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エヴァンゲリオンは聖書ではなく徐福伝説を元にしているのでは?関連

 エヴァンゲリオンは実は徐福伝説がベースなのでは??というのは、ヱヴァンゲリヲン新劇場版Qが公開された当時なので、八年ぐらい前に僕がウッキウキしながら考えた話で、前一回書いてたような気がしたんですけど、検索しても出てこなかったので改めて書こうと思います。

 

 徐福伝説とは、秦の始皇帝の命を受け、東の海の向こうにある蓬莱に不老不死の霊薬を探しに行った徐福という男の話です。徐福伝説は昔から色々な脚色や解釈がされており、例えば、その蓬莱とは日本のことだと解釈するものもあって、日本には実際に徐福にちなんだ名前がつけられた土地もあります。

 

 余談ですが、徐福伝説に関する僕が好きな漫画で言えば「鬼斬り十蔵」があります。始皇帝を恐れ、なんとしても不老不死の力を手に入れようと日本まで辿りついた徐福は、そこで不老不死の霊薬を見つけることはできず、追い詰められ、連れてきた童男童女を人体実験に使って、自ら不老不死の法を作り出そうとします。そして、その失敗が日本に様々な妖怪を生み出します。それほどのことをしてたのに不老不死にはたどり着けなかった徐福は死んでしまいますが、生まれ変わってなんと安倍晴明となります。そしてその生まれ変わりこそが不老不死の法であるということに辿り着いた徐福は、色んな面倒ごとを起こすのでした。

 鬼斬り十蔵は徐福伝説に端を発する物語が、様々な時代の様々な有名人をひとつに結びつけるタイプの伝奇漫画で、とても面白いので、皆さんも読みましょう。

 

 さて、エヴァンゲリオンシリーズの設定については、僕はアニメをざっくり見たのと、さっきウィキペディアを見たぐらいのことなのでよく知らないのですが、そのざっくりとした認識では、地球にはアダムとリリスという宇宙から飛来した始祖生命がいて、アダムは使徒と呼ばれる生命を生み出し、リリスは人間を生み出したと言われていたと思います。

 作中では、南極で発見されたアダムに人間が接触したことによって起こったセカンドインパクトという災害によって、人類の半数が死滅する事態になってしまいました。

 それから月日は流れ、日本の箱根の地下に居を構える特務機関NERVが、エヴァンゲリオンという巨大な人型兵器を作り上げます。エヴァンゲリオンはアダムあるいはリリスをもとに作られた人造生命で、14歳の少年少女たちがパイロットとして神経接続を行い、シンクロすることでその巨体を動かします。

 

 エヴァンゲリオンが作られた目的は使徒を迎撃するためです。使徒とはアダムが生み出した人間とは別の可能性の生命です。彼らは、アダムと接触することで、サードインパクトを引き起こすため、箱根に作られた第三新東京市の地下へと向かってくるのでした。

 エヴァンゲリオンは、サードインパクトを阻止するために、使徒を倒さなければなりません。あと、アダムだと思われていたものが実はリリスだったとか、そういう色んな展開が最初のアニメや劇場版の終盤ではありました。

 

 さて、エヴァンゲリオンには聖書などに基づいた言葉が沢山でてきて、それに基づいた色々な裏設定の推測がされていたりするようですが、僕が考えたのは、一回その聖書要素を忘れてみて、最初に紹介した徐福伝説を注入して見ても、意外と話が成り立つのではないか?ということです。

 

 僕がこの考えに至ったのは、複数回の延期の末に、ついに3月8日に公開されようとしているエヴァンゲリオンの新劇場版の完結編のタイトルが、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」だと知ったからです。

 つまり、この「シン」が実は「秦」なのではないか??という非常に論理的な話なんですね。

 

 でも考えてみてください。アダムとの接触を求めて第三新東京市(箱根)にやってくる使徒という構図は、秦の始皇帝の命によって蓬莱にやってくる徐福と似ていませんか?似ていますよね。そっくりと言っていい。

 エヴァンゲリオンという名前は福音という意味だそうです。ひょっとして、この福音とは徐福のことを意味するのかもしれません。

 

 そう考えてみると、徐福が連れて行ったとされる百工や童男童女は、NERVの科学者やチルドレンに置き換えることができます。最初の人間アダムとは、つまり始皇帝です。そして始まりと終わりは同じであるという言葉から、始皇帝は終わりの皇帝でもあるということができます。オワリという言葉は一文字ずらすとカヲルになります。そう、渚カヲルこそが、始皇帝の魂を継ぐ者というわけです。

 そう解釈すると、徐福が最初に蓬莱に辿り着いたあと、始皇帝は次々と別の使いを送ったということです。それらを使徒と考えると、最後についに始皇帝自らの魂を宿した存在がやってきたわけなんですね。

 

 そして、エヴァンゲリオンの舞台は富士山のほど近くの箱根。富士山は竹取物語でも「不死」との掛詞が存在しています。諸星大二郎の「徐福伝説」でも、徐福が目指した場所は富士山でした。富士山の地下で、混沌の神と合一することで不老不死を得ようとし、そして失敗します。これは新劇場版Qの展開とも酷似していますね。これがサードインパクトの元ネタなのかもしれません。

 

 さらに日本における秦氏は、渡来人で、始皇帝の末裔を名乗る一族です。そしてまた、日ユ同祖論で読んだ情報では、秦氏景教ユダヤ人を祖に持つという話があります。ここで、結局また作中で象徴として使われるカバラのセフィロトとも繋がってくるんですよね。

 つまり、皆が聖書モチーフだと思っていたものは、実はその裏にいる秦氏、つまり、シンを意味していたというわけです。

 

 無理矢理な話をしているとお思いでしょう??でも、僕がこれから説明する内容を読めば、きっと、エヴァンゲリオンが徐福であると納得できるのではないかと思います。

 

 ヱヴァンゲリヲン新劇場版序破急(Q)という3部作でこれまで描かれました。

 

序破Q

ジョハキュー

ジョフキュ

徐福

 

 そう、徐福なんです!!

 置き換えると、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版序破急」とは「徐福秦劇場版徐福」だったんですね!!そしてついに3月8日に公開になるのは「秦徐福劇場版」です!

 

 徐福は果たして不老不死の法を手に入れることができたのか?始皇帝との関係はどうなったのか??歴史では分からないその真実の結末がついに分かるのかもしれません。

 

 信じるか信じないかはあなた次第…。

男らしさから降りる関連

 近年、「人間の精神が自由であること」と「人間が何らかの属性に起因する役割を担うこと」の間に少なからず存在する齟齬について、それが「ある」ということを言っても大丈夫な雰囲気になってきていると感じていて、世の中が良くなってきたなあと思います。

 「アナタは○○なのだから、○○としての役割を全うすべき」という風潮は、ときに、その人の個人的特性と全然合わなかったりして、そういうとき本当に辛くなったりするんですよね。

 

 とはいえ、世の中は誰かが何かの役割を全うしてくれているから成り立っているということもまた、ひとつの事実だと思います。誰もが役割を果たす必要がないと考えるようになったい場合、今上手く回っている仕組みの多くは回らなくなってしまうかもしれません。

 ただし、「その役割を全うする」ということについて、それ以外の選択肢がないように見えることが苦しみとなりうると思っていて、それを全うしないという選択肢があることを否定しないというのは、人間の生きる苦しみを取り除ける活動なので、いいことだなと感じています。

 

 さて、この「役割を全うしなくてもよい」あるいは「役割による何らかの強制が存在することがそもそもおかしい」という考えについて、男性も「男らしさ」というものから人は降りてもよいという話があります。直近では「違国日記」の7巻でそういう話が出ていていて、男性も男らしくあることが辛いときがあるのではないか?というところへの言及がありました。

 

 僕自身、結構前から男らしさ的なものからは降りて生活している感じがするので、ほんとその通りだよなあ!と思ったりするのですが、ここで言う「男らしさを降りる」ということが意味する内容については、人によって思っていることが違う場合があると感じています。

 なので、一概に「男らしさを降りる」と言っても、そこで実際は何の話をしているかによって話がこんがらがってしまうことがあるよなと、インターネットとかを見ていても思うので、僕の中で整理していることについて書こうと思います。

