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「ミッドサマー」を見ていて思ったローカルとグローバル関連

 「ミッドサマー」を見ました。スウェーデンの人里離れた集落で、独自のルールで生きている人たちと、そこに招かれた人々の間で起きる文化的摩擦とその解消、みたいな内容なのですが、すげえ面白かったです。この映画では、集落の外のルールからすると残酷な行為を、集落の中だけでは風習として当たり前として繰り返しているみたいな部分が文化的摩擦となる部分です。

 しかしながら、積極的に伝えてはいないものの、その文化そのものは特に隠してないんですよね。集落の寝床の壁に描かれている絵などに、これから起こることがだいたい描かれているので、え、これがこの先起こるんかよ…と思ってビビッてしまい、そして起こるみたいな映画でした。

 

 ルールというものは、プログラミングにおける変数と似ているなと思うことがあります。変数というのは、計算した結果の値などが格納される名前のことで、変数にはローカル変数とグローバル変数があります。ローカル変数とは、ひとつのプログラムの中だけで通用する変数で、別のプログラムからは直接参照することができません。一方で、グローバル変数は、複数のプログラムから参照することができるという違いがあります。

 ここで厄介なのは、ローカル変数とグローバル変数には同じ名前をつけることができるということです。その場合、プログラムは通常ローカル変数の方を参照して、同じ名前のグローバル変数は参照しないという動きになります。

 平易に書いたつもりですが、分かるか分からないか、それともそんなこと知ってると思うのは皆さん次第ですが、僕はこれが世間一般のルールの取り扱いと似ていると思っていて、つまり言いたいことは、似たようなものを取り扱うルールがあったとき、自分が属する社会集団の中で一番内側のローカルなルールが優先されるということです。

 

 例えば、日本の一般的なカレーの具にちくわは入りませんが、ある家庭の中でちくわを入れるのが当たり前ならば、その家庭のローカルルールではカレーとはちくわが入った食べ物になります。あるいは、万引きはいけないことですが、親が万引きを推奨している家族であれば、子供にとって万引きはやってもいいことになります。世間一般では悪いことになっていることでも、ある集団の中に入れば、それが当たり前に行われているなんてことはよくあり、それはつまりグローバルルールよりもローカルルールに従って人は動くということです(もちろん例外的な人はいます)。

 

 その状態を解消する方法は、集団の中に入ってローカルルールを変えるか、集団の外からローカルルールをグローバルルールに合わせるように圧力をかけるか、あるいはその社会集団自体を解体することです。

 

 そのどれもができず、なおかつその集団からも抜け出る方法がないとき、人は仮にそれにどんなに疑問を持っていたとしても、ローカルルールを受け入れるはめになってしまいます。

 

 これはローカルルールで動いている人たちは恐ろしいねという話ではありません。なぜなら、あらゆることがそうであり、自分たちもまたそうであるという話だからです。何らかの集団に属することになったとき、そこにあるローカルルールを守る必要が出てきます。例えば労働基準法違反が常態化している会社に就職したとしてもそうなりますし、引っ越しした先の地域や、結婚相手によってもそうなるものだと思います。集団で共有されているローカルルールに違反すると、それがその外では問題ないことであったとしても罰則が発生するかもしれませんし、そのような罰を与えたいと思う側に自分たちがなることだってあるはずです。

 例えばオタク集団の中でも、「二次創作の可否について公式に問い合わせるのはご法度」みたいなルールが出てくることがあります。それを問い合わせることは、世間一般のルールでは何の問題もないはずです。しかしながら、一部のオタクの中ではそれは「悪いこと」となっているのではないでしょうか?問い合わせをしてしまう人をルール違反だと糾弾したくなったりはしないでしょうか?そのオタクの人たちの中ではそういうルールが生じた経緯があり、それを守ることによる利害的な良い結果もあるのでしょう。なので、集団の内部であれば、それがご法度なのは当たり前とも思えることかもしれません。ただし、その集団の外にいる人からすれば、特に守るべきルールとはみなされないかもしれません。

 それはあくまでローカルルールでしかないからです。

 

 このようなそれぞれの人が抱えているルール同士の齟齬からくる摩擦は、多かれ少なかれ現実によくあることなので、物語の中にもよく登場します。好きな漫画で言えば、牛型の宇宙人に人型の宇宙人が食べられることが喜びという文化のある「ミノタウロスの皿」や、夜這いの風習が残り続けている村に都会の少年が訪れる「花園メリーゴーランド」、コールドスリープから目覚めると一度終焉を迎えた文明がまた新たに始まりつつあった「望郷太郎」、姑が支配者として君臨する地域に他所から嫁いできた嫁の話の「かんかん橋をわたって」、人喰いの風習が密かに残る山村を舞台にした「ガンニバル」、「マイホームヒーロー」の過去編では宗教によって支配される山奥の集落の話をいままさにしています。そして「寄生獣」です。そこでは、人間を喰い殺すことを目的として生まれた寄生生物と人間との文化摩擦が描かれます。

 

 「きみは悪くなんかない…でも…ごめんよ…」は今まで読んできた漫画の中でも屈指に好きな台詞です。

 

