漫画皇国

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「妹は知っている」を読んでいると癒される関連

 ヤンマガで連載中の「妹は知っている」がすごく好きで、毎回楽しみに読んでいます。「妹は知っている」は、感情を表に出さないサラリーマンの兄が主人公の漫画です。主人公は実は有名なハガキ職人でとても面白い人なのですが、会社でそれを知っている人はほとんどおらず、でも、妹は主人公が「面白い人であること」、そして「とても優しい人であること」をちゃんと知っている、という漫画です。ちなみに妹は美人でアイドルです。

 

 本作を読んでいるとすごく癒される気持ちになるのですが、その理由は、主要な登場人物の行動原理が、「自分以外の人が楽になったり喜んだりするようになることを目的にしている」という部分です。「自分が得をするために他人に接する」のではなく、「他人がが辛いと我がことのように辛く、他人が得をすることが我がことにように嬉しくてそれをする」というような感じなので、人間と人間の関係の中で、その善性を感じられてとてもいいなと思います。

 

 本作のいいところは、タイトルにもあるとおり「知っている」ので、その善性が「ある」ことにちゃんと気づかれているという部分です。他人に向けた押し付けがましくないさりげない気遣いや努力、サービス精神なんかは、主張されないものであるため、現実的には気づかれないことも多いものだと思うのですが、それがちゃんと気づかれていること、それによって人間関係の中で善性が循環しているように感じる部分がとてもいいんですよね。

 話が進むに従って、妹以外も主人公の面白さと優しさに気づいていきますし、主人公以外もお互いのことを思い合い、それがちゃんと伝わっているという部分に、楽園的な心地があります。それは現実の世の中ではそうでもないことが多いと感じていることの裏返しかもしれません。

 

 この心地よい空気感を描く上で、主人公がラジオにネタ投稿をするハガキ職人であるということが絶妙にマッチしていると思います。

 つまり、表面的にはそう見えなかったとしても、日常生活の中ではそれが不得手に見えても、人を笑わせようとしている人だということが分かるからです。自分以外の人を楽しませようという気持ちがあることが、示されていて、そういう人がいるということと、それを好ましく思って人が集まってくることに、いいなあと思っているような気がします。

 

 主人公の人を笑わせる原体験は、まだ赤ちゃんの頃の妹を笑わせたことなんですけど、あんまり他人と自分から積極的に関わることがなく、感情表現も不得手そうな人が、人を笑わせるということの喜びに目覚めることと、兄妹がそれで信頼関係を得ていることがいいなと思います。

 

 人を笑わせるのって、本当にいい気持ちになるんですよね。芸人にも、普段はあまり喋らない、人間関係に積極的でない人がいるという話も聞きますが、そういう人でも、笑いをやりたいと思うのは、人を笑わせたときの気持ちがとても良いということを、どこかのタイミングで知ってしまったからではないかと思うんですよね。

 

 僕は大阪に住んでいた時期のことが、自分の人生の中でとても良かった時期のひとつだと感じているのですが、その理由は、当時の友達が面白いことが好きな人が多くて、なおかつ、他の人を笑わせるということの喜びを知ってた人たちが多かったからかなと思います。

 場にいる皆が、他の人たちが楽しませられると嬉しいと感じている場所は居心地がよくて、ずっと居たかった場所でした。

 

 そういう場所は得難いものだということは、後々気づくことなのですが、だからこそ、そういう場所はいいし、そういう場を自分で作れるといいと思うんですよね。

 なので、妹は知っているを読むときも、そういう気持ちを改めて思うことができて、いいなと思っています。

 

 人を笑わせる面白いことを出来たら言っていきたいなと思います。

お前は恵まれた側の人間だと言われたとき関連

 「お前は恵まれた側の人間だ」みたいに言われることってあって、僕も時折言われるので、そういうときにどうするといいのかなと思うんですけど、最近思うのは「自分は恵まれているのか、それは良かったなあ…」と確認できるのが良い機会だなあと感じられるということです。
 なぜなら、自分が恵まれていることって、なかなか気づけないことなので、貴重な機会だと思うんですよね。

 

 なぜ、自分自身が恵まれていることには気づきにくいかというと、恵まれていることって自分の生活の中では「考えなくていい」という結果として現れやすいと思うからです。
 たとえば、お金に恵まれている環境で育つと、何かの判断のたびに「お金がないかもしれない」という不安に苛まれるという必要が最初からありません。つまり、お金がないことについては考えなくてよくなります。

 恵まれていると、困らないので、他の恵まれていない人が何で困っているのかに気づきにくくなります。なぜなら自分が考えなくて済むから、考えなくていいので、それを都度都度考えないといけない人がいる、ということそのものに気づかなかったりするからです。


 その結果、他人が気にしていることを気にしていないがゆえの、無配慮であったり傲慢に受け取られてしまう言葉を口にしてしまったりすることが起きるのではないでしょうか?

