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「プリティーリズムディアマイフューチャー」と未来は明るいと考える関連

 さて、ここ3週間ちょっとぐらいでプリティーシリーズを350話以上観た話の第二弾です(51+51+51+38+51+51+51+12=356)。

 

 プリティーリズムディアマイフューチャーは、プリティーリズムオーロラドリームの続編で、前作の主人公であるあいら、りずむ、みおんのMARSの3人の下の世代として、PRIZMMY☆とPURETTYの2つのグループを中心に描かれる物語です。

 

 プリティーリズムシリーズは同名のゲーム筐体を元にしたアニメで、プレイヤーは女の子の衣装を着せ変えながらプリズムショーという、フィギュアスケートと歌とダンスを融合したショーであり競技でもあるゲームを遊ぶ内容です。ちなみに僕は遊んだことがないので、細かいことは知りません。

 

 アニメの中でも、このプリズムショーによるアイドルグループの切磋琢磨が描かれるのですが、プリズムショーの特異な部分としてプリズムジャンプがあります。プリズムジャンプとは、フィギュアスケートようなジャンプを行ったあとに発生する特定の演出で、それは飛んだ人の心の写し鏡のようなものです。

 「プリズムジャンプは心の飛躍」と作中では呼ばれますが、ここに演者の心の要素があることで、物語では登場人物の心の成長とプリズムジャンプをリンクさせ、肉体的なものだけではなく精神的な領域まで広がった戦いが描かれるのです。

 プリズムジャンプについてのもうひとつの重要な要素は、これが物理現象でもあるということでしょう。プリズムジャンプを行っている空間では、通常の物理法則を無視した現象が発生します。無から沢山の果物が生まれたり、空から沢山の流星が降ってきたり、人間が巨大になって地球を抱きしめたりします。これらは非現実的な要素ですが、一方で、物理的に発生しているということも描かれるのです。

 例えば、プリズムジャンプによって発生した果物が普通に食べられている様子が描かれます。

 

 プリティーリズムシリーズは、プリズムショーの中でなら、人間の心が生み出すものが物理法則という窮屈なものに囚われず、何でもできてしまう可能性があるものであることが、全編を通してのあらゆるものから制約を受けない可能性として描かれていると思います。

 オーロラドリームでは、オーロラライジングというプリズムジャンプを巡るドラマが描かれ、終盤では当初、プリズムショーの会場だけにとどまっていたように思えたその現象が、建物の外まで広がり、遠くに存在する人までその空間に取り込む様子が描かれました。プリズムショーの力は留まることなく広がり、人々の生き方に影響を与えます。

 そして、ディアマイフューチャーでは、プリズムジャンプの先であるプリズムアクトを中心に描かれる物語となります。プリズムアクトも元はゲームの要素から来たものですが、それは演劇的な演出を取り込んだより物語性の強いものであり、この物語は最後グレイトフルシンフォニアという大規模なプリズムアクトを行うことに向かって進みます。

 

 ディアマイフューチャーは開始時点から要素の多い物語で、それはアニメの外で、実在のアイドルとしてのPRIZMMY☆とPURETTYが関連していることや、ゲーム筐体とのリンクなどの沢山の達成すべき要素が存在していることが序盤のお話からは認められました。それらの沢山の要素が、物語の終盤のグレイトフルシンフォニアの一点に「あたしが一番」というみあの言葉と「ディアマイフューチャー」というタイトルとともに収束していくということが、このディアマイフューチャーの感動的なところでもあります。

 

 さて、この物語に黒幕として存在するのが阿世知欽太郎という男です。

 阿世知欽太郎はプリズムアクトを考案した人物です。また、彼の娘は、元プリズムスタァであり、現MARSやPRIZMMIY☆が所属する事務所プリティートップの社長でもある阿世知今日子です。そして、過去、ミョンジャ(PURETTYのチェギョンの母)と恋人関係にあり、ケイ(今日子の母)と結婚していました。つまり、PRIZMMY☆とPURETTYの両方にゆかりのある人物であり、プリズムアクト・グレイトフルシンフォニアの根幹にいる人物なのです。

 この物語は、そんな阿世知欽太郎の抱える妄執と、PRIZMMIY☆のみあ、PURETTYのヘインという2人がグレイトフルシンフォニアの中で戦うということで決着がつくのです。

 

 では、阿世知欽太郎の妄執とは何だったのでしょうか?

 

 それは「美しい思い出」です。つまり、若くして最高のものに出会ってしまったがゆえの、それがいずれ失われてしまうことへの恐怖です。しかしながら、世の中には変わらないものはありません。だから、阿世知欽太郎は時を止めてしまいたかった。そのために用意した舞台がグレイトフルシンフォニアなのでした。

 

 世界中の空にオーロラとともに中継されたグレイトフルシンフォニアは、世界中の人々の心を繋ぎます。そして、現世代のプリズムスタァたちは、その中で阿世知欽太郎を打ち倒し、グレイトフルシンフォニアを我がものとして、世界中の人々にメッセージを届けました。

 そのメッセージとは「未来は明るい」ということです。阿世知欽太郎の今のままで時を止めたいという考えを真っ向から否定するメッセージです。

 

 ここに多少の説教臭さを感じないでもなかったですが、でも、こんな世の中ですよ。世の中を悲観的に論じる方が、「現実を見ている」と言われるような風潮があるじゃないですか(ないですか?)。将来に対する夢を感じず、もうおしまいだとか、衰退しているんだとか大人が言っている世の中が良いとは僕は思えないんですよね。特に子供たちに向けて。

