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創作物の抱える政治性関連

 「政治性」という言葉は、多くの人にとってあまり歓迎されない印象があります。

 

 ただ、そもそも人が政治性という言葉をどのように使っているのか?という疑問があり、僕が使っている意味では、「有限のリソースをどのように再分配するかの塩梅」という意味で使っています。国、あるいはもっと小さな社会集団の中における政治とは、構成員から集めたリソース(お金や物的資源や人の稼働)を誰にどのように分配するかの綱引きです。

 その綱引きによって自分にとってより得があるように働きかけることが政治活動だという認識です。つまり、世の中の人が集団に所属している限り、そこには政治が発生します。仮に、全てのリソースが平等に割り当てられるとしても、その「リソースは平等に割り当てるべき」ということに構成員が合意するということが政治であると考えるためです。

 

 「創作物に政治性を持ち込む」ということに多くの批判が発生するのを目にします。しかしながら、僕の考えでは全ての人は何らかの政治性を抱えていて、そのために、人の内面から生じる表現もまた政治性とは無縁ではないはずです。

 

 そう、あらゆる創作物には「当然政治性がある」というのが僕の考えです。

 

 例えば、少年が世界を救うという話があったとしましょう。そこにも上記の意味での政治性があります。そこには「世界を救う役目を少年に与える」という判断があるからです。

 世界を救うのが少女でも、おじさんでもおばさんでも、おじいちゃんやおばあちゃんでもないのはなぜでしょうか?「世界を救う役目」という立場を、作者と読者にとって何らかの意味で都合がいい「少年」という存在に託すということも、ある種の政治性に他ならないと思います。

 他に、「悪役は必ず罰を受けるべきだ」だとか、「善人は当然報われるべきだ」ということだって政治性です。それは自分がそうあるべきだと思う対象に、リソースが配分されるべきであると思うということだからです。

 

 何にでも少なからず政治性がある一方で、人は自分と同じ政治性の中では、それが政治性であるということを上手く自覚できません。自分が動くのと同じ速度で流れる川の中では抵抗を感じにくいからです。しかし、ひとたび異なる政治性の流れの中に身を置いたとき、それは何をするにしても感じざるを得ないものに変質してしまいます。

 つまり、反体制の少年が悪い体制側の老人を打ち倒して世界に平和をもたらすという話と、体制側の老人が悪い反体制の若者たちを潰して世界に平和をもたらすという話は、受け取られ方が全く異なるということです。

 これらは両方とも、ある特定の属性の主人公が、別の属性の人たちを倒すことで平和をもたらす話ですが、前者には政治性を感じず、後者には政治性を感じてしまう人も多いのではないでしょうか?

 それはそれぞれの人が「反体制の若者」という属性と「体制が側の老人」という属性に対して、どちらに益がある方が望ましいと感じているかという政治性があり、それが関係しているのではないかと僕は思っています。

 

 このように捉えると、創作物に政治性を持ち込むなという話や、創作物の作者が政治性を発揮するのを咎めようとする動きも、それ自体が非常に政治的な話だということになります。つまり、それを咎める行為そのものが、咎める人自身の抱える政治性の発露であるということです。

 自分の抱える政治とは異なる政治性を、創作物や作者が抱えていると思ってしまったときに、その政治性を受け入れがたいために、そこに関連する創作物もまた受け入れることができ難くなってしまうということだからです。

 

 だからこそ、人は創作物の中や周辺に自分が抱えているのとは異なる政治性を感じたとき、「創作物に政治性を持ち込んではならない」と言ってしまうのではないでしょうか?「その対象を好きでありたい」にもかかわらず、「異なる政治性は受け入れたくない」という齟齬を解消するためにです。

 

 人が異なる政治性を受け入れることが困難であるという前提を置いたとき、創作物から極端に強い政治性が排除されがちという状況も生まれてくるでしょう。なぜならば、多くの人にとって受け入れがたい政治性を強く持てば持つほどに、(トートロジーになりますが)それを受けれてくれる人も減るからです。より多くの人に受け入れてもらえる創作物を目指すのであれば、それは抑えられる必要があります。

 

 まとめると、

  • あらゆる人は政治性を抱えている
  • あらゆる創作物も政治性を抱えている
  • 人は異なる政治性を受け入れることを拒否する
  • 広く受け入れられたい創作物は極端な政治性を抑制する

 

 という状況があるというのが僕の認識です。多くの人が受けいれる創作物からは政治性に関する違和感を感じる人ができるだけ少なくなるような工夫が存在していることが多いということになります。つまり、ポリティカルコレクトネスですね。

 

 ポリティカルコレクトネスに対する配慮が多かれ少なかれ存在することで、それまでその創作物を受け入れることができなかった人ができるようになるという効果が存在すると思います。それによって、「創作物には政治性が持ち込まれていない」感じてしまう人も増えてしまうのではないでしょうか?なぜなら、それらの配慮によって自分の抱える政治性との違和感が小さくなるように思えるからです。

