漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

漫画に見る、逃げた人の話、立ち向かう人の話

 漫画を読むにつけ「逃げないで立ち向かう」という価値観の方が「逃げ出した」という価値観よりも肯定される頻度が高いように思います。それはおそらく漫画では最終的に主人公側が勝つ物語になる場合が多いからでしょう。逃げ出したということを理由に勝つということはあまり考えられず、逃げ出した人が結果的に得るものは、生き延びたという事実ではないかと思います。つまり、そこで逃げ出さなければ死んでいた(かも)ということです。ただし、中には最終的に生き延びたものが勝ちという価値観もありますね(勝ちと価値がかかっていますね!)。

 

 生き延びた者が勝ちという価値観の代表的な漫画の人物は「バキ」郭海皇です。彼は齢百歳を超えるよぼよぼのお爺さんで、中国拳法における理合の力を象徴するような存在です。

 年齢と修行によって、単純な力を象徴する筋肉が完璧にこそげ落ち、箸と茶碗を持つのにも重さを感じてしまいます。そんな彼が、力の象徴である範馬勇次郎と戦います。その結末は郭海皇の敗北、それも戦う最中における老衰による死によって終わります。しかし、それは擬態の死であり、範馬勇次郎は死んだ郭海皇をそれ以上攻撃することはありませんでした。

 郭海皇は、強大な力の前にある種の技術で生き延びたことに武の勝ちを宣言します。しかし、それを手放しで肯定する人は他に一人もいません。ただし、彼は生き延びた、それは事実なのです。はたして、皆さんは郭海皇を行為をどのように捉えるでしょうか?

 

 逃げることを肯定する人といえば「道士郎でござる」の健助くんもそうです。アメリカ帰りの武士である道士郎から殿と呼ばれるようになった普通の高校生の健助くんは、道士郎の起こすトラブルに何度も巻き込まれて、なぜだかヤンキーたちに尊敬される人物となっていきます。そんな中、健助くんは巻き込まれたトラブルにおいて、適当に負けておいて、その後の平和な日常を満喫しようとヤンキーたちに提案します。しかし、ヤンキーたちが選んだのは、平和な日常よりも最後までボロボロになるまで戦うこと。そこに美学を見出しているのでしょうが、普通の高校生の健助くんは、いや、絶対平和な日常でしょうよ!と思います。しかし、それは叶わないので、戦う羽目になってしまいました。

 そうはいっても健助くんは逃げない子です。正確に言えば、逃げることを是としながらも、決して逃げてはいけないときを知っている子です。だから、普段はいきがっているヤンキーの子でさえ、逃げてしまうようなシチュエーションでも、力が弱くて勝てないことが分かっていても、どんなに格好悪い戦い方をしたとしても、立ち向かうことができる子です。それは逃げて無傷で生き延びることよりも、戦うことで守りたい大切な何かがあるということでしょう。その感情に非常にグッとくるわけですが、そう読んでいるとやはり、逃げることよりも立ち向かうことこそが是という価値観に辿り着いてしまいますね。

 

 「ベルセルク」のロストチルドレンの章では、小さな村の小さな世界から逃げ出そうとする少女が登場します。そんな彼女が足を踏み入れたのは、人にあらざるものの世界、そしてそこは、かつて彼女と同じ世界にいた別の少女が、化け物となることで足を踏み入れた世界でした。主人公のガッツは化け物となってしまった少女を殺し、逃げ出したかった少女は、また元の村に帰ってきます。ガッツは言います。逃げ出した世界もまた戦場だと。楽園なんてどこにもありはしないのだと。

 逃げること自体は否定されていないと思います。しかし、逃げ出したからといって、そこにあった辛さが全くない楽園もまた望めないということです。どこにいったところで、そこに立ち向かうということからは逃れられないと描かれているのかもしれません。

 

