「葬送のフリーレン」のエピソードの中でもかなり好きなのが黄金郷のマハトのエピソードです。
葬送のフリーレンにおける魔族は、人間とは根本的に異なる存在として描かれており、その行動に人間と同じような感情のようなものを人が見出したとしても、それはそのように見えるように振舞っているだけであり、その奥に人間と同じような感情はありません。哺乳類のクジラが、海に生きる収斂進化のために、どれだけ魚類に似た特徴を持っていたとしても、あくまで哺乳類であって魚類ではないのと同じです。
ただ、人間は人間でないものにも人間を見出してしまうものだと思います。なので、人間ではない魔族を、人間と同じように共感しようとしてしまうことによって失敗もしてしまいます。
さて、黄金郷のマハトは人間に興味を持ち、人間と共存してみようとした魔族です。ただし、それは親人類的な温厚な魔族であったわけではなく、共存してみようとするまでは何の感情もなく魔族として人を殺し続けてきましたし、その中にはとても残酷なやり方もありました。マハトは人類からしてみれば決して許せない存在です。
しかし、たくさんの人を殺す中で人間の感情に興味を持ったマハトは、利害関係の一致した人間、グリュックの手引きで人間社会の中に入っていきます。共存のために人を殺すことをやめ、その姿はまるで感情を持った人間のように見えることもあります。
魔族であるマハトには支配の石環という道具がつけられることになります。それによって、マハトがもし人間に対して悪意や罪悪感を抱いてしまうと、それが発動して死に至るようになります。それは危険な魔族を人間の中に置くという安全装置となります。
この道具の登場が、このエピソードのとてもすごい部分だと思っています。例えば、そこでどのような展開があり得るかを考えれば、マハトが人間のような感情を抱くことで死に、魔族にも人間のような感情を感じることができたということをドラマチックに描くことだってできると思います。しかしながら、この物語ではそれは起こりません。支配の石環は最後までマハトを殺さないままです。
マハトはその後、再びたくさんの人を殺しますが、支配の石環は作動しません。そこに悪意や罪悪感はないからです。マハトは魔族であるからです。
支配の石環の存在はつまり、このエピソードで起こったあらゆる出来事のどれひとつとして、マハトに人間のような感情があったから起きたわけではなく、それは最後までなかったのだということを明示してくれます。もしかしたら、あの時の行動はマハトの中に人間のような感情を生んでいたのではないか?という読者側の推測を一切否定するものです。読者はそれを考えてしまうものだと思います。なぜならば人間だからです。
僕がこのエピソードで良かったと感じたところは、このマハトには最後まで人間の感情を理解することも共感することもなかったということで、その上でマハトは本当に、人間と共存しようとしていたことも描かれたことでしょう。
マハトは自分にとって大切なはずのものを傷つければ、自分にも感情を理解できるのかと考え、一番近くで共存していた人間、グリュックを黄金に変えます。しかしマハトは結局何も感じませんでした。ただ、グリュックはマハトを共感はせずとも理解していました。マハトのその選択を、マハトならそうするものだと受け入れる様子を見せます。
マハトはその大きな力を使って、感情を知るために長い時間をかけて多くのことをします。人を殺し、人と共存し、人を殺しました。感情を知るためなら死んでもいいと思っていました。しかし、結局マハトは感情を知ることはできませんでした。
ただ、同じ感情を知り、共感できるから共存できるのではなく、そんなものはなかったとしても、それぞれの利害がたまたま噛み合ったというだけでも、自分とは異なるものがそこにいることを理解するだけでも、共感できない者同士が、互いに殺しあう以外の結末だってあったということがここでは描かれます。
マハトとグリュックの間にあったものは友情と言っていいと思います。そこに感情の共感がなかったとしても。
僕はこれは希望的な話だと思うんですよね。そもそも同じ人間だからといって、他人の感情が理解できているでしょうか?僕には他人を理解できている自信はありません。共感できない相手は沢山いると思います。それでもそんな人間が集まって社会をやっています。
そのとき、共感ができない相手だからと争うしかないことが良いことでしょうか?そんなことをしていれば、世界はどんどん小さくなっていくと思います。最後まで相手に共感できなかったとしても、どんな人間であるかは理解はできますし、それができれば共存もできるかもしれません。
世の中はそうあってくれた方がいいと思うので、だからとても良い話だなと思いました。