漫画皇国

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「この世界の片隅に」の映画を観たあとに思ったこと関連

 映画を公開初日に観たんですが、ようやく言葉になってきた感じがするので今さら感想を書きます。ちなみに原作は連載時に既読です。

 

 上映開始してすぐにすごく泣いてしまっていました。なんでかというと「絵が動いている!」と思ったからです。絵が動いているのはすごいなあ、最高だなあと思って、気持ちが溢れてダバダバと泣いてしまいました。

 僕は泣くとき「コップが溢れてしまった!」と感覚的に思うんですが、どういう感覚かというと、頭の中に感情を入れる用のコップ(概念)があって、それに液体のような感情が注がれるような感じです。そして、感情がコップのふちを超えてしまうと、涙として外に溢れ出てくるような感覚があります。歳をとったことにより、コップ自体が小さくなってしまったのか、コップが最初からある程度の感情で満たされた状態になっているのか、あるいは、注がれる感情の弁がガバガバでどっしゃりと流れ込んでしまうのか、それともそれら全てなのか、とにかくすぐに泣いてしまうようになりました。

 本を読んだり映画を観たりゲームをしたりして、よく泣くので、泣いたこと自体はよくあることで、だからどうということではない感じではあります。ただ、この映画に登場する風景と人々の所作から、なんらか自分の感情を動かすものをたくさん読み取ってしまったということなのでしょう。

 

 「この世界の片隅に」は、太平洋戦争時の広島を舞台にした物語で、すずさんという女の子が、成長して呉に嫁に行き、そこで生活をする様子を描いた漫画とそのアニメ映画です。これが何の映画であるかというと僕は「戦争の映画」だと思っていて、そして、その戦争と日常の生活が切り離せないほどに融合しているお話だと思いました。

 これは戦争が起こっている中での日常の話です。そして戦争中というのは、平和な状態と比較すると狂っているのだと思います。それゆえ、その中の日常の生活も多かれ少なかれ狂っています。その狂いは知らず知らずのうちに広がっていたものではないでしょうか。つまり、戦争がなければ起こっていなかった狂った出来事が沢山巻き起こり、そして、狂った世界の中にいては、その世界が狂っていることになかなか気づくことができません。

 ちなみに僕は「狂っている」という言葉を、「正常(というものがあるなら)な状態とは異なる価値観によって判断が行われること」と考えていて、それゆえ、狂っている側の視点を持てば場合、正常の方をむしろ狂っていると思ってしまうような、相対的なものだと捉えています。

 その意味で言えば、他人の視点を使うなら誰しも互いに多かれ少なかれ狂っているのです。そして、この物語の中には戦争という大きな狂いが存在します。

 

 今の平和な世の中に生きる僕からすると異常なことが、当たり前のような顔をして登場します。しかしながら、その異常さが日常に巻き取られ、埋没しています。そのおかしな状況を、以前から地続きの日常と捉えてしまうような強い恒常性が、人間の持つ強さであり、そして、それは吹雪の中で裸でいて、なぜ寒いか分からないような異様なことかもしれません。

 この物語では、戦争の激化に従って、異常さの表面に糊塗されていた日常という化けの皮がはがれ、その背後にあった世界の異様さが眼前に露わに広がります。それは耐えがたい光景として繰り広げられ続けるのです。終戦という転換点を迎えるまで。

 

 映画では原作漫画以上に、空襲の様子が強く、具体的に描かれていました。それを観ていたときの自分の感情は、「もうやめてくれ!」と強く願うしかないような状態です。それはさながら、防空壕の中でただただ空襲が終わるのを待っているような気持ちかもしれません。

 なぜこんなことが起こるのか。呉が海軍の重要な拠点であることは知っていて、戦争ならば、そこを潰すための作戦行動があることも分かっています。しかし、民間人の家を焼き、機銃で攻撃するようなことまで本当に必要でしょうか?なぜ、こんなことが起こっているのか?という疑問と、その状況に耐えるしかない辛さを感じました。

 そして、ここまで来て、一切お話の中に出てきていないことがあることに気づきます。それはこの戦争が、日本が仕掛けたことで始まったということです。そして、日本の国民が強いられているこの状況に相似する何かしらが、日本の外では日本人の手によって行われていただろうことです。そこが地続きであるということに思い至ります。

 

 主人公のすずさんは、目の前にある状況をそのまま受け入れがちな人であるように思います。何かが起こったとき、それをまず受け入れ、それからどうしようと考える性質の人であるように思いました。

 その姿は、ともすればバカのようにも見えます。受け入れるという行為そのものには本人の考えを見出しづらいからです。考えがないように見えてしまうのです。夢見がちの夢心地で、現実から遊離しているようにも思えるかもしれません。すずさんは絵を描く人です。絵は現実ではありません。現実を種として広がった空想の世界です。すずさんは現実を生き、同時に、その右手で描いた夢のような世界も生きていた人なのではないかと思いました。