 

 でもそれってある程度は仕方がないことだと思います。だって、気づきにくい環境で育ってきたのだから、言わば、「気づくタイミングに恵まれない環境」で育ってしまった不幸、と解釈することもできるからです。
 つまり、そんな不幸の中では、他人に「あなたは恵まれている」と指摘されることは、自分のどこが恵まれていたのかに気づくことができる幸運な機会とも受け取ることができます。

 

 でも実際多くの場合は、それが結局、幸運なこととしては作用しなかったりします。それは「恵まれている」と指摘されたときに、人がその後どうするか?の部分で起きることがトラブルの種になってしまったりするからではないかと思います。

 例えば、そう指摘されたときに人はどうするでしょうか?自分が特別恵まれており、他の人たちよりも得をしていると言われたとき、それを負い目に感じてしまう人は多いと思います。
 なので、①自分の恵まれなんて大したことないとして矮小化しようとしてしまったり、②自分には他に困難があると提示して恵まれを相殺するバランスをとろうとしてしまったり、③恵まれている部分を捨てる行動をして、その負い目を無くそうとしてしまったりします。
 ①②は、でも実際は恵まれているため、それを誤魔化そうとしているかのように他の人には見えてしまうために、卑怯者という扱いになりかねません。③は負い目は無くなりますが、せっかく幸運にも恵まれていたものを手放すので、それまでよりも困難な状況に自分を追いつめます。


 どれも前向きな結果には繋がらず、だから良くない感じがしますよね。

 

 なので、僕のおすすめは④自分がこんな部分で恵まれていることが分かったので、今までは気にしたことがなかったけど、幸運なことだと思うことにするぞ、という態度をとることです。
 その上で、自分がそこで恵まれていることは特別なことで、世の中にはそうではない人がいるということを前提に接していくことにすれば、他人をイライラさせる頻度は減るのではないでしょうか?

 

 そんな感じでいいんじゃないかと思うんですよね。

 

 自分が持ってなくて困っていることがあれば、自分の恵まれてなさにはすぐ気づけるんですけど、自分の恵まれていることには、なかなか気づけません。
 他人に対して「あなたは恵まれている側だから」と言ってしまう人にだってその可能性があり、人間はどこかの部分で恵まれていたりするものの、そこに気づけないからこそ、お互い様とは思わず、他人に対して「恵まれた人間がごちゃごちゃ言いやがって」と一方的に思いやすくなってしまうのかもしれません。

 

 そう考えたときに、「自分のどこが恵まれているのかを把握して自覚すること」って、他人をむやみに責め立てる必要もなくなったり、自分が持ってるものを持ってない人がいて、その前提で周囲と接する必要があると自覚できたりするので、人と上手くやっていきやすくなると思うんですよね。

 

 例えば、「モテてる人だって良いことばっかりじゃない」みたいな話は、近年されやすくなっていて、沢山の他人から好意を向けられて、それに対応しないといけないしんどさって、モテてない側からは分からなかったことかもしれません。
 一方で、モテる側だって辛いんだという話をするとき、「他人とただ接するだけで拒絶の意思を示されるようなモテなさの辛さ」について、ちゃんと考えられているでしょうか?
 そこで必要なのは、「自分には分かってない辛さが相手にはあるのだ」ということの自覚と、それを気にしないで済んできた自分の恵まれていることの自覚じゃないかと思うんですよね。

 

 でも、揉め事とか見てると、その辺りですれ違いがちじゃないですか。モテてる人は得をしてるんでしょう?という売り言葉に買い言葉で、モテることの辛さも分からないくせに、みたいなのを返したとき、モテない側からすると、「モテて得している分際で、被害者意識まで持ってさらにこっちを責めてくるのか卑怯者め」みたいな感じになっているのを目にしますし、「モテることなんて何のいいこともないのに、得をしているかのように思って好き勝手いいやがって」みたいに、普段から他人に一方的に拒絶されたり蔑まれたり、好意を伝えれば加害と言われることの辛さについて、考えたことのないような感じになっているのを目にしたりします。

 

 そこで、「相手の辛さなんて大したことない」「自分は得なんかしていない」という感じになると、コミュニケーションがどんどん成立しなくなっていくように感じていて、このような構造の揉め事を毎日のように目にしていると、なんとかならないものかなと考えてしまうんですよね。

 

 なので、やっぱり結論としては、客観的に正確に自分や他人の状況を捉え直すことがいいんじゃないかと思います。
 自分が恵まれて得をしているなら、自分はちゃんと得をしていて、この部分に悩むことなく暮らせていてそれはありがたいことだなと思うことが大切だと思います。その上で、自分の持ってるその部分が欠けている他人に対して、それを矮小化せず、この人はその部分が恵まれていないから、自分が悩まないそこに悩んでいるんだ、と思うことが出発点な気がするんですよね。

 

 例えば、外国に行ったりとかしていると、自分とは異なる部分が多い人と接する機会が増えて、色んな事に気づくタイミングも増えます。
 僕が感じたことでは、日本のパスポートの強さで、別の国の人からVISAがなかなか下りずに来れなかったという連絡が来たときに、自分が日本のパスポートを持っていることの恵まれていることを実感しました。入国出来ない国があったり、入国を拒否されたり、拒否はされなくても審査にとても時間がかかったり、そういう悩みをあまり持たなくて済むということは、とても恵まれたことです。

 

 色んな事に気づく経験をした上で、まあまだ全然足りないとも思いますが、人と継続的に話をするのであれば、自分の恵まれているところといないところ、相手の恵まれているところといないところをちゃんと自覚して、やりとりをするのがいいなということです。
 でなければ、自分が恵まれてない側で、相手は恵まれている側と自然に思ってしまい、無自覚に理不尽を相手に押しつけて、結果決裂する、みたいなことになりやすくなるし、そうなる理由にも気づけないのではないかという危惧があるからです。

 

 ということもあり、近年僕は自分が恵まれていることについてよく考えており、それは実際かなりあるので、まあまあいいじゃん自分の人生、と思う感じになってきました。
 人間関係で揉めることはまだありますが、そこで気づいたことを積み上げて、ましにしていきたい感じがしています。

劇場先行版「NEEDY GIRL OVERDOSE -OVERTURE-」を試写会で観た関連

 お友達のにゃるらさんが試写会に呼んでくれたので、NEEDY GIRL OVERDOSEのアニメの劇場公開版(テレビアニメの三話程度分を編集して一本にしたもの)を見させてもらいました。

