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ポケモンの自己同一性問題(またはスワンプポケモンの話)

 スマートフォン用の位置ゲーム、「ポケモンGO」が日本でも配信されたので、流行に波乗りしてやり始めました。しかし、遊んでいるうちに哲学っぽい感じの問題に行き当たったのでシェアさせて頂きます。

 

 ポケモンGOは位置情報をベースに、色んな場所にいるポケモンを捕まえて育成し、バトルするというようなゲームですが、僕はまだまだぼちぼちしかやっていないので、気が向いたときにアプリを起動して、近くにいるポケモンを集めたりしているだけの感じです。このゲームでは、ポケモンを集めたり、ポケストップと呼ばれる各地に点在する目印となるオブジェを訪れたりすることで、経験値を得てレベルを上げていくことになるのですが、ある程度レベルが上がってくると、より強いポケモンが登場しやすくなってきます。そこで行き当たる問題こそが「ポケモンの自己同一性問題」です。

 

 「花の慶次」で主人公の前田慶次が、獰猛な巨馬と親交を深め、「松風」と名をつけた故事にならい、僕はポケモンGOで捕まえたポケモンに次々と「松風」という名前を付けていました。そんな適当な動機でも名前をつけてみると愛着が湧いてきます。

 にもかかわらず、前述のように、初期に手に入れたポケモンよりも、レベルが上がってから手に入れたポケモンの方が強く、育成するにしても、既にある程度強いものをベースにした方が楽なのです。おかげで、ゲームを始めたばかりに手に入れ、名づけ、育てていた愛着と思い出のあるポケモンを「より強いポケモンを手に入れたので」という理由で手放すという決断を迫られてしまいました。

 

 本作では、余剰なポケモンは博士に送りつけることで代わりに育成に使える飴と交換してもらえるという仕組みです。つまり、あるポケモンを育てたければ、同種のポケモンをガンガン捕まえて交換し、より多くの飴を手に入れることが重要です。しかし、新しく手に入れたポケモンよりも、最初の方に手に入れたポケモンの方が愛着があり、手放したくないという気持ちと、手放した方が効率よく遊べるという気持ちの狭間で、僕は揺れ動くはめになってしまいました。

 この板挟みの中で僕が至った結論は、愛着のあるポケモンを博士に送る前に、名前をデフォルトの種族名に戻し、新しく手に入れた強めのポケモンの方にその名前を襲名させるという儀式を行うということです。これにより、僕の気持ちとしては、同じ名前で同じ姿なのだから、こちらは最初からいる僕のポケモンだという気持ちになりつつ、効率よく遊べるようになりました。これは、複数の問題を一度に解決する「アイデア」だと思ったわけです。

 しかし、気づいてはいけないのは、あくまで名前を勝手に襲名させただけで、最初のポケモンとは別れてしまっているということ、そして、彼らとは二度と出会うことができないだろうということです。これはよく考えるととても恐ろしいことです。つまり、ポケモンにおける自己同一性とは一体何だと考えるべきなのでしょうか?彼らは何をもってして、別のポケモンと区別され得るのでしょうか?

 

 スワンプマンという思考実験があります。ある男性が雷に打たれて死ぬと同時に、その雷によって近くの沼に化学変化が起こり、今死んだ男性と原子レベルで全く同じ物理構成の存在が生まれたとします。同じ物理構成なので、沼の男(スワンプマン)は、自分と同じ構成の存在が今ちょうど死んだこともしらず、家に帰って家族団欒を過ごすでしょう。しかし、元の男性は死んでしまっているのです。その事実には彼の家族の誰一人として気づきません。そして、彼自身も気づかないのです。果たして、死んだ男性とは何なのでしょうか?そしてスワンプマンとは何なのでしょうか?

 

 これと同じような問題をポケモンGOポケモンは持っています。今僕の手元にいる松風という名のコラッタは、多分七代目ぐらいです。松風(コラッタ)の前には6体の松風(コラッタ)がいます(飴と引き換えにされて、もういません)。しかし、姿かたちからは新旧個体の区別がつきません。パラメータは異なりますが、そこはあまり気になりません。特に強さに関わるパラメータが向上していることは喜ばしいこととさえ思います。名前は同じ松風です。この松風と、消えていったかつての松風たちは何が違うのでしょう?そして、僕は、消えていった松風たちのことを忘れてもいいのでしょうか?

 

 このような問題は漫画の中にも時折登場します。ある重要な登場人物が死んでしまったあと、同じ顔をした別の存在が登場するということです。そして、おそろしいことに新しい存在が登場したことをきっかけに、いなくなった古い存在の記憶は徐々に薄れていってしまいます。例えば「はだしのゲン」では、物語の序盤、ゲンと弟の進次のコンビが活躍します。しかし、悲しいことに原子爆弾の投下の日、進次は死んでしまうのです。その後に現れたのが、進次と全く同じ顔をした少年、隆太です。隆太がいることは、進次が亡くなった悲しみを和らげてくれます。無論隆太は隆太であり、進次ではありません。でも似たポジションに、似た存在がいることが、喪失を忘れ去れてしまうということはあるのではないでしょうか?

