至るための情報は十分に与えられますが、そもそもの謎の構造として、学級裁判の中で初めて与えられる情報で明らかになることもあります。

 つまり、事件の真相を究明する中で、どうしても事実関係がイマイチぼんやりした部分があり、ぼんやりしたままで推理バトルが始まってしまいますが、途中で明らかになる事実を自分の頭の中で組み立て直し、完全な真相を理解し、そしてそれをゲームを通じて表現していくことが求められるわけです。

 これ、結構難しいと思うんですよね。なので、僕は楽しく遊んだものの、自分の親(ゲームをテトリスぐらいしかしない)に遊んでみてよと薦めるか?というと、難しくて上手く遊べないのでは?と思ったりもしてしまいました。ただ、これは自分がギリギリプレイできる人間だと思っているということで、難度設定が適切なんだろうなと思います。人間は、目の前の課題が簡単すぎると退屈しますし、難しすぎると最初から諦めてしまうので、自分がギリギリクリアできるぐらいの課題を好むと思うためです。

 

 さて、ダンガンロンパの魅力の大きな部分は、物語の意地悪さや、その中で生き、そして死ぬことも多いキャラクターの強さではないかと思います。

 基本的にひとつのエピソードで誰かが殺され、その犯人もまた生徒の中にいます。そして、それぞれの生徒とはサブイベントとして個別に交流を深めることができます。仲間の誰かが死ぬことは嫌ですし、その犯人が仲間の誰かであるということが本当に嫌なんですよね。このゲーム、プレイしなければ誰も死なずに済むのでは??とまで思ってしまいます。犯人を見つけることは必要なプロセスですが、見つけられた犯人は、モノクマによってとても残酷に、悪ふざけのように処刑されてしまいます。

 

 死んだと思った人が生き返ることもありません。人の死はゆるぎなく、ただの死です。それが起こる中で、閉鎖環境の学園生活を送るということの奇妙さを体験することになります。

 

 好きになったキャラクターが次に殺されるかもしれません。好きになったキャラクターが次に殺人犯になるかもしれません。その中では、誰かを好きになることそのものに虚無性を感じてしまうかもしれません。それはひょっとしたら絶望かもしれません。何かをすることに虚無性を感じてしまったとき、もう何もしないことを選んでしまうかもしれないからです。

 この物語は、絶望と戦う物語だと思います。このような極限状態でなくとも、この世には多くの絶望の種があります。そんな世の中で誰しも生きているはずです。

 

 この物語は、絶望が病のように蔓延する学園から脱出する物語です。その脱出はつまり希望のはずです。では希望とは何でしょうか?それは、外の世界に約束された幸福が広がっていることでしょうか?おそらくは違うはずです。幸福が約束されていることが希望なら、どうしようもない世の中には希望なんて一欠片も存在しないことになってしまうからです。

 僕の考えでは、希望とは扉の外に出ていく意志のことです。歩みを止めないことが希望です。扉の先に待っていたのが地獄であったとしても、その外に出て行こうとした人の意志こそが希望です。寄生獣の泉新一くんも言っていました。

 

「なんだ…ほとんど可能性ゼロに近いじゃないか!…でもやらなけりゃ…確実なゼロだ」

 

 これがきっと希望なんじゃないかと思います。ここでやる方に決められる気持ちが人間の希望です。そして、どうせ可能性はゼロに近いからやらないことが絶望です。そんなに大した違いじゃないのかもしれません。気持ちを時間で微分した加速度が上向きか下向きかということが希望と絶望なんじゃないかと思っていて、その先にあるかもしれない幸福や破滅は、その瞬間瞬間を積分した結果みたいに思うんですよね。なんかゲームの話とは違ってきましたが。

 

 世の中は結構ダルくて、やったことが徒労になったり、よくなる将来が思い浮かべられなかったりすることがあります。瞬間瞬間は希望を感じても、それ以上の絶望的な気分に押しつぶされそうになることもあります。その嫌な感じが、ダンガンロンパを遊ぶ中にもあって、どうせ死ぬんだから仲良くならなくていいじゃんとか、どうせならシナリオ的になかなか死なない相手と仲良くなればよかったとか、思っちゃえるような気もするんですけど、個人的にはそれはなくて、人はいつか死ぬし、大切な人が豹変するかもしれないけれど、瞬間瞬間希望的な気持ちになれることが重要じゃんとか思うところがあったりします。

 だから、この人と仲良くなるかと思った人には話しかけてプレゼントをあげまくり、その人が死んでは、うぎゃーとショックを受けたりしながら遊びました。

 

 その希望の扉の先、一瞬の後に仮に絶望的な死が待ち受けていたとしても、その扉をくぐるときには、生きる気持ちで生きるということ、そういうのがいいじゃんと思うところがあって、ダンガンロンパをクリアしたときに、そんな感じのことを思いました。

 そういうのがどうしようもない絶望を強いられたときに打ち勝つ力なのかな?と思う感じなのですが、これがこのゲームをプレイして思うべきことなのかどうかは分かりません。

 

