漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

「メタモルフォーゼの縁側」の実写映画を観ました関連

 しばらく前の話ですが、「メタモルフォーゼの縁側」の実写映画を観ました。めっちゃ良かったです。

 

 原作未読者には、この物語に初めて触れるものとしてオススメだと思いますし、原作既読者にも、原作の内容を実写映像でより生々しく見るられるものとして見て損はないと思います。

 本作は、書店でバイトをする地味なオタク女子高生のうららちゃんと、たまたま手に取ったBL漫画にハマってしまうおばあちゃんの市野井さんの交流を描く物語です。映画化にあたって、一部物語の構成を組み替えたり、オリジナルの展開もありますが、基本的には原作に存在している感情を再現しようとした丁寧な作りで、クライマックスとして出てくる台詞で、僕は原作と同じく、この映画の中で積み上げられてきた様々な出来事を一気に解放してくれて、感情が溢れる感じになったので、すごく良かったなと思いました。

 

 この物語は出会いを描いていて、出会いというのは、それによって出会った2人が変わっていくということだと思います。それが描かれていました。タイトルの通りですね。

 僕自身が6年ぐらい前に意を決してコミティアで初めての同人誌を出したこともあって、出会いがなければ漫画を描こうとしなかったうららちゃんに対する先輩面をしては、おい!上手くいかなくてもこれからも同人誌を作るのもいいと思うぞ!と思ったりしていました(物語と現実を混同するのがとくい)。

 

 実写化されたことでよかったのは、より具体性のあるものとして描かれたことではないかと思います。漫画の持っていたおもしろさは可能な限りそのままに、二人のハマるBL漫画が、より実物として存在するものとして描かれたこと、本屋の存在や、紙とペンで漫画を描くという泥臭いことを実物として見れたこと、町の印刷屋の様子、初めて作った自分の本、それまで漫画を読んで自分の頭の中で埋めていた実物との間の距離を、映画が具体的に埋めてくれました。

 

 中でもすごかったのは、うららちゃんを演じた芦田愛菜さんの演技です。立ち姿や、対人関係の反応、ものごし、表情、どれも物静かなオタクのそれで、自分や身近な人たちの特徴がそこにあり、オタクの挙動というものは、こうやって演じられるほどに、分析されているものなのか…と思いました。

 

「この漫画のおかげで私たち友達になったんです」

 

 その言葉が出たときに、これまでの時間が圧縮されて思い出されれば、それが強い感情として認識できれば、実写化にあたってのいくつかの変更点があったとしても、それは完璧な感情の再現だと思っていて、この映画はそうだったなと思いました。

 

 すごい良かったのでオススメです。

「竜とそばかすの姫」と間違いながらも行動すること関連

 この前、金曜ロードショーでも放映されていた「竜とそばかすの姫」は、変なところも沢山あるけれど好きな映画で、それは作品に感じたメッセージ性に対して、僕自身が共感するところが大きくあったことと関係しているのではないかと思います。

 

 竜とそばかすの姫の世界は、世界中の人がアクセスするネットサービス「U」を舞台装置として紡がれる物語で、主人公は日本の田舎に住む一人の女の子です。彼女は自分に対して自信がなく、そして、幼い頃に失った母親との関係や、上手く行っているとは言い難い父親との関係の中で鬱屈した毎日を送っています。

 

 そんな彼女が得意だったのは歌。そして、姿と名前を変え、接続したUの世界で、彼女は歌姫として世界中の人々にもてはやされるようになります。もてはやされる以上は、批判もされます。賞賛と同時に、悪口を言われたり、その正体を暴こうとする人も出てきます。

 実生活とは切り離されたUの世界では、外面をコントロールすることが容易です。人は見せたい姿をUの中で振る舞い、そしてしばしばそれは実生活の姿とは強く乖離しています。

 

 そんな主人公のすずは、歌姫ベルとしてUの中での生活を獲得します。そして、彼女は竜と呼ばれる存在に出会いました。竜は痛々しくも見えるアザを持ち、Uの世界を暴れまわる存在です。竜は強く、目立ち、それゆえにその存在に対する反発者たちも沢山います。

 ベルは竜と出会い、そしてこの物語のクライマックスは、ベルが竜を救おうと足を踏み出す場面です。

 

 さて、僕がこの映画のどこに共感性を見出したかというと、「行動をすること」を描いているところです。そして、そこに見出せる意味は、正しさとは別の話です。たとえ多くの間違いを含んでいても、行動をすることは世の中には必要なことがあるということを描いているんだなと思いました。

 人間が常に正しくいられる分かりやすい方法は、「何も行動しないこと」です。行動さえしなければ、他人から自身の行動について、正しかったとか間違っていたとかを言われることはありません。だから、他人が行動をすることを見て、全てが終わったあとに、それが正しかったか間違っていたかを評論するような立場をキープしていれば、多くの場合で正しかった自分で居続けることができます。

 でも、じゃあそうやって何も行動しない人ばかりだったらどうなるでしょうか?

