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「メダリスト」の第3話をめっちゃ良く感じた関連

 「メダリスト」はちょっと前からアフタヌーンで始まった漫画で、フィギュアスケートの漫画です。

 主人公の一人は司くんという、選手を引退し、アイスショーのオーディションに落ち続け、コーチに転向する誘いを受けている青年です。そして、もう一人の主人公はいのりちゃん、スケート場の人の厚意で、一人でスケートの練習をしていた小学生の女の子です。早く始めた方がいいと言われているフィギュアスケートの世界で、指導を受け、本格的にスケートを始めるには、小学5年生のいのりちゃんは年齢的に遅いと言われています。

 実は、司くんもかつてそんな始まりが遅かった一人でした。自分がもっと早くからスケートを始めていれば、今の自分とは違っていたのではないか?ということを考えています。

 

 この物語は、いのりちゃんがスケートを始めたいと口に出すことから始まる物語です。世界一になりたいと口に出すことから始まる物語です。そして、その姿を前にして、司くんがコーチの道を歩み始める物語です。

 

 この話が描いているもののひとつは、「抑圧のある中で生きていくこと」なのではないかと僕は思っています。いのりちゃんがスケートを始めるまでにあたっては、様々な抑圧があります。それは例えば自分の親であったり、他人の親であったりします。成功できるのは一握りの狭き門に、小さい頃から人生を賭けている子供が沢山います。例えば、誰かがコーチに贔屓にされているということは、別の子供の親からすると批判の対象になります。だから、いのりちゃんを褒めてかかりきりになる司くんの姿は批判の対象にもなります。

 それは嫌な話だなとも思いますが、視点を変えれば、割とどうしようもなくあるものです。人はそういうことを思ってしまいます。口に出さない方が平和的ですが、口に出されてしまうこともあります。自分が出してしまうこともあります。

 自分以外の誰かの都合に基づいた抑圧を避けた先にあるのは、その誰かの都合によって舗装された道でしょう。それは、自分の歩きたい道とは違う可能性が高いです。

 

 いのりちゃんの前にはそんな道があります。そこを歩いていたら、スケートには到達しません。だから、その抑圧に舗装された道路を踏み外さなければなりません。そこに必要なのは、いのりちゃん自身の意志と、踏み外した先に、別の道を舗装してくれる大人の存在です。それを司くんが担ってくれるのがこの物語なんだと思います。

 

 で、3話がすごく良かった話をしたいんですけど、いのりちゃんが大会に出るにあたって、練習の方向性が2つある状況になります。司くんはそれに対して「どっちを選びたい?」と問いかけます。そして、つかさちゃんは不安げに司くんを見返し、司くんがどう思うかを確認しようとしてしまいます。

 「俺の意思を読もうとしちゃだめだ」、司くんはそんないのりちゃんにこんな言葉を返しました。なぜならば、いのりちゃんに自分で「選択」をするということに慣れて欲しかったからです。

 世界一になりたいという夢を持ついのりちゃんがその道を歩み続けるなら、その先には、きっと無数の選択肢が現れます。そんなとき、いのりちゃんの前には、色んな意見を持った大人が現れるはずです。その中の誰かが教えてくれる「正解」を選べば、目指す先に繋がるでしょうか?自分で選択することを放棄して、誰かが本当の正解を教えてくれるなら楽な話です。でも、人は神さまではありませんから、誰かが真に正しい正解を知っていることはありません。

 だから自分で選ばなければなりません。自分の進む先を自分で決めることなしに、自分が願う先に繋がること、そして、もし繋がらなかったときにそれを自分で受け止めることはできないと思うからです。

 

 かといって、子供にその選択をさせることは重たいことです。だからこそ大人がいるのでしょう。どちらの選択をしたところで、大人がそれを尊重し、サポートしてくれる環境があることが、選択するということから恐怖を取り除いてくれます。そして、司くんはそういう大人なんですよね。

 

