漫画皇国

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他人の言うことをできるだけ聞かずに生活する話

 僕は他人の言うことを聞くのがあまり好きではないので、できるだけ他人の言うことを聞かないで生活したいと思っています。ただ、僕は一人で生きているわけではなく社会で生きているので、生活を送る上で逆に自分の言うことを他人に聞いてもらったりも全然しています。だから、僕も条件次第では他人の言うことを聞くことには問題はありません。というか普通に聞いています。

 でも、やっぱりワガママな人間なので、できるだけ聞きたくないですし、「この人は何を理由に僕に言うことを聞かせようとしているのか?」ということが常に気になってしまったりします。

 

 他人に言うことを聞かせるための代表的な方法は、「お金を払うこと」でしょう。お金を払うという行為はとても素晴らしく、見ず知らずの人間にお金を払うだけで、食べ物を作ってくれたり、車を運転してくれたりします。

 もし、お金がなかったらどうでしょうか?他人の家に入って「僕のお昼ご飯を作ってください」と依頼するとします。お金を払わずにです。相手は「なぜ?」と思うでしょう。見ず知らずの人の車に乗り込んで、「駅まで走ってください」とお願いするとします。乗せてくれる人もいるかもしれません。でも、多くの人は「はあ?なぜ?」と思うでしょう。しかし、お金が介在するとなんとそれと同等のことができてしまうので、とても素晴らしいと思います。

 そういえば以前、ラーメン屋はすごいよ!!って思ったのですが、なぜなら僕がいつ行くかも分からないのに、急に夜中にやってきて、「ラーメンを作ってください」と頼んでも嫌な顔をしないからです。そして、その雑なお願いを笑顔で聞いてくれてラーメンを作ってくれます。さらには、後片づけもせず、最悪挨拶すらしないで、帰っても何も言われません。にもかかわらず「また来てください」なんて言ってくれます。次にいつくるかも分からないのにです。ただし、600円ぐらいのお金を払っています。しかし高々600円です。

 仮に僕が一番仲が良いと思っている友達の家に夜中に突然現れて、「ラーメンを作ってください」って頼んだとしたら、友達はきっと嫌な顔をするでしょう。そして、後片付けもせず、感謝の言葉も言わず、600円ぐらいだけおいて帰ったとしたら、たぶん友情に亀裂が入ってしまうのではないでしょうか?ですが、ラーメン屋はそうではありません。なので、少しのお金でそのようなことができてしまうラーメン屋というお店があってよかったなあと思いました。

 

 仮に人間が平等だとしたら、それぞれの人間の意思は同じように尊重されるべきです。ある人の意思が、別の人の意思を妨げるということは公正ではありません。なぜなら、一部の人の意思だけを尊重するということは、それ以外の人の意思を尊重しないということだからです。これは人間が平等であるという前提と矛盾します。

 しかし、全ての人の意思が平等に尊重されつつ、あらゆる物事が円滑に動くということは、何十億もの連立方程式を一意に解くこととも言えるのでほとんど無理でしょう。なので、人間は平等なのに、その意志が平等には尊重されないという現実があります。

 であるために、その間に潤滑油が必要とされています。そのひとつがお金です。全ての人間の意思が同時に尊重されることが難しいために、お金という数字を使って、あるときに尊重されなかった人に別のときに尊重される権利を与えることができます。他人の言うことを聞いてもらったお金を使って、今度は別の他人に言うことを聞かせることができます。これによってある種の問題が解決されました。ああ、なんとお金とは素晴らしいものでしょう。

 

 さて、僕は他人の言うことを基本的には聞きたくないので、僕に言うことを聞かせようとする人に対しては、「この人は何を根拠に僕に言うことを聞かせられると思っているのか?」ということを常に考えています。

 その意味で「仕事」は分かりやすく、上司やクライアントの指示がありますが、それは僕が仕事で貰っているお金と繋がっているので根拠として理解可能です。直接ではないにせよ、この人の言うことを聞くことが僕が貰っているお金の根拠になっているからです。そしてお金があれば僕の言うことを他人が聞いてくれるので快適に生きるためには仕事をするのはやぶさかではありません。

 僕は親の言うことをよく聞く子供だった(と思う)んですが、その理由はこの人たち(親)が稼いだお金で僕は住む場所があり、食べるものがあると思っていたからです。生育環境における諸事情により、小学校低学年ぐらいからずっとそう思っていました。なので、それ以後、親の判断に逆らったこともほとんどありません。ただし、このような考え方であるために、独り立ちしてからは、言うことを聞くことがほとんどなくなりました。別に親と仲が悪いわけでは全然ないのです。ただ、この人たち(親)の言う通りに生きるという理由を僕は全く持ち合わせていないなと思うので、そのようにしています。

 

 「法律」や「ルール」や「マナー」は、お金以外の他人に言うことを聞かせられるよくある方法です。これらは社会や、もう少し小さいある種の集団に属するために前提として守らなければならないものです。これら「法律」や「ルール」や「マナー」は、人間の自由を束縛するものです。

 例えば、全裸で往来を歩きたいと思ったとします。しかし、それは咎められてしまいます。なぜならそうしてはいけないという法律があるからです。他人が自分に対して、法律という根拠を元に、全裸で往来を歩きたいという意思を否定してきます。これは守るべきでしょうか?