 

 竜の正体である少年は、とても苦しい状況におかれていて、そこから抜け出すことができません。彼に対して「助ける」と言ってくれた人はこれまでにも沢山いました。でも、実際に助けてくれた人は一人もいませんでした。みんな正しいことは分かっていて、こうすればいいということを口にしてはくれますが、それでも誰も自分を実際には助けてなどくれないわけです。みんな所詮は口先だけだという絶望を、他人に頼っても仕方がないという無力感を少年は吐露します。

 それゆえに、すずの少年への「助ける」という言葉も届きません。言葉は伝わっても、そこには行動が伴わないければ、その重さがゼロだと感じてしまうからだと思います。

 

 すずは自分を信じて貰うため、この自分が、Uの中でかつてベルと竜として出会った人間であることを証明するために、正体がバレ、誰かに嫌がらせをされるかもしれなくとも、自分の素顔をさらして、自分を信じて貰うために歌を歌います。

 

 ちなみに本作は、主人公であるすずの声優を中村佳穂が演じていて、中村佳穂の歌の力を、物語と映像を使って十全に表現することが出来さえすれば、それだけで見る価値のある映画だと思います。

 

 すずの母親は氾濫する川での事故で亡くなりました。他所の家の子供を助けるために、周りが止めるのも聞かずに川に足を踏み入れたわけです。結果として母親は亡くなりました。母親は正しかったでしょうか?正しくはなかったと思います。だって死んでしまったのだから。救うのだってプロに任せるべきです。

 でも、誰もが傍観する中で、たった一人、行動をしました。待っていたら手遅れになるかもしれなかったからです。そこに意味はなかったのでしょうか?たとえ間違っていたとしても、それでも足を踏み出さなければならない状況というものが、人生にはあったりはしないでしょうか?

 

 正しくありたいだけなら何もしなければいい。全てが終わったあとで、誰かを間違っているとあげつらい、あるいは、誰かが行動する前に、間違っていると言って、失敗したときに「ほらみたことか」と嘲笑えばいい話です。でも、自分の行動が正しいか間違っているかも分からない中で、人を助けるために動かないといけないというときはあるのではないかと僕は感じていて、その「たとえ間違っているかもしれなくても動く」というところに、自分の気持ちがある話だなと思ったりしました。

 

 例えば、誰かがお金に困っているときに、困らない世の中の方が良いとか、この人が助かって欲しいと願っても、実際にお金を渡す人がどれだけいるかという話です。もちろん、そこでお金を渡す行為はそこそこ間違っています。一人の人間が救えるものには限度がありますし、その関係にリスクもあります。そういったことは行政に任せるべき仕事でしょう。それはとても正しく、そして、お金に困っている人は結局お金に困ったままだったりします。誰しもが、その人を助けるのは自分の仕事ではないと思っているからです。

 

 僕がそういったことに色んな感情があるのは、僕自身が生きるための金に困っていたときに人に金を借りに行ったら、断られまくったあげくに、金を貸すという行為の不正義であったり、今金を貸さないことこそが僕のためであるという理屈であったり、色んな人の色んな正しい話を聞いた経験があるからです。そのとき僕は、結局困ったときには誰も助けてなんてくれないんだなあと思いました。

 僕に金を貸さないと言った人の披露する理屈と、自慢気でこちらを見下した表情については、別の今さら怒ることもないですし、そもそも金を借りに行って貸してくれないからって僕に怒っていい道理もないだろうとも思うので、向こうが悪いとも思わないんですが、同時に、一生忘れないだろうなとも思っています。

 

 「はい、みなさんとても正しい。そしてその正しさは僕を救ってなどくれない」、この気持ちは僕の心の中に一生くさびのように刺さったままなんじゃないかなと思っています。

 

 そういう気持ちがあったので、作中の竜の少年に対する、「その気持ち、めっちゃ分かるよ!」っていうのがあったんですよね。そこに、「あるよね」と思ったことと、「その方法はどう考えても間違っているが、それでも手を差し伸べてくれる人の姿を描いた」という部分に、これは良い映画だったなという気持ちが生じました。