 

 僕の認識では、「男らしさから降りる」の意味は、概ね以下の3つに分類できると思います。

  1. 競争社会から降りる
  2. 異性に男としての役割を求められることから降りる
  3. ステレオタイプな男像から降りる

 では、各項目を個別に見ていきます。

 

1. 競争社会から降りる

 「競争社会から降りる」ということは、男という属性が、「男同士の競争社会を生きなければならない」という概念として認識されているということだと思います。例えば、自分な優秀な雄であるということを示すために、誰かと争って勝つという戦いの中に身を置くタイプの男らしさです。

 ここから降りるには、シンプルに「競争をしない」ということによって降りることができると思いますが、特に仕事なんかをしていると、その全てから降りることは難しい部分もあります。

 

 他人を蹴落としてでも、自分が優秀であるということを示すということは、勝てれば楽しいかもしれませんが、負けるのは辛いかもしれません。一方で、仮に勝てたとしても、いつまで勝ち続けなければならないんだ?というような果てないプレッシャーの辛さもあると思います。

 それは苦しい話ですが、にもかかわらず、スポーツでも芸術でも、一番を決める戦いに人が進んで参加したりもします。それは、そういう場において、「自分が優秀であると証明すること」に意味を見出している人も多いからでしょう。そして、それに向かない人も全然いると思うわけです。

 

 争いに最初から参加しないことがそこから降りるための方法です。しかしながら、人は望む望まざるに関わらず、そういうものに巻き込まれてしまうことがあります。そのとき、「自分が負ける人間でよい」と思えるかということが分水嶺です。そこで、「他と比べて自分が優秀な人間ではない」と認定されることを受け入れられるか?ということです。

 つまり、世間の一部から自分が「負けている存在」であると見なされることを無感情に受け入れられないなら、そこには少なからず「勝ちたい」という気持ちが残ってしまうということです。勝ちたいと思うなら、争いに参加するしかなく、競争社会から抜けることはできません。

 

 勝ちたいと全く思わないことは、そうそう人に出来ることではないかもしれません。例えば、目にした他人の意見に対して「反論を書きたくなること」も勝ちたいということだと思うからです。つまり、自分の目の前に、自分とは全く異なる考えの人がいたとして、「それは違う!」と言いたいなら、「自分の考えの方が正しい」と思っているということです。相手の意見より自分の意見の方が正しいはずということは、勝ちたいということだと思います。

 なので、目の前の人がどれだけ自分と異なることを考えていても、「そういう人もいるんだね」で全てを流せるぐらいではないと、競争社会から完全に抜けることは難しいのではないでしょうか?

 

 僕自身、あまり争わないようにしたいと思っていても、そこから完全に解脱しているとは言い難いです。

 

 そして、重要なことですが、このようなことは別に男社会に限ったことではありません。女社会でも全然あることです。人は、「自分が他人よりも優秀である」ということを示したくなるという苦しみの中で生きていることが多いと思います。そこからできるだけ抜けられた方が楽ではあると思いますが、でも勝ちたいと思ってしまうでしょう?

 それはつまり、勝つことのメリットが大きいということです。勝たなくていいと思うことは、そのメリットを放棄し、何かしら相対的に損をしてもいいと思うことでもあります

 その損があることが、競争をせずに楽になることと同じかそれ以上に苦しい場合、人はどっちにしたって、何らかの苦しみからは逃れられないのかもしれません。

 

 競争は男女問わずあるものだと思いますが、それが男らしさと結び付けられるのは、男が競争する相手は男のことが多いからかもしれません。つまり、同じ場所に足を置いている者同士が、その中でより良い席を確保するために他人を蹴落とし、蹴落とされることをし続けなければならないという苦悩だと思います。

 

 僕は、そういうものから出来るだけ降りようとしているつもりですが、その方法は、社会との接点をあまり作らないということです。同じ場所に似たような形でいるから椅子取りゲームが始まるのであって、何かに属することをできるだけ避ければそこからある程度逃げられます。なので、基本的にひとりでいればいいわけです。しかしそれは、孤独と表裏一体です。人間関係を疎にすることで成り立つ気楽さは、僕は良くても、他の人に薦められる解決方法ではないかもしれません。

 あと、ネットで見た意見とかに反応はよくしているので、全然解脱できてないなという気もしてきました。インターネットをやめよう!

 

2. 異性に男としての役割を求められることから降りる

 僕の記憶だと、「異性から男としての役割を求められる」ということをとても苦しく感じていた時期があります。20代の前半ぐらいの時期です。

 これは一般化はできない話だと思うんですけど、少なくとも僕は「男たるもの女にこう接するべき」という話を女の人からとにかくされまくっていました。そして、僕があまりその男像に合わせられないことでひたすら叱られていました。それが知り合いぐらいなら距離をとればいいだけの話なんですけど、付き合っている相手とかになってくると、もはや逃げ場がなくかなりしんどい気持ちになってしましました。

 僕は結局その人たちの望むように変わることができなかったのですが、それは向こうからすると僕がカスなんだという話なんだと思うんですけど(そもそも人間関係は歩み寄りなのでそれができない僕に良くないところが当然ある…)、それでも僕はどうしてもその人たちの望むように振る舞うことができなかったということがありました。

 そのような関係は最終的に、僕がどれだけダメかという説教&罵倒をくらって人間関係が壊れるので、とにかくキツい気持ちになっていた覚えがあります。

 

 「こういう男はダメ」という言い方で、とにかく「自分たちの言うことを聞かないと、アナタを低く評価します」という態度をとられることを当時は繰り返されたので、そういうふうに扱われるがマジで無理だなと思っていました。それを引きずっているのか、中年になった今でも、女の人のことは基本的に怖く感じてしまいます。

 そうなってしまったのは、人と仲良くなっていく過程で、男の人相手よりも、女の人相手の方がこちらに踏み越えてくることが、早くて大きかったことが多かったからかなと思います。これは異性だからかもしれません。こういうことも一般化はできないでしょうし、僕の社会性が乏しく拙いというのが、そうなってしまった主因なんでしょうけれど、とにかく、「女の人には怒られる」というトラウマのようなものがあり、その後、女の友達ができても、この人もそのうち僕を怒るのだろうか?ビクビクしてしまっているところがあります。

 なので、そうは思わないで済む人とだけ友達をやっています(男でも女でも)。

 

 そういう経験で非常に辛くなってしまったので、女の人から男という役割を果たす態度を求められるということを、僕はとても苦手だなと思って避けているんですけど、一方で、そんな風に求められることを、むしろ嬉しく感じる人もいると思います。そういう人の場合、求める人と求められる人のマッチングが上手く行くので、それはそれで幸福なことだなと思います。

 

 つまり、そういう風に、他人に男らしさを求めることそのものが完全に悪いことだとは僕は思わないということです。ただ、僕はそこにおけるマッチング相手としてはダメなんですよね。そういうことを思っていたので、若い頃は早くおっさんになりたいと思っていました。そうすれば、そういう関係性の対象外になれると思ったからです。

 そして、今はおっさんなので、かなり楽になりました。

 

3. ステレオタイプな男像から降りる

 男だからこういう服装をしなければならないとか、男だからこういうものを好まないといけないとか、そういうステレオタイプな人物像というのはあると思います。そこから降りるということは、好きなようにするということですが、そのため、珍奇なものを見るような目で見られたりする可能性はあります。

 

 例えば、僕はパフェが好きなので、よくひとりでパフェを食べに行ったりするんですが、イマドキ別に、それで珍奇な目で見られるとかはありません。平然としていればいいわけです。

 僕自身も普段は別に気にしないのですが、それでも、混んでいる店におっさん一人で行ったときに、一人なのに順番の関係で4人席とかに座ってもそもそパフェを食べていると、まだ並んでいる人たちが、もしかしたら「おっさんが一人でパフェ食いに来て、4人席を占有してんじゃねえよ」と思われているのでは??と思ってしまって、ちょっと食べる速度が速くなってしまったりします。

 そこにはやっぱり、自分の中にふさわしいふさわしくないという感覚があるにはあって、ふさわしくないところでは、異分子としておとなしくしておこうとか、迷惑をかけないようにしようというような感覚があるんだろうなと自覚したりします。

