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「けだもののように」と最初から複雑化している社会のルールについて

 「けだもののように」は比古地朔弥の漫画で、ヨリ子という少女を巡る物語です(「学園編」「東京編」「完結編」の3冊があり、買うことができると言います)。

 彼女は多くの人間が持っている人間社会で生きていくための常識を獲得せずに育った少女で、それゆえに彼女の周りでは様々なトラブルが起こります。とりわけ目立つのは、彼女が自身の性に関して、他の人たちのように秘匿すべきものとして考えていないということでしょう。

 彼女は誰とでも性行為に及びますし、それを大したことだと思っていません。ただ、彼女は、男たちはそれを喜ぶんだなと思っているぐらいです。

 

 僕が思うに、「社会」とは「同じルールを共有した人の集まり」のことです。なので、異なるルールを持った人とは社会を作ることができません。ただし実際には、固定化されたルールがあるとは限らず、人と人との間で、何を共有するべきかというやり取りがされることも多いです。誰かの作ったルールに従うか、自分の作ったルールに従わせるか、その中間で適切なルールを考えて守ることにするか、方法は数あれ、同じルールを守ることが社会では求められます。

 そこで共有されるルールは社会によって異なります。「今」「ここ」で共有されているルールは、「過去や未来」「どこか別の場所」であったなら共有できないものかもしれません。そこに何か絶対的な守るべきルールがあるとは限らないわけです。たまたま今のここがそういうルールで動いていているというだけで、それに合わせることができない人はその社会から爪弾きとなり、場合によっては刑務所に入れられて隔離されてしまったりもします。

 

 ヨリ子は、奔放な母と暮らした日々の中で、現代の多くの日本人が抱えているルールとは異なるものに寄り添って生きてきました。幼い娘を連れたままで体を売るようにして生きてきた母は、性を狭く秘匿すべきものとして教えず、広く開いて多くの人々に分け与えるものであるかのようにヨリ子に伝えます。そんな母を失ったあとのヨリ子は、母と同じように生きようとしました。幼いながらに、性的な関係を他人と持つことを良いことだと考えて生きるのです。それが他人と仲良くするための手段だと。そして、それは世間の常識からはかけ離れている認識です。

 

 彼女には寄り添うべき社会がありません。人と同じ姿をしているにも関わらず、社会の隙間に生きているけだもののような存在です。彼女の社会との接点は、概ねその間に入る男によってもたらされ、そして、その男との関係においては性は切り離せないものとなっています。

 もし、彼女が男であったのなら、そのような生き方をしたでしょうか?そこには男女の非対称性があります。今ここでは秘匿されるべきと考えられている性を、自由に分け与えるように振る舞う女性という存在の特異性が、本来居場所のないはずの社会の中に、男との間に別の小さく特別な社会を作ることで、生きることができるようになっています。

 つまり、ヨリ子は、大きな社会に属することができない人間でありながら、別の小さな社会に属することで生きていくことになるわけです。それは見ようによっては不幸と言えるかもしれません。男の庇護の下でなければ生きる手段がないとも解釈することができるからです。しかし、ヨリ子自身はそうは思っていないように思えます。彼女はただ、生きるということを選択しているに過ぎないからです。

 

 食べるものがあって、寝る場所がある、それだけが彼女にとっての生きることの意味です。それがどのような手段によってもたらされるかは重要なことではないわけです。「間に男を挟まなければ社会に居場所を獲得できないという不幸」というものも、こちら側の目線でしかありません。

 

 一方、人々がヨリ子に見いだすのは性ばかりではありません。自分たちを押しつぶすような息苦しいルールに、彼女が全く寄り添わずに生きているという、その自由さに憧れる気持ちもあるわけです。社会に生きるためには、その社会の要求するルールに沿わなければなりません。それがどれだけ苦しいことであったとしても、そのルールを受け入れることこそが、社会に属するための手段であることも多いからです。

 社会から飛び出して、孤独なけだもののように強く生きることができない人々は、ヨリ子の姿に、自分では決して到達できない光を見いだしてしまいます。

 

 ヨリ子には理解できません。なぜ温かい布団を得るために、窓ガラスを壊して他人の家に入り込んではいけないのか。なぜ、まだ食べれるものなのにゴミ箱に捨てられたものは口にしてはいけないのか。なぜ誰かが育てている野菜を、勝手に食べてはいけないのか。なぜ生きるために、毎日働かなくてはならないのか。なぜ求められるままに男と体を重ねることがよくないことなのか。彼女にはそれが理解できませんが、ある少年と生きる中で、その無理解の摩擦を感じるようになったことが、彼女を疲弊させ始めます。

 人はなぜけだもののように生きてはならないのでしょうか?

 

 しかしながら、彼女が最後にした選択は、けだもののようであった自分を放棄することです。ただし、それは社会のルールを押し付けられたわけではなく、自分がよりよく生きていくための手段が「人間として生きる」ということだと辿り着いたのだと思います。「人であることを求められた」わけではなく、「人になりたい」と思ったこと、それはもしかすると彼女がそれまで持っていた神秘性を失わせるものかもしれませんが、人がなぜ人になったかの歴史の再現でもあるのかもしれません。

 だから、彼女は「けだもののように生きてきた」ことで、「誰よりも正面から向き合って、人間として生きるということを獲得した」のではないかと思えました。

 

 世の中にはたくさんの何故があります。何故そうしてはいけないのか、何故そうしなければならないのか、その明確な答えは得られないままに、それを守ることが求められることもあります。もしかすると、明確な答えなんて存在しないものもあるのかもしれません。もしかすると、立場によって違う答えもあるのかもしれません。

 ただ、あらゆるものを「そんなもんだ」とただ受け入れてきた先に、なんだかよく分からない雁字搦めになっていることだってあるじゃないですか。

 

 上手くやっていくために作られたはずの様々なルールが、それをただ信じることによって複雑化されていくということは、世の中では本当によくあることです。例えば、仕事上で求められるセキュリティ対策だってそうでしょう?その中には、おおよそ意味があるとも思えないルールを守らざるを得なくなっていたりします。長く運用されているシステムが、場当たり的な拡張の繰り返しの結果、もはや正確な仕様も分からないお化けになってしまっていることにだって何度も遭遇したことがあります。

 なぜそうなのかは分からないのに、それを使うしかない以上、それを守ることになっているなんてことがあります。それは、世の中で自然に起こってしまうことだとでも思うしかないかもしれません。

 

 今は結構いい世の中になってきていると思うんですよ。それは人間が長年社会をやってきた中で、上手くやっていくためのルールが整備され、増えてきたからだと思います。そして、その一方では、そのルールが理由も理解できないままに増えてしまったことに窮屈さを覚えてしまう人だっているのでしょう。

 だからといって、人はけだもののようには生きられません。人は社会を作って生きるしかないと思うからです。ただその中では、それをただ受け入れるのではなく、ヨリ子のように、迷いながらも、人間を獲得するという過程が実は必要なのかもしれません。答えは最初から示されているのに、それを理解するにはひどく大回りをしてしまうということ。それは、僕自身のこれまでを振り返ってもあることだなと思います。

 

 人の歴史は長く、それに比べて人生は短い。それでも、その中でよりよく生きる道を選び取るためには、一度けだものの視点からやりなおして、自ら人間になるということが必要なのかもしれません。