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「ダイの大冒険」のヒュンケルにおける光と闇の葛藤が生み出す人間性関連

 「ダイの大冒険」の再アニメ化が発表されましたね!!僕は生まれて初めて買った漫画がダイの大冒険の4巻なので、めちゃくちゃ思い入れがあります。自分が好きな物が世間でも好かれているとめちゃくちゃ気分がいい体質なので、これを機に今の若い人にもダイの大冒険が好きな人が増えたらいいなあと思っていて、少なくともその邪魔をするような老害の動きだけは決してすまいという決意があります。

 

 さて、今回は僕が色々参考にしているヒュンケルの話を書こうと思います。記憶だけで書いたので、細かいところ間違ってるかも(免罪符)。

 

 ヒュンケルは悲しい生い立ちの男です。赤ん坊の頃から心優しい魔物に育てられた少年のヒュンケルは、そののちに勇者アバンに弟子入りをします。しかし、それは育ての父の敵討ちのためでした。勇者が魔王を倒しに来なければ、彼の育ての親である魔物は死ななかったと思ったからです。才気あふれるヒュンケルはアバンの下でめきめきと力をつけ、ある日ついにアバンに襲い掛かります。とはいえ、魔王を倒した勇者アバンにまだ少年のヒュンケルが敵うはずがなく、負けて川に流されていたところを魔王軍のミストバーンに助けられました。その後、ヒュンケルはミストバーンの下で暗黒闘気を学んで力をつけ、人間の身でありながら魔王軍の6人の軍団長のひとりにまで登りつめます。

 そして、ヒュンケルは、主人公であるダイやポップ、マァムと同じアバンの使徒でありながら、彼らの前に立ちふさがるのです。

 

 さて、その後ダイたちに敗北したヒュンケルは、様々な葛藤を乗り越えて再びアバンの使徒として人間側の味方になります。ピンチのときに現れる頼もしい味方としての活躍をしはじめ、かつて得意とした暗黒闘気を捨て、光の闘気によるグランドクルスという大技も身につけて戦うのです。

 ヒュンケルは強く、カッコよく、頼もしく、そして活躍します。

 

 しかしながら、かつての師、ミストバーンはそんなヒュンケルを「弱くなった」と表現しました。

 

 それはヒュンケルの力の根源は、その内在する葛藤にあったと看破するからです。アバンを仇敵として恨んでいた(それは結局勘違いでしたが)とはいえ、アバンから与えられる愛情にも気づいていたヒュンケルは、アバンに対する恨みと思慕の両方の感情を同時に兼ね備えていました。そして、光と闇の2人の師匠を持つヒュンケルは、光の闘気と暗黒闘気の両方を使いこなすことができます。相反する2つの力をその身に備えたヒュンケルは、反発し合うその相克から爆発的な力を発揮していたのだと、ミストバーンは語るのです。

 しかしながら、光の闘気ばかりに頼るようになったヒュンケルからはその葛藤が消えてしまいました。だから弱くなったのだとミストバーンは語ります。だから、ヒュンケルは再び暗黒闘気を受け入れ、その身を悪に染めることでまた大きな力を得る賭けに出ることとなるのです。

 これは作中では主に戦闘力の話として語られましたが、同時にキャラクター性の話でもあります。つまり、キャラクター性が強い存在とは、その身の内に葛藤を抱えているということです。

 

 ヒュンケルの抱えていたキャラクター性とは、決して許してはならない仇であるアバンに惹かれてしまうが、それを認めることができないという相反する感情の揺れ動きにあったのではないでしょうか?もし、分かりやすい正解があったならば、そこにドラマは生まれません。

 「人を信じることが常に正しい世界」であれば、容易に人を信じる選択をとることができます。しかし、信じることで大きな損失を伴う可能性があるとき、「信じていいのか?信じてはいけないのか?」の葛藤が生まれます。人を信じることが正しいことを描こうとするとき、それが「人を信じたら得をした」という物語となることは良いことでしょうか?それは、「人を信じることが正しい」と言いたいだけのために、都合よく逆算して作られた茶番のようには思えないでしょうか?

 人を信じることで大きな損をするかもしれない、それでも、人を信じるのだということを描くということ。そしてときに人を信じてしまったことで大きな損失を被ってしまうこと。現実がそうである以上、信じることが正解に決まっている世界で人を信じることではなく、現実と同じように人を信じることが必ずしも正しくないという葛藤がある前提に立たなければ、読者には響かないのではないでしょうか?