 ただ面白かった。好きなキャラは腐川です。

「少年ハリウッド」とアイドルは神か生贄か関連

 少年ハリウッドのアニメ1期、2期を観終わったあと、最終回の完全版を観て、その後、小説少年ハリウッド完全版を読みました。

 でも、まだこの少年ハリウッドというものがどんなものだったのか自分の中で測りかねています。ので、文章を書きながら自分の中で整理をしていこうと思います。

 

 少年ハリウッドは、原宿にあるハリウッド東京という劇場を拠点として毎日のようにライブをする少年ハリウッドという男性アイドルグループを主人公とする物語です。厳密には彼らは2代目で、かつて存在した少年ハリウッド(なお、小説少年ハリウッドはこちらの話)の名前を引き継いだ新生少年ハリウッドです。このアニメの物語では、ざっくり言えば何でもなかった少年たちがアイドルになっていくという過程を描いており、その結実が最終回のクリスマスライブとなります。

 

 僕が今ひとつ納得のいく受け止め方に至っていないのは、最終回を迎えた少年ハリウッドのメンバーたちが、本当にこれでよかったのか?ということに疑問が残るからです。いや、最終回とその完全版を観て、よかったなあと思うのですが、その自分がよかったなあと思ったことがよかったのかどうかという疑問があります。

 

 それは作中でも、「アイドルは神か生贄か」という語られ方をしていたことからも、意図的なのではないかと思っています。僕はアイドルとなった彼らの姿を観ながらも、同時に彼らが生贄としての役割も果たしているということについて自分の中で上手く捉えられないのではないかと思いました。

 

 客席のファンに向けて彼らが見せる姿は、彼らの実態とは異なります。彼らはアイドルでいるときに、アイドルという役割を果たしているからです。彼らのお決まりの自己紹介のパフォーマンスも、自分自身で考えたものではありません。彼らはその珍奇とも思える自己紹介に最初困惑し、そして、後に自分の言葉のように堂々とやって見せるようになりました。そして、舞台の裏側で、ファンたちが自分たちを見る目線が、素の自分以外の何か別物を見ているように思えることへの困惑も描かれたりします。

 

 ここで、僕が思い出すのは大森靖子の「マジックミラー」という曲です。

あたしのゆめは
君が蹴散らしたブサイクでボロボロのLIFEを
掻き集めて大きな鏡を作ること
君が作った美しい世界を
みせてあげる

  この歌は、お客さんのいる舞台に立つ人の覚悟を歌ったものだと思っています。つまり、客席の人たちが舞台に立つ人に向ける目線は、実は客席の人たち自身の心の中にある世界の写し鏡であって、舞台に立つ人そのものではないということ、そこに自覚的な話なんだと思います。それはあたかもマジックミラーのように、舞台から客席は見えても、客席からは客席にいるそれぞれひとりひとりに合わせた鏡しか見えないということです。

 そして、舞台に立つ人は、自分がそんなマジックミラーであることを自覚して、そのためにこそ舞台に立つということが歌われているんだと思います。

 

 少年ハリウッドのメンバーたちもこの心情に近いのではないかと思っていて、その覚悟というか、そうすることが彼らの理解するアイドルという役割であって、そのようなアイドルになってゆくという様子に観ていて、実際僕の心は動きます。

 ただ、こういうことを考えるのがいいのかは分かりませんが、彼らがまだ子供という歳であることが自分の中でひっかかっていて、子供に大人を含めたファンたちがそんなことを背負わせる?という疑問と、しかしながら、アイドルはその子供から大人になる一時期にだけ期間限定で続けることができるものであったりするという構造的などうしようもなさも感じたりします。

 

 つまり、このようなアイドルという概念は、ファンは喜んだとしても、アイドルをやる人々にとっても果たして素晴らしいことなのかということに疑問を持ってしまいました。それはたとえ本人たちがそれを肯定的に捉えていたとしても、もしかすると、搾取でしかないのかもしれないと思うということです。僕にはそれがよく分からなくなってしまったんですよね。

 現実にいるアイドルでも、続けることや辞めることの周りで巻き起こるゴタゴタが目に入るわけじゃないですか。

 

 そして、少年ハリウッドは、その部分をごまかさずに描くということをすることが特徴的な物語であるように思いました。普通の人間でしかなかった人たちがアイドルをやるということについて、表に見えることと、背後に隠れていることがあり、その両方を描くということです。

 

 最終回にあるライブでは、それまで表に出ている部分しか見ることができなかった客席のファンたちと違い、自分は、彼らのこれまでをずっと見てきたんだぞという、客席の後方で保護者面しながら腕組みをしている人間となっていました。そして、この物語はドキュメンタリーのようなものであったのだなという理解があったのです。

 

 アニメの中には、一話丸ごとテレビ番組を模した構成のものがあったり、最終回の完全版は、完全にライブそのものを再現する構成なので、感覚としては、少年ハリウッドのみんなの晴れ舞台を見ている気持ちなんですよね。様々な困難があった中で、彼らがアイドルになっていったこと、そして、この先に繋がっていくであろうことを信じて送り出すような物語でした。

 

