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「フラジャイル」の宮崎先生の独り立ちエピソードがめちゃくちゃ心にきた話

 アフタヌーンで連載中のフラジャイルはめちゃくちゃ好きな漫画なのですが、前回と今回の2ヶ月で描かれた宮崎先生の独り立ちエピソードが読んでいてめちゃくちゃ心にきてしまい、朝の電車で読みながらほろりほろりと泣いてしまいました。

 

 フラジャイルは病理医の漫画です。病理医とはドクターズドクターとも呼ばれる病理診断を行う専門医で、例えば患者の体組織や細胞片のサンプルを使った診断を行ったり、患者の死亡後に解剖してその診断が正しかったかの答え合わせを行ったり(剖検)します。患者と直接相対することは少なく、裏方のような役回りです。この物語の主人公は岸先生、独善的で傲慢に見える男で、十割の確定診断を行うと豪語する変わり者です。彼は正しいがゆえに他の臨床医を打ち負かし、正しいがゆえに疎まれます。

 なぜならば、臨床医や救急医にとって、正しさは常に正しくはないからです。それは例えばリソースの不足で、患者や緊急性に対して、十分な人数や時間がない場合、その正しさを正しく履行するための余力がない場合があります。あるいは、責任の問題です。病理医の診断はあくまで病理医の診断であって、最終的に患者への対応を決め、その責任があるのは臨床医や救急医です。その責任を抱えた医者は、他人の判断よりも、自分の判断をしたいこともあるでしょう。なぜなら、その責任は自分に返ってくるからです。

 

 この物語は「責任」の物語であるかもしれません。誰かの判断が、患者の生死を決定づけてしまうかもしれないからです。この物語は「覚悟」の物語であるかもしれません。その判断が常に成功するわけではなく、失敗してしまう場合もあるからです。その失敗を乗り越えて先に進まなければならないからです。

 

 (ここから先は未単行本化部分のネタバレが含まれますのでご注意)

 

 宮崎先生は、ある出来事から岸先生のもとで病理医になることを志すようになった女性です。彼女は、自分の正しさを背景に他人に強く当たる岸先生とは異なり、人の和を大切にしようとする人物です。彼女は岸先生を反面教師とし、臨床医ともスムーズに連携していこうとします。相手を立てるように、摩擦を減らすように、その中にさりげなく自分の意見を混ぜ込み、誰も否定しないように、伝え、共有し、自分が初めて独りで任された診断をやりとげようとします。

 あらゆる可能性を疑い、仮説を立て、検査し、エビデンスを元に診断し、寝る間も惜しんでの没頭の末に、誰も原因が分からなかった患者の病気の根本原因を探し当て、主張します。

 

 しかしながら、患者は死亡します。その最終的な診断が出るよりも前に生きる力が弱り果ててしまっていたからです。自分なりのベストを尽くし、自分の中でこれ以上ない正解だけを引き当てて辿り着いた結果が、遅すぎたということです。それを宮崎先生は自分の力不足だと思いました。そして、剖検によって自分の判断を答え合わせをすることになります。自分は本当に正しかったのか?それを自分自身で採点することになるのです。次のより良い診断のために、次の次のより良い診断のために。

 

 その結果、彼女が至った結論は自分の判断の間違いでした。継続を提案した投薬の効果は一切見られず、そのために患者は弱っていったのです。診断が出るまで耐えることもできずに。自分の持てる限りの精一杯の正解を出し続けて辿り着いた先が力不足です。自分のせいです。助けることができなかったのです。それは医者を続けていく以上、これから先に何度も遭遇するものかもしれません。しかし、彼女はそれに耐えられないかもしれない心持になりました。自分の判断が人を死なせてしまう。そんな自分の情けなさを、これから先もずっと経験し続けなければならないのかと。

 

 これはとても辛い話なわけですよ。因果関係には保存則はありません。過程を頑張ったという事実は、その結果が良いものであることを一切保証しないのです。でも、人の心は違うでしょう。求めますよ。人間なんだから。じゃなければ、どうやって次を頑張ればいいんですか??自分の頑張りが実を結ばない環境に居続けるには、その無力感に耐え続けるか、心を殺してひとつひとつに責任を感じることをやめてしまうぐらいしかないじゃないですか。それはとても悲しい話ですよ。病理専門医になろうとした彼女の心に、その決意を揺るがせるぐらいには重く苦しい出来事です。