 「仮に全てが間違っていたとしても、それでも自分を助けてくれた人」というのは、僕が人に助けを求めていたときに、一番来てほしいかった人だったからです。そしてそんな人はそのときの僕にはいなかったからです。

 

 僕は最終的になんとかなりましたが、それは教育制度という個々人の行動によらないレベルのデカい仕組みにしがみついた先になんとか出来たことなので、実際は人が助かるには既にあるデカい制度に捕まるのが助かる可能性が高いと思います。

 なんせ、世の中は誰も助けてなどくれないので(根に持つタイプ)。

インターネットでの道を踏み外しにくい歩き方関連

 普通のことを書きます。

 

 インターネットでは不確かな情報を根拠に色々と道を踏み外してやらかしてしまうことがあり、僕もそれは怖いので、できるだけ気をつけようとしています。気をつけているからといって踏み外さないわけではありません。既にやらかしていることに気づいていない可能性もあります。ただ、とりあえずどういったことを気にしているかの行動指針が大きく3点あるので、それを共有します。

 

(1)情報を信じるのは「疑う理由がないから」ではなく「信じるに足る根拠が示されたから」とする

 インターネットには様々な情報が書き込まれています。その中には本当のこともあれば嘘のこともあります。

 嘘の情報を信じてしまうことを少なくするコツは、その情報を信じるに足る根拠が示されているか?を考えることだと思います。例えば、ある有名人がツイッターのアカウントを開設したとして、それが本人のものだと信じることができるでしょうか?例えば、そのアカウントの開設が、他の公式アカウントから周知されていたり、そのアカウントを最初にフォローしているのが、その人と直接接点のある既に身元の確認がとれている人であるなどというように、誰かが単純に騙っているのではないと信じるに足る理由を得ることができたことで、初めて信じることがいいように思います。

 一方で、信じるに足る根拠が必ずしも示されるとは限りません。例えば、見ず知らずの誰かが、自身が遭遇した出来事を書いているときに、そこには信じるに足る理由がないことも多いです。しかし、だから嘘の話だというのも乱暴な話です。

 その場合、本当か嘘かの明確な根拠はないが、「ある人がこういうことを書いていた」という事実のみを認識する形となるでしょう。

 

 こういった部分での踏み外しを誘発するのは、そこで示された情報が、自分の立場に大して有利な情報である場合です。例えば、自分の立場を異にする相手の醜聞などは、そこに信じるに足る情報が十分に示されていなくても信じてしまいたくなることがあります。なぜならそれを信じることが自分にとって有利に働くからです。逆に、その情報を信じると自分の立場にとって不利な場合は、冷静に根拠が示されているかどうかを検討したりします。

 そういえば、後者の立場は、ネットでは「冷笑」という言葉で表現されることもあります。

 

 疑い続けることはある種の正しい態度であると同時に、不確定な中でも進まなければならない状態を避けているという認識もできます。不確定な中で進むことは踏み外す可能性を高めている状態であり、できれば避けた方がいいとは思いますが、それでも先に進まなければならないことはあります。

 どうしても前に進まなければならないという状態を避けつづければ、ずっと正しい状態を維持することができます。でも、前には進めません。そういう意味で冷笑的な態度は、正しくあるための正解であると同時に、それだけではそもそもの問題が何にも一歩も進まない可能性も大きい態度であるとも言えます。

 この辺りがとても取り扱いが難しい部分でもあります。

 

 必要なのは、何が正しい情報なのかを都度検証しながら、少しずつ分かる範囲を広げ、前に進むことでしょう。正しい情報が誰かから示されるまで動かないことで手遅れになり、結果的に間違っていたと感じることもありますし、だからといっていい加減な都合のいい情報に飛びついて、前に進むことも道を踏み外してしまうこともあります。そのどちらかをえいやと選ぶしか選択肢がないと思うことが良くなくて、どうすれば確かな裏付けとなる情報を得られるのか?ということを考えて少しでも目の前をクリアにしていかなければならないのではないかと思います。


(2)「事実」と「想像したこと」を明確に分けて考える

 自分が認識した出来事について、どこが事実として確認したところで、どこが自分があくまで想像しただけのことであるかを切り分けて認識することは誤解を避ける上で重要です。