 適当にまとめたような書き方をしましたが、全然自分の中ではまとまってないなと思ったのでまだ続きを書きます。

 

 少年ハリウッドが面白く感じたのは、アイドルの物語なのに、最初のシーズンの13話ではそれを見るファンの姿があまりなかったことです。僕の理解では、アイドルという概念には、それを見るファンの存在が必要不可欠で、ファン⇒アイドルの目線と、アイドル⇒ファンの目線がぐるぐる循環してこそアイドルなのでは??みたいな気持ちがあるんですが、前半はそれ以前の物語であるように思ったんですよね。

 

 まだアイドルでない少年ハリウッドのメンバーには、答えるべき他者からの視線がまだありません。だから、13話までの彼らの姿はある意味滑稽にも見えます。伝える先の見えない言葉を発しているからです。そして、それは視聴者にとってもそうだと感じました。

 アイドルとファンの関係性はある意味、内輪の話だと思います。そして、視聴者は最初、その外にいるわけです。だから、彼らの内輪に向けた言葉が、それが届かない相手に向けて発せられているときに、それを見ている僕が恥ずかしくなってしまうこともありました。

 

 アイドルになるための歌やダンスや自己紹介の練習をしながらも、そのときの彼らにはまだ、それを誰のためにやることなのかが分かりません。しかし、物語の後半の13話からは、ファンとの距離感が描かれ始めます。例えば第16話の「本物の握手」では、劇場に来れば握手ができるアイドルという立場とファンの距離感について描かれたお話で、アイドルとファンは、対等な人と人としてではなく、あちらとこちらとして隔てるものとして存在することが意味があるという示唆があります。

 「カッコいい男の子と、ひょっとしたら対等な恋愛関係になれるかもしれないと思って劇場に通う」ということは、実はアイドルを普通の人間として捉えているということで、つまり、アイドルからアイドル性を剥ぎ取ることだということです。目の前のアイドルがどんどん多くの人にとってのアイドルに成長していき、今日この時、握手のためにアイドルの時間を少しだけもらったことが、将来、もう手の届かない、どんどん価値のあるものになっていくという想像こそがアイドルのアイドル性には存在するのではないかという示唆です。

 

 新生少年ハリウッドの前には、初代少年ハリウッドがいます。彼らは解散後のそれぞれの人生があることも描かれます。芸能界に残る人もいれば、他の仕事を見つけている人もいます。彼らはアイドルでありましたが、もうアイドルではありません。アイドルは人生のある一時期にしかできません。しかし、アイドルという物語は、その役割が人から人へと受け継がれていきます。

 新生少年ハリウッドもきっといつか終わりが来る物語です。

 

 アイドルの起源をずっと辿れば、それは例えば巫女のようなものなのかもしれません。太古の昔から今でいうアイドル的な存在はあったのかもしれないということです。つまり、そのようなアイドル的な存在は人間社会で何かしら必要とされてきたのではないでしょうか?

 巫女は自分の言葉ではなく、何かしら超自然的なものの媒介となる存在です。だから、人であって人ではないことに意味が見出されます。ネパールにはクマリという役割があって、初潮前の女の子が生きた神さまとして信仰の対象となったりしています。
そして、クマリは人権侵害であるという議論があります。

 

 アイドルは神であり、生贄でもあるのかもしれません。でも、それは全て、そのアイドルを見るファンたちに対しての奉仕者という意味で共通しているように思います。それは尊いことかもしれませんが、バランスを崩すと酷い話にもなり得ます。

 

 僕の考えでは、人間には接する相手によって多面性があります。誰かと接するときには、その人用にカスタマイズした人間性があるということです。他人に対して冷徹な人が、身内に対して愛情あふれるとき、どちらかが本物なのではなく、人は接する相手によって別の自分を持っているという理解を僕はしています。

 ネットで暴言を吐いている人が、実際会ったら良い人だったという話も聞いたりしますが、どちらかが本当ではなく、ネットで接している相手と、直接接する相手では別の人格が出来上がるものだと思うので、不思議ではありません。

 だからこそ、自分が誰と接しているときにどのような人間性なのか?ということに自覚的になります。誰かが好きと思うとき、その人が好きという話だけではなく、その人といるときの自分が好きということがあると思うわけです。これは昔から感じていたことですが、最近、女優の蒼井優さんも同じことを言っていたという記事を読んだので、おい!僕だけの考えじゃないぞ!あの有名女優も言っとるぞ!!という感じになりました。

 

 なんでこういう話をしているかというと、つまり、「アイドルを見ているときの自分が好き」ということがあると思うわけです。そして、アイドルは、そんなファンとしてなりたい自分にならせてくれる特別な存在なのではないでしょうか?