 「幽遊白書」の飛影は、母親の形見の氷泪石を探す旅を続けていました。その中で彼は、自分の石を見つける前に、妹の雪菜が持っていた石を受け取ってしまいます。それは自分の石ではないということは分かっています、しかし、分かってはいるもののそれによって、「かつて自分の未熟さにより失ってしまった石を探し当てる」という目的は薄まってしまいます。目的を見失った飛影は死に場所を求めるようになってしまいました(それはまた別のお話ですが)。

 

 世の中に完全に同じものは2つないにもかかわらず、同じようなものを手に入れてしまうと、失われたもののことを忘れそうになります。「3×3 EYES」では、死んだと思われたハーンの遺伝子情報を元に生まれたクローン、リバースハーンが登場します。ハーンは死にましたが、リバースハーンがいるということが人々の喪失の痛みを和らげます。しかし物語の終盤、体はほとんど崩壊しつつも、実はハーンはまだ死んではいなかったことが分かります。それは残酷な話です。リバースハーンは、自分にはオリジナルの代替であり、まがいものであるという事実が突き付けられ、そして、周囲の人々はハーンかリバースハーンかのどちらかを選ばなければならないという選択をつきつけられます。このお話は、サンハーラの力で両者が融合するという形で、解決が見られます。都合がいい話ですが、それによって心のざわめきは止まります。

 そういえば「岸和田博士の科学的愛情」における長官も同じような話ですね。へまをおかした長官は孤島の牢獄に幽閉されてしまい、その代わりに、遺伝子操作で頭を大きくして面白い感じにしたコピーの長官が、物語に登場し続けます。読者が、投獄されたオリジナルの長官のことを忘れたころに、その事実をつきつける話をする意地悪さがすごいですが、彼らも最終的には科学の力で融合することで問題の解決をみます。
 ちなみに逆のバージョンでは、2人の女性に求められる主人公の玄野が、コピーされて2人になって三角関係を回避するという「GANTZ」のお話もありますね。

 

 例を挙げればきりがありませんが、このような喪失と代替の物語は、ポケモンのスワンプマン、つまりスワンプポケモン問題に対する、気に病まない接し方を示唆してくれているのではないでしょうか?つまり、古いポケモンが消え去り、新しいポケモンが何食わぬ顔で、同じ名前と同じ姿で居続けていることに僕が感じるストレスには、いやいや、そうではなく彼らは別のように見えて実はひとつの存在であるのだよ?というような理屈をぶつけることで耐性を身につけることができます。

 生物としてのポケモンには、まだまだ分からない部分が沢山残っています。その分からない部分に秘密が眠っているのかもしれません。彼らはデータ化され、デジタル情報として転送されることができます。そう、彼らは既にスワンプマン的な特性を持っているのです。もしかすると、あるポケモンがあるポケモンであるという同一性を裏付けるものは、ポケモンという存在における余剰次元領域において集合的無意識のように繋がっており、個にして全、全にして個であるという…(妄言が続くので割愛します)。要は「いちいち区別して気にすんな」ということです。

 

 スワンプマンの問題についてはSF小説などを読みながら、子供の頃に色々と考えたことがあります。自分の体をデータとして分解して転送するという仕組みがあったとして、当の自分は転送時点で存在が消えてしまい、転送先では自分ではない存在がデータとして再生されて、その自分と全く同じ他人が、自分として周囲に受け入れられているというようなことを想像したりします。それによって背筋がうすら寒くなったりしました。

 それは怖いので、そういう転送装置がもしあっても使いたくないなあと思いながらも、そのときしばらく考えて至ったことは、そもそも自分の同一性は本当に確保されているのか?ということです。例えば、自分が自分であるという意識は、意識の連続性が失われた瞬間に曖昧になります。昨晩寝たときの自分は、現在起きている自分と、本当に同じ人間なのでしょうか?例えば脳みそをデータストレージとして、起きている頭のメモリ上で展開されている自分の意識は、意識をシャットダウンした時点でプロセスがキルされてしまっているのかもしれません。次の日の朝、目覚めとともに立ち上がったものは、また別の新しい自分であるとは考えられないかと。自分が自分であるということを裏付けているのは肉体と記憶ですから、同じ肉体上で同じ記憶を持っているだけで、自分は昨日と同じ人間だと思い込んでいるだけなのかもしれません。

 もしかすると、人間は毎日寝るときに死んでいて、毎日起きたときに新しく生まれているのかもしれません。となれば、一般的に言われている死は、死を迎えたあと、新しく目覚めないということと解釈できます。生きているようでも、毎日死んでいるのかもしれないのであれば、自分がスワンプマンとなったとしても、同じことなのかもしれません。どうせ寝たら死ぬのですから。つまり、それは特別なことではなく、常にあり、既に毎日経験していることかもしれないので、「いちいち区別して気にすんな」ということです。

 

 というようなことをポケモンGOを遊びながら考えていたんですよ…と人に話していたところ、「またわけのわからないことを考えてしまって袋小路に入ってしまっているね。もっと素直に遊んだらどうだい?」というような主旨のコメントをもらったので、ああ、そうだ、まったくその通りだと思ったりしました。