 

 観終わって、本作が世の中で受け入れられるかどうかは自分には判断がつかないなとも思いましたが、面白く観ました。何が面白く感じたがというと、人間の孤独と閉塞感がひたすら描かれ、そんな人間に対する存在としての超てんちゃんが居るということが描かれた部分が良かったからです。

 おそらくテレビアニメが公開されたら賛否両論というか、ニディガだけにピも多いのではないかと思いました。劇場先行版は編集が異なるので、テレビアニメではどうなるのかは知らないのですが、少なくとも僕が観たものは、新世紀エヴァンゲリオンの25話と26話からいきなり見せられるような内容で、象徴的な映像と言葉、個人の内的世界が描かれ、いきなりそれを全て受け止めることは難しいと感じました。

 冒頭のそのシーケンスが終わると、今度は現実の人間の話が始まります。

 

 NEEDY GIRL OVERDOSEは、配信者を取り扱ったゲームです。あめちゃんという女性が、超てんちゃん(超絶最かわてんしちゃん)という名前と姿でネット配信を行い、ファンを増やしていくゲームです。

 彼女は、プレイヤーが操作するピと呼ばれる存在と言葉を交わしながら、どのようにファンを増やしていくかの戦略を練り、実行していきます。彼女のパラメータは各種行動や、薬によって管理され、定められた期日までにファンを増やせるか否かによって、またそのためにとった行動によってマルチエンディングが用意されています。

 ゲームでは、超てんちゃんのファン個々人がどのような人間であるかの姿は具体的には描かれません。配信のコメントとしてだけしか出てきません。そして、アニメではその部分が描かれます。それも露悪的に。

 

 超てんちゃんのファンである彼ら彼女らが、自分たちの人生の中で、どのような閉塞感と孤独を抱えているのか?出口の見えない苦しさの中で、なぜ超てんちゃんという存在を求めるのか?なお、超てんちゃんを求めている人の中には、あめちゃん自身も含まれます。

 

 鬱と躁、ケとハレ、鬱でケな人間の人生を露悪的に描いたあとに、躁でハレな超てんちゃんのLIVEが始まったとき、そういうことかという理解を得ました。

 

 自分自身を取り巻く鈍重な空気と、不快な刺激、出口の見えない暗闇の中で、ひと際パステル調に輝く存在がそこにいます。その存在が、なぜ必要なのかが体感をもって理解できます。

 

 孤独と閉塞感の究極は「死」だと思います。つまり、孤独と閉塞感の中にいることは「薄まった死」の中にいると思っていて、超てんちゃんのLIVE(ステージ上のパフォーマンス)は、そしてLIVE(配信)は、言葉の通りそこに抗う「生」であるように思いました。

 LIVEって生きることで、LIVERって生きる人のことなんだなあと、ボクシングって大地を蹴る格闘技なんだなあという感じに思いました。

 

 劇場先行版の中では、個々人の苦しい生活が描かれ、そこに対する超てんちゃんの輝きが描かれます。

 同時に、その超てんちゃんは、無償で無限の愛のようなものから生み出されているわけではなく、同じく苦しみの中にいた人間が偶像としてそれを作り上げているということが描かれます。

 

 思い出したのは大森靖子の「マジックミラー」という歌です。「あたしのゆめは、君が蹴散らしたブサイクでボロボロのLIFEを、搔き集めて大きな鏡を作ること」という歌詞が象徴するように、自分自身の活動を、ファンに対する鏡どして定義しています。

 彼女は、マジックミラーの裏側でファンの様子を見ながらも、ファンには自分を写す鏡として見せていて、その役割を担うという覚悟の歌だと思います。

 同じ構造であるように思いました。

 

 劇場先行版「NEEDY GIRL OVERDOSE -OVERTURE-」は、自分の人生に希望の光を見いだせない人間たちが、繋がることだけはできるネットの中で、見つけた輝きの方に目を奪われてしまうということをひたすら描いていて良かったな、と観終わって思いましたが、これはアニメシリーズの序盤でしかないので、この先に何があるんだろう?とも思いました。

 

 苦しみを一時忘れられるものの、だからこそ見続けてしまうものの、それはハリボテでカリソメであることも分かっていて、それによってファンの全人生が救済されるようなものにはならないであろうというか、そんなものは本当は嘘じゃないか、と分かった上でのお話だと思うんですよね。

 だから、続きがどうなるかが気になるなと思いました。

 

 アニメは、それを求めているファンが超てんちゃんというドラッグをoverdoseするような構成になっているように思います。少なくとも今の時点では。そうすることが必要となってしまったとして、その先には別段明るく前向きで輝くような未来はないだろうなと思います。でも、それでも今生きている以上は、死ぬまではその先は続きます。

 

 このアニメは、万人を楽しませるようなものではないように思います。でも、その根底には切実なものがあり、必要としている人がいるだろうと思うものを作っているように思ったので、そこが面白いなと思いました。

 そして、結末まで見たいなと思いました。

おじさんは雑談が苦手関連

 「おじさんは雑談が苦手な傾向がある」という話題があり、おじさんである自分自身も振り返って、そういうところはあるなということと、よく言われる「女が共感してほしいのに、男が解決策を話したがる」みたいなものとも繋がっているように思います。

 

 つまり、それは「意味のない会話をすることが不得手である」という話として解釈できるのではないかと思います。雑談は意味なんてなくてよく、雑談をした結果、話の内容として意味のある情報を得られたかどうかは雑談の意義とはそんなに関係ありません。内容ではなくこの人と言葉のやり取りをするという時間があったということの方に意味があって、そういう意味のないやりとりを重ねて人間関係が作られていったりするものではないかと思います。

 