 もし、アイドルが一人の人間として目の前にいた場合、それはやはり一人の人間なので、上手く行かないこともあると思います。でも、アイドルがアイドルとして目の前にいるとき、それは、前述の自分の写し鏡として、自分が心地よい状態をしてくれる存在となってくれるのかもしれません。

 アイドルのファンである自分が好きであるということがアイドルの現場によって保証されているならば、アイドルは必要な存在です。だから、アイドル的な存在が世の中には存在しているのではないかと思ったということです。

 

 新生少年ハリウッドを作り上げた社長は、初代少年ハリウッドのメンバーでした。それはつまり、社長はアイドルとファンの関係性を維持する場所を保とうとしたということだと思います。社長もまた、アイドルという奉仕者として生きてきた人で、そして、その場所に意味があることを理解していたのではないかと思います。

 

 アイドルという場所は、時代時代にその象徴となり得る若者を喰らいながら維持されているように思いました。なぜなら、それを必要としている人がいるのだから。

 

 この新生少年ハリウッドという人生の一時期が、将来の彼らにとって良い時間になるかどうかは分かりません。この先、少年ハリウッドに青春の重要な時間を投入したことを後悔する人も出てくるかもしれません。その可能性もあることが描かれていたと思います。それでも、彼らはアイドルとして自分たちの意思で舞台に立ち、ファンとアイドルという輪を維持することを選びました。

 

 それは、良し悪しではないわけです。おそらくそういう話ではないわけです。ただ、そんな場所がここにあったという話なのではないかと思いました。アイドルとファンによる輪が存在しているという話で、そして、視聴者である自分自身も、その場所を構成する要素のひとつです。

 初めは外から眺めていたはずの物語を、気づけば内輪の中から見るようになっていました。見ているだけで気恥ずかしかった自己紹介のパフォーマンスも、今ではやってくれると嬉しく感じます。新生少年ハリウッドのメンバーがアイドルとして変化したように、視聴者である僕にも変化があったことを感じることができます。

 なので、僕自身にとっては良かったなと思いました。そして、そんな自分にしてもらえる少年ハリウッドはいいアニメだなと思いました。

「メダリスト」の第3話をめっちゃ良く感じた関連

 「メダリスト」はちょっと前からアフタヌーンで始まった漫画で、フィギュアスケートの漫画です。

 主人公の一人は司くんという、選手を引退し、アイスショーのオーディションに落ち続け、コーチに転向する誘いを受けている青年です。そして、もう一人の主人公はいのりちゃん、スケート場の人の厚意で、一人でスケートの練習をしていた小学生の女の子です。早く始めた方がいいと言われているフィギュアスケートの世界で、指導を受け、本格的にスケートを始めるには、小学5年生のいのりちゃんは年齢的に遅いと言われています。

 実は、司くんもかつてそんな始まりが遅かった一人でした。自分がもっと早くからスケートを始めていれば、今の自分とは違っていたのではないか?ということを考えています。

 

 この物語は、いのりちゃんがスケートを始めたいと口に出すことから始まる物語です。世界一になりたいと口に出すことから始まる物語です。そして、その姿を前にして、司くんがコーチの道を歩み始める物語です。

 

 この話が描いているもののひとつは、「抑圧のある中で生きていくこと」なのではないかと僕は思っています。いのりちゃんがスケートを始めるまでにあたっては、様々な抑圧があります。それは例えば自分の親であったり、他人の親であったりします。成功できるのは一握りの狭き門に、小さい頃から人生を賭けている子供が沢山います。例えば、誰かがコーチに贔屓にされているということは、別の子供の親からすると批判の対象になります。だから、いのりちゃんを褒めてかかりきりになる司くんの姿は批判の対象にもなります。

 それは嫌な話だなとも思いますが、視点を変えれば、割とどうしようもなくあるものです。人はそういうことを思ってしまいます。口に出さない方が平和的ですが、口に出されてしまうこともあります。自分が出してしまうこともあります。

 自分以外の誰かの都合に基づいた抑圧を避けた先にあるのは、その誰かの都合によって舗装された道でしょう。それは、自分の歩きたい道とは違う可能性が高いです。

 

 いのりちゃんの前にはそんな道があります。そこを歩いていたら、スケートには到達しません。だから、その抑圧に舗装された道路を踏み外さなければなりません。そこに必要なのは、いのりちゃん自身の意志と、踏み外した先に、別の道を舗装してくれる大人の存在です。それを司くんが担ってくれるのがこの物語なんだと思います。

 

 で、3話がすごく良かった話をしたいんですけど、いのりちゃんが大会に出るにあたって、練習の方向性が2つある状況になります。司くんはそれに対して「どっちを選びたい?」と問いかけます。そして、つかさちゃんは不安げに司くんを見返し、司くんがどう思うかを確認しようとしてしまいます。

 「俺の意思を読もうとしちゃだめだ」、司くんはそんないのりちゃんにこんな言葉を返しました。なぜならば、いのりちゃんに自分で「選択」をするということに慣れて欲しかったからです。

 世界一になりたいという夢を持ついのりちゃんがその道を歩み続けるなら、その先には、きっと無数の選択肢が現れます。そんなとき、いのりちゃんの前には、色んな意見を持った大人が現れるはずです。その中の誰かが教えてくれる「正解」を選べば、目指す先に繋がるでしょうか?自分で選択することを放棄して、誰かが本当の正解を教えてくれるなら楽な話です。でも、人は神さまではありませんから、誰かが真に正しい正解を知っていることはありません。

