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生の映画を観ているようなモンだよ関連

 皆さんは「こづかい万歳」を読んでいますか?こづかい万歳は、おこづかい制で生活をしている作者の吉本浩二先生をとりまく、おこづかい制で生活する人々の節約生活を追ったドキュメンタリー的な漫画です。その中に、作者の子供の頃からの友人である村田さんという人が、駅の邪魔にならないところに立って、行き交う人を見ながらお酒を飲むという「ステーションバー」という概念が登場する回があります。

 

「生の映画を観ているようなモンだよ…」

 

 これはそんな村田さんの言葉です。駅を行き交う人々の様々な様子に個々人の人生を、想像しながら眺め、感動して涙ぐむのです。

 これはとても面白かったエピソードなんですが、これ以後、僕が人と話すときに、何か感動するような場面が話に出てくるたびに「生の映画を観ているようなモンだよ」と言っており、めちゃくちゃ影響を受けているんですが、でも、「生の映画」ってなんでしょうね?そんな言葉があるんでしょうか?

 

 僕が思うに、生というのは「加工されていない」ってことだと思うんですよね。基本的に僕らが普段目にする映画は加工されているじゃないですか。制作者の意図があって、観た人にどんな気持ちにさせたいかという気持ちがそこに込められていることが多いと思うんですよね。

 でも、生の映画は、その意図が最初からないんだと思います。なぜならそこに、監督も脚本家も撮影者もいないからです。加工しているとするならば、観ている人自身がやっていることだと思います。自分が目にする世界を自分で切り取って編集し、理解した内容で自分で感動しているんですよね。これはかなり高度な行動だと思いませんか?

 

 目の前で繰り広げられる他人の行動はどうしても断片でしかありません。足りないピースは自分の想像力で補って、感動できる感情回路やストーリーを見出してひとりで勝手に感動しているということなんですよ。物語の自給自足じゃないですか。

 

 でも、よく考えたら僕たちもこのような種類のことを普通にやっていますよね?例えば、野球を筋書きのないドラマだと表現した人がいました。例えば、身内の子供の成長を見たりして感動したりします。

 映画はそんな誰かの経験を生の映画として抜き出して加工し、固定化させている装置と捉えることができるかもしれません。つまり映画の感動は、元を辿れば誰かの個人的にしか分からない経験を、もっと誰にでも分かるように置き換えて編集し、パッケージングしたものです。世の中に沢山ある映画の、元の元にはその制作者が感じた生の映画があったりもするんじゃないでしょうか?

 

 そんな行為を、駅で行き交う人を見るだけで出来てしまうステーションバーの村田さんはすごいなと思いました。僕にはとてもできない。

 

 でもなんか、こういうのができるかできないかって、スポーツとかを楽しむうえで重要なスキルなんじゃないかと思うんですよね。何かを見て自分の中で感動を呼び起こす行為です。僕はこれが上手くできないので、スポーツ観戦とかで熱狂するのが難しいんだと思っています。

 そういうのが上手くできない人は結構いるように思います。なぜなら、例えば、スポーツの大会を見て興奮しても、頑張って何かを成し遂げているのは、他人であって自分ではないとか思ってしまうためです。

 ちなみに「最強伝説黒沢」と「ブルーピリオド」では、このようなスポーツへの熱狂から、これは自分の物語ではないと覚めてしまうという物語の始まり方をしていました。それも全然分かりますけど、でもまあ、それはそれとして、他人の人生に勝手に感動したりしてもいいじゃないですか。

 

 だって、そんなことを言い始めたら、漫画を読んで感動したりするのなんか、自分の人生でもなければ、そのように作られているって話ですよ。感動するように仕組まれた作り事を見てまんまと感動してしまうだって虚しくなってしまいませんか?でも、感動はするわけですよ。僕は現にしています。

 むしろ、僕のように共感性が乏しい人間にも分かるように作られているから、作者によってパッケージ化された物語に感動をしやすくなっているのかもしれません。。

 

 きっと世の中の多くの人が、程度の差はあれステーションバーなんですよ。自分の外側にあるものを見て、足りない部分は想像力で補って、その様子に一喜一憂したりするわけじゃないですか。

 人間社会は、どこもかしこも少なからず駅ですよ。人が行き交い、出会い、別れ、そこにドラマがあります。自分がその行き交う人になることもあれば、それを観ているステーションバーの人にもなるわけです。

 

 なんか上手いこと言おうとしてミスった気がしますが、こづかい万歳には色々詰まっているので、読んで色んなことを思いましょう。