1時間ぐらい前に「レディプレイヤー1」を観たので、感想を書きます。
「バーチャルリアリティ」という言葉は日本では「仮想現実」と訳されますが、これは誤訳とは言わないまでも不適切ではないかという話があって、バーチャルという言葉を辞書で引いてみると「事実上の」とか「実質上の」というような訳語が出て来ます。
つまり、日本語におけるバーチャルは「あるようでない」ですが、英語におけるバーチャルは「ないようである」というような意味なのでニュアンスが異なります。
この訳し方の違いが日米でのバーチャリリアリティの受け取り方に差を生んでいるというような話を聞いたことがあるのですが、レディプレイヤー1を観る限り、それはあるのかもしれないですけど、そんなに大した差ではなくて、アメリカでもバーチャルリアリティは現実ではないのに、それにのめり込んでしまう人間に対する危惧という日本と変わらぬ認識が全然あるんだなと思いました。
レディプレイヤー1は、「OASIS」という仮想現実空間をプラットフォームとして、様々なゲームをやれるようになった近未来のお話で、人々はときに現実の生活をおろそかにしつつゲームにのめり込んだりしています。
この状況をさらにややこしくするのはOASISを作り上げた人物、ハリデーの遺言です。ハリデーはゲームの中に3つのイースターエッグを埋め込み、それを全て手に入れた人物にOASISの所有権を譲渡すると言ったのです。OASISの資産価値は天文学的な数字であり、人々は宝探しのために、よりいっそうゲームにのめり込んでしまうのでした。
この映画を観ていて、なんだか大変満たされた気分になっていたのですが、それは、この映画の中にたくさんの「好き」が詰め込まれているからじゃないかと思います。この映画の中には多数の実在のキャラクターやアイテムが借用されて登場し、それらはおそらくはユーザがOASIS上で使うために自分で作ったり誰かに作ってもらったりしたものでしょう。なぜ、そんなことをするかといえば、そのキャラクターやアイテムが好きだからでしょう。
それが後半に物量でおしよせてくる場面があります。これは未来の話ですから、僕が知っているようなキャラクターたちは作中の彼ら彼女らにとってとても古いものでしょう。しかしながら、それをなお愛して手間ひまかけて作ってまで使いたいと思う人たちがいるというあの状況が、とてもいいなと思ったわけです。
この物語は虚構と現実の境目のまたぎ方についても描いているように思いました。ハリデーがOASISを作ったのは、社会が苦手だったからだと語られます。だから、他人と触れ合わなくてもいいゲームの世界に耽溺していたのだと。それはとてもよくわかる話です。なぜなら僕もまた同じような人間だからです。
しかしながら、自分の死期を悟ったハリデーは少し考えを変えます。それが彼がOASISに仕込んだイースターエッグであり、彼がそのとき何を思ったのかが、ゲームの中で語られるわけです。
それはつまり、リアルとリアリティの話です。僕たちが生きるこの世界はリアル(現実)で、ゲームの中はアンリアル(虚構)です。ではリアリティ(現実感)とは何かと言えば、それはどちらもそうなのだというわけです。リアルの中にもアンリアルの中にもリアリティはあり、大事なのはそれが現実なのか虚構ではなく、そこにリアリティがあるかどうかだというわけです。
これは個人的にとても得心がいく話で、大切なのがリアリティだとするならば、虚構も現実も同じです。虚構というのは現実の代替ではなく地続きであって、その中で生きて来た作中の人々も、同じように生きて来た僕も、そしてゲームを一切せずに生きて来たような人々も、同じリアリティの中で生きているということです。
現実に生きる中で虚構が無意味と言えないように、虚構で生きていたとしても現実は無意味とは言えません。虚構があれば現実は要らないのではなく、現実があれば虚構が要らないのではなく、どちらも同じリアリティの中の話であって、その両方を生きることをしているのだなと思いました。
とはいえ、映画の中の人たちはゲームでも立派にコミュニケーションしているように思えて、ネットゲームを向こうに人がいるという事実に辛くなってしまって続けられないような自分のような人間はどうすればいいのか…と思ってしまうということもあります。
そういえば昔、友達に誘われてウルティマオンラインを始めたとき、友達に導かれるままに高価な装備を融通してもらい、他のプレイヤーを狩ったりしてなんとなくやっていたら、友達の友達に、「君はよくない人のせいでよくないプレイをしている」と諭されたことがあり、ああ、少年兵とかってこんな感じなのかなとか思って、その後、なんか辛くなってやめてしまったりしたこととかがありましたね。
あと、僕といえば漫画ばっかり読んでいて、他の人たちがちゃんと人付き合いして社会に参入しているときに、ひとりで物語の世界に潜り続けて育ってきたわけじゃないですか。これが悪いのかというと悪いのかもなと思っていましたが、前述の考え方で言えば、これでもちゃんとリアリティの中で生きて来たようにも思うんですよ。
僕は漫画もコミュニケーションの一形態だと思っていて、描いている人は、何らかを他人に伝えようと思ってそれを描いているわけでしょう。それは、言葉で直接やりとりするのと比べれば回りくどくてややこしいのかもしれませんが、本質的には言葉を交わすことと漫画を読むことにはあまり差がないのではないかと思っていて、そういうリアルタイム性も単純な双方向性もない、ゆるやかなコミュニケーションをすることが、自分にとっては大切だったんだなとか思うわけですよ。そこにもリアリティはあったと思うからです。
そして、ゆるやかながらも社会に参画するようにもなり、自分自身の経験が増えてくると、描かれていたのに読み取れていなかったものにも気づけるようになってきます。
このように現実と虚構は補完関係にもあるという感覚は個人的にすごくあって、現実があるから虚構はいらないとか、虚構があるから現実はいらないとかは極端な考えであって、両方とも地続きで同じリアリティのあるものという中で生きて来たんだなと思ったりします。そして、この映画はそんな人が数多くいるということを示してくれているようにも思えて、それがすげえよかったような気がしました。