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ロールプレイングゲームとしてのドラクエ雑感

 ドラクエ11をクリアしました。すごくよかったです。感想を具体的に書くとネタバレの話になってしまいそうなので、今はまだその時ではないなと思っており(身近にもまだクリアしていない人がたくさんいる)、それはまた今度にします。今回はドラクエ11を遊びながら、ああ、ロールプレイングゲームをやっているなあと思った話を書きます。

 

 ロールプレイングゲームとは読んで字のごとく、役割を演じるゲームのことだと思います。この、「役割を演じる」ということがどういうことを意味するかというと、個人的な感覚では、ゲームの中に存在する役割が「現実の自分じゃない」ということが重要なんだと思うんですよね。自分ではない役割を演じる、そうであることがとてもいいんじゃないかと思っています。

 

 先日完結した「シャッフル学園」という漫画があります。この漫画はいわゆるデスゲームもので、閉鎖された空間に閉じ込められた少年少女たちが殺し合ってしまうという内容です。特徴的なのはタイトルにあるとおり、彼らの人格がシャッフルされてしまうということです。登場人物たちは人格と肉体が分けられシャッフルされることで、誰かの精神が別の誰かの肉体に入ってしまいます。そのような状況において、見た目だけでは中身が誰であるかを判別できない同士で、誰を信じればいいのかどうか?ということが試されたりします。

 このシャッフル学園で描かれていたことのひとつが、人間の精神の自由度はその肉体に強く束縛されてしまうということだと思います。例えば、ひらひらした可愛い格好をしたいと思っていても、ごつごつした男の肉体であれば、似合わないと感じてしまうかもしれません。ならば、他人の目や自分自身の目を気にすれば可愛い格好をしたいと思ってもできないわけです。それは自分の肉体がそうである以上、どうすることもできません。
 しかしながら、精神と肉体が分離してしまえば話は変わります。違う人の肉体に精神が入り込むことで、そのとき初めて解放される欲望なんかがあるのではないでしょうか?若くて可愛い女の子の肉体に入れば、好きなだけ可愛い格好をすることができます。それはもともとのごつい男の肉体であったとしたら、誰にも知られぬまま、死ぬまで抱え込んでしまっていたようなものかもしれません。

 その欲望を表に出せるか出せないかは肉体の在り方に左右されてしまいます。もちろん肉体だけではなく、社会的な立場や、金銭や技術などによる環境面の影響なども様々あるでしょう。人間の精神はそれらを乗り越えて、ただあるがままに自由でいられるほどまでには力強くはないわけです。

 

 さて、ロールプレイは、そのような不自由な精神が、普段は肉体や環境に抑え込まれている部分を解放することもでき得る遊びではないでしょうか?自分ではない誰かの中に入り込み、そこで与えられた役割を演じて完遂することで、初めて得られる感覚があるはずです。

 それはともすれば、普段の生活の中では決して生まれなかった感情であるかもしれません。例えば、ゲームの中では自分の力で世界を守ることができます。それは現実ではなかなかできないことでしょう?なぜならば、そんな立場も能力も、普通は持ち合わせていないからです。

 

 ドラクエロールプレイングゲームの中でも、あまり自由度が高くないゲームだと思います。これは「自由度」という概念をどのように解釈するかという話でもありますが、例えば、ドラクエでは決められた物語の筋を変えることができません(まあ、ドラクエ以外もそうであることが多いですが)。

 選択肢を与えられたように見える場面でも、「はい」か「いいえ」のどちらを選ぶことになるかは、ほとんどの場合ゲームの側に決められているのです。何度も「いいえ」を選択したところで、「はい」を押すまでは話が先に進まなかったりします。その場合、プレイヤーに自由があるとしたら、その時点でゲームを放棄してやめてしまうことぐらいしかありません。やめないならば、ゲームの作者が用意した選択肢を選ぶしかないのです。

 

 では、これは意味がないことでしょうか?少なくとも僕は意味がないと思いません。つまり、そのとき僕は「はい」と選ぶ役割を演じているわけですよ。現実の僕であれば「いいえ」と選ぶような判断をする場面であったとしても。

 

 自分の意志のままに様々な選択できるような高い自由度のロールプレイングゲームがあったとして、その高い自由度は逆説的に弱いロールプレイと言えるかもしれません。なぜならば、そこで行われるプレイヤーの判断は、ゲームの中であるのに、現実で行われるものと似通っていると思われるからです。

 一方、自由度の低いロールプレイングゲームでは、実質的に選択肢はなく、決まった道を歩むしかありません。目の前で起こる悲劇も、それを自分の力で変えるという選択は与えられません。変えられる場合は、予め変えられるという物語の道筋が敷かれているときだけです。つまり、プレイヤーはゲームに設定された誰かの人生を歩まざるを得ないというわけです。それはもしかすると、そうすることで初めて見えてくる自分の中の何かがあるのではないでしょうか?

 

 つまり、それはある種の不自由を強制されることで、現実に生きている中では決して動かない心の回路に通電される可能性があるのではないか?ということです。

 

 ドラクエのように、自分には物語の筋を変えることができないゲームプレイにもかかわらず、それでも選択を求められるということに僕は意味があると思っています。主人公が頑なに喋らないことにも意味があると思います。なぜならば、それはゲームの中の彼が、ゲームの中における僕の依り代であることを強く意味するからです。

 物語はゲームの中で起こっていて、僕がいるのは画面の前です。干渉する方法は手にもったコントローラだけです。画面を覗き込む僕の感情はゲームの中の人々に直接届くことがありません。僕の心が鎖国した江戸幕府だとするならば、画面の中の主人公は出島です。貿易をしたいじゃないですか!貿易をしたくてコントローラを動かすわけじゃないですか。

 ゲームの中で主人公という立場と特別な能力と人々からの期待を得たとき、現実の立場と能力と人々からの期待を得た場合とは、全く別の自分が生まれたりするんじゃないかと思います。彼は一生懸命強くなり、世界の各地で人々を助け、あるいは助けられない悲劇も経験し、遂には悪の親玉を倒して、世界に平和をもたらします。

 彼は勇敢なる者です。現実の僕は勇敢ではないにも関わらず、ゲームの助けを借りて、ゲームの中では勇敢なる者になるわけですよ。

 

 自分ではない者になることで、自分の中に実はあったのに、自分が自分である限り一生眠ったままであったかもしれない部分が開くことがあるんじゃないでしょうか?僕が感じているところでは、ドラクエはその部分をずっと大切にしているように思います。

 今回も最後のボスを倒し、世界に平和をもたらしたあとの気持ちは、普段の生活では味わえない種類のものだったように思いました(素晴らしいものだったんですよ)。

 

 ドラクエはパッと見た感じ、全く新しく画期的なゲームメカニズムが投入されたゲームというわけでは別にないと思います。しかしながら、遊んでいる間、このように自分の中に眠っている特別な部分を引き出して、すごく心地よい時間を過ごすことができるゲームだと思います。

 なので、僕は新作が出続ける限りやりたいなあという気持ちがあるのでした。