 例えば、「同じ会社のAさんと仲良くない」という事実と「ネットに悪口を書かれていた」という事実があったとします。その場合に「Aさんがその悪口を書いたに違いない」という想像が生まれることがあります。その想像はもしかすると正しいかもしれません。しかし、この時点ではあくまで想像したことでしかありません。

 その場合に「Aさんにネットに悪口を書かれた」と心から思ってしまうことは踏み外してしまう可能性があります。なぜならそれは事実ではないかもしれないからです。Aさんが悪口を書いているという想像したことを事実として取り扱った場合、それを誰かに事実として伝えたり、仕返しをしたりしてしまうかもしれません。

 大事なのは、そこは自分が想像したことでしかないとまずは思うことです。人間の想像力はたくましいので、確認した事実同士を想像力で繋げて全く事実ではない認識を生み出してしまうことがあります。そこでは確かに繋げている事実同士は確かなことかもしれません。しかし、最終的に導き出したものは事実ではないかもしれません。

 

 それが起こってしまうのは、想像したことと事実をごちゃまぜに取り扱ってしまうからだと思います。仮説の時点で論文を発表しても信憑性がないように、それを裏付けるなんらかの観測や実験結果は必要だと思います。


(3)ある不確かな情報を信じて行動した場合に、何が起こるかの結果の大きさを考える

 世の中にある情報については、信じるに足るほどの根拠は示されていないが、嘘だと断じるほどの根拠も示されていないという曖昧な領域が広く広がっています。その場合に、何にも信じないということは、情報に踊らされないという意味では正しいですが、それによって世の中の大半のことが信じられなくなったりするかもしれません。

 ならどうするか?という指針ですが、まずはそれを信じた場合に何が起こるかを考えてみることです。もし、次の瞬間に判断をしなければならないのなら、情報に対する冷静さはむしろ足かせになるかもしれません。「オオカミが来たぞ」という声を聞いたときに、本当にオオカミが来たのかどうかの根拠が示されていないと思うのはある種の正しい態度ですが、今逃げなければオオカミに襲われてしまうかもしれません。

 

 もしそれが事実だったとき、嘘だったとき、それぞれに起こりうることが大きければ、不確かな状態でも動いた方がいいことも多々あります。

 あるいは嘘の情報を信じて誰かを殴ったときに、嘘に踊らされていたと分かったとしても殴られた人の痛みはなかったことにはなりません。ならば、もう少し状況がクリアになるまで待ってみるのもひとつの判断です。拙速に行動すると取り返しがつかないことになってしまうかもしれません。

 

 ここで人の信用を失う態度としては、自分が間違ってやらかしたことについて、笑ってごまかそうとするというようなものです。それをやってしまうと、この人は正しさにこだわっているのではなく、自分の利益のために正しさを利用している人であると、以後判断されてしまうので、信用がなくなります。

 やらかしたときには誠実に謝る必要がありますし、それ以前にやらかさないように気をつけることの方がいいなと僕は思っています。

 

 そういう感じに振る舞っていると、インターネットの情報に踊らされて、道を踏み外してしまう可能性は少なくはできると思います。でも完璧にやるのは難しいです。前述のように不確かな状態でも動かないといけないことだってあるからです。

 だからせめて、自分が何かをやらかしてしまったときには、ちゃんと自分が間違ったことをしたということを認めて、謝り、繰り返さないことを約束して、その約束を全力で守るのが大事だろうなと思います。

 

 お気づきになられましたか?最後のは、ハンターハンターのジンの言葉のパクリです。

評価することのメッセージ性関連

 会社の仕事の中で他の人を評価することが増えてきました。課長職をやるようになって、課メンバーの評価をするようになったということもありますが、しばらく前から360度評価による、周囲の人たちと相互に評価をするようになっていました。

 

 そういうことをやっていて思うのは、「評価をする」ということはメッセージを送ってることと同じだなと思うということです。例えば、評価指標に基づいて、足りないと低く評価するならば、足りるようにしてほしいというメッセージですし、非常に良いと高く評価するなら、それをもっとやって欲しいと思っているというメッセージを伝えていることになると思います。

 

 メッセージを伝えるということは一方通行ではなく、伝えられた側もそれに対して何かを感じた上で、そして、そのリアクションとして行動を変える、ということがあると思います。

 

 僕の認識では、高評価は「そのままそれを続けて欲しい」ということ、低評価は「それを続ける上でには何かを変えて欲しい」というメッセージです。

 なので例えば、今まで通り頑張って欲しいときに低評価をするというのは、コミュニケーションとして考えるとむちゃくちゃだなと思います。逆に、やり方を変えないといけない状況では、どんなに頑張りが見えていたとしても、高評価をつけるわけにはいかなくなったりします。