 一度は逃げ出した人が、それでも立ち向かうことを決意する物語といえば「ダイの大冒険」でしょう。へたれの魔法使いポップは、強大な魔王の手先を前に、勝てるはずがないと逃げ出してしまいます。その場に残った仲間たちを置いて逃げ出してしまいます。逃げ出した先でポップは、まぞっほに出会います。まぞっほは偽物の勇者のパーティの魔法使いの老人で、彼は逃げ出してばかりだった自分の人生についてポップに話します。逃げ出してしまったポップの姿に、まぞっほはかつての自分を見出してしまったからです。

 ポップは、一度は逃げ出した戦場に、踵を返して再び向かいます。そんなポップがいなければ、ダイたち勇者のパーティは負けてしまっていたでしょう。ポップは勇気の象徴です。逃げ出したいような状況で、それでも逃げ出さないと決意することは、最初から戦うつもりであった人々が戦うことよりも、もしかすると困難なことかもしれません。

 そして、大魔王との苛烈する戦いの中、まぞっほまた、その逃げてばかりだった人生の中で、ようやく力を発揮することになるのです。それは世界を破滅させるような絶望的な状況において、力はなくとも立ち向かうということです。そんな平凡で弱き人々の結束が、あまりにも強い大魔王に一矢報いることになるのです。

 

 「皇国の守護者」で描かれるのは撤退戦です(元は小説ですが漫画版があるのでよいことにしてください)。戦力差のある勝ち目のない戦の中で、自軍の主力を逃がすために、戦うのが新城直衛の率いる大隊です。ここには、逃げる戦いと逃げない戦いが同時に存在します。

 生き延びるために逃げ、彼らを逃がすために戦う者がいます。その戦う者の中でも、その場に留まって戦う者と、敵軍を迎え撃つために出撃する者がいます。留まり、守り抜いた人々は全滅し、出撃した人々は最後には降伏をします。彼らは生き延びるために、負けを選びます。そして、それは主力を逃がすという彼らの目的を達成したと思った後のことでした。死んだとしても最後まで戦うことには意味がないということでしょう。

 

 このように逃げることは時に重要ですが、逃げてばかりでは後悔ばかりが残るということが、多くの漫画では描かれているように思います。そういえば「逃げるは恥だが役に立つ」という漫画もありますね。どこかで戦わなければならない、逃げるだけではダメなのではないか?そういう罪悪感のようなものを持っている人が多いのかもしれません。

 そこに留まって死ぬ(肉体的に死ぬという意味だけではなく、もう少し広い意味で)ぐらいなら、逃げ出したっていいということも言いたくなります。しかし、泥沼化するのは逃げたくても逃げられないときです。逃げられないときには、それなりの理由があるでしょう。

 

 僕は自分でも無茶な仕事のスケジュールを組んでしまうことがあるのですが、もうちょっと楽にすればいいのにと自分で思いつつ、できないことがあります。それは、実はその無茶なスケジュールこそが、もう少し長期の期間を見ると一番楽なスケジュールだと気づいてしまったときです。

 短期的には無茶になりますが、その後の仕事の繋がりを見ると、このタイミングでそれをやり終えておかないと、のちのち余計に忙しくなってしまうことが見えているため、肉体的に楽にするために肉体的にしんどいことをしてしまうという矛盾するようなことをしてしまいます。それは傍から見れば、自ら望んで自分を追い詰めているように見えるでしょう。そして、事実そうです。合理的な理由を元に、自分にとってある程度不利なことをしてしまうという、恐ろしさがここにあると思います。

 そういう無茶をしてこの場に留まるということが、最も合理的であると考えてしまったとき、自分自身をじわじわ削り取っていくような状況なってしまうのかもしれません。逃げるためには、逃げる場所と逃げる経路の確保が必要です。その場に留まることである程度利益がある状態では、逃げ出すということは、その状態を壊して再構築をするということを考えないといけないのです。それはときに困難です。

 逃げることは留まることよりも、大変なことかもしれません。そして、そんな状況に揉まれている間に、逃げ出す体力をも失ってしまうこともあるかもしれません。

 

 逃げ出すということに合理性を確保できないときに、留まることでじわじわとダメージを蓄積してしまう状況は、とても危険なことだと思います。ただ、留まって戦うことで、活路を見いだせることもあるかもしれません。でも、逃げ出すことしか生き延びるすべがないかもしれません。その分水嶺は、明確な線引きがされているものではなく、当事者それぞれに判断を求められてしまうことので、とても難しい状況なのではないかと思ったりします。