 僕自身を振り返ってみると、Twitterに書いていることなどを見れば、日々意味のないこと自体はたくさん思いつき頭の中を横切っているのですが、それを人に聞かせるという部分が不得手であるように思います。

 なので、LINEやDiscordにはTwitterに書いているような無意味なことはあまり書いておらず、その理由は、自分のそんな無意味な言葉に「リアクションをしなきゃ」というような他人のリソースを使わせてしまうことに罪悪感があるように思います。

 

 それは「自分が他人に受け入れて貰えていると思っていない」ということではないかと思います。自分から他人への接触は、基本的に相手にとってマイナスの意味を持ち、その埋め合わせをするようなものでなければ他人に接触することは不利益をもたらすという感覚が根底にあると思います。

 だから何か話しかけて意味がある内容があるときでなければ人と話すことができないということになってしまうのではないかと思いました。

 

 逆に言うと、自分の存在が相手にとって迷惑ではないと感じられている人とは雑談はできているような気もします。自分を振り返ってみると、年上の人と話しているときがそうで、年上の人は、こちらが年下というだけで大目に見てくれることが多く、受け入れて貰えていると感じられているからだと思います。

 でも、ここにも色々構造がある気がしていて、年上から年下への発言って難しいと思うんですよね。特に個人ではなく組織の中では権力勾配があったりしますし、相手は年上の人からの言葉に素直に反応できるとも限りません。

 相手に気を遣わせてしまっていると思うと、相手に使わせているリソースが多いと判断して迷惑をかけるぐらいなら話しかけないほうがいいなと思ってしまったりします。ちなみにこの判断が正しいわけではなく、組織の中では情報伝達をスムーズにするための経路を確保する上でも雑談などでその道ならしをしておかないといけないということもあるのですが。

 

 「年下に気を遣わせてしまうから年上から年下に話しかけにくい」という前提があった場合、逆を言えば、年下から年上の話しかけるのは楽だったりするのではないかと思います。なので僕は、もう四十も半ばになるというのに自分より年上の人たちに甘やかされていることが多く、逆に、年下の人には気後れをしてあまり積極的に話しかけられていなかったりするという状況があります。

 ただし、この辺は自分でも意識しているところなので、自分の感覚的なそういうことのできなさはあるにせよ、意識的に上手くやれる道を模索したいなと思っていて、色々試したりをしています。この前は、漫画家飲み会の幹事などをやってみたりしました。

 

 飲み会の幹事と言えば、先日のモーニングにこづかい人間診断みたいなページがあって、自分がこれまで「こづかい万歳」に出てきたどのこづかい人間に近しいかを診断できたのですが、独り飲みと飲み会のどっちが好き?という診断で、独り飲みの方を選ぶと、ステーションバー(駅で行き交う知らない人を見ながら、その人たちの人生を感じて酒を飲む)の人に分類され、飲み会の方を選ぶと、飲み会の幹事をしながら、出席者をエクセルで管理する人に分類されるというめちゃくちゃ極端な2択があり、笑ってしまいました。

 それを見ていて、今の自分のムーブが、ステーションバーから飲み会エクセル幹事ではないかと思ってギョッとしたりもしています。なぜなら、飲み会で自分が面識がある人同士を繋げられたりしたのが面白かったなと思ったりしたので、あとはエクセルで管理するだけだからです。

 

 人間関係って中身よりもやりとりした回数によって生み出されるところもある感じがしていて、必要なときに必要なことしか喋れないと、人間関係が広がっていかないみたいなことがあるように思います。

 僕の場合は、雑談はそんなにはしていないものの、SNSやブログやWebラジオなどで色々喋り続けているため、それを見てくれている人にとってそれが雑談のように機能してくれているようなところがあり、それに助けられているみたいな観点もあります。

 

 最近思うのは、人間は素直なのが一番得をするという感覚で、「この人は本音を言っていない」と思われたら、そこに一段壁ができてしまうので、意識的に素直な発言をしようと思っているところがあります。本当に望んでいることを隠すように婉曲的な言葉ばかりを相手に伝えていると、相手が解釈をしないといけなかったり、その解釈が合っているかどうかを判断することを押し付けてしまったりするように思えて、それも相手のリソースを奪っているような気がして罪悪感があるんですよね。

 なので、近年の自分は素直に、「好きです」「仲良くしたいと思っています」みたいなことを言っていると思います。それによって相手から拒絶されると、自分のリソースが減ったり自分が傷つくことがありますが、でも、相手にリソースを使わせて嫌な思いをさせたりしてしまうことに比べれば、ずっと気楽だと感じるからです。

 僕は相手の気持ちを察するのも得意ではないので、嫌がられているかもなと思うと、さっとヒットアンドアウェイで距離をとったりします。そうする理由は、相手に与える負荷を最小限にしたいからですが、その僕の判断が間違っているときもあり、その後、相手からも遊びに誘ってもらえたりすると、少なくとも嫌がられてはないかもなと思って、またヒットに向かい、そういうことを繰り返して徐々に仲良くなったりするものだなと思います。

 

 「君は人間関係不得意と言う割に、友達がとても多い」と言われたりするのですが、両方正しい認識で、人間関係は本当に不得意で、でも友達は多い方だと思います。それは、自分が不得意なことについては人生の早い目に認識していて、だからどうしたらいいかをずっと考えて実践してきているので、その辺の効果が今出ているのかもしれません。

 

 僕の対人関係の不得手は、「自分自身に価値がないし、価値がない自分の相手付き合わせることが不利益」だと感じていることが下地にあり、「であるならば一人でいた方が気楽である」と思うところから来ているように思います。なので、一人でいるのも方法のひとつではあると思いますが、自分の価値が相手にとってあるようになるという方法もあります。