 

 その意味で、人のどこをどのように評価するかのシステム設計や指標は、それ自体が強いメッセージ性を持つものであって、そのシステムがどうであるかによってその場所で働くか働かないかを考えた方がいいほどの強さがあると思います。人は自分が適切に評価されていると感じる場所で働く方が良いと思うからです。

 評価がメッセージとして機能するということは、そのメッセージを自分に都合よく使おうとする人も出てくると思います。例えば、評価するということを、悪感情を持っている相手に対する懲罰的なメッセージを伝える手段として使うこともできます。

 

 誰かを辞めさせたい場合には、その人の実際的な働き方とは関係なく異様な低評価をしまくれば、その相手は、この場所で頑張って働くことの伝わらなさを感じて、自主的に辞めたいと感じるようになるかもしれません。それを個人の感情起因でやることはパワハラですが、それを社内評価のルールに合わせて巧みに行うことで脱臭することも可能ではないかと思います。

 

 評価を人間がやる以上、そこには様々な感情が吹き溜まっていたりして、歪んだりします。また、評価者に見えていることは全体の中の限定的な一部分でしかなく、そして被評価者が評価者に対して、自分のやっていることを上手くプレゼンできるとも限りません。さらには、そもそも評価指標自体が適切であるかどうかの問題もありまます。

 人は不当に低い評価をされ続ける人はやる気を失っていくでしょうし、不当に高い評価をされ続ける人は、そのときのやり方が実は悪かったとしてもそれを継続するための理由を得てしまいます。どちらも組織が上手く回るということを考えた場合には不適切で、そしてそれが適切であったかどうかを、いつなんどきでも正しく認識することはとても難しいことです。

 

 なので、世の中には客観的(というものがもしあるなら)に見れば不適切な評価が溢れているでしょうし、それらはメッセージとして機能するために人の行動に影響を与えます。一方で、それがメッセージとして機能することを意識しないというスタンスもあると思うんですよね。

 

 例えば何らかの商品や作品に点数をつけるレビューについては、メッセージとして利用している人と、メッセージとしては利用してない人がいると思います。

 例えば作者が気に食わないと感じている人が懲罰的な目的で、レビューに低い点数をつける場合、それはメッセージを伝えようとしているはずです。一方で、自分の中での良し悪しを評価結果で整理しようとしていた場合、その意図は薄いかもしれません。Aという作品とBという作品のどちらを好きかを考えたときに、Aの方が好きだという気持ちを、Bよりも高い点数をつけることで整理したいということはあると思います。

 それは別にBの作者に対して、Aに劣っていると伝えたいわけでも、だからもっと頑張れと言いたいわけではなかったりもすると思うんですよね。つまり、メッセージとしては使っていないつもりということです。

 

 一方で、評価される側がそのように受け取るとは限りません。低い点数をつけられるということは、何かが足りなかったとメッセージを伝えられていることに等しく感じてしまうことはあるでしょう。それはつまり、だから、「アナタは今のままではダメで、何かしら改善をしなければいけないと言われているように感じてしまうかもしれない」ということです。そういう部分で、すれ違いが起こって、悲しいことになることもある気がするんですよね。

 

 評価者はメッセージのつもりはなくとも、被評価者はそれをメッセージと受け止めて、そこから悪意を感じたり、ダメージを受けてしまったりするということです。

 

 何かを作っている人が、悪い部分を評価されることに嫌気がさして作ることを止めた実例もいくつも知っています。例えばフリーウェアを作っている人が、沢山使われているのに感謝の言葉はほとんど届かず、金も貰っていないのに、ここが悪い、ここが足りないという指摘ばかりを受けて嫌気がさしてやめてしまったという話を聞いたことがあります。それらは改善のための要望であったかもしれませんが、言われる側からすると、お前の作るものは不完全だと言われ続けたと捉えられるかもしれません。

 また仕事関係では、あるオープンソース系のコミュニティで「日本の企業から送られてくる意見は、欠点の指摘と改善をしてほしいという要望ばかりで、自分でその解決のためにコミットをしようとしていない」という話も聞きました。要望を伝えれば相手がやってくれて当たり前という謎の意識がそこに感じられたということです。改善を求める場合には最低限コードとセットで、自分たちがそこに貢献をするという意志と労力の支払いがないなら、ただ迷惑なだけだという意味合いのことを言っていました。