 

 僕はあまり自分の好き嫌いを、「周りにどう思われるか?」ということに左右されないようにしようとしていて、それはそこそこできるようにはなっているのですが、でも結局やっぱり、他人と摩擦が生じる部分では、自分の姿や振る舞いは、自分が属する社会において適切か?というところからは完全に自由になれていません。

 学生の頃は、友達がよく変な服をくれたので、ブルースリー死亡遊戯で来ていた服とか、着ぐるみパジャマとかを着たり、プロレスラーのマスクをかぶって大学に行ったりしていたのですが(友達があきれるのが面白くて)、そういう場違いな服装をして夜中家に帰っていたりすると、職質にもよく遭いました。

 このように当たり前に合わせないということは、目立ってしまうということもあって、目立ってしまうと面倒なことも増えます。埋没するにはステレオタイプに合わせておいた方が楽という現実があるので、めんどうになるとステレオタイプになりますし、それがまたステレオタイプ感を強化してしまいます。

 

 僕自身そういうものに若い頃は縛られることが多かったのですが、これも歳をとるにつれて、ある程度恥知らずになってきたというか、気にならなくなってきました。若い頃の自分だったなら、映画や漫画を見てめちゃくちゃ泣いてしまうことは恥ずかしいことだと思っていたでしょうし、女児向けのアニメとかを見て、心からこれが好きだなと言うことはできなかったと思います。

 世間から見て、自分がどうであるか?というところからはまだ完全に自由にはなってはいません。でも、完全にまで自由になれなくてもいいかな(自由すぎると軋轢も増えるので)と思っているのですが、ただ自分が心から好きだと思えるものに関しては素直でいられることが増えたことで、かなり気持ちが楽になっています。

 周りに変に思われたくなくて、好きなものを好きと言えなかったり、好きではないものを好きであるとして振る舞わなければならなかったりすることがなくなってくるからです。

 

まとめ

 男らしさについて1も2も3も、完璧ではなくとも、僕はある程度降りることができていて、そして、それによって日々の生活はストレスの少ないものになっています。なので、良かったなあと思っているのですが、そこにある僕の姿は、「女児アニメを見ながら号泣している孤独な中年」だったりして、それでいいのか??というご意見もあるかもしれません。

 

 でも、それでいいのか?と、僕自身は思わないで済むような精神性を今の僕が持っていることが、日々感じるストレスが少なくなっていることと関係していると思います。だから、いいんですよ。僕がその方が生活が楽だと思って選択したことなのだから。

 でも、もし、そこに辛さを感じてしまうのであれば、これらの男らしさから降りることは、より多くの苦痛を感じてしまうことなのかもしれません。なので、安易に降りればいいと言えることではないのかもしれませんね。

 

 結局のところ、男らしさから降りることのメリットは、それによって自分の苦しさが軽減できるというところにあるはずです。なので、例えば、自分が他人より劣っていると感じると苦しいとか、異性に求められないと苦しいとか、変に目立ってしまって視線が苦しいとか、そういうことを苦しいと感じてしまうと、男らしさから降りても別の苦しさが立ち上がってきます。

 ただ、そう感じてしまうことそのものが苦しさの根源にあるのだとしたら、そこから抜け出られるといいですよね。でも、はいそうですかとそれがすぐにできるなら、人は苦しんだりはしません。

 

 ただ、全てはゼロかイチかの極端で決まるわけではなく、その間にグラデーションがあります。自分にとって何が重要で、何が重要でないかをちゃんと整理することで、何をどれだけやって何をどれだけやらないかが明確になってくれば、今感じている苦しさみたいなものは軽減できるかもしれません。

 そういう意味で男らしさについても、そこから降りる降りないは、複数ある長い梯子のどの部分に自分のちょうど良い足置き場を見つけるという話なのかもしれないなと思いました。おそらく、全ての梯子を完全に下まで降りることはほとんど不可能だと思うからです。

「ダンジョン飯」とキメラの寿命関連

 「ダンジョン飯」の10巻を読みました。ダンジョン飯は、妹を助けるために、モンスターを調理して食べながらダンジョンの深い階層に潜っていく漫画です。

 10巻の巻末に、本作におけるキメラの解説があったのですが、複数の獣やモンスターのパーツが合成されたキメラは、生きている生物として捉えたときに、その身体に多くの矛盾を抱える存在であるという示唆が面白かったです。また、これは本編の内容にも関わっています。

 

 例えば作中に登場する、人間の上半身とレッドドラゴンの首から下が合成されたキメラは、内臓として炎を吐くための器官があっても、口が人間のものであるために、炎を吐くために必要なパーツが揃わず、その内臓の持ち腐れになっています。

 もう少し現実的な例で言えば、仮に、頭が草食獣で身体が肉食獣のキメラがいた場合、頭が好んで食べる植物を十分に消化吸収する内臓がないため、十分な栄養を摂取することができないかもしれません。

 

 生物の肉体は、全体がシステムとして上手く調和して機能するように作られているものです。というより、上手く調和していないものは不利なので、生存競争に勝つことが難しいのではないでしょうか?

 しかし、キメラは、その身体で長い時間を生き延びてきたわけではなく、別々に生き延びてきた生物同士のパーツのみが組み合わされています。だからこそ、場合によっては、肉体に根本的な矛盾が生じ、長く生きることに向かないかもしれません。

 

 別の漫画でも似た問題を取り上げています。人間と動物の遺伝子が入り混じるようになった世界を舞台にした漫画、「螺旋じかけの海」には、動物由来の内臓を持つ人間が登場します。

 その別の動物由来の内臓は、人間のものよりも寿命が短く、つまり、人間と別の動物がその人生の歩みを合わせるのが難しいように、同じ人間でありながらも寿命が異なってしまいます。つまり、構造的な他人との別れが最初から存在していることを意味するわけです。

 

 この辺りの問題は、ダンジョン飯でも種族によって寿命が異なることの悲哀として描かれています。10巻に収録されている話では、全滅を避けるために、唯一蘇生術が使えるハーフエルフのマルシルを守るような戦いが繰り広げられます。一番寿命が長い種族であるマルシルには、自分以外の仲間が先に死んでいくことについてのどうしようもない別れの悩みがそもそもあるわけです。

 つまり、この戦いでは蘇生術で生き返らせられても、いずれ、寿命の問題で避けられない同じことが起こるということです。それを、マルシルは予習させられてしまうという悲しいお話です。

 

 さて、話を戻してキメラの話ですが、もう少し枠を広げて考えると、このダンジョン飯という漫画そのものを、ある種のキメラであると捉えることができると思います。

 それはつまり、「ゲーム等に登場するモンスター」と「実在の生物」という2つの、概念上のキメラです。

 ゲームに登場するモンスターには役割があります。それは、主人公の前に障害として立ちはだかり、倒され、経験と金銭を与えるという役割です。逆を言えば、それ以外の要素は別になくても存在が成り立つということです。それぞれのモンスターがどのように生まれ、どのような肉体と生態系の中で生き、そして主人公たちに倒される以外の理由で死んでいくのかは、最初から存在しなくても特に問題がありません。

 

 しかし、ダンジョン飯では、そのモンスターを調理するという都合上、実在性の高いものになっている必要があります。そこで、それぞれのモンスターがどのような体の構造で、どのように生きているか詳細に描かれます。そこには、実在の生物からの様々な引用によって補完されている部分も多々あります。

 そうでなければ、モンスターを食材として解体することができないからです。解体するためには、中身がなければなりません。そしてその中身の理屈は通っていなければいけません。

 

 こう考えると、キメラの寿命は短くなりがちということと、メタに繋がっているようにも思えます。本来モンスターは、生物としての辻褄が合わなくても存在しうる概念でした。しかし、生物然として存在してしまう以上、その大きな肉体を支えるために、日々どれだけの食料を摂取しなければならないかなどの理屈を必要としてしまう身体になってしまいます。

 理屈が存在すれば、その理屈を逆手に取れば弱点にもなります。つまり、食材としてモンスターを捉え直すことにより、そのモンスターが本来持っていたはずの、「辻褄が合わなくとも存在しうる」というある種の強さが棄損されてしまうとも考えられるのではないでしょうか?