 少なくとも、その社会の中で生活したいならその法律を守るということが必要となるのが現代では一般的な考え方でしょう。つまり、社会の外に出てしまえば守る必要はありません。無人島にひとりで暮らしているなら、全裸で外を歩き回っていても問題がないのです。自分が今属している社会に居座りたいならば法律を守る必要があります。そして、それでも不満なら、法律を変えるように働きかけるという方法もあります。それが実際に通るかどうかは別として。

 「ルール」や「マナー」は、法律よりももう少し小さいものなので、「守りたくないのでその集団を抜ける」という選択も現実的なものとしてあります。僕が昔読んだ本によると、ラグビーという競技は、サッカーをやっていたある人が急にボールを抱えて走り出したことから始まったのだそうです。これはもちろんサッカーという競技においてはルール違反ですが、このボールを抱えて走ることを許容するラグビーという競技が生まれました。ボールを持って走りたい人はサッカーをやめてラグビーをすることができます。

 

 「マナー」というものはルールよりもっと曖昧です。それらは明示されているものではないことも多いので、「マナー違反」ということを根拠に他人に言うことを聞かせられるかどうかは不明瞭です。

 個人的な経験で言うと、以前電車に乗っていたときに花粉の季節で鼻水をずるずる言わせてしまっていたら、隣の席に座っていたご婦人に「鼻水をすするなんてマナー違反ですよ」と言われたので、「なるほど、そういうマナーがあるんですね」と思いました。そしてそのご婦人はポケットティッシュをくれたので、僕はそれで鼻をかむことでしばらくの間はずるずる言わせることはなくなったのですが、それはそうと、そのご婦人がその後お弁当箱を開けてご飯を食べ始めたので、「おっ、この人の中では普通の電車の中でお弁当を食べ始めるのはマナー違反ではないんだなあ」と思ったということがありました。

 ただし、僕は別に電車の中でお弁当を食べてはいけない!というマナー意識を持っていなかったので、特に何もいうことはありませんでした。そのご婦人のお弁当を今食べたいという意思を否定する根拠を何も持っていなかったということです。

 

 この辺りが、すりあわせの難しいところです。「マナー」というものは明文化されていないことも多いので、ある行動が個々人が持っているマナーに合致しているかどうかが共有されておらず、なんでもいいから「それがマナーだ!」と言い張った人が、そう言い張ることで無根拠に他人に言うことを聞かせることができるという道具となり得ます。

 なので、「マナーにうるさい人」というのは、僕の認識では「他人に自分の言うことを聞かせたい人」というイメージがあります。その行為が良いか悪いかは場合によると思います。なぜなら、一部の人にある種のマナーを厳守させることで、その集団の残りの人々が快適に過ごせるようになるかもしれないからです。もし、マナー違反が多発し、その集団に属する人々が不愉快な思いをすることが多くなっていたら、その集団自体が瓦解してしまったかもしれません。

 一方、そのマナーを強要されること自体が不愉快な人もいるかもしれません。その場合、その場所を去ることができますし、マナーを守ることにして属し続けることもできます。

 

 僕はあまり集団に属することを好まないですが、それは前述のように他人の言うことを聞くことをあまり好まないからです。誰の言うこともできるだけ聞きたくないですし、その代わりに自分の言うことを他人に聞かせたいともあまり思いません。皆好きにすればよく、他人に何かを聞いてもらうときには、他人であれば基本的にお金を払うことにしており、あるいは、身内であれば互いに持ちつ持たれつであることなどを重要視します。

 今思いましたが、これもある種のマナーですね。僕と接する人は、「僕に何かを強要するということをしない場合のみ一緒にいられる」というマナーを他人に強要しているのかもしれません。結局そのくびきからは逃れられていませんね。

 

 そういえば、インターネットで何かをしていると、「あなたはもっとこうしたほうがいい」というアドバイスをくれる人がいます。それ自体は別にいいんですが、その人のアドバイス通りにすると何がよいのかが僕はあまりよくわからず考え込んでしまうことがあります。たぶんこの人の言うことを聞けば、この人が好ましいと思っているものに僕が近づくことになるんだろうな?と想像しているのですが、僕がその人が思う好ましいものに近づくことに何の意味があるんだろう?とも思います。

