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華倫変漫画の何がすごいと僕が感じているのか関連

 今大阪の画廊モモモグラにて華倫変没後20年追悼原画展が開催されています。僕は華倫変先生の漫画が好きなのでゴールデンウイークに大阪まで行ってきました。

www.momomogura.com

 

 行って本当に良かったです。亡くなってから20年経っており、原画は処分されていてもおかしくなかったのですが、それを見つけてきた(そして現在の権利元との話をまとめてきた)人たちがおり、その人たちが原画展を実現してくれました。

 

 これによって「原画がある」ということは周知されたので、もしかすると今後も、別の誰かが華倫変原画展を開催したいとなればできるようになるかもしれません。なので、東京での開催も誰かがやろうと思い、そのための労力を払えば実現できるかもしれません。
 しかしながら、少なくとも今現在ではその労力を払ってまで筋を通して実現した人たちが大阪にだけいて、だから今原画を見たければ大阪に行くしかないという状況です。

 

 原画からは紙面に掲載された情報以上のものが読み取れます。どのような筆致であったかのより詳細な情報や、描き直しの跡などからこだわりの部分も読み取れます。それによって僕は特に絵に対するこだわりの部分に色々新しく感じることがありました。

 華倫変先生にとって、絵は手段であって、仕方なく描いていたようになんとなく勝手に思い込んでいたのですが(失礼なことに)、僕が思っていた以上に絵にこだわりがあり、自分の描きたいもののために努力をしていた痕跡があったのが、認識を改めるポイントのひとつでした。

 

 さて、華倫変漫画の何が他と違うのか?という部分についての僕の認識を描きます。

 

 大きな部分では、「物語構造の特殊さ」と「にもかかわらずの読後感の良さ」です。
全てではないですが、多くの作品に背後に共通するテーマ性があるとするならば、「変えられないことへの目線」ではないかと僕は思っていて、最初と最後で主人公の置かれた場所は特に変わらないとか、どうしようもない流れがどうしようもなくなっていく流れは変えられない、というように描かれがちです。

 その過程にはドラマもありますが、人一人の力は大きな流れを変えられるようなものではなく、その変えられない中で生きて行く姿が淡々と描かれていきます。

 

 日本に定住したい外国の少女と書類上の夫婦としての一年を過ごす「スウィートハネムーン」はその分かりやすい一例です。

 もともと何もなかった男が、少女との生活に期待はして、でもそれは別に期待したようなものではなく、それでも生活の中で何かの関係性を築けたような気がする瞬間があり、ただし、結局は約束通りの期日に挨拶もなく少女はいなくなります。

 もともと何もなかった男の話で、少しの期待をしてしまったような瞬間があったために、その関係性が残した結果は喪失だけでしたが、別に世の中はそのようなものだとしてお話は終わっていきます。

 

 「桶の女」は可哀想な女の子が、より可哀想な状況になるお話です。出来事だけを要約するなら、桶の中で身体を売っていた女の子が客から病気をうつされて死に向かっていくという話です。

 それはただただ可哀想な話のように思えて、でも、そこにあるのは悲惨さだけではなく、その現状を受け入れ、わずかながらにも肯定する意志があります。

 

 それらのお話にはどうしようもないものに向かう中で、どうしようもないものには勝つことは結局できないけれど、でもそんな人生をやっていくしかないということ、その中にも良いことだってあったじゃないか、見つけられるじゃないかという目線があります。そこでそのまま生きていく諦念の隣に、したたかさを感じることができます。

 

 ギョッとするようなむちゃくちゃな話が展開される一方で、そこにある謎の人間のしたたかさ、この世界に絶望してしまって単純に歩みを止めるわけではなく、そんな中を仕方なくゆっくりでも歩いていく雰囲気が、物語の読後感の良さとなっていて不思議な話たちだなと思います。

 

 以前、若い漫画家や漫画家志望者の中で華倫変漫画が好まれて読まれているという話を聞いたことがあります(若い漫画家さんから)。それがどれほどに一般的に言えることかは分かりませんが、それはなんとなく分かる気がしていて、華倫変漫画は、よくある漫画のセオリーをことごとく無視して、それでいて面白く作られているという部分に、作っている人だからこそ、その自由さを感じ取ってしまうのではないでしょうか?

 

 例えば「モノローグが多い」「登場人物の好感度が低い」「問題を別に解決しない」「最後の1ページで言葉を重ねて急に終わる」などの要素は、一般的にアドバイスを求めるなら、できるだけしない方がいいと言われそうな部分ですが、華倫変漫画はそれがあるからこそ面白いと感じられます。

 物語では「登場人物が分かり合える」ことが素晴らしいことだと描かれがちだと思いますが、華倫変漫画の中では、分かり合えない人間が最後まで分かり合えないままでお話が終わったりします。

 でも、それが面白いんですよね。

 

 華倫変漫画の中には他者がいて、その他者への目線がそのまま描かれているように思います。僕がお話を作るときなどは、登場人物が全員自分ということも多く、自分の中にある考えを切り出して登場人物に仕立てたり、自分の中にある葛藤をそれぞれ別の人に割り当てることで、自分の内面を人の会話に置き換えたりをしています。

 作者の内面を置き換えて描く物語にあるのは最終的には分かり合える、つまり何らかの結論が出るということなのですが、実際の生活では他者とは分かり合えないことも多いです。自分であれば離れることはできませんが、他者であれば離れてしまえばよかったりするからです。

 

 華倫変漫画には実在するモデルのいる三好一郎というキャラクターが何度も出てくるのですが、それが象徴するように思っていて、自分には理解のできないが、その人なりの考えがある人間が存在し、その中で特に分かり合えないがそれぞれ生きていることが描かれること、そしてそれを決してただ悪いこととして描かないことが良いなと思います。

 なぜなら人生というものはそういうものだと感じているからです。

 

 また分かり合えないということは、相手のあるがままの姿を尊重する姿勢とも言えるかもしれません。そういう意味では、新興宗教に入信した女性を描いた「とかく現世はくだらなすぎる」は、一般的には否定されうる立場の人間が、その立場で自分を肯定し続ける様子が描かれました。

 

 華倫変漫画で切り取られる人の人生は、確かにあると感じられるものの、あまり物語にされないようなものを含んでいると思います。

 自力で目の前の現実を変える物語にリアリティを感じられなかったり、他者といつかは分かり合えることにリアリティを感じなかったり、物語上でポジティブに描かれることに、「でもそんなの嘘じゃん」って思ってしまう人にとっては、そこへの目線があるということがよりどころに成りうるのではないでしょうか?

 そんな物語を華倫変漫画は描いているように見えて、それが良いところと僕は感じています。

 

 ちなみに僕が一番好きな一編は「映研」です。もしくは「バナナとアヒル」。