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人間の生きづらさ関連

 生きづらさを抱えた人がいるという話については、自分自身のことも考えて色々思うところがあるのですが、そもそも「生きづらい」というのがどういうことを言っているのかが曖昧なまま話されていることも多いなと思います。

 

 個人的な感覚としては、「生きづらい人」というのは「生きづらくない人」との対比なのかなと思っていて、つまり「他の多くの人がつらいと感じないところでつらいと感じてしまうこと」が、生きづらいということではないかと思います。そのように、多くの人がつまづかないような場所でつまづいてしまい、なぜ自分だけが上手く出来ないのかと悩んだり、つまづいてしまうせいで皆が普通にやっているような必要な行動が起こせず、起こせないからこそそこからずっと抜け出せない泥沼にハマってしまう、みたいなことがあり、それを生きづらいと感じるのかなと思います。

 

 もちろん、生きづらさについては他の理解もあると思いますが、ここではこういう種類の生きづらさについて思うことを書こうと思います。

 

 つまづく場所は人それぞれ様々にあると思います。色んなところでつまづくけれど、その結果、生きづらいと感じているということだと思うので、生きづらいと感じている人に一発こうすればいいと伝えられるような処方箋はないように思います。ただ、そのように一律な解決策がないからこそ、解決できないままにただただ時間が過ぎてしまうのかなとも思います。

 

 例えば、上手く声が出せない人がいたとします。そういう人は、何を言ったかを人に聞き返されることが多く、聞き返されるたびに言い直しても、それでも上手く伝わらないことを繰り返すと、そのうち疲れて人に言うことそのものを止めてしまうかもしれません。

 これにより生きづらさのひとつのケースが発生します。人に話すこのハードルが高いために、人に聞けば答えが返ってくるようなことを人に聞くことができず、自分だけで調べてやろうとして長時間がかかってしまい、能率の悪い人間と思われたりします。それにより自分はダメな奴だという認識が深まったりもするでしょう。

 これは例えば、生活圏内で使われている言語と自分の母語が異なる場合でも似たようなことになってしまうかもしれません。場所が変わるだけでそれまでは困ってなかった人も困ることがあります。他の理由でもいいですが、他者とのコミュニケーションのハードルが少し上がるだけで、人は何かが上手くできない状態に陥ってしまうことはあります。

 

 こういう言えばいいだけじゃないか、というようなことについて、もはや疲れて言うことができなくなっている場合、「言えばいいだけじゃないか」というだけのアドバイスをしてもあまり効果がありません。だって言うことについてとっくに疲れてしまっているからです。

 

 そういうときには、ゆっくり言いたいことを聞いてくれる人がいてくれれば解決するかもしれませんし、言わなくても伝えられる方法を選ぶこともいいと思います。自分がそのタイプの生きづらい人のそばにいるなら、言いたいことをゆっくりちゃんと聞こうとするだけでも変わることがあります。

 

 対人コミュニケーションが不得手な人が、それを回避するために、いつまで経っても不得意なままで、人とやり取りすることがなかなかできずに孤立してしまうことがあります。そのきっかけは非常に些細なものだったりすることだってあるのに、その状態が長期間継続することによってなかなか抜け出すことができなくなったりします。そういうのって悲しいことだなと思います。

 

 人間は色んな場所で色んな理由でづまづくんですよ。

 その中には、もっとちゃんとすればいいだけでは?と説教されそうなこともあります。

 

 例えば、「他人にお礼を言えない人の生きづらさ」などもあると思います。何かをしてもらったときにお礼を言うということ、その行為に感謝をするということが上手くできてない人が、それゆえに他人に何かをして貰えなくなっていくことがあります。

 お礼が言えないのは、「お礼を言った方がいいということを学ぶ機会を得られなかった」とか、「それを言うことで相手に強い負い目を感じてしまうから言いたくない」とか、色々な理由が考えられますが、誰かに何かをしてもらったときに、その行為に感謝することを表明できなかったために、助け合いの枠組みの中からだんだんと外されていくことがあります。助け合いの枠組みから外れてしまうと、他の人たちが助けて貰えていることもたった一人でやらないといけなくなるため、生きることに困難を抱えてしまうかもしれません。

 

 その場合、「ちゃんとお礼を言えるようにしよう」みたいな解決策もあると思います。生きづらい人が生きやすくなるためには、本人が変わることも選択肢のひとつです。でも、ちゃんとお礼が言えない人に対しても、ちゃんとお礼を言えるようにしましょうよ!と単純に伝えてもできるようにならないかもしれません。

 その人がなぜそれができないのか?ということを考えて、それができるためには何がハードルとなっているのかを考える必要があるのではないかと思います。例えば、その人が何かをやってくれたときにちゃんと感謝を表明することで、感謝を表明することの大切さを異なる立場で実感してもらうとか、感謝されたことを足場にして何かを要求したりしない関係性を示すとか、色々なやり方はあるわけです。

 