 その方法として、意味のあることを言い続けるというところに行くというプラスを増やす方法もありますし、相手が気を使わなくてもいい関係を構築するというマイナスを減らす方法もあると思うんですよね。

 

 プラスを狙って失敗すると逆に大きくマイナスになりますし、それで失敗した経験や、他の失敗しているおじさんを見たりもします。なので、合理的に考えると、他人とゆっくりと人間関係を構築してマイナスを減らす方法を地道にやっていく方が一番リスクが少なく実入が大きいのではないか?と思っていて、最近の自分はそういうことをしているような気がします。

「バルバロ」と不規則な人間関係の中で生きること関連

 バルバロは風俗店で働いている女性を中心としたお話です。このお話が何を描いていると思うかというと、人間関係だと思います。

 

 人間と人間が存在すると、その間に関係が生まれます。でも、人間はそれぞれ違うので、そこの関係には摩擦が含まれます。人間と人間の違う部分がこすれ合って気になるということです。その場合、関係の摩擦は、どちらか、あるいは両方の人間を摩擦が少なくなるように変えてしまったりします。そして、そのような形で変わるのが嫌な場合は、人間は関係を解消してしまったりもします。

 バルバロのお話の中心にいる3人の女性は、それぞれ人間関係に問題を抱えています。

 

 まゆみちゃんは、明るく元気に見えるお店では人気の女性です。しかし、彼女はかつての母親との不均衡な関係から、人間と密な関係になることが不得手です。まゆみちゃんと母親の摩擦は、まゆみちゃんが変わることによって減らされるタイプのものでした。つまり、まゆみちゃんは常に母親の状態を気にしながら、摩擦が生まれないように立ち回る必要を感じて育ってきました。

 それはまゆみちゃんの心に大きな影響を残してしまいます。

 まゆみちゃんの結婚相手の孝志くんは陰気なメンズで、陰気なメンズは、相手を観察して「こう思っているのかもしれない…」と想像はしても、直接確認することが不得手です。一人で何かを思いがちです。まゆみちゃんの心はときに不安定ですが、しかし、孝志くんはなぜそうなのかを上手く想像することができません。その結果、孝志くんは、一緒に暮らす人が何を考えているのかを常に想像しないといけなくなってしまい、かつてのまゆみちゃんのように、疲れ果ててしまいます。

 離婚調停中の2人の関係は比較的落ち着いているように見えます。それはそこに一定の距離があるからでしょう。距離があれば摩擦も少なくなり、問題も起こりにくくなりますが、果たしてそれは解決なのでしょうか?

 

 ちなっちゃんは、自分の持っている暴力性を持て余している人です。鑑別所を出てからは強めに反省をしているので、人を殴りたくなるのを必死で我慢して、運動で発散させようとしたりなどしています。ちなっちゃんは、殴られるのが好きな風俗店の客と独特の関係を構築したりしています。

 大学院卒の客と少年院卒のちなっちゃんが、ともに院卒やんという共通点から、不思議な人間関係をやっているところはとても面白いです。ちなっちゃんの暴力性はどうにもならないですが、どうにもならないことが世の中では問題になるので、どうにかしようと頑張っています。

 

 シヲちゃんは、ダウナーな人で、元夫が刑務所に入っています。押しが弱そうで受け身そうな雰囲気であるため、面倒な客がついたりしがちですが、たまにイラついたりしながらも飄々とした雰囲気で働いています。

 シヲちゃんも色々思っているようですが、他人に対してそんなに積極的ではないため、あんまり人間関係はなさそうです。しかしながら、風俗店という場があることで、そこにいる人たちとは上手くやっているように見えています。

 

 3人は人間関係があまり上手くいっていません。特に他人と密な人間関係をやることに失敗しているように思えます。しかしながら、彼女たちにとっては風俗店という場所が、居心地がよくあるように見えます。

 それは、人間同士が性を媒介として身体的に密に繋がる場所とも思えるものの、その場その時だけ上手くやればいいという限定的な場所で、精神的な繋がりが疎であるということと関係しているのではないかと思えます。

 「今この場所だけ」なら上手く乗り切れても、「密な状態で継続的に一緒にいる」ということが不得手で、そういう人間関係を上手く作れないという問題がここにあると思うんですよね。僕がバルバロ読みながらそう思うのは、僕自身がそういった感覚を持って生きていることと関係しているからです。

 

 僕は大家族の長男として育ってきたので、基本的にあらゆる自分の欲求は「我慢すべきもの」として捉えていました。なぜなら、家にいる色んな人が自分の主張をするため、その場で起こる摩擦を少なくして上手くまとめるためには、自分を摩擦を起こさないように変えることが一番手っ取り早いことだからです。

 小さな話では、弟妹とテレビを見ているときにお風呂の順番が来たら、テレビを見たい弟妹たちを風呂に行かせるより、自分が見ている途中のテレビを諦めて先に入ってくる方が摩擦が少ないです。

 大きな話では、自分は大学進学をしたいが、それをすると弟妹たちの進学する余裕が家庭からなくなるかもしれなかったときには、自分がさっさと稼ぐようになってその余裕を自力で作れば摩擦が少なく進学できると思ったりなどです。

 

 家族を含めて、人との間に摩擦が生まれにくいように立ち回ることが僕の根本にあり、そのせいで僕の生き方には、密な人間関係を避ける傾向が出てくるようになりました。なぜなら、密な人間関係の中で自分を常に曲げ続けることはそれなりに辛かったりするからです。人間関係が疎であれば、頻度も強度もコントロール可能な範囲になるので、楽になります。そのような形で、友達は多くいますが、誰とも緊密になりすぎないように、一定の距離をとった上でフラフラしているのが僕の生き方となっています。

