漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」と立ち向かうことの否定関連

 昔、BSアニメ夜話エヴァンゲリオン特集を見ていたら、滝本竜彦氏が出てきていて、他の参加者全員がショーとして番組を成立させようとしている中で、一人だけ抜き身の真剣をちらつかせながら場にいる感じの雰囲気になっていて、周囲は困惑をしているように見えたものの、僕はとても好感を抱きました(マジの人間のマジの言葉は好きなので)。

 そこで滝本竜彦氏が言っていたのは、「シンジくんは最後まで逃げ続けて偉いと思った」という話だったと思います。

 

 人間はヒーローになれるタイミングではヒーローになろうと思ってしまうかもしれません。そうすれば、周囲の人々から賛意をもって迎え入れられますし、自尊心もぐんぐん上がっていくと想像できるからです。そして、ヒーローになれるタイミングなのにヒーローになろうとしないことで、周囲に失望されることを恐れてしまうのかもしれません。

 そうだから、もしかすると、ヒーローになれるタイミングでは、ヒーローにならないという選択をすることの方が難しいのかもしれないなという想像があります。飴と鞭の両方が、ヒーローになることを求めているからです。

 

 しかしながら、ヒーローになろうとすることは本当に良いことばかりでしょうか?ヒーローになろうとすることは危険を伴うかもしれません。あるいは、自分がヒーローになろうとして巻き起こしたことが誰かを傷つけてしまうかもしれません。

 

 旧劇場版の碇シンジくんは、最後まで戦うことを拒否し続けた結末を迎えました。その行動には賛否があるかもしれませんが、周囲に流されず、自分でそうし続けることを決めたという一点において、彼はなかなかできない選択をしたということについては、そうだなと僕も思うわけです。

 

 「逃げちゃだめだ」という言葉はシンジくんを象徴する言葉として登場します。でも、その裏には「逃げたら余計に辛いんだ」という独白が存在します。辛いことから逃げるために、逃げてはダメだという結論に至るという、難しい構造になります。

 「逃げてもいいんだよ」という優しい言葉をかけてくれる人は多いと思います。しかしながら、実際に逃げ出したい状況になるとき、「お前、ここで逃げたらどうなるか分かってるんだよな?」という圧力が存在することも多いです。皆、自分に関係ないときには優しいことを言ってくれますが、関係あるときには、そうはいきません。そりゃそうですよ。誰だって、別の誰かが逃げたことで自分が困ったことになりたくないでしょう?

 そういうとき、もう少し優しい言い方をされることもあります。例えば、「ここで逃げなければあなたはヒーローだよ」というような甘言です。何にせよ存在するのは、とにかく人にそのまま立ち向かってほしいという要望ではないかと思います。

 

 そういう、「逃げること」にも「逃げないこと」にも、自分自身と様々な立場の人たちの利害関係があり、結果、人は逃げたり逃げなかったりします。

 しかしながら、こと物語においては、やるべきことから逃げた先での幸福な結末があることはまれだと思います。

 

 「3月のライオン」に妻子捨て男と揶揄される男が存在しました。彼は家族という辛いことから逃げ続け、妻子を捨てた先で作った別の家族の中でも責任を放棄しようとし、とにかくとことん辛いことから逃げようとした人間です。彼は理解のできない悪い人間として受け取られます。誰も彼に「逃げてもいいんだよ」とは言ってくれません。それはその逃げた先に、残された人々の不幸があるからでしょう?

 逃げたら別の誰かが不幸になるから、人は逃げる選択肢を否定されます。そこにいることで自分がどれだけ辛くても、戦うことを強いられます。戦うことを辞めて逃げ出した人間は、責任を放棄して、他人を不幸に叩き込んだ悪人として理解されます。

 悪人になりたくなければ、辛さを全てのみ込んで、その場に留まって戦い続けることしか認められません。

 

 物語の中で、それまで逃げ続けてばかりだった人間がついに立ち向かうことを選択したとき、人は感動をしてしまうのではないでしょうか?その立ち向かったことがその人に対して不幸をもたらしたとしても、例えば、立ち向かった結果その人が死んだとしても、最後に立ち向かって死んだ人を賛美してしまう気持ちがあったりはしないでしょうか?

