漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

否定形の言葉は強いが使い過ぎると迷走するのでは仮説

 これは最近色々悩んでるので、それに関する話です。

 

 スティーブ・ジョブズ氏がなんかのスピーチで言ったという「Stay Hungry, Stay Foolish」っていう言葉を日本語に訳すとき、どうやって訳しますか?直訳で「貪欲でいろ、馬鹿でいろ」と訳してもいいですが、「今に満足するな、賢ぶるな」というように否定形で訳した方がしっくりきたりしないでしょうか?

 僕の感覚では、何かを肯定形で言うよりも、同じ方向性のことを否定形で言う方が言葉として強いような気がします。少なくとも日本語では。他の国の言葉については分かりませんが。

 

 もしそれが一般的だとすれば、人が日本語で主張する場合、否定形を使った方が得ということになるでしょう。

 

 最近、お仕事で新しいことを始める感じのことを進めているんですが、話を進めていると「何をやるとよいか」という話の何倍もの「何をやってはいけないか」という話が出てきます。それ自体は別に悪いことではないとも思うんですが、そのままの調子で考えると、やってはいけないことの無数に埋まった地雷原の中で、か細く開いた歩ける場所をおっかなびっくり歩くしかなく、その道が続く先は、たまたま辿り着けた場所であって、そもそもどこに行きたかったのか分からなくなることがあるように思います。場合によってはやってはいけないことだけで目の前が埋め尽くされ、先に進む道が全て閉ざされてしまうことだってあるかもしれません。

 そこで指摘される、「こういう問題がある」「ああいう問題もある」という指摘のひとつひとつはとても正しく、まあそうだよねーという内容だったりもするのですが、結局そのやってはいけないことの隙間に針を通すようにして辿り着いた先が、本当によいものであるかは誰も保証してくれないわけです。なぜなら、何がよいかという話をろくにせずに辿り着いた先だからです。

 

 これはひょっとすると当たり前な話なのかもしれないのですが、こういうとき標語みたいなものがあると助かるなと思いました。標語とは、その仕事に参加する全員が理解すべきもので、それに照らし合わせて選択が正しいのかどうかを判断するための手がかりのことです。

 例えば「世界最速の計算機を作る」というのは標語です。あらゆる選択は、それが世界最速の計算機を作ることに照らして正しいか?という目で見られます。その過程で問題が出てきたとしても、それを正面から解決しようとすることが世界最速から遠のくのであれば、その対応は間違いということになります。なぜなら目標は世界最速なのだから。途中で出てきた問題を解決するために世界最速を捨て去るのであれば、じゃあ、そもそも何のためにそれをやっているんだという話になってしまいます。

 

 つまり、そもそも何を生かすべきかという話で、それを生かす前提で何を犠牲にするかを考えなければなりません。生かす対象がなければ、そこに出てくるあらゆる問題に対する抵抗の力がなくなるでしょう。だから、無数の問題に正面から対応して対応するはめになり、最終的に何を作りたかったのかわからないものができたりします。

 怒られなかった子は、怒られなかった子であって、褒められる子ではありません。褒められたければ、褒められるということを第一の目的にしなければなりませんし、その過程ではむしろ怒られてしまうことだってあるでしょう。

 AとBの対になるものであったとして、Aの反対はBとは限らないわけです。Aではないものの中にB以外の無数のものが存在する領域があり得るからです。

 

 こういうことを思うと、僕自身の経験で言えば、学生の頃に漫研に所属しながらも漫画は全然描かなかったなーというところにも通底する話かもしれません。描きたいことがない一方、描いてはいけないことばかりが目に入っていたからです。

 世の中には「べからず」の情報が沢山蔓延しているような気がします。そのような、「あれをしてはよくない」「これをしてはよくない」という情報を無数に集めても、その結果、足の置き場がなくなるだけなんじゃないかと思っていて、じゃあ、「何をしたいのか?」「そのためには何をしなければならないのか?」というところに目を向けないと、結局行動に繋がらない感じがするんですよね。

 

 漫画を描く上でのべからずの例では、「人の顔やバストアップのみばかりの絵で出来た漫画はよくない」みたいな話は何度も聞きました(漫画を描いたことがない人からでさえ)。でも、僕には顔やバストアップの絵しか描けませんでしたし、じゃあ漫画は描けないなと思ったりもするわけです。でも一方、浦沢直樹の漫画なんかを読むと、1ページが顔のアップの絵ばっかりだったりすることもあります。でも、それで全然悪くないんですよね。表現したいものに合致していると思うからです。じゃあ、何でそのような顔漫画は悪いっていう話になっていたかっていうことですよ。

 それは例えば、同じ角度の絵しか描けないということは絵を描く能力として低いということに起因するかもしれません。能力が低いのだからそれは悪いことだという寸法です。でも、必要な技術領域は、何を描きたいかによって変わるものでしょう?男しか出てこないお話においては、女の絵を描くのが下手ということは何の足かせにもなりません。ただ、いざ女を描きたいと思ったときに困るというだけのことです。