 それは人間と密であるということから逃げ続けている話でもあります。なので、このままでいいのかなあと悩んだりもしているんですよね。だからバルバロを読んでいて、分かるなあと思うことが多いです。

 

 バルバロには色んな人間関係が出てきます。密なものも疎なものも、瞬間的なものも持続的なものも、そして、それらが変化をするときも。バルバロを読んでいて心地よく感じるのは、このお話の中では「自分を変えずに相手を変えさせた」というような摩擦の解消方法には至らない関係が多く描かれているところだと思います。

 生きていれば色んなところとぶつかって摩擦を生みます。自分を変えずに相手を変えさせることが成功として描かれないのは、自分が相手に変えさせられて続けたことを良しと思わないことと繋がっているようにも思います。

 

 だから、バルバロにおける人と人の関係は、目的があってまっすぐ進むようなものではなく、ブラウン運動のようなものになります。ブラウン運動とは、微粒子がぶつかり合うことで不規則に動き回る物理現象です。人と人がぶつかっては互いに跳ね返るということです。バルバロは、その跳ね返り方の中で、いつか落ち着く場所が見つかることを祈るようなお話だと思っています。

 生きていると人と人との間に色んな摩擦があって、でも、その中でみんな生きていると思えるようなお話なので、そこが僕の好きなところです。

 

 温度と密度の高い場所では、不規則な運動が激しくなり過ぎる状態に困ってしまう彼女たちにとっては、温度も密度も緩い風俗店が落ち着ける居場所として機能しているように思えます。彼女たちが、いつか風俗店を出ていくのか、ずっとそこにいるのか、もしくは代わりになるものを見つけるのか、その運動の様子を、この先も読んでいこうと思っています。

 

 さて、本日、バルバロ3巻が出ました。オススメです。

 

 

 

2025年良かったことまとめ関連

 2025年は良かったことがとにかく沢山ありました。順不同で書き連ねていきます。

 

イムリ原画展の開催

 大阪にあるベアトラップギャラリーから「原画展を企画してみないか?」と誘ってもらって、三宅乱丈さんのイムリの原画展を開催しました。

 細かい経緯などはこちらにまとめています。

mgkkk.hatenablog.com

 これはどうしても見たかったイムリの設定ノートと原画の両方を見られるという自分の欲望を叶える機会であると同時に、他のイムリのファンの皆さんにも喜んで貰えるというとてもいい出来事になったと思います。

 原画の選定に札幌の三宅さんの仕事場を訪問させてもらい、丸二日お話をさせてもらいながら色々な美味しいものを食べさせてもらったのは、一生の思い出になる出来事でした。漫画オタクはマジで好きな漫画の原画展を開催した方がいいと断言することができます。

 

華倫変漫画の復刊&原画展開催の手伝い

 イムリの原画展開催に関連して、故・華倫変先生の原画を探しに行くのを手伝いました。細かい経緯などは以下で書いています。

mgkkk.hatenablog.com

 カリクラの原稿が無事見つかったこと、華倫変先生のご家族とお話させて頂いて今もファンが多くいることをお伝えできたこと、原画を色んな人に見てもらえる機会を作ることを手伝えたこと、その過程で、色んな資料や未発表ネームなどを見せて貰えたことなど、こんな機会二度とないというような経験ができてとてもよかったです。

 

寺沢大介原画譲渡展の準備

 寺沢大介先生にはとてもよくして頂いているのですが、前々から家にある漫画の原稿をこのまま死蔵するよりは欲しいと思ってくれる人に譲りたいとおっしゃっていたので、上記の原画展を開催したツテもあり、原画を有償譲渡する原画展の開催を今ちょうど手伝っています。

 1/10には寺沢先生の在廊かつ原画オークションイベントも行い、僕も手伝いに参加するので、またとない機会なので来てください。オークションイベントは抽選の予約制なので、こちらからエントリーできます。

livepocket.jp

 原画は僕が買い上げたいぐらいのものを選んでいます。僕はファンの一人でしかないので、多くの他のファンの人にも機会があった方がフェアだろうという精神で歯を食いしばりながらやっております。

 思い返せば10年ほど前に同じく原画が買える原画展が開催されたのが僕と寺沢先生の出会いなのですが、まさか自分がその続きを開催するとは思いもしませんでした。

 

漫画を2本完結させた

 連載していた「ひとでなしのエチカ」が5巻で完結しました。連載が終わったのはシンプルで「続けられるほど売れていなかったから」なので、色々と反省も多い連載でしたが、描きたいことは描きたいように描けたので満足感はあり、実力をつけてまた再開する機会を伺うことにしています。

mgkkk.hatenablog.com

 

 「恋のジンロゲーム」も予定通り上下巻同時発売で完結しました。こちらは最初から2巻で完結させる話だったので、予定通り好きなことを描き散らして終わったという感じです。面白いと思うものを好きなように描かせてもらえました。

mgkkk.hatenablog.com

 

 「恋のジンロゲーム」については、コミックナタリーに特設ページも作ってもらい、大好きな方々にメッセージを頂くことができて、めちゃめちゃ嬉しかったです。

 特に柴田ヨクサル先生には、何の面識もないのに僕が柴田先生のファンであるという理由だけでお願いしたら漫画を読んで頂いてメッセージも頂いたのであまりに嬉しくてどうにかなりそうでした。

natalie.mu

 

 僕は人生のつらい時期を「エアマスター」を読んで乗り切っていたので、柴田ヨクサル先生を救いの神のように崇めているところがあり、自分の人生的にとても大きな出来事でした。

mgkkk.hatenablog.com

 