 その人には死んだという結果をもたらしたのに、「よく死んだ!!素晴らしい!!」と人はそれを賛美したりします。そして、拍手と歓声の中で新たに死ぬ人たちを求める続けるのかもしれません。だって立ち向かうことは素晴らしいことなのだから。

 

 そして、ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破は、そのような物語であったと理解することができます。それまで逃げ続けていたシンジくんが遂に能動的に戦うことを選択します。「私が死んでも代わりはいるもの」と言う綾波レイに、「違う!綾波は一人しかいない!」と言い、だから助けると、あれだけ逃げ続けたシンジくんはついに戦う男としてヒーローになります。

 この光景に人は感動してしまったのではないでしょうか?ずっと逃げ続けてばかりだった少年が、遂に立ち向かうことを選んだのですから。

 

 そして、Qはその選択を嘲笑うような物語だと思っています。

 

 シンジくんは自分が立ち向かうことを選択したことに対して、その結果引き起こされた惨劇を目の当たりにさせられます。周囲からも、その選択をしたことをひたすらなじられ続けます。

 ヒーローになったのはずなのに。自分のために、そして周囲の期待に応えるために、シンジくんは逃げることを止め、立ち向かうことを選択し、そしてその結果、逃げた方が良かったのでは??というような状況を突き付けられて狼狽してしまいます。

 そしてやり直せるという可能性に拘泥してしまい、さらなる悲劇も引き起こしてしまいます。なんと悲しい。皆の期待に応え、自分の意志も貫き通せたはずが、この結果です。

 

 立ち向かう物語である破の次にやってきたQの物語は、やはり逃げる物語だったということです。より正確に言えば、「逃げずに立ち向かったこと」を否定する物語です。視聴者からすれば、これは怒りに発展するかもしれません。なぜならば、人の多くは感動してしまったと思うからです。破の最後で、立ち向かうことを賞賛してしまったからです。Qの物語はそれら全てに冷や水をぶっかける行為であったからです。自分たちの気持ちは、全て間違いであったと突き付けられる意地悪な行為であったからです。

 

 ただ、破の最後にあった賞賛は、感動は、本当に良いものだったのでしょうか?立ち向かうことが常に良いわけではなく、そこにはリスクだってあることについて、目を背けていただけではないでしょうか?滝本竜彦氏が言ったように、誰の期待にも応えず、逃げ続けることは実はかなり偉いことだったりもしたのではないでしょうか?

 

 僕はQで描かれたそういうところがめちゃくちゃ面白いなと思いました。

 

 立ち向かうことが常に良い結果しか生まないのであれば、そこにはひとつの価値観しかありません。そうすればよいだけです。立ち向かえば良い結果だけがあります。しかしながら一旦、そこにある、立ち向かえば褒め、逃げれば貶すという無言の圧力について目を向けるようになると、それは一気におぞましいものに転換する可能性があります。どれだけその先に辛い可能性があったとしても、立ち向かうことだけを強いられていると考えることができるからです。

 これは意地悪な話ですが、でもこれは、お話として広がりが生まれる新たな可能性のきっかけでもあると思うんですよね。

 

 立ち向かうにせよ、逃げるにせよ、どちらの選択をするにしても、良いことと悪いことがあるのであれば、その選択についてよく考えるということが必要です。立ち向かうことが常に正解なのであれば、ただ立ち向かえばいいですし、逃げることが常に正解なのであれば、ただ逃げればいいだけです。

 でも、どちらにしてもリスクとリターンがそれぞれあるということが明示されることによって、個別の選択により意味が生じるはずです。

 

 残念ながら現在の社会情勢の影響もあり公開が延期してしまいましたが、最終作であるシン・エヴァンゲリオン劇場版では、立ち向かうことが描かれるのか、逃げることが描かれるのか、そのどちらにもリスクがあるということがこれまで描かれてきたことによって、より意味が生まれるのではないかなと思ったりします。あるいは、そのどちらにも分類されない何かが描かれるのかもしれません。

 

 そういう意味で、ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Qはすごく好きな映画です。