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「すずめの戸締まり」が良かった関連

 すずめの戸締まりを観ました。良かったです。

 すずめの戸締まりは前作、前々作に続き、ある種の災害を舞台とした物語で、本作ではより具体的に実際に起こった災害に触れる形で描かれたのが印象的でした。その災害とは東日本大震災です。

 

 本作がどのような物語であったと僕が感じたかと言うと、「この世界を生きて行く物語」です。そして、そこで明確に描かれていたと感じたものはどうしようもない喪失です。人は自分ではどうしようもないことで、取り返しのつかない喪失を体験したりします。そして、その喪失があまりにも大きすぎるために、その場に近づくことを止めたり、忘れてしまったりします。

 僕がこの物語に対して感じたのは、喪失が確かにあったことを見つめること、そして、それを忘れないこと。その上でこの人生を前向きに生きて行くことではないかと思い、そこに、そうだよなあという気持ちになりました。

 

 本作は、宮崎から物語が始まり、フェリーで愛媛にわたり、明石海峡を通って兵庫に辿り着き、新幹線で東京、そして自動車で東北に移動する物語です。その過程で、様々なかつて起こった災害の爪痕を目撃し、そこにある後ろ戸と呼ばれる、この世に災害を引き起こす普通の人の目には見えない存在を封じることで災害を未然に防いでいきます。後ろ戸に鍵をかけるときに必要なことは、かつてこの地にいた人々の声を聴くことです。

 これはつまり、ここにかつて人がいたこと、今はいないこと、そこには何らかの災害があったことを思い出すことではないかと思います。

 

 つまり、この物語は、災害があったことを人が忘れようとすることに対して、「忘れてはならない」という注意喚起のようなメッセージ性があるように思いました。かつてあったことを忘れてしまえば、再び災害が起きたときにその教訓が生かせなくなります。

 象徴的なのは東北の目的地に向かう途中の福島での風景だと思います。そこには綺麗な風景が広がっており、そして、そこは事故のあった原発があった土地です。それを単純に綺麗だなと思ってしまうことは、素直な気持ちである一方で、そこであったことを忘れているということです。それは風景を美しく描いて来た新海誠が描くからこそ、より強いメッセージを持つのかもしれません。

 

 前々作の「君の名は。」は隕石の衝突という災害に対し、時間を超えた力により、本来そこで亡くなったはずの人々を助けることができた物語でした。それは都合がよい話とも言えますが、フィクションの中でぐらい喪失を癒すための都合がよい話があってほしいという気持ちもあります。

 前作の「天気の子」は、災害を止められたはずの主人公たちが、一人の少女がそのために犠牲になるという人柱を否定し、止まずに降り続ける雨を受け入れ、その結果の水没する街というショッキングな光景を、「仕方がなかった」ではなく「自分たちが選んだ」と、その加害性を自覚する物語です。

 

 本作は災害の原因を生き物のように描き、ある種の人柱(要石)がそれを封じることができるという天気の子からの共通点があります。また、本作にも君の名は。のように過去と現在が交錯するような場所が登場しました。しかし、君の名は。で描かれたように「過去を変えて助ける」ことはできません。起こったことは起こったこと。そして、その場所で失われた誰かに再び会えるわけでもなく、見つけるのは時間の流れで隔たった過去と現在の自分自身です。

 この部分が本作で一番良かったと感じたところです。現在の自分から過去の自分を見ることで、薄れかけていたがそこに確かにあった取り返しのつかない喪失を描きつつ、そして、今の自分がその先を前に歩いているということから、その明日を生きていくということ、つまり、過去を忘れてはならず、それでいて過去に囚われない今を生きるということ、その生き方を描いていたということです。

 

 そういえば、見ている最中には大きく2点、どう理解すればいいかよく分からなかったところがあって、ひとつ目は、結局のところ、お話の中で起きたとんでもないことの原因は、すずめが何気なく要石を抜いてしまったからで、個人のうっかりが引き起こした問題を個人が収めるというだけの話ではないか?と思ったところでした。それはつまり、自分のやらかしたことの責任を自分でとろうとしているだけで、他の人たちはそのうっかりに理不尽に巻き込まれているだけなのでは?という座りの悪さです。

 しかしながら、最後まで見て思ったのは、これは最初から最後まで個人の話だったという理解となって、ならばこれがいいんだろうなと思いました。すずめは忘れてしまっていた過去を思い出し、そして今度は忘れずに生きて行くという話になるからです。

 そしてすずめは、どこかの誰かではなく、自分を重ねる対象です。

 

 もう一点の気になった部分はかつて災いを鎮める要石であった猫のダイジンです。ダイジンは物語の終わりで大臣は再び要石にもどってしまいますが、結局要石に戻っていいのであれば、ダイジンは何をしたかったんだ?という疑問がありました。

 この部分の理解は、ダイジンの「すずめの子供にはなれなかった」という台詞で、それはすずめが叔母の子供として震災の記憶を忘れて育ったことに重なっているように思います。つまり、ダイジンもまた災害のことなんて忘れてしまいたかったのかもしれません。しかし結局、そういうわけにはいかないという結末と考えることができます。

 すずめとダイジンの存在は相似形です。ダイジンが要石の役割を別の誰かに押し付けられなかったように、すずめも自分の過去を思い出し、抱えて生きていくことになります。

 

 君の名は。以降のある種の災害を舞台装置とした物語は、描くべきことを描き終えたように思いました。本作が前作や前々作をアップデートした答えと捉えているわけではありません。前作や前々作を合わせることで、描くべき領域を全て描いたように感じたということです。

 過去の悲劇を無くすことができる嬉しさも、その悲劇が決して覆らないものであるという苦しさも、自分たちに何かができたという可能性も、自分たちが何かをしでかしたという加害性も、災害のその周辺にある様々な立場を描いて、3部作として終わったような気がしました。その辺を含めてよかったなと思いました。

 

 東日本大震災から10年以上の月日が経ち、とりわけ当事者以外の記憶から薄れてきたからこそ、直接的にその災害を描いた映画も作れたのではないかということと、逆に、そうやって薄れてきたからこそ、忘れてしまうことがなく、再び思い出し、胸に刻んでおいてほしいという意味合いがあったのではないかと感じました。

 

 最後にどうでもいい話ですが、本作ではジブリ映画のサンプリングがいくつもあり、例えば「耳をすませば」や「魔女の宅急便」はかなり具体的に作中に要素として登場します。その意味を考えたのですが、本作が宮崎県から始まり、宮崎県に帰って来るアニメ、つまり、「宮崎アニメ」だからでは??ということを思ったので、インターネットで流行りの「考察」として書き記しておきます。