 だから自分で選ばなければなりません。自分の進む先を自分で決めることなしに、自分が願う先に繋がること、そして、もし繋がらなかったときにそれを自分で受け止めることはできないと思うからです。

 

 かといって、子供にその選択をさせることは重たいことです。だからこそ大人がいるのでしょう。どちらの選択をしたところで、大人がそれを尊重し、サポートしてくれる環境があることが、選択するということから恐怖を取り除いてくれます。そして、司くんはそういう大人なんですよね。

 

 今この場での選択は全てを決めるものではないかもしれません。でも、これから先も様々な選択は続いていくはずです。だからこそ、そこから逃げない心を作ることが大切であると描かれていることが、僕はとても良く感じました。この物語の中に、そうすることが良しとされている価値観があるということが良いと感じたということです。

 

 それを良く思うということは、そうあってほしいのに、世の中があんまりそうじゃねえなあって思っている僕の個人的な感覚の裏返しかもしれません。誰かに選択を求められるとき、そのどちらかが正解かの圧力を感じる時があります。間違いの方は、形式的に提示はされても選べないことも多いわけです。

 そして、そんなやり取りを大人から繰り返されてきた人は、間違いを選んでしまうことのペナルティに怯える学習をしてしまったりします。そのせいで、相手が正解を持っているということを勝手に前提としてしまい、それを探るようなコミュニケーションに特化してしまったりすることがあるように見ています。

 

 実際、大学の先生とかと若者の話をしてるときに、若者が先生が正解を知っていると思って、それを探るような喋り方をするという話を聞きました。僕自身も仕事で若手と接するときに、立場の違いからこちらの意見が強くなってしまい、平場で話せなくなることを危惧しています。自分が言うことがその人にとってのそのままの正解になってしまうことは良くないと感じているからです。

 なぜなら、誰かが正解を示してくれるから、それに従っていればいいんだという考え方は、それが正しいかどうかを追究する姿勢であったり、その正しさを検証するプロセスであったり、それを正解にするために邁進する姿勢に繋がる道を閉ざしてしまうと思うからです。

 

 「魚を与えるのではなく、釣り方を教えるべき」という話がありますが、その、釣り方を教えることも不足しているのではないかと思っています。つまりそこにはまだ、どうすれば魚が釣れるかを考えることや、なぜ魚が必要であるかを考えること足りていないのではないでしょうか?

 それがなければ、誰かが敷き詰めてくれた道の上しか歩けません。そして、その道が、未来永劫最善の道であることは誰にも保証できないのです。

 

 なんかそういうことをもやもや思っていて、指導するということが、指導される側からどんどん考える力を奪っているような実例も見ていたりして、そのやり方は良くないんじゃないかと近年よく思っています。

 指導される側に、指導する側が想定している正解以外を選ばせないでいると、そうやって人を抑圧するのに長けた人の考えを反復するだけの集団になってしまうんじゃないかなと思います。その場合、せっかくたくさんの人がいるのに、結局そこにあるのは一人の考えだけじゃん…みたいに思ったりするんですよね。

 

 と、僕自身の愚痴が混ざり込んできましたが、メダリストで描かれているのはスケートの話で、でも、背後にはこういった人が他人からの様々な抑圧を受ける中で、どうやって自分の道を歩んでいくかが描かれているように思いました。ならば、それはきっと普遍的な話ですよね?

 だからきっと、ここにある精神性は誰にでも分かる話だと思うんですよ。

 

 世の中で、コスパなんていう話が出てくるとき、つまりは、「最初から正解を教えてくれ」という話だったりします。世の中には分かりやすい正解があるものばかりではありませんが、それがあると思っている人はいるわけです。

 ネットで炎上するなんて話でも、よくよく見てみれば、それはただの立場や価値観やそれによる意見の相違であって、どちらが悪いという話ではない場合もあると思います。そこでは、「アナタはこちらの考える正解に則していないから批判されているんだ」というようなことになっていたりするんじゃないでしょうか?

 場の主導権を握って、数が多い方が正解を規定し、それに合っていないからこそ批判をされているという話です。村の掟ですよ。沢山の人から批判をされたくなければ、その「正解」以外のことを口にしてはならないというような空気が作られてしまうのも、なんか気に食わないですよね。ですよねっていうか、僕が個人的に気に食わないんですが。

 それは立場が弱い者から選択するという力をどんどん奪っていくものだと思うからです。

 

 そういうことを日々感じながら、そういう中でやっていかなくちゃならねえみたいな気持ちがあって、その気持ちの中で読んだメダリストの第3話は、すげえ良かったなと思いました。

 9月に第1巻が出るそうです。チェケラ。

「パラサイト半地下の家族」と見えないようにすること関連

 韓国映画の「パラサイト半地下の家族」が、ネット配信にあったのでちょっと前にレンタルして見ました。

 すごく面白かったです。なんか色んな社会風刺的なメタファがありそうだなあと思いながら観ましたが、韓国の社会情勢について詳しくないので、どこまで自分が受け取れているのかは分かりません。色々とり逃しているものもありそうですが、それでも読み取ったと思った部分だけでも十分面白かったです。

