漫画皇国

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「ガンバ!fly high」を久しぶりに読み直した話

 ガンバ!fly highは、中学生の藤巻駿が、全くの初心者であるにもかかわらず、「オリンピックの金メダルをとりたいんです」などと無茶な宣言して体操部に入部、最終的には金メダルをとるというお話です。リオオリンピックの体操の中継を観ていて、すごく良かったので、思い出して漫画を読み直したりしたんですが、こっちもほんと良かったです。

 

 なんというかこう、僕は時間の流れが感じられる漫画が好きで、最後の方の巻を読んでいるときに、最初の方の巻のことを思い出して、「ああ、あそこからここまでやってきたんだなあ」という道のりのことを思ってしまうと感極まってしまうんですが、丸1日で34巻プラス外伝1巻を読み直して、実時間ではたった1日前に読んだところなのに、その道程を考えると、とてつもなく前だったような気がして、色々あった、色々あったんだよと思い、じんわりとした気持ちが心の中に広がりました。

 

 主人公の藤巻駿は体操の初心者なので、最初はろくな演技もできないんですが、なんと、そんな状態で大会に参加するはめになります。そこではとてもとても恥ずかしいことになってしまいます。なぜなら、ろくな演技もできないのに、沢山の人が見ている中で、何かをしなければならないからです。そんな中、駿は自分にできることをやってみます。でも、それは評価されるために最低限必要な要素も満たしていなかったりして、笑われてしまいます。点数も最低です。そこが駿の原点です。全てはそこから始まりました。

 

 体操、だけには限りませんがこの種の競技の面白いところは、点数がつくというところだと思います。それはつまり、その競技が成り立つためには、演技者だけでなく採点者が必要だということです。

 このような採点競技ではもちろん、感情の入る領域をできるだけ排し、誰が付けても同じような点数になるように採点基準が明確化されているものでしょう。そうでなければ、結果に人間同士の間の好き嫌いが採点結果に強く関わり過ぎてしまうからです。でも、それでも人間がやることです。人間がやるということは、そこからシステマチックに感情を排したとしても、それでも残る感情的な何かがあるはずです。ガンバ!fly highでは、また、その領域についても描かれていると思います。

 

 良いか悪いかが点数によって判断されるということは、面白い状況だと思います。なぜそれを面白いと思うかというと、何かに点数がつけられる際には、しばしばその主従が逆転することがあるように思えるからです。つまり、良いものだから点数が高くなるということが、いつの間にか、点数が高いから良いものであるということになってしまったりします。でも、つけられた点数と良し悪しは本来は別々のことではないでしょうか?点数が高いのは、採点基準に照らし合わせればそうというだけで、その演技を見た人が感動したかどうかとは必ずしも一致しません(もちろん、一致する場合も多々あります)。

 ガンバ!fly highでは、ある技に失敗した人が、同じ技をもう一度やり直すという描写が繰り返し登場します。そして、そのたびに「同じ演技をやり直して成功したからといって、点数評価からは除外されてしまう」という事実と、「だから大会で勝つためには意味がない」という視点が登場します。

 事実そうでしょう。点数を追うだけなら、意味がありません。最後までやったところで、その点数は切り捨てになるだけかもしれません。価値観が点数だけならそうかもしれません。でも、そうじゃないものがあるということが繰り返し描かれます。

 念のため書いておくと点数をつけることが悪いと描いてあるわけでもないと思います。そこに「点数以外の価値観が登場しない」という状態に疑問を呈しているということなのではないでしょうか?なぜなら、体操選手の演技を見たとき、そこには、点数化とは必ずしも繋がっていないある種の感動が存在するからです。それが「ある」ということを描いているのだと思います。

 

 この物語は、素人ながら「金メダルをとる」という大それたことを言った少年が、その時点では誰もそれが叶うことを信じなかったのに、ついに成し遂げてみせるというものです。誰もが笑ったその夢を実現することは、笑った人たちを見返してやる物語とも読めるかもしれません。だとしても、駿の心の中には、そういう要素はなかったのではないでしょうか?

 駿はロシア人コーチのアンドレアノフに体操を教わります。アンドレアノフが説いたのは「楽しい体操」です。その「楽しい体操」というものは、誰かを見返して「ざまあみろ」と思うようなものではなかったからです。体操は他人に見せて評価を受けるものではあるものの、それ以前に自分との戦いであると説かれます。

 

 同じ技をやり直すことはその象徴的なものでしょう。失敗は人の心を縛ります。それまで一度も失敗をしたことがなかった人が、ある印象的な失敗をたった一度してしまっただけで、その後、今までは意識せずともできていたことをできなくなってしまったりします。それを乗り越えなければなりません。それは他人が代わってやってくれるものではありません。自分が乗り越えなければならないものです。誰しもそれを乗り越えて前に進むものなのではないでしょうか?

 

 自分との戦いを乗り越えて、他人を感動させる演技に繋がります。しかし、そこにある他人の目とは、採点基準という他人に決められた価値観に合わせることだけなのでしょうか?点数上は同じでも、よりよく見える演技について物語の中では語られます。誰もやっていない技は、基準がないために個性がありますが、だからといって、誰もやっていないということだけを追い求めても仕方がありません。自分と戦い、他人を魅了する演技、そして、それでいて点数も勝ち取るというなんとも欲張りなものです。

 様々な価値観が絡み合い、舞台が大きくなればなるほどに強烈なプレッシャーが襲ってきます。その中で、プレッシャーと戦いながら演技し、失敗したとしても立ち上がり、克服し続けること、その根本には「楽しい体操」があったように思います。

 チャレンジをし続けた先が金メダルです。これは物語ですから、作り事です。でも、作り事とはいえ、色々あったわけです。それが辿り着いた果てから見れば、金メダルに至る、感慨深くなるほどの道のりがあるわけです。その道のりを思うとき、胸の内に湧く感情があるわけです。

 

 この物語はシドニー五輪で結末を迎えますが、連載終了後に描かれた外伝があります。その外伝の主人公は、岬コーチとアンドレアノフの息子ミハイルです。彼は、伝説的な存在となった藤巻駿の技を、自分もやってみるために、彼の補助であった上野のもとを訪れます。体操選手としての壁にぶちあたっていたミハイルは、そこを抜け出す術を駿の体操に求めたのです。それは、ミハイルが子供の頃、ビデオで見た、彼の原点です。藤巻駿の楽しい体操が、次世代の体操選手の種を蒔いていたということです。それは駿がアンドレアノフに教わったように。駿の偉業は簡単には真似できないことですが、続く人がいるということです。時代はその担い手の手によって先に進んでいるのです。

 さて、この外伝のエピソードの時代設定が2016年なのですが、後書きを読むと15年も先のスゴイ未来世界のことと書かれていて、しかしながら、もうそこに辿り着いてしまいました。この15年のことを思うわけです。物語の中で時間は経過し、現実の日本の体操はオリンピックで金メダルを取りました。

 ちなみに僕は体操は小学生のときでやめてしまいましたが(実はやってたんです)、体操ではないにせよ、連載完結から15年という時間の流れを思い出したら、色々あったなあと思います。15年前にこの漫画をリアルタイムに読んでいて良かったなあと、15年後の今読み返して思いました。