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漫画の人体損壊描写のストレス関連

 漫画を読んでいてたまに思うのが、あ、このキャラ多分死ぬなという予感です。そう思う根拠として、人体損壊描写があったりします。

 そりゃ人体が損壊したら死ぬ可能性高いでしょというのはそうなんですけど、ここで着目しているのは、命そのものには関係のない損壊が、死を予見させるということがあるという話です。

 

 例えば指です。刀で斬られるなどで、手の指がごっそり斬られてしまう描写を見ると、このまま死にそうだなと想像してしまいます。なぜならば、仮に生き残った場合に、手の指がない人をずっと描かなければいけないからということを考えてしまうからです。その傷が残ることは、その痛みや不便さの痕跡が延々残ることを意味します。人は、それを描くことにも、読むことにもある程度のストレスを感じてしまうのではないでしょうか?

 あるいは、顔面の大きな損傷です。例えば、顎がなくなってしまったりという描写にはその後に食事をするときの不便さなどを想像してしまいますが、顔は人物描写の重要な部分なので、それを描き続けなければならないということになります。

 だから作者側からも読者側からもストレスを抱えなくて済むように、その状態は意図的に避けられるようにされているのではないかと感じています。

 ただし、これは結構危うい感覚だと思っていて、現実には大けがをしたとしても、そのまま生きていくことになるからです。その、実際にあるようなことを忌避的なものとして捉えてもいいのだろうか?という感覚の疑問が個人的にはあります。

 

 とはいえ、この辺の想像から、どうせこのキャラはこの後すぐに死ぬから、思い切った人体損壊をやってしまうということがあるのではないか?と勝手に読み取ってしまうことがあります。損壊の結果が先の話でもずっと残り続けることはストレスになると思うので、それを避けがちなのではないかと思うからです。

 

 それは斬られる側からしてもそうですし、斬る側からしてもそうです。例えば、日常生活に不便が出るほどに損壊を与えてしまったキャラにその後の人生があるとき、それがいかに悪い相手であったとしても、何かしらの罪悪感が生まれやすいのではないでしょうか?

 その怪我によって生活上の様々な不便を抱えながら、かつて倒した敵が生きているのを見せられ続けるとき、いかに正しい目的のためになしたこととはいえ、主人公側の正しさに傷がついてしまうことはないでしょうか?いっそ、殺してしまった方がすっきりすると感じてしまったりするという、乱暴な考え方もあるかもしれません。

 

 このあたりの解決方法としては、回復役が存在することや、補う何かが存在するなどがあります。「ジョジョの奇妙な冒険」では、きつめの人体損壊描写が多い印象がありますが、シリーズごとに回復役がいることが多く、損壊描写を行ったあとに再び治せることで、気持ちよく人体損壊をしたあとに引きずるものをなくしてストレスを軽減させています。

 一方で、今連載中のジョジョリオンでは、これまでのそれを逆手にとったのか、肉体の失われた部分を取り戻す装置として、物語の根幹に存在するロカカカという果実を置き、その利用の結果がグロテスクに描かれています。

 

 もうひとつの解決方法である「補う何か」とは、例えば義手などのように、肉体としては失われていても、機能的には実質的に存在しているのと同じような状態になることです。結局のところ、その後のキャラの生活に不都合が存在し続けることに人はストレスを感じてしまうと思うので、そこがちゃんと補われていれば軽減されるということだと思います。

 その点で、「寄生獣」で右手に寄生していたミギーとの別れによって、心の欠損が、腕の欠損によって箸が上手く使えないというところと重ねられたのは、巧みな描写だなと思いました。

 

 失われることがストレスであるという意味で言うと、例えば、敵に強靭な再生能力があるということは、読者のストレスを軽減させる効果もあると思います。なぜなら、敵の傷がちゃんと治ることで、主人公側の暴力から取り返しのつかなさがなくなり、他人を傷つけるという部分における罪悪感を感じる必要がなくなるからです。敵の強い再生能力は、主人公側に不利な状態のように見える一方で、実は読者目線では気楽に読めるようにしてくれているのではないかと考えたら不思議ですね。