 一方で、漫画はもっとちゃんと売れるものを描かないとなという課題が見えており、拙速にまた次の連載を始めるよりは色々考えたりしてから始めようと思ってしばらくお休みにすることにしました。でも、連載をしていないと明確な締め切りがないため、段取りを作ることが難しくなり、そこに会社の仕事の繁忙が入り込んできて上手く進められていません。漫画の描き方をさらにアップデートする必要があるなと思いました。

 そういえば会社員と漫画家の兼業ノウハウについての現時点でのまとめも書きました。今から連載立ち上げのノウハウも自分なりに作り上げていこうかなと思います。

mgkkk.hatenablog.com

 

 ここからは別に良い話ではないですが、会社員と漫画家の兼業についての発信は、しても意味がないなと思うようになっています。それは、内容が拡散されるにつれ、「役に立った」というリアクションはそこそこなのに、侮辱や罵倒みたいなものが延々集まり続けるし粘着的な人も増えてきているため、「自分と同じことで困っている人の役に立つこともあるだろう」と思って書いたことが、世の中によくないものを増やすだけになっていると思ったからです。

 例えば、僕のところには「あなたの真似をして寿命を縮める人が出てくるので、あなたは実質人殺しだ」というようなコメントが届いたりしています。

 なので、個別に相談されたなら別ですが、広く届くように発信する意味はないと思うようになったのが2025年の大きな変化点かもしれません。これまで発信した方がいいと思っていたのは、「インターネット」ってそういうことだと思っていて、「個人の中に閉じていた経験談やノウハウが、ネットによって摩擦が少なく伝えられることで世の中の効率が良くなること」だと思っていました。

 でも、今のインターネットはそんなことを無邪気に思えないようになっているように感じています。広く伝わっても、人の役にはほとんど立たないのに、他人の中の悪意を刺激してしまうことの方が多いと思うようになりました。

 なので、ノウハウ共有はもっとクローズドな場所でやった方がいいように思います。最近は会社員と漫画家の兼業については色々と面倒になって、「僕はできますが、あなたたちには一生できません。それは生まれたときから決まっていることなので気に病む必要もありません。諦めてください」というスタンスにすることにしています。

 昔はネットに自分の文章を書いていた人たちも、十年以上見続ける中で、気がつけば生活の変化か加齢かによって、自分の文章を書くよりも、他人の文章を踏み台に一言コメントをして自分が優位であるように見せかけるような行動ばかりを日々していて時間の流れによる悲しい変化を感じています。それがコスパがよいと辿り着いた先なのかな?と想像しています。

 

会社の大きな仕事が2つ終わった

 5年やっていた大きなプロジェクトと、3年やっていた大きなプロジェクトの2つを無事終わらせることに成功しました。色々と難しい仕事でしたが、終わらせることが出来てとてもよかったです。

 これで心残りはなくなったので、会社はいつ辞めてもいいなという状況になったところで、全く新しい仕事が舞い込んできており、やったことのない新しい分野なので、日々勉強したり、試しに何かを作ったり、色んなところに出向いて情報収集をしたりをするようになっています。仕事には終わりなどない。

 会社の中でも、新しい取り組みを立ち上げるためにマネジメントの仕事を他の人にも肩代わりしてもらえるようになって助かったものの、新しい仕事は社内に誰も正解を持ち合わせない中で、早急に最初の答えを見つけないといけない内容なので、苦しんでいます。それと同時に、これまでやってこなかったことが急速に経験を積んで分かったりできたりするようになってきたので充実感もあります。

 でもこれがロケットスタートできたら、また5年は解放されないだろうし、会社を辞めて専業漫画家としておだやかに暮らすならこのタイミングなのでは?という迷いが今めっちゃあります。

 今時点でFIREできるぐらいの資産形成は終わっているので、のんびり生きてもいいのでは?と思うものの、今後のインフレなども考えて、まだ踏ん切りはつかないという感じですが、でも急に辞めるかもしれません。

 

文章の仕事を始めた

 一昨年に文章をメインで書くブログを、ここではなく誰も見ていない場所に移したのですが、新しい試みとしてコラム仕事なんかをしてみたいなとTwitterでつぶやいたら、ムービーナーズさんから声をかけてもらい、月イチで仕事としてコラム記事を書くようになりました。

m-nerds.com

 ブログを書くのは前述のようにあんまり気が進まないことになったのですが、仕事としてならまた違うかもしれないなと思ったので、チャレンジしてみましたが、実際全然違う感覚で書けているので、続けていきたいと思っています。

 直近では、この記事がウケようと思って書いて、実際ウケたのが嬉しかったです。

m-nerds.com

 

友達が増えたりより仲良くなったりできた

 この1年は特に、色んな人と友達になったり、友達とより仲良くなったりできたように思います。そこには漫画を描いたり、文章を書いたり、YouTubeでラジオをやったり、色んなイベントに登壇したりとを繰り返した結果の、人との知り合うタイミングの多さや、既に自分のことを知ってくれている人となら話が早いので、仲良くなりやすいことであったり色んな要因が重なって起こっていることです。

 僕は好きな漫画家さんと仲良くなれたり、漫画の話を楽しくできたりする人と知り合えるのが本当に嬉しいので、色々と大変なことも多かったですが、気持ちの上ではずっと幸せな感じに包まれて1年を過ごしてきました。

 昔は年に2回会うだけの友達を、一番多く会っているから親友だなと思っていたような時期もあったり、十代の頃は、地元で自分が好きな漫画を読んでいる人と話す機会に恵まれず、ずっと一人で孤独に思っていたようなことが、十何年自己満足だけでブログを書いていたことが、好きな漫画家さんの認知を得ていたりできていたことで今の人間関係に繋がっていて、全部無駄ではなかったんだな…と怒涛の伏線回収の時期が人生に来ているように思います。

