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結局どうなればいいと思いますか?関連

 会社の仕事とかで取り組むことが多いこととして、色んな人の意見が嚙み合わないことがあって、それをいい感じに着地させるということがあります。

 例えば、何かを進めようとする人と、それに反対する人がいたとして、それぞれ言い分はあり、どちらかが一概に正しかったり間違っていたりなんかはしないことが多いです。でも、噛み合わないからといって方向性が定められないと、そのまま何も動かずに停滞してしまいますし、その時間は無意味なので、噛み合わない立場の人がいる中でも何らかの方向性を示さなければなりません。

 

 そういうときに言うことが、「結局どうなればいいと思いますか?」という問いです。

 

 例えば、何かの仕事を進めようとする人と、何かの仕事を進める上ではこんなリスクがあると指摘する人がいたとします。リスクの指摘が厳しく進める側が上手く対応できないと進められなくなってしまいますが、とはいえリスクを無視して進めるのが良いわけもありません。そういうときに、結局どうなればいいと思いますか?という話をします。

 それをリスクを指摘する側にとっても、その「どうなればいい」が「進めたい」のであれば、リスクがあるという指摘を踏み台にして、どうすればリスクに対応しつつ進められるか?と一緒に考える話にしていきます。それはつまり、「どうなればいい」が「リスクに対応しながら進めたい」ですよね?と全体で合意をとるという話です。

 そこまでできれば、進める前提でそれぞれが何をすればいいかを話し合うようにすればよくなります。

 

 一方でそれが「この仕事を止めたい」という目的の指摘の可能性もあります。リスクの指摘はそのための一手段であるので、そもそも進めたい側と止めたい側のすれ違いがあり、そもそもやるべきなのか?という話になっていきます。そういったときに、進めたい側が頑張って指摘されたリスクへの対策を立てるというのは、実はコミュニケーションのすれ違いであって、その前のやるべきかやるべきではないかの領域で話をしないと時間を無為に消費してしまいます。

 だって止めたいと思われているのだから、リスクに対策を立てても方法を変えて、別の止めるための指摘が来るでしょう。このように、その場にいる人の目的がどこに向かっているかの確認は、意見を合わせて次に何をするべきかを考える上でとても重要です。

 

 例えば、僕が以前「こういう人間は漫画を描けるようにならない」というワナビー叩きの話題が盛り上がっていることに噛みついていたのは、「その話をした結果、どこに辿り着くのか」を考えると不毛だなと思ったことが一因です。つまり、「漫画家志望者に対して、お前のような人間は漫画を描けるようにならない、と否定的に語る」ということが、もしかするといつか面白い漫画を描けるようになるかもしれない漫画家志望者の歩みを止めることはあっても、彼らが漫画を描けるようになるための手助けには決してならないだろうな、と思うということです。

 僕は1作でも多くおもしろい漫画を読めれば嬉しいので、そういった、いつか漫画を描けるかもしれない人の歩みを止めることしかできないような物言いをされることが、個人的に迷惑だなと感じます。ワナビーへの叩きや嘲笑をやった結果として得るものって何でしょうか?他人を馬鹿にするのが面白いという人が、その一瞬楽しいだけの話じゃないですか?

 

 その話題のときにもらったコメントの一つは「こういうモノになりそうにない志望者は、早めに強く否定して諦めさせ、会社に就職させた方がいいから、自分は良いことをしている」というような内容でした。そこには理はちゃんとあると思います。僕の話は僕が漫画を読みたい話ですが、その人の話は漫画家志望者の人生を心配してのことだと思うので、至りたい場所が異なりますし、意見が異なるのは当然だなと思います。

 

 でもそれならば、その人が会社員になる道を選べるように手助けをする部分がされていないのが気になってきます。それをやらないなら、結局本当は心配なんかしていないと思うからです。その場合、結局言われた側には自分の夢を強く否定されたという部分だけが残り、漫画も描けず、就職も応援してもらえず、余計に人生が停滞してしまう方向になってしまうのではないでしょうか?

 

 そんな他人の人生にまで責任がとれないと言われれば、そうかもしれません。ではなぜ、漫画家志望者に対して漫画を描けないというのは、見ず知らずの他人なのにしゃしゃり出てきているんですかね?話のつじつまが合わないなと思います。

 ともあれ、それをやったところで何かが良くなることがないなら、良くなることをした方がいいなと思うのが僕のスタンスです。

 

 この話は、僕がコミュニケーションをとれる範囲の漫画家志望の人と、よりよくなるコミュニケーションをとっていくことで対処していくつもりなのでそれでいい話なのですが、この話を通じて言いたいことは、「結局あなたがその人に対してそれを言ったことで、どうなると思っていて、それはあなたが目指すところと合致していますか?」ということを確認していくことが、色々な話の上で大切なことだなと思っているということです。

 

 勉強をせずに遊んでばかりの子供を𠮟りつけたとして、本当は「勉強をしてほしかった」のだとしたら、𠮟りつけることが子供が勉強を自発的にしようとする動機になり得ますか?というようなことをよく思います。叱りつけることは、親に遊んでいる姿を見せないようにしようとする効果はあったとしても、勉強を積極的にするようにさせるための行動は何一つしていないと考えられるからです。

 

 なので、あなたはどのようになってほしいと思っていて、今している行動はその目的に近づくための最適なルートですか?ということは常に考えた方がよく、勉強をさせたいなら、勉強をする結果に繋がっている必要があって、そこがずれていると気づいたならば、合わせるように調整した方が目的地が近くなると思います。

 そうすることによって、目的地に近づかないことによるイライラもなくなってくるかもしれませんし、その方がいいと思います。

 

 必要なのは選択肢だということです。

 

 叱ることはできても、それ以外ができないのであれば、それができるようにサポートした方がいいと思います。これは僕が今書いているこの文自体にも当てはまっていて、「叱るだけは良くない」と指摘したところで、それもまた叱るしかできない人を叱っているのと同じであって、目的に合致しないため、そこで終わると自己矛盾をしていると感じるからです。

 なので、よくなる方法を選んでいくことが大事だという話をします。会社の部下の仕事の進みが悪いなら、なぜ進みが悪いんだと叱りつけるより、その人が何に困っていて、それをどうやったら解決できるかを一緒に考えていくことが大切です。

 なぜなら一緒に仕事を進めていく仲間であり、その人が仕事を進めるということが、僕個人の目的と合致するからには、そうすることが自分にとって一番良い選択だと感じています。

 

 困っている人に対するアドバイスも、それを言われた側が、それによって困っていることから解消されるかどうかをまず考えた方がいいと思います。よくあるのはアドバイスというていで、あなたが上手くいかないのはあなたが悪いという意味のことだけを言っており、それは結局、言われた側の自罰感情を煽るだけでより困ってしまうようなことです。

 誰かを馬鹿にしたいという目的であれば、それで手段と合致しているかもしれませんが、もし本当は何らか力になりたいと思っているのであれば、その齟齬には気づいて解消した方がいいと考えています。