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僕がゲームの中で人を殺す理由について(MGSV TPP編)

 ここのところMetal Gear Solid V The Phantom Pain(以下、MGSV)を毎日2時間ぐらいやっています。累計のプレイ時間は約50時間程度で、ストーリーはまだまだ道半ば、達成率は40%弱といったところです。めっちゃ面白くて延々プレイし続けられますが、生活に支障をきたすので、我慢して時間を制限しつつ続けています。

 

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僕はメタルギアシリーズがあまり得意ではなかった

 さて、メタルギアシリーズは、潜入することが基本のゲームであり、敵に見つからないように敵のアジトに忍び込んでは情報を集めたり、物品を回収したり、捕虜を助けたり、ターゲットを殺したりするのですが、このような潜入ゲーム、僕はそもそもあまり得意ではありませんし、そのためあまり積極的にはプレイしません。

 なぜかというと、うっかり見つかってしまったときのリスクが大きくて辛くなるからです。一回ミスをすると大騒ぎになり、騒ぎが収まるまで何もせずに待っていたり、待っていたにもかかわらず結局見つかってしまってボコ殴りになり、またやり直すはめになり、同じようにタイミングを見計らってまた隠れて動くということを何度も何度も繰り返さなくてはいけなくなったりするからです。つまりは、僕がゲームが下手であるということですが、僕がゲーム下手おじさんであるのは一朝一夕ではどうにもならないので、仕方がありません。

 

 それでも、メタルギアシリーズはMGS1とMGS2ゲームボーイカラーのゴーストバベルはクリアしましたし、MGS3MGS4も途中まではやりました。クリアまで至らなかったのは、前述のようにゲーム下手おじさんだから進まないうちに別のゲームを始めてしまったからなのですが、そのうちクリアしようと思ってはいます。あとピースウォーカーもそのうちやろうと思ってはいます。

 なのですが、MGSVは全然出来るのです。なぜなら簡単だからです。下手でも大丈夫だからです。簡単なのは潜入が簡単だからではなく、最悪潜入をしなくてもクリアできるからです。そして、僕は概ねそういう方法をとりながらプレイしています。

 

殺人狂時代 in MGSV

 MGSVは広いマップの中に敵勢力の拠点が点在しており、それぞれのミッションではその中に潜入することが多いのです。拠点には外から車で追加の敵兵がやってきたりもしますが、その頻度は低いので、概ねそこにいる人数が限られていると考えていいでしょう。つまり、敵兵をひとりひとり排除していけば、着実に潜入しやすくなります。拠点の周囲をぐるりぐるりと回りながらチャンスを見計らってひとりひとり排除し、最終的には全ての敵兵を排除して、無人となった拠点の中に堂々と正面から歩いて入り込み、目的を達成したりします。これが僕がやっている遊び方の基本であり、このような全員排除ををやるのは、スマートにちゃっちゃと潜入して目的を達成するのに比べて、非常に時間がかかったりします。しかし、やり遂げたときの達成感がすごいので、達成感欲しさに、僕は敵兵をひとりずつ排除していきます。

 彼らは恐怖に打ち震えることでしょう。仲間がいつの間にかひとりまたひとりといなくなっているのですから。自分以外の全員がいなくなれば、最後は自分の番です。僕は分け隔てなく全員を排除します。

 

 さて、このようなプレイをする中で、僕は敵兵を殺したりもしますが、その理由が「安心したいから」であることに気づきます。まるで「ジョジョの奇妙な冒険 第四部」の殺人鬼、吉良吉影のようです。人を殺すとなぜ安心するかと言えば、死んだ人はもうこちらを襲ってこないからです。もし、殺さずに気絶させただけの場合、そのうち起き上がって再びこちらを襲ってくる可能性があります。ひとり気絶させて排除したと思えば、遠くでその前に気絶させておいた別の敵兵が目覚めたりします。あるいは、別の敵兵に発見されて起こされたりもします。それでは、一進一退となります。ひとり倒したと思えば、ひとり復活する。そうなれば攻略するには時間は延々とかかってしまいます。

 ご存知かと思いますが、死んだ人は生き返りません。ですから、敵兵を確実に排除したいのであれば、殺すことが楽なのです。殺せば、自分に対して敵意を持つ存在が確実にひとつ減ります。そう、それは安心ということです。

 殺人狂のようなプレイをしている自分の内情は、ただただ「臆病」であり、安心する場所が欲しく、そのために敵対する人々を排除するという、いや、排除せざるを得ないという僕の恐怖心と、確実に排除してやったという達成感がベースになっています。殺すこと自体が楽しいわけではないんです。ただただ、怖いから殺す。そして、相手は相手でこちらを怖いから殺そうとするのかもしれません。

 このゲームの中では敵と味方が明確に分かれています。戦場では敵兵を寝返らせるために説得を試みるという機能が基本的にありません。ゲームシステムとして相手はこちらを分かりえないし、こちらも相手を分かりえることはないのです。それゆえ、僕は敵を排除するということになるのでした。彼らの意識を断つことでしか僕は彼らと同じ場所にいることができないのです。そして、恐ろしいことに、このゲームでは敵を気絶させるよりも殺す方が楽です。気絶させるには後ろから羽交い絞めにしてしばらく首を絞めなければなりませんが、殺すときは羽交い絞めたあと、ナイフでたったの一刺しです。殺す方が速く確実な手段なのです。臆病で臆病な人間であるところの僕は、このままではひたすらに人を殺すことになってしまいます。

 