 結局描きたいものがあれば、手段がどうであれ手元にあるものを組み合わせて、なんとか描いてみりゃいいわけですが、そう思うに至ったのが割と最近です。なので、割と最近は出来はどうあれ漫画を描けるようになったんですよ。

 

 あれはいけないこれはいけないという話が蔓延しやすい理由は、もしかすると、その方が他人の何かにケチをつけやすいからかもしれません。漫画が100点満点で合格点が70点だったとき、50点の漫画を描いた人がいたとします。僕なんかそうですよ。でも、その50点の漫画の悪いところを指摘できる人は51点でしょうか?僕が思うにそれは違っていて、1点なんだと思うんですよね。だって、その人が50点分の漫画を描けることはどこにも示されていないから。

 その中で1つの問題を指摘できたとしても、その人が表明したのはその1点だけだと思います。でも、世の中では結構違いますね。その指摘をした人が、自分が51点であるかのように振る舞うことも多いからです。なら100点の漫画にケチをつければ限界突破で101点ということになってしまいます。

 自分という人間の点数が高いということを主張したい人は、既に点数が高いと世の中で言われているものにケチをつけられるところを見つけたがるんじゃないでしょうか?それによって自分はそれより高い点数であるということを誇示できるからです。でも、それを101点だと思うのは実は間違いであって、1点じゃないかと思うわけですよ。そんで、そんな1点を無数にかき集めたからといって、自分が100点に到達できるとは限らないじゃないじゃないですか。

 

 薄々感づいている人も多いと思いますが、僕は今文章を否定形で書いています。これは強さのある文章だと一瞬でも思いませんでしたか?誰か否定すべき対象を見つけ出して、その悪さをあげつらったとき、自分自身の良さを何ひとつ証明していないのに、そんな悪い奴らよりも上等だなんて思ったりしませんでしたか?僕自身そういうのから自由になれないのが辛いって話なんですよ。

 インターネット見てみたら、そういうのいっぱいあるわけじゃないですか。「何をどうしたいか」「そのために自分は何をすればいいか」という話ではなく、自分とは逆の立場にいる人の間違いを探してあげつらい、「間違っている人たちを否定しているのだから自分は正しい」という立場を得る方が、楽に強く振る舞える方法に見えたりするでしょう?そして、ネットに長くいる人たちが、どんどんそっちにハマってしまい、みんなが注目する何かの悪さの逆を言うことばかりにご執心になっているのを見て、なんだか辛えなという気持ちになっちゃったりもするわけです。

 はいはーい、これもそう、これも否定形、僕も否定形ばかりですよ。気にしていても同じことをしてしまうのは、どうにも抜け出せない蟻地獄みたいなもんですよ。

 

 誰かを馬鹿と罵ったところで、自分が賢いことが証明されるわけでもないし、誰かの狂気を嘲笑ったところで、自分の正気が保証されるわけでもありません。ただ他人を馬鹿と言った人、他人を狂気と笑った人でしかないじゃないですか。

 

 結局のところ、何か物を作るときには「自分が何をしたいか」に向き合うしかないんじゃないかと思っていて、それを満たすことを第一の目標として、その上でその過程で出てくる様々な問題に対応していくしかないんじゃないかと思います。他人を否定する強い言葉を使うのは一見強いですけど、結局それは基準を他人に求めているのだし、つまりは他人に寄生した意見でしかないわけじゃないですか。それでは価値の主体は否定しているはずの他人の側にあることになってしまいます。

 そんなことより、自分がどうすればよりしっくりくる感じにやっていけるかをまず地固めしたほうがきっと迷わずに済むんじゃないかと思うんですよね。

 

 仕事の話については具体的なことは書けないのですが、その仕事で目指すべき目標の確認は、今は何度も何度もしています。話の中で人から否定的な正論コメントがあったときにも、あなたがおっしゃっていることは確かに正しいが、でも、それだと目標からは外れるんですよねー?じゃあどうすればいいと思いますか?それを考えましょうよ、みたいなことを言いまくり、なんとかひとつひとつ問題をクリアして、じりじり前に進んでいる気でいます。でも、それにしたって、僕が考えている「良いこと」が、本当に世間一般での「良いこと」と一致しているとは限りませんし、結局は失敗してしまうかもしれません。

 でもなんか、いざ失敗したときに、自分は正しいことを言ってたが、反対する人たちが多すぎて上手く行かなかったというような自分にとって都合がいいストーリーにまとめてしまうのもありがちでしんどいんですよね。たとえ失敗したとしても、少なくとも自分の考えが全く間違っていたという結論が出るようにしたいなと思って、新しい仕事を進めていたりします。

 そしたら、次はもうちょっとましになるかもしれないし、次の次はもっとましになるかもしれないし。

 

 これは悪口ですが、人が何かを主張するときに、その人自身の中から出てきた価値観を説明しているのか、自分が主張したいことの逆側の立場の人のことを否定して主張しているのかは見た方がいいと思っています。後者は結局どこにも辿り着かないかもしれません。つまり、この文章もまた。