 

 パラサイト半地下の家族は、半地下に住むの家族の話です。都会に住む貧困層は家賃の安い、建物の半地下に住んでいて、この物語では、そんな感じの貧乏家族と、ある金持ちの家族(高いところに住んでいる)との対比が描かれます。

 降ってわいたようなきっかけから、身分を偽ることで、金持ち家族の娘の家庭教師になることができたこの貧乏家族の息子は、その後、他の家族の身分も偽らせながら、金持ち家族の生活に、美術の家庭教師みたいなやつや、運転手、家政婦として入り込ませていきます。

 

 この物語では、どうしようもないものの象徴として水が描かれていて、水は高いところから低いところに流れるものです。金持ちは高いところに逃げれば、そんな水から逃れることができますが、半地下に住んでいる貧乏人は逃げることができません。半地下にどんどん流れ込んでくる水に溺れている貧乏人のことを、高いところに住んでいる金持ちは気づきもしません。

 

 この物語では、「気づかない」ということの暴力性が描かれているのだなと思いました。

 

 金持ちが気づかないということにも悪気はありません。そして、悪気なくそれができる構造がとてつもなく悪いのだと思います。それはつまり、金持ちと貧乏人の間が、どうしようもなく分断されているということだと思うからです。

 

 貧乏家族が金持ち家族から仕事を得る方法は、身分を偽る単純な詐欺で、繋がりを悪用したものです。その背後には、信頼できる人から紹介されたのだから、信頼できるのだろうという理屈があります。これは実際よくあることで、広く一般的に人を募集するよりも、信頼できる人に紹介してもらった方がマッチングが上手くいくことは多いです。

 だから、大学推薦の就職枠などが日本にもあります。過去に取引の実績のある企業としか、基本的にやりとりしない企業もあります。紹介制でしか入れないお店もあります。これは世の中によくあることです。

 

 そして、そんな繋がりを最初から持たない人は、そこに入れてもらう糸口すらありません。

 

 この物語では、幸か不幸かわずかな手がかりとしての繋がりを貧乏家族が得てしまったことが全ての切っ掛けになっています。自然のままであれば、決して交わることがなかったものが交わってしまったなら、そこには何らかの現象が起こるでしょう。熱いお湯と冷たい水が混ぜられたなら、それぞれは元の温度のままでいることはできないように。

 

 この物語は、金持ち側の視点では最後まで何が起こったのか理解できない作りになっています。なぜなら、この物語の中で直接争い続けるのは、貧乏人と貧乏人だからです。金持ちは繋がりを持たないために、恨まれることすらありません。なぜなら、強く分断されているために、金持ちが貧乏人に直接何か悪いことをしてくることがないからです。

 それゆえに、金持ちはある意味善良です。幸せに暮らしているだけです。貧乏を排除して生きることができる生活は、きらびやかなものだけで占められています。そして、その下に溜まっているものには気づくことがありません。

 

 この物語において、貧乏人から金持ちに対して行われた一刺しは、主人公である貧乏家族の手によるものです。なぜそれができたかと言えば、そこには繋がりがあったからでしょう。この貧乏家族だけが、金持ち家族に対する直接的な恨みを抱くことができました。

 これはとても悲しい話です。

 

 気づくことがないという暴力性は、きっと、気づくことでしか解消することができません。でも、自分たちがその暴力を抱えていることにはなかなか気づくことができませんし、気づきたくもないかもしれません。

 

 「世の中の富は一部の人間に集中していて、それを得られない人々の不幸は、その富を再分配をすることでしか解消できない」という話があったとき、うなずく人は多いのではないでしょうか?でも、それを実行しますとなったとき、日本人の多くは、きっと富を奪われる側であるはずです。なぜなら、世界にはそれ以上の金銭的貧困が沢山存在しているからです。

 でも、いざ、自分たちの富が奪われ、再分配されるとなったときに、その必要はないと思ってしまう人は多いのではないでしょうか?自分たちはそんなに恵まれてはいない、もっと恵まれている人たちがいるはずだ、だからそいつらから取ればいいと思ってしまったりしないでしょうか?そして、それは思われている側の人たちも、さらに自分たちよりも恵まれていると思っている人たちに対して、同じことを思っているかもしれません。

 どこで線を引くのかは、線を引く人の都合で決まります。

 

 人は自分が構造的に恵まれているという事実をできるだけ無臭にしようとしてしまいます。だから、それをなかったことにしようとしてしまいます。自分が得ているものは当たり前のもので、それすら得られない人のことを見ないようにしてしまいます。自分を恵まれない側に置いて、恵まれている奴はズルいと思ってしまいます。自分が実は恵まれている側なのではないかという事実に気づかなければ、世界はとても具合がよくなるからです。

 人と人が分断されている構造は、そうする上で、とても都合が良いことです。

 

 パラサイト半地下の家族を見て、観ている自分たちには程度の差はあれ、金持ち側の要素があるのではないか?と思うか思わないかという話があると思います。場合によっては、自分は作中の金持ち側ではないと思うほどに、作中の金持ち側の意識に近づいていくのかもしれません。

 

 それは自分がやったわけではない、自分は直接的な悪いことをしていない、自分は特に恵まれているわけではない、構造の話なんか知らない、自分の責任じゃない、自分はむしろ恵まれていない方だという意識が、いや、それを意識することすらなくするための分断の構造が、この物語の中で描かれているものの背後にはある気がしています。

 そして、それは社会のいたるところによくある考え方ではないでしょうか?

