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インターネットの嘘情報との付き合い方関連

 インターネットには無数の嘘情報があります(ほんとの情報もあります)。それらを完璧に見分ける方法はあるでしょうか?僕の現時点の結論としては「ない」です。インターネットの情報をインターネットを見ているだけで本当か嘘か見分けるための確実な方法はありません。もちろん手掛かりはありますが、それをもって確実に断言できるかどうかはあやしいことが多いです。

 

 なぜなら、どう見てもあり得なさそうなことでも、まれに起こることはあり得るからです。そして、過去に嘘をつきまくってきた人でも、本当のことを言うことだってあるでしょう。もし例えば、その情報の中に細かな矛盾が存在することが分かっても、人間の語りには往々にして勘違いが含まれることがあるので、それだけで起こったこと全てが事実でないと断じることもできません。

 インターネットで目にした情報が、正しいとか間違っているとか言い切るには、インターネット以外を含めて手間暇をかけてちゃんと調べないと判断できないことです。いや、ちゃんと調べたところで結局分からない部分が残ることだって多々あります。だって事実関係を争う裁判でも、本当のことは確実には分からなかったりすることが多々あるじゃないですか。

 

 そして、そもそも事実とは何か?ということを考える必要もあると思います。これはとても重要な話で、なぜなら、何かの出来事があった場合、出来事自体は同じでも、それを見た人によって多面的な解釈が存在し得るからです。

 例えば、笑った人がいたとして、その笑いの持つ意味の解釈は、その様子を見た人によって変化してしまう可能性があります。ある人が笑ったのが誰かを嘲笑するための笑いであったのか、むしろ自嘲的な笑いであったのか、あるいは深い意味のない反射的な笑いであったのかどうかは、他人の内心が見えない以上、正確に判断することは困難です。いや、もしかすると、笑った自分自身ですらその意味は正確には分からないかもしれません。なので、彼が笑ったのは悪意ゆえだと感じる人もいるかもしれませんし、自信のなさゆえだと感じる人もいるかもしれません。もしくは、周囲が笑ったので、反射的に合わせて笑っただけだと感じる人もいるかもしれないのです。事実は笑ったということだけで、それがどのような意味をもつのかは語り手によって好きなように解釈され、それが事実に成り代わって流通してしまうこともしばしばです。

 僕の経験で言えば、小学生の頃、世話になっていた曾祖母がなくなったことで泣きはらし、泣いてばかりは格好悪いと次の日は精一杯の作り笑顔で学校に行って、曾祖母が亡くなった話を口にしたら、担任の先生に人の死を笑いながら言うとは何事だとめちゃくちゃ怒られたことがあります。内心のことなんてめったに伝わることではないですし、当時の担任にとってみれば、僕は人の生死の価値も全く理解しない愚かな子供のように見えたのでしょう。

 

 事実には大体解釈が付きまといます。それらは明確に区別されず、ごちゃまぜの情報として発信されてしまいがちなものではないでしょうか?ならば、事実を伝えたつもりの言葉であったとしても、そこには嘘と呼べるものが少しは混ざってしまうのかもしれません。

 

 さて、何かの情報が事実であるか事実でないかを見分けることは難しいことだという話をしました。ひとつ目の理由のそれを判断するために十分な情報が簡単に手に入るとは限らないというもので、もうひとつの理由は事実というものが多面的な解釈が可能なものであるために、そのひとつを知ったところで全てを語ることは難しいというものです。

 

 しかし、そもそもの話として、インターネットで日々目にするような情報を都度都度嘘と本当に見分ける必要はあるのでしょうか?嘘と本当の2つにばっさりと切り分けなければならないという思い込むことが、むしろ拙速な間違った選択に繋がってしまうことがあると僕は感じています。

 「本当だという証拠もないが、嘘だという証拠もない」、それぐらいの曖昧な状態にとどめたままで頭の中に置いておくことができれば、多くの場合、それはそれでいいような気もしていて、なぜなら、インターネットで日々目にするようなことは、自分の生活には直接関係ないことが多いからです。