 でも、実際の世の中では他人の生きづらさなんかには興味がない人も多いですよね。「なぜ自分がわざわざ手間暇をかけてこんな奴のことを手助けしてやらなければならないんだ」と思ってしまう人も多いのではないでしょうか?運が良ければ生きづらい自分に向き合ってくれる人が出てくる人もいるかもしれません。でもいないかもしれません。

 

 結局、自分に対して特別に接してくれる理由のある唯一の存在は自分自身なのかなとも思います。誰かに期待して、期待通りにしてくれないことに腹を立てたりするのも、さらなる孤立を招いて、生きづらさを加速させてしまうかもしれません。

 

 僕も社会生活があまり得意ではありませんが、でも思っているのは、「仮に世界中の全ての人が僕を嫌いだったとしても、せめて自分自身ぐらいは自分のことを大切に考えてやろう」ということです。社会の中で生きて行くならば、他人の中に自分をうずめていくことは避けられません。でも苦手なんですよね。それをやるのは。失敗体験もたくさんありますし。

 それでも社会の中で生きて行くしかないならば、自分がその中でどうあればいいか?ということを考えて、そのために少しでもそのありたい形に近づくことをしていくしかないなと思います。何かができないなら、どうやればできるようになるのか?今自分がそれを出来ない理由は何で、どうすればそれを乗り越えたり回避したりして先に進めるのか?を考えていくしかないのかなと思っています。少なくとも自分の話としては。

 

 特にネットでは、非常にたくさんの人の目が集まる可能性があるため、「自分の抱えている困難さを開示し、そしてできれば他人にこうしてほしい」と求める行動にはリスクが伴います。その発言が目立てば目立つほどに、何かを求められることが嫌いな人たちが、「あなたの抱える困難はあなたの自業自得であり、こちらには関係ないので勝手に自分で解決しろ」という意味のことを言ってくる量が増えていくと思います。

 ただし、その求められることが嫌いな人たちもまた、困難を抱えたギリギリの人かもしれません。自分のことだけて手一杯だから、自分に求められても困るのかもしれません。だから、それがそういう人たちが悪い人とも思わないのですが、でも結果的に現象として、自分の困難の話をすると大量の人に突き放される言葉を向けられるため、「もう困難を開示したりしたくないな」と思ってしまうことはあると思うんですよね。それは悲しいことだなと思います。
どんな立ち場の人だって、困っているのなら、それによって生きることが困難に感じているのなら、まずは自分の困っていることを認識し、それを表明することが第一歩です。

 

 僕も以前ネットラジオで、自分が今本当に困っていることの話をしたら、そこに対する知らない人たちからの嘲笑の言葉をいくつも向けられたことがあります。そういう反応を見ると、うるせえボケがという気持ちと、本当のことなんて言わなきゃよかったな、という気持ちがごちゃまぜになったりしました。

 ただ、少し考えた結果、そういう反応を得ることで「こういうことを誰にも言わないようにすることが一番正しい」と思わされることもまたさらに生きづらいことかもしれないなと思いました。なので、言い方は考えますが、言っていくほうがいいだろうなというのが今のところの結論になっています。

 

 この文章もそういうことのひとつだということが分かると思います。

 

「一番弱い者が死なずにすむために社会というのはある」

という言葉が山口晃氏によるパラリンピックのポスターに書かれていました。ほんとうにそうだなと思ったので、自分の全ての考えの基礎のところにこの言葉を置いています。ただ、人は易きに流れるので、これを常に実現することは難しいことではないかと思います。少し自覚を怠けると「一番弱い者」という言葉の意味を好きなように読み替えて、「この人は弱い者ではないので、社会は(自分は)別に何もしなくてよい」ということにしてしまうんじゃないかと思います。そうなると良くないんじゃないかなと感じています。

 

 「生きづらさ」というのを社会の中にいることの困難さと捉えるのであれば、それはやはり弱い者なのではないかと思います。どんな種類の生きづらさでも、それが本人の自業自得と解釈できるものであったとしても、死なずにすむために社会はあった方がいいと思っています。

 

 こちらは社会の側からの視点ですが、個人の視点からで言えば工藤直子氏の「花」という好きな詩があります。

「わたしはわたしの人生から出て行くことはできない、ならばここに花を植えよう」

たとえどんな人生であったとしても、自分の人生から出て行くことはできません(それでも出て行きたくて自死を選ぶ人もいますが)。生きるのであれば、生きることが不得意であったとしても、それでも生きていくしかないのだから、せめて自分ぐらいは自分の人生の中に花を植えていくしかないという諦めにも似た気持ちが自分にはあります。

 

 自分と自分の外との間にある摩擦に目を奪われてしまうかもしれませんが、まずは自分の中だけでも、そこに花が植えることを考えてみるのがいいのではないかと思い、僕は以前からそういうことをして、少しずつましにできていると思います。

 

 もしこれを読んでいる人が「生きづらい」という気持ちを抱えているとしたら、色々たいへんなことはあると思いますが、まずは自分にとっての何らかの花を自分の人生に植えることを考えてみるのはオススメです。