 

 僕自身も、ネットで何か活動をしているとご意見を貰うことがたまにあります。それは「私に評価されたければ、もっとこうしてください」というご意見です。そこに悪意があるわけではないことが多いので、それがあること自体は別にいいのですが。ただ、僕はそういうものに対して「そうなんだ」って思うだけで、その人の求めるように改めるかどうかは場合によります。しかし、低く評価されたくなくて、要望者の言うことを聞いてしまう人もいるでしょう。

 こういう要望意見については、そう思った人が一人いるんだなというだけの話でしかないと思います。つまり、その人にそう思われたからといってなんだと言うんだ?と思うだけの話です。

 

 立場を反転して、僕が要望を伝えてきた人に「僕に良いお客さんと思われたかったら、黙ってろ」と言ったして、その人は黙るでしょうか?黙ってくれるような素直な人もいるかもしれませんが、「お前に何の権利があって??」とムカつく人もいるでしょう。それでいいと思います。僕も相手も、同じ一人と一人の人間です。相手とどのような関係性を結びたいかによって、相手に合わせて自分を変えたり、変えなかったりすればいいだけの話です。

 

 話が逸れた気がしますが、評価はどうしてもメッセージとして機能すると思うので、どのように評価するかというところには、評価には人を刺すトゲにも受け止めるクッションにもなるということを意識し、その結果がどうなるかというという想像力があった方がいいのではないかと思います。また、自分が評価を受けるときにも、どういう意図でそれがやられているかという認識を持ち、いきなり受け入れるのではなく、適切に捌きながら受け取ることが重要なのではないかと思っています。

 

 他人にどのように評価されるかに怯えている人も目にすることがよくあります。だからこそ、その辺りをどのように取り扱うかが、ネットを通じて様々な人の評価に晒されやすく、また、自身も日常的に何かを評価してしまう世の中では大切なのかもしれません。

 あとはまあ、仕事上そういうことをたくさんしたりされたりしなければならないことで疲弊していますが、これもやらないといけなさそうです。

単行本作業がだいたい終わりました関連

 ご存知の通り来月、僕の生まれて初めての漫画の単行本「ゴクシンカ」と「ひとでなしのエチカ」が2冊同時発売されるのですが、その単行本を作る作業がだいたい終わりました。あとは僕が何もしなくても本が出るはずです。やったぜ!

 買ってください!!

www.amazon.co.jp

www.amazon.co.jp

 

 以前、小説家の平山夢明氏が、自分が今まさに書いている本のAmazonの予約が既に始まっているのを見て、「ひょっとしてこの小説を書かなくても本は出るんじゃないか?」と思って書かないでいたら、本は出なかった、というエピソードを披露していました。それを思い出し、確かに既に予約は始まっているが、前例の通り自分が全部作業をやらないと出ないぞ!!と強く思ったので、作業をやりました。

 

 表紙で使う絵を描いたり、オマケ漫画を描いたり、デザインをチェックしたり、原稿の修正が必要なところを確認したりです。2冊同時にやってたのもあって、色々チェックしないといけないものがあったり、僕は平日は朝から夜まで会社員の仕事をしているので、遅めに時間にデザイン関係の打合せをさせてもらったり、仕事が終わってから出版社に訪問させてもらって確認したりと、色々あり、面白かったです。

 

 僕は会社員の生活+同人活動から、会社員の生活+漫画の仕事を兼業に移行したこともあり、単行本を作るということを同人誌を作ることと比較して見てしまうことがあります。

 そこで思うのは、商業誌の単行本を作るのって、僕の規模の同人活動と比較して、なんて恵まれているんだ…と思うということです。

 

(1)他人のお金で沢山刷れる

 同人活動は売れる数や在庫を抱える数を考えた結果、早めに売り切りたいので、僕の場合は100冊前後しか刷ってきませんでいた。でも、商業出版では少なくとっも数千冊以上(実際何冊刷られるかは言えませんが)の本が刷られます。

 僕個人では絶対にそんな数は刷らない(刷れない)ので、他人の金でたくさん刷れて嬉しいなと思います。

 

(2)在庫を自宅に抱えなくていい

 たくさん刷りたくない理由ですが、一回の即売会で売れたりしないので、仮に長く売るために沢山刷っておこうと思っても、自宅に大量の在庫が存在するだけで嫌になると思います。また、売れる本の在庫は資産なので、大量に余っている状態は嬉しくないなと思います。