 すずさんは、道を切り開く強い意思を見せるのではなくでなく、ただ状況を受け入れていく姿を見せます。しかし、そこで何も感じていないわけではないでしょう。色々考えて、感じて、それでもそのように生きているのだと思います。そしてそれを「普通」という言葉で表現されます。

 狂った世界の中で、ただ一人普通であること、それは見方を変えれば別の意味で一人狂っているのかもしれません。その生き方には彼女の右手の描いた、絵の世界が関わっていたように思いました。そして、その右手は爆撃に巻き込まれたことによって失われてしまうのです。

 玉音放送後のすずさんの慟哭は、正常が異常に、そして異常が正常になった姿ではないかと思いました。夢と現の垣根が壊れてしまったということです。今まで何に目をつぶってきたのか、そこから何に向き合わなければならないのか。今まで生きてきた生活とは何だったのか。それには本当に意味があったんだろうか。そこにあったのは戦争というものの被害者の姿かもしれません。そして同時に、無自覚に戦争に加担していた加害者でもあったという事実も突き付けられた姿なのではないでしょうか?

 この国から飛び去ってしまった正義のこと、暴力に屈するということ(それはまた、暴力で押さえつけていた何かもあったということ)は、それまでの笑える日常とともにあり、目を向けなかったものに気づいてしまったということではないかと思います。

 

 何が夢で何が現であったのか?この物語は最初から夢のようなシーンで始まります。最初に登場した謎の人さらいは、最後にも登場します。彼の姿は、戦争に行って帰って来なかったお兄ちゃんのその後を、すずさんが想像した姿と繋がります。それは夢かもしれません。でも、物語上は事実です。さて、この物語は夢なのでしょうか?それとも現なのでしょうか?

 

 夢と現、空想と現実、日常と戦争、それら二つが合わせ鏡のように存在しています。遊離し、乖離しているかのようにも思えたそれらが、合わせてひとつのものであるということを描いているように僕には思えました。

 このお話は作り事です。しかし、現実にあったことをよく調べて作られているそうです。そのよく調べ、調べた結果が再現されているということは、映画では原作よりさらに仔細にビジュアルとして表現されていると思いました。これも夢と現ではないかと思います。実際にはなかったことを描くために、実際にあったらしいことを細部にわたって積み上げることで、そのなかったことを浮かび上がらせているように思いました。

 この世界に片隅を作るため、それ以外の世界を具体的に詳細に描いたとも言えるかもしれません。

 

 ただ果たして、この映画で描かれていた戦時の生活が、本当にリアルであるのか?ということに対して、僕は意見を持ちません。なぜならば、僕自身がリアルな戦時の生活というものを知らないからです。正解が分からない以上、リアルかどうかを判定する能力がありません。ただ、リアリティ(もっともらしさ)は感じました。

 僕は以前色々思って、戦争体験の話を色んな人に聞いたことがあります。一番印象的なのは玉砕命令を受け、からがら生き延びたもののソ連軍に拿捕されてシベリアに抑留されていた父方の祖父の話です。

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 反面、母方の祖父と祖母は、当時地元の山奥の農家の子供だったので、空襲も体験していなければ、食料にもそこまで困っておらず、特に悲壮感を感じないものでした。人間の数だけ、戦争体験はあり、何が正しいのか正しくないのか、誰を基準とすればいいのかも分かりません。人から聞いた話から、なんとなく想像はしてみますが、それは人の語りの中の話であって、事実とは乖離もあるんじゃないかと思います。それもまた夢かもしれません。

 

 人は夢と現の狭間を行き来しながら生きているのかもしれません。夢とは自分の頭の中にあることで、現とは自分の頭の外にあるものなんじゃないかと思います。頭の中にいる限り夢は正しく、頭の外にある限り現は正しいと思います。ただ、夢(頭の中)をそのまま現(頭の外)に持ち出そうとしたとき、逆に、現(頭の外)をそのまま夢(頭の中)に持ち込もうとしたとき、それらがどれだけ乖離しているかによって、その差を一気に埋められるという動きが発生し、そこで大きく感情が動いてしまうということがあるように感じています。

 この映画を観ていたとき、僕はそこで感情が溢れていしまっているのではないかと思いました。日常と戦争の間にあった薄皮が剥ぎ取られてしまったとき、夢を描くために使っていた右手が失われてしまったとき、そして、それでも続いていくのだと思ったとき、頭の中に用意されている感情のコップには押しとどめておけないほどの様々な感情が流れ込んできて、終盤はずっと泣きながら見ていました。それは怒りとか悲しみとか喜びとか様々な感情が混ぜこぜにされたもので、それらが区別されず同じコップに注ぎこまれてしまっていて、ただ溢れてしまっていたような体験であったように思います。

 

 漫画は連載であったこともあり、さらに自分のペースで読めるので、少しずつ消化しながら読んでいたものが、映画では映像や音の強さもあって一気に津波のように流れ込んでくるので、感情がずっとオーバーフローしていたように思いました。

 

 それがすごく良かったなと思いました。おわり。

 

 

 あと自慢なんですが、こうの史代さんには昔ある経緯でサインを頂いたことがありますので見せびらかしておきます。