 

 ここで思い出すのは、作者の過去の短編「竜の学校は山の上」です。この短編は、大学の竜学部を舞台にしており、現代日本に存在する竜がどのように取り扱われるかを描いた物語です。そこでは、竜を食用に使うなら家畜を食べた方が安くておいしいし、移動手段として使うにも効率が悪く、愛玩用にも向いていないという、竜という存在がいかに現代の日本に不要な存在であるかということが詳細に描かれます。

 そして意地悪なことに、そんな小さな辻褄を一掃するような雄大で力強い竜の飛行風景がが、その存在が必要であることを誇示するがごとく描かれます。竜は不要ということはどうしようもなく今の結論だけれでも、それでも、いつか必要になるかもしれない道を模索することを諦めないということで物語は終わって行きます。

 

 空想上の存在に実在的な肉付けをすることに非常に長けている作者であるからこそ、それが上手くできればできるほどに、本来持っていた強さを失わせてしまうかもしれないというジレンマが、そこにあることも描けるのかもしれません。

 

 よく考えられていないキメラならば、肉体の調和がとれていないので寿命が短くなります。でも、よく考えられたキメラならば、キメラであったとしても美しく調和がとれて寿命も長くなるのかもしれません。これは作中のモンスターの話で、ダンジョンという生態系の話で、この漫画そのものの話かもしれません。

 そう思うと、オタクにはそういうところに拘りがちな人も多い気もします。例えば、好きな漫画に矛盾を見つけても、それを上手く解釈することで、なんらかの辻褄を合わせて理解したいと思ってしまったりするじゃないですか。

 好きなものの寿命を延ばすために、上手く調和させる方法を考えてしまうことはある種のオタクの夢です。

 

 ダンジョン飯の物語の、終わりは近いのではないかと思いますが、この先に、調和のとれたキメラの姿や、必要とされる竜の物語など、これまでの短編でも描かれてきたことの、さらにその先が描かれたりするのかなということを期待してしまいます。

 続刊が楽しみだなと思います。

 

以下、関連です。

mgkkk.hatenablog.com

mgkkk.hatenablog.com

「ドラゴンクエストユアストーリー」とミルドラースと僕関連

 「ドラゴンクエストユアストーリー」は劇場で初日に観たんですけど、最後に分かる真相で、あー、なるほどーと思って、この状態でもう一回最初から観たら、自分はどう思うかな?と思いました。このたびNetflixで配信が始まったことで2回目を観ましたので、その話をします。

 

 この物語における真相とは、これが実はVRゲームの中の出来事であったということが分かるというものです。それについて僕が初見で思ったのは、ある種の納得と、なかなか上手い落としどころやんけという気持ちでした。

 何故かというと、この映画のモチーフになっているドラクエ5には、ビアンカとフローラのどちらを花嫁として選ぶかということが、プレイヤーに委ねられた物語上の重要な選択として存在するからです。つまり、これがドラクエ5の単純な映像化であった場合、ビアンカとフローラのどちらかが選択の正解として決められてしまうということになります。とはいえ、選ばれなかった方が間違いとなることは、これまでゲームを遊んできた人からすると嫌なことですし、そこをどのように取り扱うのかということが観る前から気になっていました。

 

 それがこれが実はVRゲームであることが分かることで上手く整理されたと感じました。つまり、ここにおける選択は、あくまで作中の一人のプレイヤーがそう思ったというだけで、それ以外のプレイヤーにはそれぞれの正しい選択があるということと矛盾しないということだからです。なので、これは上手い解法だなと思ったわけです。

 

 このギミックは、遊ぶのに数十時間かかるゲームを、2時間程度の映画に落とし込む上で上手い作りになっていて、つまり、そのまま映画に置き換えるなら長大になり過ぎてしまう物語を、時短として省略することも、体感型ゲームであるために短時間で終わるVRゲームとして調整されるという形で、作中の設定として織り込むことができるようになるからです。

 なので、確かにこういう構造にしたら色んな問題が解決して、ゲームを一本の映画に置き換えることができるなと思いました。上手く考えるなと思って感心したところでもあります。

 

 この映画は、記号的なもので構成されたスーパーファミコン時代のゲームと、現実世界の間を埋めるという試みでもあります。そこには、映像上も様々な面白い表現がありました。例えば、奴隷生活を送ってきた主人公とヘンリー王子に無精ひげが生えていることや、戦闘の中で汚れがついていったり、生傷が増えたりしていきます。それはゲームをプレイする中では、想像はできても実際には見ることのないタイプのもので、ドット絵からの解像度を挙げて行く上で、その間を埋めるものとしてのポジションにこの映画があるんだなと思いました。

 ドラクエの世界を、実在性の辻褄合わせを含んだCGで描き直すという上では、呪文の表現や、モンスターが倒されるときの崩壊してチリになる表現など、映像的な現代的解釈はかなり観たかったものが見えてよかったです。

 

 ゲーム的な都合からくるお約束と、それをそのまま映像化するなら不自然になってしまう矛盾は昔からツッコミどころとしてよくあり、それをどのように埋めるか?という解釈はずっと行われてきていて、その現代的な映像表現として高度に行われたものが見られたように思ったということです。

 

 なので、全般としてはなかなかよく作られていて観て良かったなとは思うんですが、やっぱり気になるのは最後の下りです。そこで展開される話については、イマイチ納得がいっていません。

 

 この物語の最後は、魔王ミルドラースのゲーム的立場を乗っ取ったコンピュータウィルスが登場します。そのウィルスは天才プログラマーが作ったもので、彼はこのようなVRゲームの存在が気に食わないそうです。外の世界のことを忘れている主人公に対して、これはゲームであると教え、こんなものは虚無であり、「大人になれ」と伝えてきます。

 そして、それに対して主人公は、「お前には分からないだろうが、ゲームは自分にとってのもうひとつの現実だ」と主張し、アンチウィルスソフトの力を借りて、ミルドラースを倒し、エンディングを迎えるのでした。

 

 僕がここで何が納得がいかないか分かりますか?僕はこれがVRゲームであることは面白く思っていて、それが明かされる下りも、映像表現を含めて面白いと思いました。そして、VRゲームに興じている大人に対して、こんなものは虚無だと伝えてくる天才プログラマーの存在も、別に大丈夫です。

 

 何が納得いかないかというと、主人公の主張に対してです。この主人公は屈託がなさすぎると感じてしまいました。どちらかというとミルドラースの方がずっと屈託があり、ミルドラースの話の方を聞きたい気持ちになってしまいました。つまり、僕自身が仲間だと思った側が、仲間だと思えなかった側に負けてしまったので、ウッソでしょっていう気持ちになってしまったのだと思います。

 

 ミルドラースの言うところの、「VRゲームは虚無であると気づいて大人になれ」という主張は、作中に手がかりがないので実際のところは分かりませんが、「VRゲームに興味がない」というよりは、「以前はとても興味があって、ずぶずぶに遊んでいたのに、それをある日無意味だと気づいてしまった」と考える方が自分の中ではしっくりきます。なぜなら、ただなんとなく嫌いだからするというには、やっていることに手間がかかり過ぎるように思えるからです。

 自分がそれを虚無だと思うに至ってしまったがゆえに、それをまだ屈託なく遊べる人に対する怒りの感情や、そんなものは虚無であると知らしめたいという願望が出てくるという理路ならば、個人的な納得感があるように思います。

 

 そのような葛藤は、ゲームが大好きな僕自身についてもあることで、ゲームの存在が良いものだと簡単に言い切って本当に言っていいのか?という気持ちはどうしたってある程度はあるわけです。なぜなら、ゲームは楽しいので、ついゲームをやってしまいますが、そのせいで、他のやるべきことをおろそかにしてしまう経験があるからです。本来やるべき様々なことをやらずにゲームをやってしまっていたとき、ゲームそのものには罪はなくとも、他にやらないといけないことがあるのにゲームをやってしまった…という罪悪感が残ります。