 例えばこのブログでいうと「文章が長い」って言われることがあるんですが、僕は長い文章を書きたいと思って、誰に乞われるわけでもなく勝手に勝手に書いているので、短くしたらその人に「読みやすくなった!」と評価されるとして、僕が長い文章を書きたいことを我慢して短くすること、つまりその人にとって読みやすくなることに何の意味があるのだろう?と思います。

 ネット以外でも、そういうことは今までよくあって「私に評価されたければこのようにした方がいいですよ?」というようなことを言ってくる人がいるんですが、そういうときはだいたい、「この人はなぜ、僕がこの人に評価されたいと思い込んでいるんだろう?」という疑問が頭をもたげます。ただ実際、僕がその人のことがすごく好きで、この人に好かれたい!と思っている場合もあるので、そのときはそのようにしますが、そうでなければ、まったく意味不明な行為だと思います。僕は僕が良い感じに思うようにやっているので、何かを自分が思う通りにやっている時点で完全に目的は達成しているのです。

 

 こういうことを考えていると、不特定多数の他人の評価を受けたい人というのは大変だろうなあと想像します。無数の「私に評価されたければこうしろ」という人の意見に向き合わなければならないからです。それがお金を貰えるものだとしたら、その分、自分が好きにできる余地が増えるためまだ理解可能ですが、そうでなければ自分の望む良い行動ではなく、他人が望む良い行動をとり続けなければなりません。

 そして、もしかすると、その「他人が望む良い行動をとり続けること」が、その人にとって何らかの拠り所になる集団に属し続けるための前提条件とされているのかもしれません。他人の目を気にして、自分だけが望む良い行動をとれないということが、その人にとってどれぐらいしんどいことなのかは人によるかもしれませんが、それでしんどくなるなら止められるようにした方がしんどさは減るのではないでしょうか?

 

 僕はできるだけ集団に属さないので、そんな集団に属するのはやめればいいのにと、そういうものについて感想としては思いますが、それも僕の考える僕の考え方でしかないので、それを他人に強要するということはしないように思っています。

 結局言えることなど何もなく、僕はただ外から眺めているだけなのです。この行為が正しいことだとも思いません。ただ、個人的に楽だからやっているだけです。楽でないと生活がしんどくなるので、しんどく生活するのが本当に嫌なのです。個人のワガママです。

 

 さて、こういう風に振る舞っていると、「この人は本当に何の根拠で僕の行動を縛ろうとしてきているのかが意味不明」という人に時折出会います。その理由がまるで把握できないので、僕はとりあえず、この人の中には「人間が平等である」という前提が全くないのかな?と想像しています。平等でなければ今まで長々と書いてきた話は茶番でしかありません。自分は他人より偉いのだから、自分より偉くない他人たちは自分の言うことを聞くべきであるという前提の構築だってあり得るからです。

 じゃあ、僕がなぜ人間は平等だと思うのかというと、それも別にとりたてて大きな根拠があるわけではなく、ただそう思っているだけなので、そんななんとなく思っただけのモノサシで世界を測ること自体に無理があるのかもしれません。難しい世の中です。

 

 僕はこの「なんとなくそう思った」というのはすごく強い感覚だと思っているのですが、なぜなら、それは根拠のない確信なので、反論を寄せ付けないからです。人は目の前にいる相手を自分と同じ考えに誘導しようとして、論理や倫理や正義などを使うものだと思いますが(なぜならそれは従うべきものという暗黙の前提が共有されがちだからです)、根拠のない確信は、それらのどれひとつにも依拠しないので、それらをどれだけ用意して物量で攻め立てても籠絡の糸口がないのです。

 例えば、自身の考えがもし、正義を根拠にした論理に基づいていれば困ったことになります。相手が自分の正義を貶め、論理の矛盾を指摘すれば、そこに根拠がなくなるので、考えを取り下げざるを得ないかもしれないからです。であるからこそ、僕が思うに、どうしても守りたい一点に関しては、理論武装などむしろ不要、ただただ確信だけを携えておけば他人の理屈に従わずに済むことになります。相手が提示するあらゆる理屈に対して、「でもなんとなくそう思ったんです」と言い続ければ、相手が根負けして諦めてくれます(ただし大抵バカと罵られます)。

 そうすることで自分の大切なやつは守ることが可能ですが、その集団には居場所がなくなる可能性も高いので、居場所が欲しい人はやるべきではないかもしれませんね。しかしながら、そのような結果、僕の人と密な交流はあまりしないものの、一人で本を読んではきゃっきゃする生活が守られているのです。

 

 今はこれが楽しいのでそうしていますが、どこかのタイミングで感覚が代わったら、他人の言うことを聞く代わりにまた何らかの集団に属するようになるかもしれません。それが起こったとき、その理由はおそらく「なんとなく」だと思います。