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「竜とそばかすの姫」と間違いながらも行動すること関連

 この前、金曜ロードショーでも放映されていた「竜とそばかすの姫」は、変なところも沢山あるけれど好きな映画で、それは作品に感じたメッセージ性に対して、僕自身が共感するところが大きくあったことと関係しているのではないかと思います。

 

 竜とそばかすの姫の世界は、世界中の人がアクセスするネットサービス「U」を舞台装置として紡がれる物語で、主人公は日本の田舎に住む一人の女の子です。彼女は自分に対して自信がなく、そして、幼い頃に失った母親との関係や、上手く行っているとは言い難い父親との関係の中で鬱屈した毎日を送っています。

 

 そんな彼女が得意だったのは歌。そして、姿と名前を変え、接続したUの世界で、彼女は歌姫として世界中の人々にもてはやされるようになります。もてはやされる以上は、批判もされます。賞賛と同時に、悪口を言われたり、その正体を暴こうとする人も出てきます。

 実生活とは切り離されたUの世界では、外面をコントロールすることが容易です。人は見せたい姿をUの中で振る舞い、そしてしばしばそれは実生活の姿とは強く乖離しています。

 

 そんな主人公のすずは、歌姫ベルとしてUの中での生活を獲得します。そして、彼女は竜と呼ばれる存在に出会いました。竜は痛々しくも見えるアザを持ち、Uの世界を暴れまわる存在です。竜は強く、目立ち、それゆえにその存在に対する反発者たちも沢山います。

 ベルは竜と出会い、そしてこの物語のクライマックスは、ベルが竜を救おうと足を踏み出す場面です。

 

 さて、僕がこの映画のどこに共感性を見出したかというと、「行動をすること」を描いているところです。そして、そこに見出せる意味は、正しさとは別の話です。たとえ多くの間違いを含んでいても、行動をすることは世の中には必要なことがあるということを描いているんだなと思いました。

 人間が常に正しくいられる分かりやすい方法は、「何も行動しないこと」です。行動さえしなければ、他人から自身の行動について、正しかったとか間違っていたとかを言われることはありません。だから、他人が行動をすることを見て、全てが終わったあとに、それが正しかったか間違っていたかを評論するような立場をキープしていれば、多くの場合で正しかった自分で居続けることができます。

 でも、じゃあそうやって何も行動しない人ばかりだったらどうなるでしょうか?

 

 竜の正体である少年は、とても苦しい状況におかれていて、そこから抜け出すことができません。彼に対して「助ける」と言ってくれた人はこれまでにも沢山いました。でも、実際に助けてくれた人は一人もいませんでした。みんな正しいことは分かっていて、こうすればいいということを口にしてはくれますが、それでも誰も自分を実際には助けてなどくれないわけです。みんな所詮は口先だけだという絶望を、他人に頼っても仕方がないという無力感を少年は吐露します。

 それゆえに、すずの少年への「助ける」という言葉も届きません。言葉は伝わっても、そこには行動が伴わないければ、その重さがゼロだと感じてしまうからだと思います。

 

 すずは自分を信じて貰うため、この自分が、Uの中でかつてベルと竜として出会った人間であることを証明するために、正体がバレ、誰かに嫌がらせをされるかもしれなくとも、自分の素顔をさらして、自分を信じて貰うために歌を歌います。

 

 ちなみに本作は、主人公であるすずの声優を中村佳穂が演じていて、中村佳穂の歌の力を、物語と映像を使って十全に表現することが出来さえすれば、それだけで見る価値のある映画だと思います。

 

 すずの母親は氾濫する川での事故で亡くなりました。他所の家の子供を助けるために、周りが止めるのも聞かずに川に足を踏み入れたわけです。結果として母親は亡くなりました。母親は正しかったでしょうか?正しくはなかったと思います。だって死んでしまったのだから。救うのだってプロに任せるべきです。

 でも、誰もが傍観する中で、たった一人、行動をしました。待っていたら手遅れになるかもしれなかったからです。そこに意味はなかったのでしょうか?たとえ間違っていたとしても、それでも足を踏み出さなければならない状況というものが、人生にはあったりはしないでしょうか?

 

 正しくありたいだけなら何もしなければいい。全てが終わったあとで、誰かを間違っているとあげつらい、あるいは、誰かが行動する前に、間違っていると言って、失敗したときに「ほらみたことか」と嘲笑えばいい話です。でも、自分の行動が正しいか間違っているかも分からない中で、人を助けるために動かないといけないというときはあるのではないかと僕は感じていて、その「たとえ間違っているかもしれなくても動く」というところに、自分の気持ちがある話だなと思ったりしました。

 

 例えば、誰かがお金に困っているときに、困らない世の中の方が良いとか、この人が助かって欲しいと願っても、実際にお金を渡す人がどれだけいるかという話です。もちろん、そこでお金を渡す行為はそこそこ間違っています。一人の人間が救えるものには限度がありますし、その関係にリスクもあります。そういったことは行政に任せるべき仕事でしょう。それはとても正しく、そして、お金に困っている人は結局お金に困ったままだったりします。誰しもが、その人を助けるのは自分の仕事ではないと思っているからです。

 

 僕がそういったことに色んな感情があるのは、僕自身が生きるための金に困っていたときに人に金を借りに行ったら、断られまくったあげくに、金を貸すという行為の不正義であったり、今金を貸さないことこそが僕のためであるという理屈であったり、色んな人の色んな正しい話を聞いた経験があるからです。そのとき僕は、結局困ったときには誰も助けてなんてくれないんだなあと思いました。

 僕に金を貸さないと言った人の披露する理屈と、自慢気でこちらを見下した表情については、別の今さら怒ることもないですし、そもそも金を借りに行って貸してくれないからって僕に怒っていい道理もないだろうとも思うので、向こうが悪いとも思わないんですが、同時に、一生忘れないだろうなとも思っています。

 

 「はい、みなさんとても正しい。そしてその正しさは僕を救ってなどくれない」、この気持ちは僕の心の中に一生くさびのように刺さったままなんじゃないかなと思っています。

 

 そういう気持ちがあったので、作中の竜の少年に対する、「その気持ち、めっちゃ分かるよ!」っていうのがあったんですよね。そこに、「あるよね」と思ったことと、「その方法はどう考えても間違っているが、それでも手を差し伸べてくれる人の姿を描いた」という部分に、これは良い映画だったなという気持ちが生じました。

 「仮に全てが間違っていたとしても、それでも自分を助けてくれた人」というのは、僕が人に助けを求めていたときに、一番来てほしいかった人だったからです。そしてそんな人はそのときの僕にはいなかったからです。

 

 僕は最終的になんとかなりましたが、それは教育制度という個々人の行動によらないレベルのデカい仕組みにしがみついた先になんとか出来たことなので、実際は人が助かるには既にあるデカい制度に捕まるのが助かる可能性が高いと思います。

 なんせ、世の中は誰も助けてなどくれないので(根に持つタイプ)。