 ゲームはやってしまうが、自分の不作為がゲームのせいになってしまうのはよくない。ゲームが悪く言われないためにも、ゲームとの適切な距離感を保っていこうという気持ちがあるので、ゲームをすることは無条件でいいことだよという主張を屈託なくすることができません。

 

 僕がそういう葛藤を抱えている一方で、主人公側は、ゲームを虚無だと言ってしまうミルドラースが、そもそも昔は好きであった可能性などは一切考えません。自分の分かっているものを、きっと相手は分かっていないに違いない、感じたこともないのだろうと即座に決めつけています。

 そして、自分の中で大切な思い出の一部で、「もうひとつの現実」であると主張するわけですが、その言葉を口にするには、ゲームを始めるときの下りが軽薄過ぎるように感じてしまって、「お前、どの程度の覚悟があって、それを言い切れるんや?ノリで調子のええこと言うとるんやないぞ?」みたいな気持ちにもなってしまいました。そこに葛藤はないのか?と思うからです。

 

 つまり、僕は主人公を自分にとっての外部者だと思ってしまったのだと思います。なので、知らん人の知らん話を見てしまったということを最後に思ったのだと思いました。知らない人の結婚式の生い立ちビデオを見てしまったような気持ちです。それをユアストーリーと言われてもな??と思いましたが、一方で、これを目の前に置かれることで、自分にとってのドラクエとは?みたいな気持ちがむくむく出てきてしまいました。

 人間は他人への反発が発生するとき、自分の立ち位置を強く認識しやすくなったりするからだと思います。まあ、それこそがユアストーリーだったのだよと言われたら、なんやと??と思ってしまうとは思いますが。

 

 色々思ったのですが、総論としては面白かったし見てよかったです。それは例えば、人間の孤独を歌うバンドの曲に強く共感して、ひとりでライブに行ってみたものの、周囲には友達と来てワイワイしている人の方が多数なのだ…と思ってしまうときのような気持ちです(これは実体験)。

 自分以外にも、これを好きな人はいて、それは決して自分ではないのだなと思ってしまうという認識があって、まあ、それはきっと正しいと思うんですよね。自分と何かの作品の関係性は、1対1ですが、世の中にはその無数の1対1が存在しています。

 だから、これは僕の話じゃないんだなと思ったということがとても面白かったです。そして、そんな他人がいることを否定できる権利は自分にはないだろうとも思います。世の中はそういうものです。

 

 結局、僕はどちらかというとミルドラースに興味がしんしんで、彼を作った天才プログラマーは、なぜそこまでVRゲームの世界を憎むようになったのかがとても気になったままです。あのゲームの中は、決まった動作をするだけのプログラムではなく、プレイヤーからのインタラクションに合わせて、自分を書き換えていくような機能があるように思えました。

 作中でのフローラの動きも、主人公がゲームを始めるときに最初にした設定を無視させるようなものであったり、マーサはゲームがゲームとして繰り返されていることや、ゲームの外の様子も少なからず理解していたように思えました。それはつまり、ゲームの中の人々には、ひょっとして自由意思として理解できるもの、あるいは、その種になるものが存在しているのでは?と思えたということです。

 

 人間は根源的には他人のことが分かりません。分かるのは相互のコミュニケーションの界面となるものだけで、自分と相手が触れ合ったときの響きから、その中身を類推しているに過ぎません。機械に対して自分と同じような内面を持っているのではないかと感じてしまうこともあるでしょうし、適切なリアクションを返さない相手の内面は、無いものと認識してしまったりもするでしょう。

 天才プログラマーは、VRゲームのキャラクターたちに内面を感じるほどにハマりこんでしまったものの、それらはやっぱり作られたものでしかないという限界を感じたのかもしれません。であれば、おじさんそこもうちょっと聞きたいな!というような気持ちにもなります。

 

 ドラゴンクエストユアストーリーには、2があって欲しい気持ちになってきました。そこは、最初からVRゲームの世界だと分かっていて、その中には、人間と同じように思えるか思えないかが曖昧な登場人物が存在します。ゲームの中のその存在を、虚構として捉えるのか現実として捉えるのかに悩んでしまう人が、今度は主人公であってほしいと思ってしまいます。

 

 僕自身にはゲームの中で起こったことが、十分自分自身の思い出と言っていいものになっているものが多々あります。だからこそ、虚構と現実の差について、切実な人の話も観たいなと思ってしまいました。

 

 結論としては、映画は面白く見たけど、主人公よりミルドラースの方が好きかもしれない。もし、2があるならミルドラース側?の人の話が観たい気がする!というものです。

SNSで疲れないやり方関連

 僕はTwitterがかなり好きで、ちょっと時間が空くと見ていることが多いのですが、でも、他人と交流するためにはほぼ使っていません。いや、むしろ、他人とあんまり交流をしなくて済むのでSNSでもTwitterだけが好きだと思える気もします。

 

 この前、Twitter疲れみたいな話を人としていて、そのとき僕が、「Twitterで疲れないコツはリプライをしないことですよ」ということを言ったら、他の人たちが、「でたよ…」みたいなリアクションだったので、僕がそのように振る舞っていることが既に理解されていたようでよかったです。

 僕は他人に対して直接話しかけることがほぼなく、話しかけられても返事をしたりしなかったりで、返事をした場合でもそっけなかったり、相手の言うことと微妙にずらした返事をしてしまったりします。それは意図的というか、もうちょっと厳密に言うと、「やらない」んじゃなくて「できない」という領域に近くて、他人とコミュニケーションの歩調を合わせることに、ものすごくエネルギーを使ってしまうので、使わないようにしなければならないという制約を抱えています。

 もし、話し込むぐらいにリプライの応酬をすることを義務付けられたとしたら、僕はTwitterに書く頻度は今の10分の1以下になると思います。なぜなら使えるエネルギーがなくなるから。つまり、SNSに疲れてしまうんだと思うんですよね。

 

 じゃあ、なんでエネルギーを消耗してしまうかというと、別に会話相手が嫌いなわけではないというか、普通に好きだったりもするんですけど、でも、その場合余計に、「ちゃんと返さないとな」という気持ちになり、「適切な返答とは何か?」ということを考え始めてしまったりします。

 「自分が書いた文章を相手が読んだらどう思うか?」と考えて、なおかつ、相手にも同じように考えさせてしまったら、もし忙しいとしたら迷惑がかかるのでは?もし、別のことしているからとタイムリーに返事できないと、向こうは返答に困っていると考えるかもしれない。特に存在もしていない裏を読まれたら嫌だな。早く返信できるようになんかするのはやめて待つか…。

 などという色んな想いが頭を巡ったあと、「今適当に返した方がよい」。あるいは、「返事をしない」という結論になります。あえて粗雑にすることで、それで頭がいっぱいになり、何もできなくなることを回避しています。

 

 他のケースでは、不用意にバズってしまったときに色んなコメントをもらったときにも同様に返せないのですが、それはそもそも別に向こうもちゃんとした返事を求めて話しかけてくれてるわけでもないだろうなと思うということと(そうでなかったらごめんなさい)、バズること自体は別にいいんですけど、その反応を見ることが苦手なので、早々とミュートにして通知が来ないようにしてしまうためです。

 でも、おかげで無視をするなと追加で怒られることもあり、怒られてしまうと、こちらも嫌な気分になるので、余計に全ての反応を見たくなくなってきます。

 他人との交流をしたくなくなってきます。

 

 このへんは感覚的なところなので、分かるって言ってくれる人と、全然分からないと言う人がいます。

 頑張って例えてみると、一人で狭い部屋にいるとします。狭いとはいえ、物がなければ寝転がったり飛び跳ねたりし放題ですが、物がたくさん増えてくると窮屈になります。例えば、机の上にコーヒーのなみなみと入ったカップがあったら、うっかり手が当たってこぼさないように気を使う必要があるでしょう。

 このようなことが、僕の場合は他人とのコミュニケーションでも起こります。自分の心の中に他人を入れて考えないといけない状況は、一人でいるのであれば使わなくてもいい気を、どうしても使ってしまいます。