 

 世間は、逃げる人に対して残酷なことも多いと思います。なぜならば、逃げるということは多かれ少なかれ現場放棄による責任の放棄とも捉えられるからです。それは他人に不利益を与えることですから、不利益を与えられた人々は正当な権利として抗議をします。そんな抗議に応えることよりも、自分の生存の方が重要であるという考え方もあるでしょう。そして、それに同意する人も多いでしょう。しかし、漫画で言えば、そういうキャラクターに強い嫌悪の表明がされることもあります。

 

 それは例えば、「3月のライオン」において、妻子捨男と揶揄された名前で呼ばれる男性のことです。彼は主人公の零くんがお世話になる川本家の人々の父親で、とっくの昔に妻子を捨てて家を出て行った男です。色んな仕事をしては嫌なことがあるとすぐに辞める。浮気をして家を出ていき、都合がいい理由があると帰って来る。体面を気にして、接する人には平気で嘘をついて、自分がヒーローであるように振る舞い、その実、しんどいところは他人に丸投げして、自分は知らんふり。そして、それをすることが正しいことだと思い込んでいる。そのような人物です。

 彼は何とも戦わず、ただ逃げ回っているような人物です。彼は作中の登場人物と、そして読者に嫌悪の目線を向けられているのではないでしょうか?責任を放棄し、逃げ出す人に対する目線から、それを排除することは果たして可能なのでしょうか?彼の心が、少しのストレスで壊れてしまうような形をしていたとき、それでも責任をもって戦えと言えるでしょうか?言えるのだとしたら、それは彼以外の人々に向けられるということとどう違うのでしょうか?

 

 違う理由はいくらでも考えられると思います。しかし、僕が思うにそれはどこかに線引きをしているだけで地続きです。ここまでは許そう、これ以上は許さない、そのようにそれぞれの人が決めたというだけのことです。人から逃げ場を失わせていることに、自分が全く荷担していないとは言えないのではないでしょうか?それは自分自身を省みても思うことです。

 

 逃げたっていいですし逃げなかってもいいと思いますが、逃げたい状況と逃げられない状況もあり、それは自分自身で作り上げていることも他人から強いられていることもあると思います。それらは物語の中で、肯定的にも否定的にも描かれ、しかし、「逃げない」ということの方が圧力としてはやはり強いのではないでしょうか?

 

 「新世紀エヴァンゲリオン」のシンジくんは「逃げちゃだめだ」と自分自身に言い続けます。それは逃げた方が余計に辛いと思っているからだとも言います。つまり、長期的な辛いことから逃げるせいで、短期的な辛いことから逃げられないという典型的な雁字搦めの状態でしょう。それで潰れてしまうなら、逃げた方がいいんじゃないかと思いますが、逃げないことで道が開けたとき、それを称えてしまうということもあるでしょう。

 シンジくんが逃げ続けていたエヴァンゲリオンの物語において、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・破」では、ついに逃げずに積極的に立ち向かう姿を見せてくれます。そして、それを視聴者である僕はとても肯定的に捉えてしまいました。しかし、それは「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・Q」において、いじわるなことに全く逆転的に描かれてしまいます。逃げてばかりであったシンジくんが、ついに逃げずに立ち向かい、それを人々が肯定的に捉えたとき、その逃げなかった事実が大きな災厄を引き起こし、たくさんの人々に不利益を与え、そして、その責任をとれと迫ってくるような物語となっています。はたして、シンジくんは逃げればよかったのでしょうか?逃げなかった方がよかったのでしょうか?

 それはどちらかに言い切れるようなものなのでしょうか?

 

 さて、「漫画の」ってタイトルをつけて書きはじめたのに、最後アニメの話になったので、タイトルを間違えたのでは??と思いました。

 あと、「からくりサーカス」の「逃げる」「逃げない」の選択肢の話も入れようと思ってたのを書き終わってから思い出しました。