 これは寄生獣の主人公、泉新一くんが後藤にとどめをさすときに出てきた言葉です。後藤はその名の響きの通り5体の寄生生物が寄り集まり、人を喰い殺す本能の権化となった存在です。この言葉はつまり、寄生生物側にもルールがあり、後藤はそのローカルルールに過適応する形で従っているだけなのだということを新一くんが理解したということです。そして、同じく自分を含めた人間も人間のルールに従っているだけです。

 神の視点にグローバルルールがあるとした場合、そのどちらかが悪いわけではありません。仮に人間のローカルルール側からは悪く見えたとしても、それが寄生生物の生き方である以上、仕方がないことです。寄生生物の本能は人間にとって悪だから、お前たちは人間の都合のために死ねと言うことは正しいでしょうか?それをもし、自分たちが別の存在から言われたときに正しいと思えるでしょうか?だから、悪くなんかないわけですよ。でも、新一くんは後藤にとどめを刺します。それが人間のローカルルールだから。後藤を生き伸びさせることは人間にとって害であるのだから。それはあくまで人間の勝手な都合でわがままでしかないということを背負う決断をするわけです。

 

 これは互いに共存共栄するルールを持ちえることができなかったということについて、とても誠実な認識で行動なのではないかと思っています。自分たちのルールはただのローカルルールであり、それをグローバルルールとしてすり替えて認識することを拒絶したわけですから。

 とはいえ、寄生生物たちはその後ローカルルールを変更し、あまりおおっぴらに人を喰うことがなくなっていくことが示唆されて物語は終わります。

 

 自分たちとは異なるローカルルールを持つ集団に対して、どれほどのことを言っていいのだろうか?ということについては、未だ明確な答えを持っていません。自分の感覚では明らかに人権を蹂躙する許せないものだようなものだと思ったとしても、別のローカルルールで生活している人たちからしてみれば、それが最適解であり、それを単純に崩しただけでは別の悲劇が起こる可能性もあります。

 これは例えば採集を食料を得る主な手段として生活している集団では、一定の地域に住む人数が多くなりすぎると資源が枯渇するリスクがあり、口減らしをする合理的な理由が生まれてしまう状況などを想定しています。

 

 そして人はローカルルールに固執してしまうものでしょう。自分たちだってきっとそうです。共同体の外部者から彼らのルールで「お前たちは間違っている」と言われたところで、それを「じゃあ変えます」と簡単には受け入れられないことの方が多いのではないでしょうか?

 だから法律というグローバルルールがあったとしても、それに反するローカルルールとの揉め事が起こってしまうのだろうなと思っています。

 

 そして、法律も実はグローバルではなくローカルかもしれません。日本の法律はあくまで日本でのみ通用するものだからです。日本の法律では犯罪でも、海外であれば犯罪にならないかもしれません。大麻の使用が認められている国がある一方で、日本では犯罪であるとき、大麻の使用の是非については国と国のローカルルールの話になります。

 日本のローカルルールで裁かれたくないと、外国に逃亡した人もいました。

 

 全ての人が共有できるグローバルルールというものはあるのでしょうか?それがあるということを信じ、少しずつ世界に広められてきているのが近代化の流れなのかもしれません。しかしながら、それは同時に、その流れに乗りたくない、自分たちのローカルだけでやっていて何が悪い?と思ってしまう人たちの姿も明らかにしています。

 

 同じルールを誰かと共有するということは簡単な話ではないわけですよ。その過程で発生する無数のルール同士の摩擦を乗り越えた先にもしかすると達成できるかもという期待があるだけのことだと思います。

 

 「ミッドサマー」を見ていて思ったことは、これは特殊なルールを持つ人たちの中に入っていく普通のルールを持つ人たちの話という認識でいいのかな?と思うということで、実は特殊なルールを持つのは自分たちの側もそうなのではないかということです。

 

 例えば、若干曖昧に書きますが、とてもとても危険なことがあったとして、でもそれをしないと世の中が回らないだろうという事情からその危険なことが横行していたとします。それがおかしいということは何回も指摘されていたものの、でも、それをしないと世の中が回らないだろうと言われて何も変わらないということがあります。しかしながら、その結果、人死にが出てしまったときにいきなりルールが変わったりします。これは概念的に言えば人柱と同じことだなと常々思っていて、人が死ぬという行為を通過しなければ、何かを変えることができず、何かを変えるために人が死ぬことを願ってしまう人も出てくることでしょう。

 これは残酷なことではないでしょうか?その残酷さを自分たちのせいではないと様々な理由付けをしながら、社会の中に取り込んで気づかないふりをしていることだってあるわけです。果たして、我々は正常なのだろうか?と疑問を抱えてしまったりすることがあります。

 

 世の中には無数のローカルルールがあります。そして、それは共有すべきグローバルルールに反していても、今なお存在し続けているのを目にします。いつしか、ローカルとグローバルの齟齬が問題なく解消できる日が来るのかもしれませんが、少なくとも今はまだローカルとグローバルも、ローカルと別のローカルも、バチバチに文化的摩擦を起こしまくっており、それが特にインターネットでは日々見えています。

 自分もまた当然ローカルを抱えています。例えばネットでした発言や、描いた漫画などが、別の誰かの抱えるルールに違反していることもあるでしょう。それに対して、非難を受けるかもしれません。そこで、相手との関係性を保ちたいことから自分のルールを修正することもあるかもしれません。あるいは、「きみは悪くなんかない…でも…ごめんよ…」と思ってしまうこともあるかもしれません。

 

 とにかく色んなことを思いました。