 早く答えを出さないといけないという気持ちが強いと、判断に十分な材料が出そろったり、調べたりするまえに本当か嘘かという判断をしなければならなくなります。でも、判断に十分な材料がそろっていないのだから間違ってしまうことも多くなるでしょう。その即時の態度表明はそのリスクを背負ってまでやらないといけないことでしょうか?(もちろん、やらないといけない緊急性を抱えた場合もあるとは思いますが)

 

 インターネットで新しい情報にいち早く反応して、何らかの結論を出すというゲームに参加すること自体が、間違った情報を世の中に蔓延させるための一助になりやすいのではないかと僕は感じていて、なので、大体の場合は、即座に反応はせずにまずはぼちぼち調べたり、続報を待ったりするようにしています。

 

 ただし、本当か嘘か分からない情報が無数に流れてくるような状態で、それを無視ばかりもできず、根気よく調べるほどの労力もかけたくないというのはわかる話です。うっとうしいし、面倒くさいからです。なのでそこには、僕が個人的に持っている指針もあります。

 

 それは、「もしそれが嘘だった場合、誰かに不利益を与える可能性があるか」を考えることです。

 

 例えば、ある人が悪い人であるという情報を得たとして、その悪いと聞いた人を言葉の暴力や物理的な暴力で殴ったとします。その後、それが嘘情報だったと分かった場合に、間違いで殴ったという事実は撤回できるものでしょうか?殴られた側からすれば、謝られたところでそのとき殴られた痛みは消えません。代わりに自分を殴れとか言われたとしても、殴り返したところで別に自分が殴られた痛みは消えないわけです。つまり、取り返しはつかないという話です。

 そのような可能性がある以上、悪い人だと聞いただけで殴ることはあまり良くないのではないでしょうか?(ちなみに本当に悪い人だったとしても殴っていいわけでもない)

 間違いで殴った人は、正義の人として行動したつもりが、結果として悪い人になってしまうという意図と真逆のことになってしまいます。それは困ったことですから、その間違った情報を伝えた人が悪いとか、本当に悪かったなら先手を打たなければならなかったとか、その他色々な理由をつけて、自分が殴ったことは悪いことではないという理由付けをする場合もあります。

 でも、そもそも殴るなって話ですよ。その殴る理由が正しい情報かどうかの判断もつかないうちに。

 

 また、センセーショナルな嘘情報はすぐに周知されてもその訂正情報は嘘情報ほどには周知されにくいために、嘘が嘘と知られないままに流通し続けてしまうという問題があります。さらには、いかにそれが嘘だと周知されたとしても、「いや実は嘘じゃないんじゃないの?」と疑い続ける人も出てきます(疑うことそれ自体は悪いわけではないですが)。何かを発信してしまうということは多くの場合、発信しなかった場合にまで完全に戻すことはできません。

 であるならば、自分が発信した情報は、それが他の人から聞いたものを転送しただけだったとしても、発信は発信としてその責任はつきまとうでしょう?

 

 自分がその情報を信じて何かを言うときや何かを行動するとき、その言ったことや行動することの責任をとらなければならないという意識があります。それが些細なことであればいいですが、誰かを強く傷つける可能性があったりすると、気後れが生じます。それをしていいほどに、その情報は信用できるものなのかと考える必要があるのではないかと感じています。

 それがしたくないのならば、自分はシェアしただけで責任はないと主張する人になるか、なんらかの方法で正当化し、よく目にする「謝らない人」になってしまうのではないでしょうか?

 

 間違ってしまうことはあるわけですよ。ただし、そこに反省がないのであれば、何度も同じ間違いをし続けてしまうでしょう。その間違いで殴られている人たちは、同じ仕組みで殴られ続けてしまったりするわけですよ。

 それがなんかしんどいなと思うので、自分は何かの情報を目にしたとしても、不用意に誰かに当たりがある発言はしないように心掛け、ある程度情報が出そろうまでは、ただ動向を見守るような感じになってしまう感じにやっています。