 これは、気を使わせる他人が悪いと感じているわけではありません。他人がいると、どうしても僕が気を使いたくなってしまうわけです。僕がそういう性質の人間なのでどうしようもないという話です。そうして勝手に、自分が動いたら周りはどうなるかな?周りに変な影響を与えないようにコントロールするために、動き方をちょっと変えた方がいいかな?ということをぐるぐる自分の中でループでフィードバックしていくうちに、考え続けて行動には至らず、ずっと動かないままで時間が過ぎてしまったりします。

 

 それなら、何も気にせず動いた方がいいなと思ってしまったのが今の状態です。そのために、楽な状態でいたいなら、他人が自分の思考の中に入ってくることを、仕組みとして排除しなければなりません。

 話しかけたり、話しかけられたりするのは、自分の中と外に他人を出し入れする行為に他ならないため、それをやらないことで疲れないように心がけるわけです。

 

 じゃあ、コミュニケーションしたくなければ「手元のメモ帳にでも書いとけや」という話もあると思うんですが、違うんですよ。僕はTwitterで人が話しているのを読むのは好きだし、それを見て思ったこととかを書くのも好きなんですよ。疲れるのは直接的な交流だけです。

 

 なので、目にした話題に関しては何かを書くんですけど、ただし、そこからコミュニケーション性を排除しているので、誰の何について話しているかの文脈は消失していることも多く、なんでこの人は急にそんな話を始めたんだ?と思われているかもしれません。ただその代わり、それが誰かの何かについての話だとは分からなくても、意味が分かる文にしておくことでバランスを保つみたいなところはしています。

 

 僕のこのような使い方は、別にそれほど特殊ということもないと思っていて、僕はこれと近い感じの人と繋がっていることが多いです。それによって、うっすらとした繋がりが存在するものの、それぞれを独り言を言っているだけという空間が目の前に広がっているということがあって、僕にはそれがとても住み良く感じています。

 なので、僕がフォローしている人とは特に直接リプライのやり取りをしないままに何年も経過したりしますが、じゃあ、仲良くなる気はないのか?と言われると、この状態が、この距離感で仲良いと思っている感じなんですよね。

 そこから関係性をより近くすることに特段の意味を感じないというか。でも、何年もそういう状態で過ごしたあとで、別の場所(コミティアとか)で初めて話したことで、やりとりを始めるなんてこともあります。

 

 一方で、時間を区切ったりするとこのようなことはできないわけではないので、イベントで人に会ったり、通話をしたりするときには上記とはまた別の行動ができます。Twitterは、一日中見ることができるので、一日中はそういうことができないという話です。

 

 SNSで疲れてしまう場合、その人の許容できる以上に他人とのやり取りをし過ぎてしまっているのでは?と思っていて、それなら単純な話、他人とのやり取りを薄くするのが一番簡単な解決方法だと思います。なので、僕はそういうことをしていますが、人によってはそれを奇妙に感じることもあるようです。

 対人コミュニケーションについて、「あまり量をこなすことができない」という人はいて、例えば僕がそうですし、結構そういう人はいるような気がします。それでも、こういう使い方ならTwitterは楽しく使えるので、よかったなと思い、もっと人とやり取りをしないといけないSNSだと難しいなと思っています。

 

 言いたいのは、僕はTwitterとかでは反応が悪いですが、別にそれは話しかけてくれた人が嫌いとか嫌な気持ちになっているわけじゃないよということで、でも、そうなってしまうか使うのをやめてしまうかしか、今の僕にはないので仕方ないんだよなあということです。

少年漫画の兄ポジションの不遇と生存戦略関連

 昨日、日本のRPGビデオゲームで、恒常的な仲間として主人公の兄がいるケースが少ないという話を読みました。確かに、思い返してみればパッと出てくるものがなく、何故なのかを考えてみたのですが、おそらく兄というポジションは主人公と同じ立場で年長であるために、上位互換になってしまうからだと思います。

 つまり、主人公が一番強くなる上では、乗り越えないといけない存在となってしまうために、「常に身近にいられるとよくない」のではないかと思いました。

 

 そういうことを考えてから、漫画のことも考えてみたのですが、少年漫画でも主人公の兄やあるいは兄弟子などの存在(以下は面倒なので血縁に限らず全てポジション概念として、兄と呼称します)は、あまり良い立場ではないかもしれないなと思いました。理由はゲームの場合と同じで、主人公を最高の男に成長させる上で、邪魔だからです。

 なので、物語に登場する兄は、例えば、主人公よりもすごい才能を持っていたものの、敵側に寝返ってしまい、倒すことで、上位互換であったはずの存在を乗り越えるとともに、人間的成長を遂げるための糧とされてしまいがちなのではないでしょうか?

 

 そういえば直近では「鬼滅の刃」でも、善逸の兄弟子がそのような存在でしたね(善逸は主人公ではないですが)。他には「ロトの紋章」の剣王サーヴァイン(キラも主人公ではないな)や、「グラップラー刃牙」のジャックハンマー(寝返ったわけではないですが)、「北斗の拳」のラオウ(これも寝返ったわけではないですね)など、あるいは、「うしおととら」の秋葉流(上位互換ではないかも!)など、微妙に条件に合わないように思えて、なんとなくそういう感じに都合よく解釈できそうな存在を、僕の記憶から便利にピックアップすることができます。あ、「彼岸島」の篤は、かなり条件に合う気がしますね。他には「将太の寿司」では佐治や、鳳寿司の親方の兄弟子なんかも、主人公を引き立てるための糧にされてしまった気がします。

 他にも事例は大量に思い浮かんでいますが、キリがないので省略します。

 このようなタイプの兄は主人公の成長のための起爆剤や、マイルストーンとして消費されてしまいます。

 

 一方で、主人公の身近に魅力的で強い兄のような存在がいることは、主人公以上に魅力的に映ってしまうために、主人公の魅力を描く上では邪魔になってしまったりもするわけです。「からくりサーカス」では、そんな理由もあってか、物語は勝から鳴海を引き剥がし、鳴海のいない中で成長する勝の姿が描かれました。

 魅力的な兄は、主人公が将来なるはずの場所として存在し、そのポジションを空けるために死んでしまうことも多いです(鳴海は生きていますが勝と再び会うことがなく物語が進む)。

 

 死んでしまった兄は、主人公の理想を担いつつも、もう決して届かないポジションとして、物語上は存在し続けたりします。「修羅の門」では、主人公の九十九は、天才であった兄、冬弥を修行の中で自らの手で殺してしまいます。冬弥はその性格から修羅にはなり得なかった男ですが、九十九の心の中には、自分よりもずっと天才だった冬弥の姿が刻み込まれています。

 「シュート」の久保先輩は、主人公のトシを導くような存在でしたが、病気で命を落としてしまい、ラオウのように死後に理想的存在としていっそうの神格化が進んでいきました。

 

 このように、主人公の兄ポジションには、物語という化け物の食欲から逃れることができず、その牙から逃れて、幸福に生きていくことが難しいように思いました。

 そんな恐ろしい物語を目の前にして、兄がどうやれば生きていくことができるのかを書こうと思います。

 

 兄がその牙から逃れる構造的な方法のひとつが「学校」という概念です。学校の何が助かるかというと「卒業」が存在するということです。主人公の成長に合わせて卒業できることで、上位互換としての立場があったとしても、その座をスムーズに明け渡すことができるようになります(シュートの久保はそれでも間に合わず、逃れることはできませんでしたが)。

 例えば「弱虫ペダル」の3年生たちは、上手く格や命を失わされることなく、物語の中心から外れることができました。そればかりか、スピンオフでは主役を張れるという好待遇です。

 

 学校もそうですが、つまり、主人公と同じ土俵に上がらないということが生きていく上では重要なのではないかと思います。「はじめの一歩」の鷹村は、主人公の一歩とボクシングの階級が違うので、直接戦う必要がありません。常に強く主人公の目の前に存在していても、それが主人公の成長の邪魔になるわけではないので生きていけるわけです。

 

 同じ土俵に上がらないということは、そもそも主人公が身を投じている戦いに参加しない存在であったり(頭脳ポジションで後方支援役になるなど)、特異な能力があってピンポイントでのみ活躍する存在であったり、あるいは、体が弱くて長時間戦うことができないことが、むしろメインのポジションをはずせる理由となり、物語の登場人物としては寿命を伸ばす可能性もあります(北斗の拳のトキですね、結局最後は死にますが、人間は皆いずれ死ぬので)。