 そして、主人公たち側が再生能力のない普通の人間であれば、痛みは痛みのままなので、失われてしまうことの大きさを描くことができ、敵の悪さを強調することができるようになります。

 この辺は暗黙的に、様々な気の遣われ方がされて描かれているように、読者としては読み取ってしまうんですよね。

 

 最後に例外の話をしますが、代表的なもののひとつに山口貴由の「シグルイ」があります。シグルイは人体を損壊する描写に非常に真摯な漫画です。

 刀で人が斬られるとき、ストレスを軽減するためには、記号的な斬られ方が選ばれることも多いです。例えば、人の首が斬り離されるのは、記号的なのでストレスが低いです。ここで言う記号的でない描写というのは、例えば顔の表面を斬られて、太刀筋の通りに、顔の内部の断面が表出するなどの描写になります。人間は特に人間の顔から多くの情報を得ているため、顔が壊れるということに対しては、強いストレスを感じるものだと思っています。

 そして、シグルイのような、「人が人を斬る」ということをいかに力強く描くかという漫画では、そこをあえて描くことに意味があります。。そして、シグルイでは、そのような記号的ではない斬られ方をした人が、死なずにそのまま生きている描写も多く見られます。それによって、人と人が真剣で斬り合うということのリスクを、あるいは立場を変えれば愚かしくも思える行為として、描いているように思います。

 

 ある人間が何年も鍛錬してきた結果が、たった一度の戦いで、もう再び戦えなくなり、全てが無に帰すほどの欠損を残すこともあるわけです。だからこそ、現代の格闘技の試合では、いかに取り返しのつかなさというストレスを減らして互いの力を比べ合えるようにするかというための、道具やルールの発達があるのだろうということを思わされます。

 

 今思い出したのをさらに書きますが、戦いの漫画以外で人体の欠損が思い出されるのは、麻雀漫画の凍牌です。凍牌では、目が覚めた主人公の足の小指が切り落とされていて、麻雀で勝って帰ってこれたら繋げてやると言われるくだりがあります。指を再び繋げられるのにはタイムリミットがあります。そこまでに帰って来れなければ、主人公の足の小指は永遠に失われてしまいます。しかしながら、主人公は勝っている麻雀を続けることに意味を見出し、自分の足の小指を取り戻さないという選択をしました。

 取り返しのつかないことを選択できるという主人公の心を描くという意味で、いいエピソードだったのですが、ここでも「足の小指」という、その後、「普段は描写されない部分」を欠損の対象とすることでストレスを低減する施策も行われているように思いました。

 今連載中の展開では、麻雀に連動して人質の足が冷やされ続けており、凍傷になりつつあるという異常な状況で麻雀を打っているのですが、読んでいる僕としては、あらゆる展開の会話の中で、「でも。この時間の間も人質の足は取り返しのつかないことになりつつあるんだよなあ」と思いながら読んでいるので、ずーっと落ち着きません。

 何かが失われて取り返しがつかない状況ということは、やっぱりストレスがあるんだよなと自分の実感としても思ってしまいます。

 

 人は、人間から情報を得ることが得意なため、人体が損壊するという描写に必然的に注目してしまうところがあると思います。それは強い意味のある描写であると同時に、摂取し過ぎてしまうと強いストレスに繋がってしまうという危惧もあるのではないかと思います。だからこそ、漫画の描写では読者の受けるストレスが強くなり過ぎないように、色んな手当てが行われているように思いました。

 それは例えば、壊れる部分が記号的となることで許容され得るというものであったり、壊れても何らかの方法で取り返せるという状況を作るなどという部分だと思っています。

 

 なので、世の中では、一見残酷な描写のように見えても、このような適切な手当てを行うことで、残酷すぎないように読者に届けることができたり、そこをあえて踏み越えることで読者の心を刺してくることができたりしているのではないかと思いました。