 結局のところ自分が何の見返りもない中で発信をし続けていたことが、戸愚呂(兄)が強さと悪さを兼ね備えた人間だけがキャッチできる特別な波長の信号を出し続けていたように作用して、今色んな人と仲良くなれたきっかけになっているという実感があります。

 

 一方で、前述のようにもうインターネットで何かをただ発信することにはあまり意味が感じられないという逆方向の実感も深まっているというのがこの1年の状況でした。

 

 僕は昔みたいに皆がそれぞれ誰が読んでるんだか分からない発信をし続けてほしかったし、辞めた人も再開して欲しかったんですけど、結局のところ、昔インターネットで書いていた人たちの多くは、もうそれが全然できなくなってしまっていて、あの頃のようなことはもうないんだなと、ついに思ってしまったように思います。

 だから、インターネットで知っていた人たちが、昔のように本や映画やアニメやゲームの感想などを書かなくなり、他人の書いていることに一言コメントして、自分の方が分かっている感を出すだけのことをしていても、あるいは、批評とはなんたるかという態度で他人に対して偉そうな態度はしているくせに、本人自身はもうまともな批評なんて何年も書いていないような様子を見ていても、悲しくはあるがもう仕方がないんだな…と諦める感じになりました。

 諦めたらそういう人たちにも、「書けよ」と思わずにもう出来ないんだから仕方ないなと思って優しくなれる気がしたので、これも良かった話だなと思います。

 僕自身も文章を書くのは無償で広く自分のノウハウ共有をするのではなく、場所や相手を絞ったり、お金を貰ってやることにシフトを始めました。

 

 ともあれ、2025年はとても楽しい1年でした。2026年もまだまだ色々漫画を描いたり文章を書いたり、人と仲良く遊んだり、全く新しいことにチャレンジしたりを続けたいと思います。

「夢なら醒めてよ」と過去の自分と和解する関連

 「夢なら醒めてよ」は若い頃にハマった漫画のキャラクターが実体化して自分の前に現れる漫画です。全2巻です。主人公にはかつていわゆる夢女子であった過去があります。夢女子とはざっくり言うと、自分とフィクションのキャラクターの直接の恋愛を妄想するタイプの女子のことです。

 

 本作では、かつては漫画のキャラクターと自分の恋愛妄想にふけっていた主人公が、大人になってそんな過去を恥ずかしいものとして思い出し、かつて自分で書いた二次創作の文章のデータを削除してしまうところから始まります。そして、その後なぜか、そのキャラクターが実体化し、自分の生活の中に入り込んでくるのです。

 

 この漫画は、過去の自分と和解する漫画だと思います。つまり、自分の今とこれまでを肯定できるようになる漫画です。

 

 中二病について、僕が昔から思っているのは、それが自分にとって大切なもので大切な時期だと思うということです。

 中二病とは、僕の理解では「自分がカッコいいと思ってやっていることが、自分以外の世間一般では別にカッコいいわけではないと気づく直前の時期」のことです。本人はカッコいいと思ってやっているのに、もう少し冷静な人たちから見るとそれは全然カッコよくなく、その温度差が滑稽さになり、過ぎ去ったあとに恥ずかしいこと気づいて思い出されるものだと思います。

 でも、ここで重要なのは、世間ではカッコ悪いこととして見られていたとしても、「その時の自分にとってはそれは心からカッコいいと感じられていたことだった」ということだと思うんですよね。

 

 だから、「あのときはそれがカッコいいと思っていたんだな」と大切に思い返してもいいと思っていて、恥ずべきことで消したい過去として取り扱わなくてもいいんじゃないかと思っています。だって、他の人からみれば滑稽だっただけで、自分にとっては良いものだったのだから。

 

 主人公の本条ユウは、夢女子であったときの自分のことを、こんな典型的な要素の詰まった者が好きだった自分、フィクションに耽溺して周囲から浮いていた自分、今となっては理解できない情熱で二次創作をしていた自分が、痛いものとして消したい過去と見てしまいます。
自分がとりたてて仕事に身をささげているわけでもないのに結婚もせずに生きているのは、こんな過去があるからではないかと思い悩んで、その全ての記録を消してしまおうと思い詰めてしまいます。

 人は得てして今の自分への不満の原因を過去に求めてしまいます。

 

 しかし、実体化して登場した当時大好きだったキャラ、シーナの存在によってそれは変わります。今の年齢になってはもはや自分よりもはるかに年下に見えて、もはや恋愛対象とも異なるような存在となってしまったシーナとの生活の中で、ユウはかつての自分の気持ちを思い出していきます。

 

 「好きだった」と。「あのとき自分はシーナのことを本当に好きだったんだ」と。

 

 自分の過去の否定が、自分の中から出てきたのならそれも成長で仕方がないのかもしれません。でも、周りに変に思われるからと捻じ曲げていたのなら、そこは正してもいいはずです。自分はこのときこのキャラが本当に好きだったという気持ちは、否定しなくていいならその方が自分自身を肯定しやすくなります。過去を否定しなくて済めば、今の自分のことだけを考えられるようになります。それは生きやすくなることだと思うんですよね。

 

 「夢なら醒めてよ」は、まだ子供だった頃の自分を拒絶することをやめ、抱きしめて共に生きられるような漫画です。若い頃の自分は、大人になってから振り返ると滑稽に見えるかもしれません。でも、その滑稽さを含めて自分の人生の良いところだと思えるようになるとすごく色んなことが楽になるし、大切なことにも気づけるようになると思うので、とてもオススメな漫画です。