汚れた魂の救済としてのフルトン回収

 しかし、MGSVではその面において救いが存在します。「フルトン回収」という手段です。フルトン回収とは、気絶した敵兵や、捕虜、あるいは車や野生動物などを、気球を使って上空に飛ばし、回収するという仕組みです。フルトン回収が登場したことで、僕は殺さずとも敵兵を排除するという手段を手に入れることができました。その結果、今やっているプレイは、基本的に敵兵を殴ったり麻酔銃で撃ったり首を絞めたりしては眠らせて、フルトン回収を行って現場から排除することで徐々に敵兵を減らしていくということをしています。

 このようにして回収した敵兵は、味方に引き込むことが可能で、プレイヤーの本拠地であるマザーベースの拡大には数百人以上の人員が必要になりますので、多くの敵兵を回収した方がお得です。フルトン回収という手段を得たことによって僕は延々と続くかと思っていた虐殺の螺旋をようやく脱出することができるようになりました。

 

合理的な殺人

 僕が人殺しであったのは、それが「臆病」という自分の特性に対して合理的な手段であったからです。選択肢が限られる中で最も合理的な手段を得ることで、数々の砦を血の海に沈めるような恐怖の殺人鬼が誕生しました。ゲームの中で人を殺すということ、それ自体に強い快感があったわけではないのです。僕が安全にゲームを進行するためには、敵兵をひとりずつ排除する必要があり、その簡単な方法が殺すということでした。ですから、それ以外の手段を手に入れた僕は、あまり殺すと言うことをしなくなりました。

 ただし、例えば、敵兵のひとりを首をぎりぎり締めて気絶させようとしているとき、別の敵兵に見つかったとします。このままでは僕を見つけた彼が他の仲間を呼び、一気に混乱した状態に突入してしまいます。できれば気絶させて回収したいが、そんな時間の余裕がない。そんなとき、僕にはまた「殺すスイッチ」が入ってしまい、優しく締め落とそうとしていた彼を一瞬で殺しては、目撃者の彼が声を上げる前に素早く動き、叩き伏せます。この一瞬、僕の中での「妥当な手段」が気絶から殺しに入れ替わってしまったのです。殺し屋の本性はただ仮面をかぶっていただけ、条件が揃えば外すことに躊躇はありません。「修羅の門」のレオン・グラシエーロのようですね。

 

 「人を殺すのが楽しい」というのも怖い感覚かもしれませんが、「殺すのは別に楽しくないが、ただ合理的だから殺す」というのもまた、怖いっちゃ怖い話だと思います。条件さえ整えば、一瞬で殺人鬼に変貌してしまうということだからです。この辺が起こってしまうのは、そもそもゲームシステムによって選択肢が絞られているためで、例えば、合気道の大先生のように敵と友達になって帰ってくるという機能があれば、また違うかもしれません。事実、MGSVにおける一部のサイドミッションでは、かつての戦友と再会するというものがありますが、最初敵として認識していた人が、こちらをかつての仲間として再認識すると、味方になってくれるのです。そのときの僕は、彼らを殺そうとは一切思いませんでした。それは、「仲間になる」という選択肢があったからではないでしょうか?

 

 僕は「人間は、自分が認識している選択肢の中から、主観的に最も合理的なものを選んでしまう」ものだと思っていて、他の選択肢を選ぶには、そちらが合理的になるような別の条件を持って来ないといけないのではないかと思っています。同じジュースが、100円で売っている店と150円で売っている店があったとして、普通は100円の方を買ってしまうのではないでしょうか?なぜなら、それは合理的なことだからです。しかし、100円の店の店主のオッサンが嫌いとか、100円の店がここからちょっと遠いとか、別の条件が登場すると、150円の方を選べるかもしれません。150円の方を選ぶことにメリットが生まれるからです。

 このように条件を意図的に厳選することで、自分の行動をいい感じに制御することもできることがあります。自分という人間が合理性の奴隷であるならば、その合理性を制御できれば、人間を制御することもまたできるのではないかと思うからです。

 

まとめ

 ゲームの中で人を殺すからといって、そのプレイヤーが恐ろしい感性を持っているかといえば、そうではないのではないかと思います。なぜならば、そのゲームをプレイする中では「殺す」という手段が目的達成のための最善の手段であるというだけなのかもしれないからです。ゲームの中で出来る行動の選択肢には限りがあります。なので、現実ではもっと自由闊達にそれ以外の行動をとることもできるでしょう。しかし、同時に僕はゲームをプレイしながら自分に対する恐怖を感じたりもします。条件さえ整えばどんな残虐な行為も、それがゲームの中であったとしても、できてしまうという自分に気づき、恐怖を感じるからです。

 現実世界でも、罪を犯した人々と自分の間の差はどれぐらいあるのだろうかと時折考えます。そして、それはよく分かりません。しかし、何らかの要因で選択肢が狭められ、その犯罪行為をやることこそが自分のために最良であるという条件が整ってしまったとき、自分がそのような行為をしないでいられるという保証はないのではないかと思ってしまいました。

 願わくば、そんな機会がきませんように。などと祈りを込めて、今現在の手持ちのフルトン回収器を24個使っても回収しきれない人や物や動物を、補給を繰り返しながら、今日も今日とて回収し続ける僕なのでした。

 

(余談)最初、「ドクターマリオとMGSVのプレイ感が似ている」という、友人が誰も理解しようとしてくれない話を書こうと思ってこの文を書きはじめたのですが、書いているうちに全然違う話になってしまったので、そっちはまた別の機会にでも書こうかと思います。