 

 そして、同じ土俵に上がったとしても格も命も失わない方法を使っている人物として印象的なのが「ダイの大冒険」のヒュンケルと、「聖闘士星矢」の一輝です。この2人は共通点が多く、例えば、主人公たちよりも年長のポジションであり、最初、敵として登場しつつも、その後、付かず離れずの味方になるという共通点があります。そして、ピンチになると、どこからともなく現れ、主人公たちを助け、それによって大ダメージを負ったり、これは死んだか?と思わせて死んでおらず、ピンチになると、再びどこからともなく現れます。

 この最初にイニシエーションとしての敗北を受けた上で、強く魅力的な味方のポジションを確保し、とはいえ、常に一緒に行動するわけではなく(一緒に行動すると邪魔ポイントが貯まって死の可能性が高まる)、ここぞというところにだけ登場するという行動は、そういう観点から見ると、命と格のマネジメントがとても上手だなと思ってしまいました。

 この2人の存在パターンに似通っている部分があるのは、少年漫画の中で命と格を守りつつ、兄として戦いに身を投じ続けるための生存戦略の結果のように感じたという話です。

 

 そう考えれば、「鬼滅の刃」の富岡義勇も、主人公と常に行動をともにしていなかったからこそ生き残れたとも言えると思います。代わりに煉獄杏寿郎が兄の立場の一部を担って死んでしまいました。

 

 兄が物語の中で、いかに生きようとしたという謎の見方をすると、色んな物語が別の見え方がしてくると思います。北斗の拳でジャギが言った「兄よりすぐれた弟なぞ存在しねえ」という台詞は、そんな不遇になりやすい兄が、物語の中でせめても生きようとした叫びのようにも聞こえてきました(幻聴)。

 

 最後に、これまで出てこなかった、主人公とその兄ポジションが最後まで一緒に戦い続けられた例としては「フルアヘッドココ」があると思います。主人公のココは、海賊バーツの船に乗り込みますが、そのままの関係性で2人は戦い続けることができるのです。

 それができた理由は、ココの方が、戦いの中心人物というより、特殊な力を持つ存在として、微妙に同じ土俵に乗らなかったということがあると思います。そして、バーツとココは十分に歳が離れていることも、兄だけでなく親子的な関係性があることとして作用してくれたのかもしれません。

 そして、近年始まった続編の「フルアヘッドココ ゼルヴァンス」ではココは成長し、バーツと対等に戦うことができる存在に成長しました。こうなってしまった以上、ココとバーツの関係性は今までのままでいることはできないかもしれません。海賊スイートマドンナのクレイジーバーツは、今後どのように物語の中で生きていくことができるのか?

 ドキドキしながら見守ることにしようと思います。

「BEASTARS」と加害性の苦しさと平等関連

 チャンピオンで連載していた「BEASTARS」が完結し、最終巻も今月出ました。よい物語だったなと思ったのでその話をします。

 

(免責:この文章には物語の核心部分のネタバレが含まれます)

 

 BEASTARSは様々な動物が人間のように生活をしている世界を舞台にした漫画です。この物語の主軸部分は、肉食動物と草食動物が同じ社会を営むということによって社会に発生するトラブルです。主要な登場人物は、主人公であるオオカミのレゴシ、かつて社会の裏側で食べ物として売られる運命にあったシカのルイ、レゴシと恋愛関係になるウサギのハルです。

 この物語を大きく2つに分けると前半の学園編と、後半の社会編になると思います。前半では、ヒグマのリズが肉食側の象徴として登場し、後半ではヒョウとガゼルのハーフであるメロンが肉食と草食の狭間に存在する社会の矛盾の象徴として登場します。

 

 この物語は、学園の中でアルパカのテムが何者かに喰い殺されたところから始まります(このような事件を食殺事件と作中では呼称)。加害者はその後も何食わぬ顔で学園生活を送っており、一見日常の平和な生活は薄氷の上のもので、その下には暗く広い水底が広がっていることを思わせます。

 肉食動物も草食動物もこの社会において、同等の権利と尊厳を有した平等な存在です。しかしながら、その根底には喰う者と喰われる者という不平等な関係性があり、社会はそれを覆い隠すベールを必要としているように見えました。

 

 そんな中でリズが起こした食殺事件の真相が描かれました。そこで描かれたことの驚いた部分は、「クマは体が大きく力が強いため、その筋肉の発達を抑える薬の服用を義務付けられている」ということです。この物語の世界では、様々な動物が存在するため、その筋力的な力に現実の人間社会以上に極端な差が存在しています。じゃれているぐらいのつもりが、例えばうっかり同級生の腕をもいでしまうほどの事故を引き起こす可能性もあるのです。

 だから、安全性の確保のために極端に強い力を持つ種族は、事故を避けるために薬の服用を求められました。もしかするとかつて、そのような事故が多発したことがあるのかもしれません。それは当たり前のこととして社会では受け入れられています。

 

 しかし、たまたま力が強く生まれてしまったために、その個性を無くすための薬の服用を求められることは、果たして本当に平等でしょうか?しかしながら、そのような不公平感はきっと、「現に沢山事故が起きているじゃないか?」という事実の前では大きな力は持てないのではないかと思います。

 クマ以外ではゾウもまた心を病みがちであることを知らされます。自分の体が大きくて強いために、必然的に自分の一挙手一投足が外部に与える影響を意識し続けなければならないからです。

 

 生来の肉体の持つ不平等さが、現実の世界の世界よりもより一層強調されているこの物語の世界の中では、平等であるということを達成するために、凸凹を均すための様々な、ときに残酷とも思える施策が行われているのでした。

 

 力が強く生まれてしまったがために、自分があるがままでいられないという苦しみを抱えていたリズは、テムにかけられた何気ない一言に影響を受けてしまいました。体が大きくて優しいクマさんという雰囲気の裏にあり、決して表に出してはならないと社会に求められたリズの暴力性に、テムが気づいたと感じたからです。

 リズの中では、これが「気づいてくれた」として機能してしまいます。社会の誰からも、あることを認めてはならないものとして、存在することすら認めて貰えなかったものとして存在する自身の暴力性を、テムだけが気づいてしまいました。そして、リズはその気づいてしまったものをもはや無視することができなくなってしまいます。

 そして、その先にあったのは悲劇でした。

 

 BEASTARSの物語の特徴的なところは、このような生来の特徴を、加害性として社会に忌避されている存在を、明確に描いたことではないかと思います。そこで起こった事件を悲劇は悲劇、犯した者の罪は罪として描きながらも、その背後にある、加害性として、自身が生まれ持った特性を抑圧された状態で生きることの苦しさもまた描くんだなと読んでいて思いました。

 

 もう一点、生まれ持ったの加害性の象徴として描かれているのは、コモドオオトカゲのゴーシャだと思います。コモドオオトカゲは口の中に毒管があるため、その唾液が常に、他人を傷つける可能性がある状態で生活をしています。彼は自分の存在が、同族以外を傷つけることに非常にセンシティブです。彼にとって、それは生まれながらのもので、どうしようもないものですが、それでも、自分が気遣いなく好き勝手に振る舞えば、それによって誰かが死んでしまうかもしれないという中で生きてきました。

 ゴーシャとトキの間に生まれた娘は、後にレゴシを生み、レゴシもそんなゴーシャの側面を受け継いでいるようにも思えます。

 

 そんな彼が、異種族であるオオカミと結婚をしたことは、驚くことでした。しかし、ゴーシャは同じ空間で生活する中で、自分の妻であるトキを自分の毒で傷付けてしまわないかを朝から晩まで気にしてしまいます。しかしながら、トキがとった行動は特異なものでした。トキがなぜそうまでしたのかを、僕は明確に理解することはできませんでしたが、彼女はゴーシャに自分との生活の中で、ゴーシャが生まれてからずっと気にし続けてきた、「毒という他者へのどうしようもない加害性」を、ついに忘れさせることに成功します。

 そして、その成功は、自分がその毒で死ぬという結果をもたらしてしまいました。

 