 だから、「未来は明るい」と言い切って、その明るい未来に少しでも近づくようにできるのがいいじゃんよという気持ちが僕にはあって、その気持ちにこの物語がめちゃくちゃ響いたなと思いました。

 

 未来と言うのは不確定ということで、そして、今とは違うということだと思います。思い返せば、この物語は変化することを描いてきたように思いました。

 プリティーリズムディアマイフューチャーが特殊だなと思ったのは、アイドルという在り方がいつまでも続けられないものであるということを明確に描いていたことです。これはオーロラドリームの続編であったということも関係していて、前のシリーズの主人公たちはだんだんと一線を退いていきます。前作の時点で阿世知今日子が芸能事務所の社長になったように、MARSの3人もいつまでもアイドルで居続けることはできないということが示唆されていました。

 象徴的なのは、りずむちゃんがアイドルを続けながらも結婚していたことです。アイドルコンテンツは、その性質上、恋愛感情が去勢されてしまいがちなイメージがありますが、ことプリティーリズムにおいては、それが明確にあるものとして描かれてきています。それは、このアニメがアイドルコンテンツというよりは、少女漫画的な文脈を持っているものであることも関係しているかもしれません。

 人には恋愛感情があるし、未来を考える上で、その部分が出てこないことの方が不自然です。グレイトフルシンフォニアの中では彼女たちの未来のビジョンが出てくるのですが、りずむちゃんは母親としての姿、みあちゃんは指導者としての立場、あいらちゃんにはそもそもアイドルの前になりたかったデザイナーとしての姿が描かれていました。

 そのように、MARSのメンバーたちにはプリズムスタァというアイドル以外の未来があります。アイドルはいつまでも続けられないからです。でも、それは果たして不幸なことでしょうか?その先にも人生は当たり前のように続くし、続くということは変わっていきます。この物語の中で、変わっていくことは何も不幸なことではないということが明確なメッセージ性をもって描かれていたことが希望だなと思いました。

 永遠に止まったときの中でアイドルのままで居続けるということは、それこそ、阿世知欽太郎が望んだ世界だからです。いや、この物言いは他のアニメに当たる可能性がありますね。僕が言いたいのは、それが悪いということではないんですよ。ただ、そうでないことが決して不幸ではなく、希望あることだと描かれていることが良いと思ったということなのです。

 

 ショウくんはあいらちゃんと付き合わないということで、自分の美しい感情を維持しようとしていましたが、自分も相手も変わってしまうということを乗り越えて受け入れて、あいらちゃんを必要とします。みあちゃんは、韓国に帰ってしまうヘインちゃんとの別れを嫌がりますが、ついにはそれを受け入れます。時間が流れていく以上、様々なことが変わっていくということは止めることができません。

 この物語の誠実なところは、その変化がやっぱり辛いことでもあるということを描いているということでしょう。変わることは悪いことではありません。未来のビジョンは、日本と韓国でそれぞれ成長したPRIZMMY☆とPURETTYが再び出会う姿を見せてくれました。

 それでも、やはり毎日のように一緒にいた相手が目の前からいなくなってしまうということが辛くないわけがありません。彼女たちがそれを受け入れながらも、別れのときには悲しくて泣いてしまうという姿に、ああ、そうだよなと思いました。

 

 もうひとつ「一番」という言葉をキャッチコピーとしてきたみあちゃんですが、グレイトフルシンフォニアの中で、その「一番」の意味は「先端という一番」であるという解釈に至ります。つまり、それぞれ方向性が違っていても、その最先端にいるということは一番であって、その最先端は無数にあるということが、大きな樹のメタファで描かれます。だから、グレイトフルシンフォニアのセンターに選ばれなかった他のアイドルたちであっても、それぞれがそれぞれの先端にいれば一番なのです。一番を選ぶということは、他を全員敗者にしてしまうということを意味しません。

 これは未来にも繋がっていく話です。なぜなら、今いる場所の今の意味での一番ではなくなったとしても、未来にはそこでの別な意味の一番になっているかもしれないからです。時間というのは結局のところ今の連続です。未来への讃歌ということはその連続する今への讃歌でもあります。

 今の自分の状態を良いと思えること。そして、それが未来に続いていく連続の中で良いと思い続けていくということ。そうであってこそ、未来が明るく見えるのではないかなと思っています。

 

 プリティーリズムディアマイフューチャーは、世界中の人々に「未来は明るいぞ」ということを言っていくというアニメだと思っていて、スケールがデカくて偉いぞ!!という風に僕は感じちゃったんですよね。

 未来をやっていうということは今をやっていくということだと僕は思っています。それは未来に暗いビジョンを持ってしまったり、変わるということへの恐怖ばかりを持ってしまうと、難しくなるんじゃないかなと思います。だって、「こんなことやっても、どうせ未来は暗いのだから意味がない」とか、「どうせ良い時期はいつまでも続かない」と思っていたら、今をやっていくことの意味が失われますし全て停滞してしまうじゃないですか。それで結局今が楽しくなく、未来も楽しくなると思えないなら、結局自分が想像した暗い未来を自分の力で生み出してしまうのではないかとも思っちゃうんですよね。

 そういうこともあって、それが事実とかそうでないとかどうでもよくて、とにかく「未来は明るい」と思ってやっていくことがいいじゃんという気持ちが僕にはあって、その気持ちをこのアニメからも感じることができた気がして、めちゃくちゃよかったなと思いました。

 

 ただ、こういう僕のおじさんとしての妄執には応えてくれたように思いましたが、このアニメのターゲットであったであろう子供の世代は、これを観て一体何を思ったんだろうな?ということは分かりません。だから、それがめちゃくちゃ気になっています。