 

 なので、社会風刺だなあと思いながら見ました。それでいて、コメディとしてめちゃくちゃ面白かったので、すごいよかったです。

「イムリ」が完結した関連

 三宅乱丈の「イムリ」が14年の連載を経てついに完結しました。

 これから、全巻読み直そうと思うのですが、とりあえず今の気持ちの記録のためにこの文を書きます。

 

 イムリはルーンとマージという2つの星で、イムリとイコルとカーマという3つの種族を巡る物語です。イムリとカーマの大規模な戦争があってから4千年が経過し、カーマの中枢部を除いてはその記憶も記録も薄れている時代です。

 戦争の結果、ルーンは氷に包まれ、カーマはマージで文明を発展させました。長い時間の果てに、ルーンはようやく雪解けを迎え、また自然豊かな星に戻りつつあります。その間に、カーマの文明は、イコルを奴隷として使うようになっていました。そして、再びルーンに降り立ち、イムリを密かに奴隷化しようとし始めていたのです。

 

 この物語は、カーマの中で育ったデュルクという少年が、実は自分がイムリであることを知り、カーマの文明から逃げ出して、イムリの文化を知る物語です。そして、その中で再び巻き起こるカーマとイムリの戦争が、終結するまでの物語です。

 

 この物語が描いていたもののひとつは、「支配」という概念だと思います。

 

 誰かの自由意志を束縛することで、世界は「言うことを聞かせる側」と「言うことを聞かせられる側」に分断されます。自分の本当の心に従った行動ではなく、誰かに強要された不自由な人生を送ることは不幸なのではないでしょうか?この物語の世界は、そんな不幸に満ち溢れています。そして、そんな抑圧の中で、人が自由な心を持ち得ていく過程が描かれます。

 

 この物語には彩輪という概念が登場します。彩輪は、全てのものが持つ光彩というエネルギーの中でも生物が持ちえるものを特にそう呼びます。この彩輪を使うことで、人と人の精神を共鳴させる技術が「侵犯術」です。例えば「促迫」という侵犯術は、他人を思い通りに動かすことができます。そして、促迫を三度使われると、精神が完全に奴隷化し、自分の意志を失ってしまいます。

 この侵犯術がカーマによる支配体制の根幹にあります。これは恐ろしい技術です。促迫を前にすれば、いかなる暴力を持ち得ても、いかなる強靭な精神力を持ち得ても、無力だからです。しかしながら、侵犯術による支配の背後にあるのは、カーマのどうしようもない臆病さのように思えました。

 

 カーマは弱い種族です。彩輪の強さで言えば、イムリにもイコルにも劣ります

 4千年前の戦争時には、カーマはイコルの支配下にあったと伝えられます。そんなカーマがいかにして戦争に勝利したのかは詳しく語られません。いや、勝ったというよりはカーマはルーンを犠牲にしてマージに逃げたという解釈もあります。

 そこには覚醒者の存在があったことが伝えられていました。カーマを指導した覚醒者は後に賢者として、代々カーマの最高権力者の座につくことになります。そして、その正体はイムリだったのです。

 覚醒者となったイムリが何を考え、カーマの味方になったのかは分かりません。カーマの味方をしたのではなく、その強い彩輪によってカーマを従えていたという推測もあります。でも、本当のところは分かりません。ただ、最終回まで読み終わったあとで思うのは、覚醒者となったイムリは、カーマが弱き者であるからこそ、その味方をしたのかもしれないと思いました。

 

 その後、カーマは暴力的で卑怯な、支配の仕組みを作り上げました。それはイコルやイムリの人権を蹂躙するものです。そして、カーマ自身もはその仕組みを維持することに囚われてしまいます。

 

 だから、これはとても悲しい話なわけですよ。カーマは侵犯術の力に囚われてしまい、それを社会の根幹に据え付けてしまいます。それはきっと弱さなんだと思います。侵犯術は弱きカーマにとっての唯一の武器だったはずです。まともに戦えば負けてしまうイムリやイコルに対して、侵犯術ならばカーマにも勝ち目があります。

 種族としての強さと弱さがどうしようもなく存在する場合、平等ということはきっと不平等です。同じルールで戦っていれば、弱い種族が必ず負けてしまうからです。だからこそ、カーマは侵犯術を手にしてしまいました。そして、それをシステムとして行使し続けることしか、イムリやイコルに対する恐怖を拭い去ることができなくなってしまったのです。そして、それはカーマの中でも同じです。促迫を使い、相手の本音を喋らせることでしか、相手を信じることができないことは弱さでしょう。

 