 

 「幽遊白書」でも、強くなるためには私を殺せと言った幻海に対して、幽助は、すごく考えたが答えが出せなかったと言います。幻海はそんな幽助に合格を出します。強くなるために師匠を殺すという結論に飛びつける人間には力は渡せないし、かといってすぐに殺さないという結論に達することができる毒気のないやつも嫌いだからという理由です。これもまさにヒュンケルが直面した問題と同じではないかと思います。

 

 このような、敵側にいたときには魅力的だった存在が、いざ仲間になると魅力が減ってしまうという問題は、漫画にはたまにあるものです。それはどんどん強くなる敵に対して、仲間になったキャラクターの強さが追いつかなくなるという問題もあるかもしれません。しかし、上記のように、仲間になった瞬間から、キャラクターとしての葛藤を失いがちであることも関係があるのではないでしょうか?

 葛藤がなく最初から答えが決まっていれば、もはや人間性は存在しなくてもいいわけです。だって答えなんて決まっているのだから、その後に起こることは予定調和でしかありません。

 敵同士がたまたまの一時的な利害一致で共闘するのは興奮しても、最初から仲間ならばそれは普通のことです。読者としての僕は心を揺らされたいので、前者を好むわけです。

 

 ドラゴンボールでも、いつの間にか完全に仲間になってしまったベジータが、バビディの力を受け入れてその精神を悪に変容させる展開がありました。ベジータはだんだんと穏やかになっていく自分を好ましくさえ思っていたと独白します。そして、そんな自分がとてつもなく嫌になり、あえて悪になる道を選んだのです。どうですか?ここにも葛藤がありますよね?そして、その選択によって魔人ブウの復活を手助けしてしまったベジータは、その責任をとるという決断もするのです。彼は間違った選択をしました。しかしそれでも、そうせざるを得なかったのです。このエピソードはベジータという男が何であるかを理解するためにとても重要なものでした。

 ベジータは、最終回近辺で悟空をナンバーワンだと認めてしいます。そこから葛藤が消えてしまいます。それは最終回が近いからこそ許されることであって、続編の「ドラゴンボール超」のシリーズでは再び悟空よりも強くなろうとするようになりますよね?これは当然のことなんじゃないかと思っていて、悟空のことをナンバーワンと思うようになってしまったベジータからは葛藤という魅力がなくなってしまうからだと思います。

 

 ヒュンケルは、再び暗黒闘気を受け入れるものの、それを強靭な光の闘気で抑え込むということで強い力を獲得します。そしてその後のキャラクターとしての表現方法はその逆です。アバンの生存を喜ぶ仲間たちとは別に、アバンのことを口では戦力外だと悪く言いながら、誰にも見せない涙を流すのです。その喜びを悪く振る舞うことで覆い隠そうとします。その葛藤のある姿はとても魅力的ではないですか。彼はそのままたったひとりでしんがりを務め、命を賭しての戦いに挑みます。

 一方で、ヒュンケルがもうひとりの師であるミストバーンに見せたのは、ある種の慈愛のような心でした。彼を悪の道に引きずり込み、最後は道具として使おうとしたミストバーンに、それでも弟子としての理解を見せ、最期の引導を渡すことになるのです。

 終盤のヒュンケルの姿は、一度はただの心強い仲間という面白みの少なくなりかけていたキャラクター性から、再び自身の抱える葛藤を取り戻し、魅力的なキャラクターとして全てに始末をつける存在に回帰したのではないかと思います。このあとは最終回なので、ここで葛藤を全て失ってもよし、というか、葛藤を抱えた人間が、それを解消する姿を見て、読者は感情を動かされたりするものですからね…。

 

 僕は自分が漫画を描くときには、このことを結構意識していて、魅力的に見せたいキャラクターの内面には相反する感情を同時に存在させることでなんか上手くいかないかなあという試みをやっています。とりわけアマチュアの描いてる漫画なんて、基本的に皆読みたくはないものだと思いますから、分かり切った価値観の中で分かり切った正解に向かっても、その他の表現力が拙いのだから読んだ人の心に響かせることができないんじゃないかなと思うんですよね。なので、こういう技を使っていますし、僕が描いた漫画を読んだことのある人は、「おっ、使っとるな」と思うんじゃないでしょうか?

 

 というか、そもそも人間がそうですからね。そうそう簡単に人間の生き方の正解なんていうものは分かりませんし、自己矛盾したようなことを言ってしまったり、それに気づいて恥ずかしくなったり、求められている正解は分かっても、そうはしたくない別の感情があることに気づいたり、なんかそういうものじゃないですか。

 人間は相反する感情を持ったりしますし、差別はいけないと心の底から思いながらも、見下している人間がいることにも気づいてしまったりもするわけじゃないですか。

 

 僕はそういうのを人間っぽいなと思っているという話です。ダイの大冒険には、ヒュンケルだけでなく様々な矛盾を抱えた人々が出てきます。これまで説明した見方をちょっと当てはめただけで、何人ものキャラクターが思い浮かぶのではないでしょうか?そんな様々な人間が登場するダイの大冒険の再アニメ化、めちゃくちゃ楽しみですね。

 来年まで生きよう。