 しかしながら、その一方で、ポリティカルコレクトネスもまたある種の政治性であることから、そのような政治性を受け入れ難く感じる人も当然存在すると思います。

 僕は、それはそれでいいと思っています。

 

 僕が思うに、自分の抱える政治性というものは、簡単には変えることができないものです。なぜならその政治性は、自分の抱えている何らかの属性や、立場や利害関係に起因することも多いからです。だから、自分の抱える政治性を何らかの理由で変えたときに、結果的に何らか自分に強い負荷のある状態になってしまうかもしれません。それが良いことなのかどうかについて整理がまだ上手くついていません。

 他人に対して、自分と同じ政治性になれば良くなると思ってしまうこともあるかもしれませんが、それはあくまで自分の立ち位置からそれを判断しているだけであって、異なる立場の人にとってはそうでもないかもしれないからです。

 

 創作物が何らかの政治性を帯びているのは当たり前のことだと思います。そして、それが政治性を帯びている以上は、その政治性を受け入れがたいと思う人が出てくるのもまた自然で当たり前のことだと思います。そこに政治闘争が発生するのは仕方がないことです。それを避けるために、多くの人が受け入れやすいように政治性を薄く見せるような方法をとってもいいでしょうし、逆に強く具体的に出したっていいでしょう。そこにはどちらを選ぶかの自由があるはずです。

 もちろん後者の場合は、多くの人の抱える政治性と異なる可能性が高いために、多くの反発を受ける可能性があります。でも、そりゃそうですよ政治なのだから。自分が主張する政治性は、誰かにとっての不利益の可能性があります。だから、綱引きが起こるわけでしょう?自分たちの政治性にとってより都合がよい結論に至るための、万人が参加する綱引きが。

 

 人が政治性を強く意識するのは、何らかの理由で社会全体が持つリソースが小さくなったときではないかと思います。なぜならば、僕が言うところの政治、つまりリソースの再分配ということの持つ意味が強くなる状況だからです。生きていくことに困難さが生じる以上、自分たちにより利益があるように誘導しようとすることが悪いことだとは思えません。一方で、その自分側へ利益を誘導する行為が、他の誰かから利益を奪っているという状態であるということも避けることができないと思います。

 だから、そんなときには政治の争いが起こり、世の中の他の人たちが、自分と同じ政治性を抱えているか抱えていないかに拘る声が大きくなってしまうのではないでしょうか?

 

 その結果のひとつが、創作物に政治性を持ち込むか持ち込まないかという話なのではないかと思います。

 

 でも、目指すべき方向性は、異なる政治性を持つ人たちでも、全員が救われるような状況だろうなと僕は思っていて、それはつまりは社会全体のリソースを増やすということだろうなと思います。リソースが少なくなればなるほどにその中でどう配分するかの政治闘争は激化をするでしょうし、それを緩和するのは、それぞれの政治性を持つ人がそれぞれ違う形で満たされるぐらいの豊かさなのではないかと思うからです。

 人にはそれぞれ政治性があるでしょうし、それをたったひとつに統一することは無理なんじゃないかと思っています。だから、異なる政治性の人たちでもそこそこ距離をとって上手く集団を構成できた方がいいんじゃないかなと思います。

 政治というのは、天下国家の話だけではなく、その相似形の事象が小さな集団の中でもよく起こるので、そういうときには、全員にいきわたるようなリソースをどうやれば確保できるのか?ということを第一にするべきかなと思ってそうしています。

 

 さて以下は余談ですが、僕はあんまりネットで強い政治っぽい話をしてないと思うんですけど、それは政治について最初に書いたような理解をしているので、僕が僕の抱える政治性を元に発する政治的態度は、同時に、それにぶつかる別の政治性を持つ他の誰かからリソースを奪う考え方でもあるよなと思っているからです。それを利害関係の調整もできない平場のネットで言っても、ただ誰かから何かを取り上げろとただ言うだけでしかなくて、その誰かの気分が意味もなく悪くなるだけだろうと思っていて、だからあんまり言わないようにしているつもりです。

 でも、僕も政治性は持っていますし、それは簡単には変えられないんですよね。

 

 色んな人に色んな政治性があり、それはそれぞれの人の抱える何かしら切実なものがそうさせるのだろうと思っていますし、その政治性が自分のものと異なると、異なるなあとは思いますが、それを自分の抱えるもの側に合わさせようとさせるのもまた違うだろうと思います。というか、そう考えるというのがまた僕の持つ政治性です。政治性が異なるからといって、リソースを配分しない対象になるとは思えないという政治性です。

 なので、自分と異なる政治性を抱えている人たちに対して、無理やり自分たちと同じように合わせようとしたり、そうしないならばリソースを配分する必要はないという主張を見たりすると、政治性が衝突するので、なんか嫌だなあと思いながらも、別にそれを変えたいわけでもないんだが…みたいな思考の迷路に入ってしまい、なんだか分からなくなるのでした。

 

 気持ちのままに書きましたが、やっぱりまだ綺麗に整理はついてはいないなと思いました。