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何かを面白くないと感じる能力の存在関連

 何かの作品を面白くないと感じたとします。そのとき、自分の「面白さを感じる能力」がその作品から面白さを感じなかったという消極的な側面以外に、その作品に対して「面白くなさを感じる能力」を積極的に発揮したからそうなった、という側面もあるのではないかと思っています。

 

 面白くないと感じる能力って何?と思う人もいるかもしれません。例を挙げるなら、前世紀には同性愛者を滑稽に描くことで笑いものにする作品は当たり前にありました。そして僕も当時はそれで笑っていましたが、今では笑えないなと感じています。

 当事者の顔を思い浮かべて、これは笑っていいものではないなと今では思うからです。これが面白くないと感じる能力の一例です。これは面白くないものだと感じる能力が今はあるため笑うことはもうできません。

 

 何かしらの差別的なコンテンツを笑ってしまうということは、それを「面白いと感じる能力」が「ある」と同時に、それを「面白くないと感じる能力」が「ない」ということだと思います。能力が未発達であれば、色んなものが笑えてしまいます。

 

 ただしこれは、面白くないと思う能力がある方が正しいという話ではありません。そんな能力が発達しなければよかったのにねというシチュエーションだって他に沢山あると思います。例えば、作者の日頃の発言が気に食わないから、その作者の作品を面白くないと感じる能力が発達したり、自分が日頃から気に食わないと思っている人が褒めているから、その感性を肯定したくなくて、面白くないと感じることができるようになってしまうこともあります。

 そんな能力がなければ十分楽しめたものを、能力を獲得したことで楽しめなくなってしまったりします。

 

 つまり、僕がここで言いたいのは、何かを面白いと感じたり面白くないと感じたりするのは、面白さを感じる能力だけの1つの軸ではなく、それを面白くないと感じる能力というもう1つの軸との兼ね合いになるという認識を持っているということです。

 

 ある作品を面白さ0点と判定した人がいたとします。それはその作品から面白さを一切感じられなかったという可能性もありますが、面白さは50点感じていたけれど、面白くなさも50点感じたために、相殺されて0点になったりすることもあるのだと思います。

 特に商業的に展開している作品などは、一切面白い要素がないわけではなく、そこに何かしら許せない要素があるために、面白くないと感じることでマイナスされて、結果的に0点になっていることの方が多いのではないでしょうか?商業的に出てきている作品は、何かしら人の目を通過してから出てきているので、本当に虚無のように面白い要素が全くないということはあまり考えられません。

 

 そういうときに思うのは、自分が何かの作品を面白くないと判断したとき、果たして何の要素を面白くないと積極的に感じてマイナスした結果、面白くないものと判断したのかという点です。そこに自分の感性を詳しく知る手がかりもあるのかもしれません。

 

 人間は長く生きていると色んな経験を積むので、面白いと感じる能力も面白くないと感じる能力も、それぞれ発達していくものだと思います。なので例えば、目にする色んな作品の大半を面白くないと感じてしまうとき、面白くないと感じる能力だけを優先して鍛えてしまった可能性もあります。

 

 そこでもし自分が楽しめなくなっていることが不安になったら、自分が何を面白くないと感じる能力を鍛え過ぎてしまったのかを振り返ってみてもいいかもしれません。そして、何かを面白いと感じる能力も鍛えてみるのもいいですね。また、自分が好きな物を面白くないと言っている人がいたり、自分が嫌いなものを面白いと言っている人がいたときにも、その人が、何を面白いと感じ、何を面白くないと感じる能力をそれぞれ鍛えてるのかを想像してもいいかもしれません。

 

 そうすれば、自分と異なる感性の人がいたとしても、その人はそういう形でその人の能力を鍛えてきたからそうなっているのであって、その前提条件が異なるのだから、自分と至った答えが違っても別に気にするようなことではないと思えるようになるのではないかと思います。

 この人は、この作品の要素の中でこれを面白くないと感じる能力を鍛え上げたから全く楽しむことが出来ないんだなと思えたり、この人はこの作品の中でこの要素をめちゃくちゃ楽しむ能力を鍛え上げているから、これをすごく楽しめているんだなと思えたりするからです。

 

 僕は最近は割とそういう感じに自分の中での整理をしています。この認識は、自分と他人を切り分けるためにも有用ですし、何かを楽しめるようにとか楽しめないようにコントロールしたいときにも有用だと思っています。