 トキはきっとやり遂げたのだと思います。自分の死の瞬間、やってのけたと思ったのででしょう。そして、そうなってしまったことが、その後もたらすことについて、何を思っていたのかは分かりませんでした。

 

 自分の中に他人を傷つけてしまう部分が備わっていることもまは、とても苦しいことかもしれません。肉食動物は、草食動物と社会をやっていく上で、それを隠すことにしました。大人は誰もが裏市の存在をしています。裏市では、死んだ草食動物の肉が売り買いされ、ときに生きている草食動物も肉として売り買いされます。

 肉食側の「喰いたくなってしまう」という気持ちは、そのような形で秘密裡に解消され、裏市の存在を知らないものとして振る舞うことによって、ギリギリ成り立っている薄氷の上に作られた社会です。

 

 この物語の中で描かれたことは、「反社会的な欲望がここにある」ということは認めることだと思います。そして、その欲望を持ってしまうことが、何も暴力的だと蔑まれることだけではなく、ときに「それを抱えてしまう人間の苦しさでもある」ということだということです。

 ある肉食動物は、裏市を初めて見てしまった草食動物に対して、それが存在するという恥ずかしさから、こんなものを見せていいはずがないと店を壊そうとします。それは存在しているものだが、だからといって見せたくなんてなかった、見られたくなかったという心です。

 

 ここにあるのは、肉食動物はどうしても草食動物に対する食欲を消すことはできないが、それでも草食動物と上手く社会をやっていきたいという願いがあるということでしょう。その「願いがある」ということがきっと希望です。仮に頭の中に反社会的な欲望が渦巻いいていたとしても、それを実行せずに一生を終える人は、やはり善人なのではないかと僕は思うからです。

 仮に反社会的なことを心の裏側で望んでいたとしても、同時にそれによって誰かを傷つけたくなんてないという希望があれば、それで人は社会はやっていけるのではないでしょうか?

 

 そして、それはその狭間における事件が全く起こらないということを意味しません。事件はきっとどこかで起こります。事件は起こり得るということを踏まえた上でやっていくのだというところが、強い物語だなと思いました。

 

 メロンは草食動物であるガゼルと肉食動物であるヒョウの間に生まれた子供です。彼は幼い頃からずっとストレスの中で生活してきました。仮に表面上は平等を謳っていても、その陰には、歴然とした違いがあることが認識される社会があります。子供というのは、その上にかけて覆い隠すベールが大人よりもずっと薄いものです。肉食でも草食でもない彼には居場所がありません。

 そして、彼は自分の母が、きっと父を食べたのだろうと確信しています。母が自分を見て父を思い出すのは、父の味を思い出しているのだろうと想像してしまいます。学校にメロンの居場所はありませんでした。そして、家庭もまたメロンの逃げ場ではありません。

 

 そのストレスの中で、彼の生き方は歪んでしまいます。

 

 社会が暗黙のうちに分断されているために、彼には居場所がありません。社会の歪みによって道を外してしまった哀れな人、というところならば居場所ができるかもしれません。でも、きっとメロンはそれを拒否するんじゃないかと思います。カテゴライズに上手く当てはまるか当てはまらないかということこそが、彼を傷つけてきたものであるからと思うからです。

 

 実際のところ、社会はほどよく分断されていた方が生活はしやすいことも多いはずです。異なる条件で生きていかざるを得ない人同士が同じ場所にいることは難しいことです。そうだった方がいいよねという気持ちだけで達成できるような簡単な話ではないのではないでしょうか?

 だから、似通った人たちだけで集まり、軋轢を最小化した上で、他の種類の人たちとは、交流用に作った窓口でだけやりとりをするということは、ある程度実績のある方法のはずです。例えば、国と国も似たようなものかもれしれません。

 でもそれは、人と人は綺麗に何らかのカテゴリーに分けられるはずだということを暗黙の前提としています。そして、その分けられたカテゴリーに属することに、人が負荷を感じることもあるはずです。

 

 そこから目を逸らさないのであれば、きっと、「多様な人々が、どうすれば一緒の社会を作っていけるか」という問題に取り組む必要があるはずです。

 

 そしてそれは、何らかの意味で強い立場にいるものが、その強さを社会からの要請によって抑え込むということだけでは達成できないのではないでしょうか?他人の加害性を押さえつけるその力は、社会からその人への新たな暴力性と捉えることもできるからです。

 

 レゴシは現在のビースター(動物社会の指導的立場にいる人)であるウマのヤフヤの前に立つにあたり、自らの牙を引っこ抜きました。そうすることで、レゴシは自分が肉食動物であるというくびきから自由になり、草食動物であるヤフヤと対等な立場となると思ったからです。

 生まれながらに持っているものなのに、それを否定することでようやくまともに話すことができるというレゴシの考えは、覚悟は感じられてもとても悲しものです。レゴシは優しい男です。それは誰よりも自分の加害性に気を遣ってきたゴーシャの孫であることも関係しているかもしれません。

 結果的に言えば、このレゴシの行動は、物語の中で正解としては描かれていないと思います。しいて言うなら半分だけ正解です。そこには、肉食動物側から草食動物といるためにはどうすればいいかの悩みだけしかないからです。それはきっと不完全な話で、草食動物側から肉食動物といるためにはどうすればいいかという悩みも、やはり存在していなければならないのではないでしょうか?つまり、残りの半分は、草食動物がただの虐げられる弱者としての立場しかとらないことが、本当に正しいのか?という疑問です。

 

 この物語は、レゴシとハルの恋愛をもって集結します。ハルはレゴシにプロポーズをし、そして即座に離婚することを提案します。それがハルにとってのレゴシと対等になるための方法だからです。

 捕食される者としての立場を自覚して生きてきたハルは、誰とでもすぐに性的関係になる女でした。それは、それが彼女にとっての数少ない武器だったからです。生物としての力関係は明確にあっても、男と女として接するときには対等の関係になります。奪われる者ではなく、与える者としての立場もそこにはあるからです。

 

 ハルがレゴシに対して提示するのは、レゴシが何もかもひとりで我慢し、自分のために様々なことを諦めることで向こうから対等になろうとする姿勢への不満です。ハルはレゴシと対等の存在になりたかったわけです。自分が弱い者でしかなく、周りの我慢によってようやく目線が合わせられることに我慢がならなかったわけです。それはきっと、ハルの感じるところの平等ではないからです。

 

 自分の生得的な強さに悩むオオカミと、自分の生得的な弱さに悩むウサギは、それぞれが互いに対等であろうとするために行動します。つまり、2人の関係性はここからが始まりです。全く性質の違う人同士が、寄り添って生きていくということは簡単な話ではないからです。

 全てが解決することでよかった話ではなく、自分たちの戦いはこれから始まり、終わりなく戦い続けるというゴングのような物語でした。

 

 最後に、ルイはかつて幼い頃、裏市で売られ、肉食動物に食べられるのを待つばかりでした。しかし、財閥の後継者として養子として引き取られ、裏市を巻き込んだ様々な出来事の結果、ルイは肉食動物たちとの仲間としての関係性を持つことができる男になりました。メロンの引き起こした事件を通じて、ルイとレゴシの友情は、肉食と草食のビースターズとして、人の目に触れることになります。でも、それで社会の問題が解決するわけではありません。

 でも、それを示すことが、そして、この先も戦い続けていくことこそが、彼らの辿り着いた道だと思うわけです。

 

 BEASTARSの世界は、現実の社会以上に多様性に満ちています。そして、そんな多様な人々が同じ社会を平等な権利と尊厳を持った存在としてやっていくということは、容易なことではありません。そこには軋轢があり、その隙間の苦しさがあり、登場人物たちの多くは、その矛盾の中で答えを探そうともがいています。

 そこにひとつの分かりやすい答えなんてないのかもしれません。ヤフヤは海の生物からの、魚肉ならば提供できるという提案を断りました。陸の者たちは、そのような答えではなく、悩み続け、関係性を続けるということを選ぶべきだと思ったからです。

 

 なので、この物語が、草食動物であるハルの強さと、肉食動物であるレゴシの優しさをもって締められたことは、とてもよかったなと思いました。

 その互いに対等であることを求め続ける心こそが、その先に繋がるものかもしれないと思わせてくれたからです。