 保証が欲しい、確証が欲しい、どうしても相手を信じられないからこそ、本音を無理矢理喋らせるという暴力でしか、相手を信頼することができません。だから、カーマの中では、欺瞞と本心がまぜこぜになっていきます。本当は欺瞞でしかないことを自分の本心であると心から思い込まなければ、それを暴かれてしまうかもしれないからです。だからきっとカーマは狂ってしまいました。

 

 侵犯術をもって、イコルを奴隷化し、イムリを蹂躙しようとしたカーマこそがその実、他の種族よりもずっと心を侵犯術に支配されており、それは自らの意志であると思い込んで自発的に行われているからこそ、誰よりも強固に支配され続けます。

 

 カーマは悪いことをしてきました。カーマには罰せられるべきであると思われる人たちだって沢山います。ただそれでも、戦うべきはカーマそのものではなく、カーマをその行為に走らせた支配の構造であって、それはきっと人が弱さから蹂躙されることを取り除くことでしか達成されることがないのだろうと思いました。

 それは一時の力で、何かを打ち倒すことでは達成できず、その状態を継続するという地道な日々の連なりでしか保てないことです。

 

 この物語の白眉は、イムリでありながらカーマの最高指導者になった男、タムニャドです。彼は、デュガロというカーマの権謀術数の中心にいた人物に育てられた男です。デュガロは誰よりも人を支配するということに長けた男です。デュルクの双子の片割れであるミューバも、デュガロの支配によって人生を狂わされた人物です。

 ミューバはデュガロの策略により、もはや取り戻すことができないような数多くの罪を犯しました。それは侵犯術を使われたからではありません。ミューバはそれを自分の意志だと思っていました。そこに選択肢などなかったのに。

 

 しかしながら、そんな恐ろしいデュガロに育てられたタムニャドはとても高潔な男です。デュガロは悪人であるものの、それでもその望みはタムニャドが賢者として自由に、心のままに生きることでした。それはきっと、デュガロ自身が支配されて生きてきたことの裏返しです。デュガロは賢者の血を受け継ぎながらも、権力闘争の種にならぬように、子供の時点で子を作れないように断種されていました。そして、デュガロはそんな自分を受け入れ、肯定し、その判断をしたそのときの賢者を敬って生きてきたのです。デュガロにはそれしか選択肢がなかったからです。

 デュガロがタムニャドに残した最後の教えは、「自分の教えを疑うこと」でした。そして、タムニャドを逃し、イムリたちもろとも死を選ぼうとしていたデュガロのもとに、タムニャドは帰ってきます。デュガロの教えに従い、デュガロを疑って、和平をもってこの戦争を終結させるために。

 

 ここでのタムニャドの立ち振る舞いは、本当にただただ素晴らしくて、連載時に毎号泣きながら読んでいました。誰にも支配されない、自由な心をもった男がそこにいました。そんな男が、誰よりも心を支配され続け、他人を支配し続けたデュガロの下から生まれたことは、矛盾ではなく必然であるように思えました。

 

 賢者タムニャドの口から語られる不都合な真実は、カーマの根底を揺るがすものでした。だから、呪師の権力者は、その隠蔽のためにタムニャドの殺害を命令します。しかしながら、命じられた軍人はタムニャドではなく、その呪師の方を撃ち殺します。なぜならば、軍人はタムニャドの言葉を聞いてしまったから。人間には、誰かに支配され、命じられたままに奴隷のように生きるのではなく、本当の心があるということを知ってしまったから。

 

 「嫌だと思ってしまったのです」

 

 そのひとりの軍人は言いました。そんなことすら認められていなかったのです。誰かの命令に嫌だと思うことを認めることすら、ましてや、その命令に逆らうことも、なにもかも認められていなかったのです。それがカーマの社会、つまり、支配の力だったわけです。

 

 ただし、この物語はタムニャドの登場をもって、単純に支配から解放されていくわけではありません。世の中はひとりの高潔な人物がいただけで何かが変わるほど単純ではないからです。

 タムニャドの和平を望む声に反対をする人々はいます。それはカーマの権力の中枢であった呪師たちだけでなく、カーマの中でも下層とされた人々の中でも巻き起こります。自分たちがカーマ社会で虐げられているのに、なぜ、これまで奴隷だったイコルだけが平等に取り扱われるようになるのか?という不満です。

 それはきっと間違った考えですが、でも、そう思ってしまうことは、悪さではなく弱さ、あるいは人が世の中で平等に扱われないことの悲しさでしょう。

 

 そこには無数の細かないさかいは残り、無理解や争いは決して完全に消えることはないのかもしれません。新たな戦争の種だって残っています。しかし、それでも、人が人を支配しないことを良しとする人々がいて、そのために何かをしようとしているという希望をもとに、この物語は描かれているのだと思います。

 

 次の4千年後の新たな戦いではなく、4千年後も続いていく和平の中で、誰かが誰かを支配することに囚われないようにするために。

 

 いやー、とにかく14年間、連載を読んできて本当によかったなと思っています。めちゃくちゃいい漫画ですよ。皆も読むとよい。