 

 岸先生だけが気づいていました。患者の検体の様子のおかしさにです。宮崎先生が指示した投薬の継続をしていれば、こんなことになるはずがないということに。そう、彼女の提案を、臨床医は無視したのです。自分の判断で投薬を中止していたのです。それが継続されていれば、間に合ったかもしれないのに。

 患者をみすみす死なせたのは誰か?その臨床医は、目の前で自分の力不足に苛まれる宮崎先生を見ながら、諦めのような笑みを浮かべています。

 

 助けられたかもしれない命を、助けるためにマイナスの判断をその臨床医はしました。果たして彼は悪者でしょうか?どこかしら悪い部分はあるでしょう。しかし、その患者は、彼にとっての恩人でした。誰より助けたかったのは彼自身のはずです。そして自分の判断は副作用を恐れた投薬の中止です。それに反対したのは、宮崎先生です。北風と太陽などと言いながら、にこやかに接してきた、まだ専門医の資格も持っていない病理一年目のペーペーの女性です。彼はそれを信じることができなかったわけですよ。そこに賭けることができなかったわけですよ。患者は恩人なのだから。目の前の小娘の判断で恩人を死なせてしまう後悔よりも、自分が判断したという事実を得たかったわけですよ。そこには一切のエビデンスはありません。そこにあったのは、想いです。あまりに人間的な彼の判断は、宮崎先生を無視し、患者をみすみす死なせてしまいました。

 

 「仕方ない、わかるだろ」、吐き捨てるように言う臨床医の言葉に「わかるわけないだろ」と宮崎先生は答えます。

 

 それは岸先生のような北風ではなく太陽になろうと志していたはずの人間から出た言葉です。わかるわけがない。わかってはいけない。仕方がないと諦めることから何よりも遠かったのが、宮崎先生がこの診断にかけた姿だったわけじゃないですか。それは無駄になりました。次は無駄にしてはいけません。もし投薬継続の指示が彼女でなく、岸先生から出た言葉であったなら、その臨床医は投薬を再開したかもしれません。自分の言葉が、自分の言葉だったからこそ相手に届かなかったという事実に直面したわけです。だからこそ彼女はこう言い切ります。

 

 「今後、私の病理診断は絶対です」

 

 悔しさに涙を浮かべながら辿り着いた言葉がこれです。「絶対」、それは岸先生と同じ言葉じゃないですか。自分は岸先生とは違う道を歩もうとした結果、同じ場所に辿り着いてしまったわけです。ただ闇雲に自分の正義を押し付けるような岸先生の過去にも、同じようなことがあったのではないかということを示唆させたりもするわけですよ。

 人間の体にはメカニズムがあります。何かが起こっているということには、必ず原因があり、そこに辿り着くのが病理医の仕事です。診断は丁半博打をやっているわけではないわけですよ。確率の話ではなく、根拠を持った話をしなければなりません。それを調べてエビデンスのもとに辿り着くのが病理医の仕事であって、それが岸先生の言う十割の診断です。たまたま間違わないわけではなく、間違わないためにできる全てを行った背景があるから出てくるのが「十割」「絶対」という言葉じゃないですか。
彼女はこれから先、それをやることにしたわけじゃないですか。

 

 彼女がこの失敗で足を止めずに前に進むことを決意したことは救いですよ。躓いた一歩目の先に、二歩三歩と進んでいくことが見えたのが、読者である僕にとって救いのように感じました。仕方がないという言葉で諦めてしまう誘惑にかられるのが仕事です。お金や時間や人手から、実際に諦めざるを得ないこともありますよ。でも、それでいいのかという燻りがあるわけですよ。

 北風と太陽の作戦には失敗しても、宮崎先生の姿はそれはやはり太陽なんじゃないかと思っていて、僕はそこに、挫折と悲しさの先に、なんて強さと希望に満ち溢れたお話なんだろうと思いました。

 いやもう、ほんと好きな漫画なので、世の中でもめちゃくちゃ読まれてほしい~という気持ちです。