 しかし、出版社が刷ってくれると、出版社や取次、通販の倉庫や店頭で在庫として取り扱ってくれるので、自宅に本を大量に置く必要がないので嬉しいです。

 

(3)作るためにお金を出して貰える

 同人誌は自分ひとりで勝手に作っているので、全ての原稿に原稿料が出ませんし、単行本の製作費も出ません。販促費なんで出るはずもありません。でも、出版社の依頼で原稿を描いていると、都度お金が出てくれて助かります。

 本を出す前にそこそこの原稿料などが入ってくるし、単行本制作にもお金がもらえる(出版社が最近は多い)し、刷った段階で刷った分だけの印税も貰えるので、本が出来た瞬間に、まだ売れてもいないのにお金が貰えて、黒字になります。

 同人活動は基本的に、印刷費とイベント参加費が売り上げと釣り合うような活動をしてきたので、漫画を描いて黒字になるということに驚きがあります。

 

(4)色んな人が手を貸してくれる

 これが一番良いところと言っていいかもしれません。同人誌は完全に一人の活動としてやっているので、あらゆる作業を自分自身でやらないといけませんが、商業出版は違います。描いたそばから編集さんが最初の読者として確実にコメントをくれますし、世に出る前にそれを参考に修正することができます。ロゴや表紙のデザインもデザイナーさんがめちゃくちゃカッコよくしてくれますし、この先は、出版社の人や書店の人がお店で売るために動いてくれます。

 ひとつの本を売れてほしいと思ってくれる人が、読者も含めてどれだけいるかっていうのは、その本がこの世に存在する強度を高めてくれるものだと思っていて、その意味で、僕の本は同人誌より商業誌の方が存在が強い感じに思うんですよね。

 

(5)全国の書店で売って貰える

 自分の同人誌を全国の書店で売って貰えることってないと思うんですけど、商業出版された本は書店が仕入れてくれるかは別として、全国の書店で売られる可能性があります。僕は本屋がとても好きなので、自分の本が売って貰えるのは嬉しいなと思います。

 

 さて、商業出版は同人活動と比べてめちゃくちゃ僕に都合がいいことが沢山あり、商業出版をする機会を得られてとてもよかったなと思っています。

 

 じゃあ、同人活動はやらないのかというと、今も毎回コミティアに出ていることから、別にそんなことはなくて、同人誌には同人誌の良いところがあります。

 

 例えば、僕が出した同人誌を買ってくれる人は、確実に僕の目の前まで来てくれるのが良いところです。書店で売れれている本が売れている瞬間を見ることはほとんどできませんが、同人誌は誰が買ってくれているかが見えるし、直接感想を伝えて貰えたりします。そういうのが良いんですよね。

 

 あとは、どれだけ粗雑な作り方をしても同人誌は何かしら机の上に紙の束が存在していれば良いので、ギリギリになってもなんとかなりますし、基本的には自分以外の他の人に迷惑のかからない活動なので、気が楽です。出したければ出せばいいし、別に出さなくても問題がありません。

 めちゃくちゃな内容を描いて、全然売れなくっても自分の手元に在庫が残るぐらいですからね。ダメージが少ないです。

 

 スピードが速く、めちゃくちゃ自由で、読んでくれる人が良く見えるのが同人誌の良いところで、それは商業出版とは別軸で存在しているものだなと思います。

 

 とにかく本が出ます。本が出るのが嬉しいぜ。

コミティア141に出ます関連

 2022/9/4に東京ビッグサイトで開催されるコミティア141に出ます。スペース番号は「ひ23b」です。入場制限があると思うので、入場券がわりのティアズマガジンを購入して、ぜひお越しください。

 新刊はありますが、厳密には新刊ではなく、5月のコミティア140用に作ったコピー本、「デスゲーム最速理論」に加筆して、印刷会社に頼んで製本して新刊とすることとしました。

 

 

 デスゲーム最速理論は、冒頭数ページだけ描いておいた漫画を、ゴールデンウイークの休みを利用して、3日で27ページまで増やし、開催前日の夕方になんとか終わらせて、ダッシュキンコーズに行きコピーしたという、めちゃくちゃなスケジュールで作った漫画です。