 今この場での選択は全てを決めるものではないかもしれません。でも、これから先も様々な選択は続いていくはずです。だからこそ、そこから逃げない心を作ることが大切であると描かれていることが、僕はとても良く感じました。この物語の中に、そうすることが良しとされている価値観があるということが良いと感じたということです。

 

 それを良く思うということは、そうあってほしいのに、世の中があんまりそうじゃねえなあって思っている僕の個人的な感覚の裏返しかもしれません。誰かに選択を求められるとき、そのどちらかが正解かの圧力を感じる時があります。間違いの方は、形式的に提示はされても選べないことも多いわけです。

 そして、そんなやり取りを大人から繰り返されてきた人は、間違いを選んでしまうことのペナルティに怯える学習をしてしまったりします。そのせいで、相手が正解を持っているということを勝手に前提としてしまい、それを探るようなコミュニケーションに特化してしまったりすることがあるように見ています。

 

 実際、大学の先生とかと若者の話をしてるときに、若者が先生が正解を知っていると思って、それを探るような喋り方をするという話を聞きました。僕自身も仕事で若手と接するときに、立場の違いからこちらの意見が強くなってしまい、平場で話せなくなることを危惧しています。自分が言うことがその人にとってのそのままの正解になってしまうことは良くないと感じているからです。

 なぜなら、誰かが正解を示してくれるから、それに従っていればいいんだという考え方は、それが正しいかどうかを追究する姿勢であったり、その正しさを検証するプロセスであったり、それを正解にするために邁進する姿勢に繋がる道を閉ざしてしまうと思うからです。

 

 「魚を与えるのではなく、釣り方を教えるべき」という話がありますが、その、釣り方を教えることも不足しているのではないかと思っています。つまりそこにはまだ、どうすれば魚が釣れるかを考えることや、なぜ魚が必要であるかを考えること足りていないのではないでしょうか?

 それがなければ、誰かが敷き詰めてくれた道の上しか歩けません。そして、その道が、未来永劫最善の道であることは誰にも保証できないのです。

 

 なんかそういうことをもやもや思っていて、指導するということが、指導される側からどんどん考える力を奪っているような実例も見ていたりして、そのやり方は良くないんじゃないかと近年よく思っています。

 指導される側に、指導する側が想定している正解以外を選ばせないでいると、そうやって人を抑圧するのに長けた人の考えを反復するだけの集団になってしまうんじゃないかなと思います。その場合、せっかくたくさんの人がいるのに、結局そこにあるのは一人の考えだけじゃん…みたいに思ったりするんですよね。

 

 と、僕自身の愚痴が混ざり込んできましたが、メダリストで描かれているのはスケートの話で、でも、背後にはこういった人が他人からの様々な抑圧を受ける中で、どうやって自分の道を歩んでいくかが描かれているように思いました。ならば、それはきっと普遍的な話ですよね?

 だからきっと、ここにある精神性は誰にでも分かる話だと思うんですよ。

 

 世の中で、コスパなんていう話が出てくるとき、つまりは、「最初から正解を教えてくれ」という話だったりします。世の中には分かりやすい正解があるものばかりではありませんが、それがあると思っている人はいるわけです。

 ネットで炎上するなんて話でも、よくよく見てみれば、それはただの立場や価値観やそれによる意見の相違であって、どちらが悪いという話ではない場合もあると思います。そこでは、「アナタはこちらの考える正解に則していないから批判されているんだ」というようなことになっていたりするんじゃないでしょうか?

 場の主導権を握って、数が多い方が正解を規定し、それに合っていないからこそ批判をされているという話です。村の掟ですよ。沢山の人から批判をされたくなければ、その「正解」以外のことを口にしてはならないというような空気が作られてしまうのも、なんか気に食わないですよね。ですよねっていうか、僕が個人的に気に食わないんですが。

 それは立場が弱い者から選択するという力をどんどん奪っていくものだと思うからです。

 

 そういうことを日々感じながら、そういう中でやっていかなくちゃならねえみたいな気持ちがあって、その気持ちの中で読んだメダリストの第3話は、すげえ良かったなと思いました。

 9月に第1巻が出るそうです。チェケラ。