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「マイブロークンマリコ」と物は壊れるし、人は死ぬ関連

 「マイブロークンマリコ」は喪失の物語だと思った。

 

 世の中のあらゆるものはいずれ壊れて失われる。でも何かが壊れたら、同じものを手に入れて埋めることもできる。スマホを落として壊したら、また同じものを買えばいい。でも壊したスマホと新しく買ったスマホは実は違うものだ。同じ外観と機能を持っているから忘れさせる力が強いだけの話だ。

 何かが失われると、人は代わりの何かを手に入れてその喪失を埋めようとする。そうすることで、世の中から常に何かが失われていることを忘れることができる。喪失の痛みに気づかないでいることができる。

 でも、失われてしまったものがあまりにも大きいとき、それが埋まるまでに時間がかかることがある。そういうときに、人は失われてしまったものが失われてしまったことを直視せざるを得ないのではないだろうか?そして、場合によっては、自分がそれを似たような別の何かでその喪失を埋めようとしてしまうことを自覚し、それを拒否してしまうかもしれない。

 

 この物語は、マリコが失われてしまったことを知らされることから始まる。マリコ睡眠薬を大量に飲み、転落死をしたことを主人公のシイノはテレビのニュースで知る。この前も会ったばかりの友達のマリコが、子供の頃からずっと近くにいたマリコが、ある日突然永久に失われてしまったことを知らされてしまうのだ。

 シイノは、マリコの実家に乗り込み、骨壺を奪って逃避行を図る。なぜならば、その骨が父親の下にあることが許せなかったからだ。自分の子供を虐待し続けた父親の下に、死んだあとまでマリコを置いておくことができなかったからだ。

 

 そして、失われ、生き返ることなどないマリコの骨とともにシイノは旅に出る。

 

 マリコは壊れた女だった。少なくともそう自称する女だった。彼女の周りでは、様々なトラブルが起こり、彼女はそれによって傷つけられていく。そのトラブルを起こす周囲の人々は決まってそれを「マリコのせい」だと言った。

 確かに、その不幸な出来事が起こる原因の一端はマリコにもあったのかもしれない。それは責任があるということではなく、悲劇の被害者でありながら、悲劇の構造を維持する行動をとってしまうという悲しみの話だ。

 シイノの記憶に残るマリコは、変わることを恐れる人間のように見えた。少し持って回った言い方をしたのは、この物語にはマリコは登場しないからだ。この物語の中のマリコは常に記録と人の記憶の中にだけ登場する。誰かの中に残るマリコは、果たしてマリコそのものと同じ人物だったのかは分からない。

 

 少なくとも記憶の中のマリコは、必死で何かを維持しようとしていた。父親を怒らせないため、母親を繋ぎとめるため、男に望まれた通りに、シイノが自分から離れないように必死だった。何かが変わっていればよかったのかもしれない。でも、そのマリコはただ今が変わらないことを望み、そのために、そこにある歪みの責任を引き受けて、傷つき続けながらもそこにいようとし続けたように見えた。

 シイノは、マリコにそんなところから逃げ出せるように変わって欲しかったのかもしれない。だけど、マリコは変わることでそこから逃げ出すことができなかったのだ。そして、マリコは死んだ。これはそういう話だと思う。その事実は何をどうしたところで変わることがない。

 

 人間は弱い生き物だから、すぐに不安を解消しようとする。何かの不安があると、そこに理由を求めてしまう。理由がありさえすれば、それは説明可能なものになり、安心するからだ。だから、人間はすぐに「こう考えれば辻褄が合う」ということと「それが事実である」とうことの間の距離をいきなりゼロにしようとしてしまう。

 マリコはそんな弱い人間のために都合がよい存在だった。その歪みのはけ口になってくれるからだ。それが事実とは異なっていても、マリコは自分がそれを受け入れさえすればいいと思ってしまう人間だからだ。そして、何でも受け入れてくれるマリコは、それゆえに傷ついていく。壊れていく。

 

 シイノは、旅をする中でマリコのことを思う。マリコに貰った手紙の束の中には、可愛くいじらしいマリコの姿があり、そして、シイノの記憶の中には、それだけではない面倒くさい女であるマリコの姿もある。マリコはもういない。だから、マリコの存在は、写真や手紙のような記録と人の記憶の中と、骨壺の中に残ったものしかない。それらは全て断片的だ。

 シイノにはマリコが何を思って死んだのかもわからない。何もわからない。その死が意志だったのか、事故だったのか、もしかすると誰かの作為だったのかも分からない。人が死ぬとはそういうことだ。確認のしようがない。

 だってもういないのだから。だから、シイノは仕方なく自分の中のマリコを探し、そして、シイノの中のマリコ像は断片的でバラバラになった骨のように繋ぎ合わせることができず、壊れている。生きていたそれまでには分かっていたように思えたはずのものが、指の間をすり抜けるように断片的でつかめないバラバラなものであったことを突き付けられる。

 

 そんなシイノの前にマリコの幻影が現れる。そのマリコは、シイノの抱える苛立ちのすべてをマリコのせいにしてしまえと囁きかける。でも、シイノにはできない。できっこない。それは、だってそれは、マリコの父親が、母親が、男が、マリコに押し付けたことと同じじゃないか。

 その妥協をしてしまえば、マリコという人間をひとつに繋げて理解することもできるかもしれない。そんな女だったと言えるのかもしれない。でも、理解とはなんと残酷なことだろう。無数の情報を持っていたひとりの人間を、ほんの少ない言葉だけに圧縮してしまう。圧縮できなかったものは、なかったことにされてしまう。

 ついこの前までは、生きて存在していたはずのものが。全て何らかの賢しらな理解に変換されて消え去ってしまう。

 

 この物語が描いたものは、喪失の穴なのではないかと思った。読者が見せられたものは、その穴にかつてどんなものが詰まっていたかということだけだ。それをシイノと同じ気持ちになるまで、見せつけられるだけだ。そして、この物語の中で、その穴はもう二度と同じもので埋まることはないということが事実だ。

 

 代わりの誰かを助けたって戻ってこない。届かなかった手紙が届いたところでやっぱり戻ってこない。失われてしまったものを本当に埋められる代わりのものなんてないではないかと思う。

 それでも人生は続いていく。人生の大半はそれに気づかないふりをしながら続いていく。今も多かれ少なかれ何かが失われ続けていて、それが二度と戻ってくることはない。でも、それが嫌だから生きないわけにもいかないんだ。

 

 物は存在して壊れていくし、人は生きていて死んでいく。普段はそこから目を背けて生きているけれど、目を向けてしまうこともある。人間はその中で生きているんだよなと、なんかそういうことを思った。