 これはタイトルが最初に思い浮かんだ漫画なのですが、自分が考えるデスゲームものの物語の要素を、最速でなぞって終わりに向かうにはどうすればいいのかを考えながら描いたので、作るのは面白かったです。ただし、コピー本時点では、どうしても時間的にこの1ページで終わりにしないといけないということのなって、めちゃくちゃ詰め詰めになっていたので、今回製本するにあたって、その部分をもう少し広げてゆとりのある終わり方にしました。内容そのものは、前回も今回も一緒です。

 

 最初に参加者を8人にしたので、1ページで1人死ねば8ページでゲームが終わるなと思ったのですが、全然そんな感じにはいきませんでした。今回は全31ページで、ゲームの開始から終了までは21ページに収まってるので、もっと少ない時間で、デスゲームものを読んだという気持ちになれる漫画を描いた人は、対戦よろしくお願いします(最速理論なので)。

 

 とにかく本はできたので参加します。来る人はよろしくお願いします。

10月12日に僕の漫画の単行本がなんと2冊同時発売されます関連

 10月12日にコミックビームで連載中の「ゴクシンカ」と、ヤングキング不定期に載せてもらっている同人誌でやってた連作短編シリーズをリマスタリングした「ひとでなしのエチカ」の単行本が同時発売します。それぞれ1巻表記があり、続刊の予定です。

 よかったら予約をしてください。ぜひ予約をしてください。

 

Amazon ゴクシンカ

Amazon ひとでなしのエチカ

 

 僕は無名の新人なので、無名の新人の初めての単行本ってそんなに売れる感じがしないと思います。ただし、色んな人が関わってくれて出ることになったことですし、どうにか売りたいとも思っています。面白いものを描いているから買ってほしいと思っています。払った額に対して、損はさせない気概で描いているので。これを読んだ人は買ってください。

 

 連載のゴクシンカは順調に進んでいたので、順調に出るのですが、ひとでなしのエチカの方は、先々月ぐらいに急遽出すことにしたというか、当初想定ではもうちょっとのんびりやる予定だったものの、2作のリマスター版がヤングキングに載ったあと、もう1作、直せば単行本になるなとなったところで、せっかくだから連載の単行本と一緒に出した方がいいだろうなという考えになりました。

 

 なぜなら新人単行本って売れない可能性が高い上に、さらには短編集って基本的に売れないものだという印象があるからです。短編集を買うのって基本的には「作者のファンだから」という理由が必要だと思っていて、新人はファンの総数が少ないので、パイも小さいと思うんですよね。一方で、連載は続いているものなので、作品のファンが買ってくれるのではないかと思います。ということは、連載作と一緒に出せば、ついでに買ってくれる可能性があり、そうなると多少売りやすいのではないかと思っています。

 

 単行本が出たら、自分のことを漫画家だと思っていいことにしようと思っていたので、あと1ヶ月半で漫画家を名乗ろうかなと思っています。今後も継続して漫画を出していくつもりなので宜しくお願いします。

 

 さて、フルタイムの会社員をやりながら単行本を2冊同時に出すのは、それをやったら、みんなびっくりするかなと思ったからというのもあります。ただ、それをやる方法は別に特殊なものではなくて、「作業量を見積もってスケジュールを引き、その線表に合わせて淡々とやる」という感じです。

 幸い、漫画の作画作業にはあまり不確定要素がなく、作業見積もりが途中で大きく狂うということはめったにありません。

 なので、体調不良で何日も寝込むとかがない限りは、計画を立て、それを見て、「できる」と思ったなら大体できる感じです。逆に、できないときは、かなり早めにできないことが分かるという感じです。

 

 一方で、僕が今やっている会社の仕事は全然そんなことがなくて、進めて行く上で判明する不確定要素に起因するトラブルや、自分以外の人に頼んだ作業の遅れ、そもそも作らないといけないものの見直しによる計画のやり直し、やり直しに伴う各種調整など、引いたスケジュールを淡々とやるだけで終わることがなく、毎日それで疲弊しているところがあり、賽の河原にいるようで、日々大変陰鬱な気持ちになっており、そこで精神がめちゃくちゃ追い詰められているんですよね。

 しかしそれにより、漫画の仕事を相対的に気持ちが楽に感じるので、楽に取り組めて儲けたなという気持ちになっています。これは漫画は楽だと言いたい話ではなく、会社員の仕事に本当にめちゃくちゃ精神を追い詰められているという僕の叫び声です。

 

 とにかく僕は頑張っており、そして各種単行本作業もかなり終わりつつあるので、出るという確実性も高まっています。おもしろい漫画を描いているので買って読んでほしい。それを言い続けていこうと思っています。