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「さよなら絵梨」と現実を元にした物語関連

 そういえば、感想を書いてなかったなと思ったので書きます。

 「さよなら絵梨」を読みました。すごく面白かったです。

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 初読時に思ったのは、本作は「ルックバック」を描いたことを踏まえた物語なのかなということで、そのような感じに読みました。

 

 「ルックバック」はある事件を元にしていることが示唆されつつ、そこに漫画というものの無力さとできることを描き、そして、この先も漫画を描いていくということを描いた物語だと僕は感じました。「ルックバック」には様々な反応があり、僕自身も、「物語はそのものとしてとても良かったが、事件を元にしたことを宣伝レベルで示唆されてしまったこと」については、それをすんなりと受け止めることへの抵抗がありました。

 なぜなら、実際に起きた事件を取り扱うということは自分の中でセンシティブなことだからです。そこには実際の被害者がいて、遺族もいます。バランスを崩せば、その人たちの悲しみを第三者が勝手に利用して作品を作っているという認識にもなってしまいます。なので、その部分にもっと距離があった方が、もっと引っ掛かりなしに楽しめたなと思いました(念のため繰り返しておきますが、作品自体はとても胸に響きました)。

mgkkk.hatenablog.com

 

 さて、「さよなら絵梨」は、主人公が、病気で死にゆく母親の映像を元に作った映画から始まります。その作品はドキュメンタリーのようでありながら、最後は病院が爆発するという映像で終わります。

 学校で全校生徒を前に上映したその作品は、散々な否定的な評価を受けます。その中のひとつは、人の死を題材に映画を作る上で、爆発で終わるのは、人の死に対して失礼ではないか?というような意味のもので、それは僕自身の「ルックバック」に抱いた気持ちと重なる部分があります。

 

 そのため、僕は初読時に、まず、これは「ルックバック」への反応を踏まえた上で、改めて、現実と、それを元にしたフィクションの関係性についてを描く物語なのではないかと思いました。

 

 この物語は、酷評に終わった作中作「デッドエクスプロージョンマザー」を踏まえて、そのファンであると主張する少女、絵梨との出会いの果てに、主人公が再び映画を作るために試行錯誤する様子が描かれます。

 以前の映画は何が良くなかったのか?次の映画はどうなればいいのか?そもそも物語とはどのように描くべきなのか?その作者はどうあるべきなのか?それらの問いかけは、前作と今作、それは「ルックバック」と「さよなら絵梨」になぞらえて読むことができるような形で描かれていると思いました。

 

 つまり、この映画は、「ルックバック」への反応を踏まえて、この漫画はどうあればいいのか?ということそのものを物語の中での葛藤として持ってくるという構造になっていると思いました。

 

 作中で、映画は「現実をそのまま映したものではない」ということが描かれます。現実の一部を切り取り、上手くつなぎ合わせることで、本当にあったこととは別の物語を作り上げることができます。作中では、それがどんでん返しのように、あるいは映画のメイキングのような場面を入れることにより、現実の映像を元にしていたとしても、それは現実そのものではないということが描かれました。

 そして、それらを元に作り上げた現実とは異なる美しい物語は、ときに人の美しい記憶になり変わります。

 

 考えてみれば人の記憶も似たようなものかもしれません。何かの事実があっても、複数の当事者によって異なる語られ方がされることがあります。人は事実をそのまま記憶するのではなく、色んな事実の断片を繋げ合わせて、それぞれの物語を作り、その中を生きていくものなのかもしれません。

 

 「人はなぜ物語を求めるのだろうか?」という話は、藤本タツキ作品では繰り返し描かれています。そして、僕自身、特に若い頃は物語の中に耽溺して生きてきたので、同じ疑問をずっと抱えています。

 僕のとっては物語は逃避する場所で、自分が登場しない物語に浸かっている時間は自分の人生のことを考えなくて済んだので落ち着いたという記憶があります。今は自分の人生を生きることへのしんどさもなくなってきたので、物語にすがらなければならない時間は減ってきました(楽しみのために読んでいます)。

 物語は現実ではなく、しかし、人はときにその現実ではないものを求めてしまいます。亡くなった人の思い出は綺麗なものばかりが残されたり、現実を曲解した都合のよい物語を認識することで生きることが楽になる人もいるかもしれません。

 

 本作では、作中でのやり直しとして、絵梨の死を題材にした物語が観客に向けて成功する場面が収録されています。それは前にやったことが間違いであったなら、こうやって正解にすることもできるということの示唆ではないかと思いました。皆に喜ばれる正解のやり直し方は分かるかもしれないということです。しかし、この物語はその先へ続いていきます。

 

 最後のパートでは、これまでスマホで撮影したような画面で描かれきたものが、主人公を写す別のカメラに切り替わります。これまでそのような画面が唯一あったのは、「デッドエクスプロージョンマザー」の最後の爆発のシーンの切り替わりだけだと思ったので、これはやり直しとして、そこに相当するパートなのだと思いました。

 つまりファンタジーです。ドキュメンタリーのようにするのではなく、ひとつまみのファンタジーを入れることの美学が語られてきました。

 

 そこには記憶を失った絵梨がいて、主人公のとった映画を見て、かつての自分のことを思い出します。しかし、その映画は、編集によって作られた、事実からは改変された物語です。ただ、絵梨は現実からは失われたものを何度も思い出せる物語が存在しているということを素敵だと表現します。

 今の現実はいずれ失われるもので、残るものはその現実を元にして作られた物語だけなのかもしれません。もし、人に物語が不要ならば、それらのかつての現実はただ失われていくだけなのかもしれないなと思いました。

 

 この物語は最後ファンタジーで終わります。それはつまり爆発です。「デッドエクスプロージョンマザー」では酷評された要素を、主人公は再び最後に表現します。人の死をドキュメンタリーのように取り扱うことで、多くの人が望むような涙を流せる「正解」の物語を作ることだってできた主人公がです。

 それが僕には、当初に立ち返り、どんなに酷評があったとしても「変わらない」ということの決意表明のように思えて、とても痛快な場面だなと思いました。

 

 それは作中の絵梨の言葉にも重なります。「デッドエクスプロージョンマザー」の爆発シーンは多くの人には笑いのネタとされていて、唯一、絵梨だけがそれを見て泣いていました。爆発の場面はギャグとして見ることもできて、実際そう見て全然面白いんですが、僕は上記のようなことを考えながら読んでしまっていたので、感じたのは、笑いよりは痛快さの方でした。

 

 現実を元にした物語を作ることはセンシティブで難しい話です。ただ、あからさまに何かの人や事件をモデルにしなかったとしても、物語にはその作者の実体験が反映されるもので、それも当然現実を元にした物語であるはずです。それはゼロイチで切り分けられるものではなく、多かれ少なかれの程度の問題です。

 現実そのものを切り貼りし作られた物語は、実際にあったこととは異なるかもしれません。そこにファンタジーが加わればなおのことです。しかしながら、作品という形をとることによって、それを体験した人が失われても、自分がその体験そのものを忘れてしまっても、残るものになり得るかもしれません。

 再びその物語を読めば、思い出せるかもしれません。

 

 というようなことを思ったので、「さよなら絵梨」は「ルックバック」を描いたあとに起こったことを物語という形にすることで固定化させた存在なのかなと思いました。そして、人間と物語に対する認識の思索の話は、「ルックバック」から、さらに一歩進んだように思います。

 僕自身、自分がなぜいまだに物語を求め続けているのかの明確な答えを得てはいません。だからこそ、そこに共感を感じたように思いました。