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「アイドルタイムプリパラ」でどうにもパックに味方したくなった関連

 プリティーシリーズのアニメを一気に観た話の第四弾です。

 

 「アイドルタイムプリパラ」の終盤の展開は、ガァララという少女を巡る物語になります。

 ガァララはファララと対を成す存在としてプリパラの世界にいる少女です。ファララが昼間起きている間はガァララが寝てしまうというのがこの世界のルールなのです。しかしながら、プリパラの世界には、昼間は外から沢山の人が来てくれますが、夜には誰もいません。なぜなら、プリパラの外からやってくる人たちは、夜には自分の家に帰ってしまうからです。しかし、プリパラの中だけに実態があるファララやガァララは違います。プリパラの外に出ることができません。

 だからガァララは孤独です。皆が家に帰り、誰もいない夜のプリパラの中で、相棒のマスコットであるパックと2人だけの生活をすることになります。それはとても寂しいことでした。

 

 しかし、その状況を打破する方法がありました。つまり、昼間にもファララが寝てしまえばいいのです。ファララが寝てしまえば、ガァララが起きることができます。そして、ファララが起きるために必要なのはプリパラのライブの力です。だから、誰もプリパラをやりたいと思わなければファララは目覚めることはありません。舞台に立ち、皆の注目を集め、歌って踊るライブをしたいと思うこと、見たいと思うこと、それは憧れです。夢です。だから、「人々が夢を持たなければいい」ということになります。人々が夢を持ちさえしなければ、ガァララは孤独ではなくなるのです。

 だからパックは、ガァララのために人々の夢を食べ始めました。夜中に家に忍び込み、こっそりと人々の心から夢を奪ったのです。そして、誰もが夢を持たなくなったその街ではプリパラは衰退し、そして、ずっと起きていられるようになったガァララはついに自由を手に入れました。多くの人が起きている時間に、自分も起きていられるようになったのです。

 

 アイドルタイムプリパラの物語は、そんな経緯でプリパラの無くなった街、パパラ宿に、ふたたびプリパラを作るところから始まります。

 

 ガァララの自由は、他人から夢を奪うこととセットです。ただ、人から夢を奪うことはとても残酷なことです。ですが、ガァララはそんなに悪いでしょうか?いや、やっていることが悪いのは間違いないでしょう。悪くないわけがありません。ですが、彼女が夢を奪うということにするのは、そうでなければ自分が孤独に暮らすしかないという事情があるからです。

 彼女が夢を奪わないようにするということは、また孤独に暮らすことを強いられることと同じです。みんなの夢のためにガァララが孤独を強いられることは受け入れてもいいことなのでしょうか?みんなの幸せのために誰かが虐げられることは肯定してもいいことなのでしょうか?そんなはずがないのではないでしょうか?

 ならば、本当に悪いのは、この世界の仕組みの方でしょう。ファララとガァララがどちらか一方だけしか起きることができないことが悪いのです。それを規定しているプリパラの世界の仕組みが変われば全ての問題は解決されるはずです。

 だから、アイドルタイムプリパラはガァララを罰するのではなく、システムの作りを変えることに希望を見いだす物語になりました。

 

 しかしながら、この物語のさらに最後に待ち受けていたのは、システムを対象にした共通の課題を解決するということだけではどうにもならないものでした。

 

 それがパックの心です。

 

 ガァララはついにシステムの制約から解放され、ファララへの恨みからも解放され、らぁらちゃん(この物語の主人公のひとり)を中心に、沢山の友達ができることになりました。ついにガァララは孤独ではなくなりました。ただその状況に、ただひとり不満を抱く存在がパックなのでした。

 なぜなら、パックには、そのことが、自分のたったひとりの友達であったガァララを、見知らぬ誰かたちに奪われたように感じられたからです。長い間、ガァララと自分の1対1の関係だったものが、自分がガァララにとっては沢山の友達の中の1人になってしまうと感じたからです。

 みんなはパックもこの友達の輪の中に入ろうと言います。でも、パックはそんなこと望んでいません。たくさんの友達が欲しかったわけではありません。ガァララがいればよかったのです。そして、そのガァララが自分から少し遠くなろうとしているのです。だから、パックは、それを受け入れることができませんでした。

 

 この状況は、システムが問題だったときよりも一段階難しい問題になっています。なぜならば、ガァララが新しい友達の輪の中に入ればパックが傷つき、ガァララがパックのために新しい友達の輪の中に入らないことはガァララが傷つくからです。どちらかが我慢をしなければなりません。両方が満たされる解が存在しないのです。

 

 でも、ここで考えなければならないと思うのは、果たしてそれは本当に単純な2択なのか?ということです。2つの異なる立場があるとき、どちらか一方の要望だけが通って終わるのかではなく、両方が納得できる落としどころを探すということだってできるはずです。そしてまた、自分の要望が通ったところで、その先に本当に自分が望んだ状態が訪れるとも限りません。

 人と人との関係性というのは、だいたいいつもそうなのではないでしょうか?異なる人格を持った人が一緒にいるためには、双方の歩み寄りと、どのような状態ならば一緒にいても大丈夫なのか?という模索が必要なはずです。もし、自分はそういうことをこれまで考えたことがないというのなら、代わりに別の誰かが黙って我慢しているのかもしれないという想像を持つ必要があるのではないかと思います。

 

 さて、ガァララとパックの要望の対立は、どう見てもパックが間違っています。ガァララは、新しい友達を受け入れないことを望むパックに、「自分のことばかりで、パックの気持ちを考えてなくてごめんなさい」という、パックがどう思い、どうしたいのか?ということを考えた上での言葉を投げかけました。しかし、パックの方は、自分の要望さえ通ればいいということを主張してしまいます。

 自分のためにガァララは別の友達を作らないでほしいという要望です。人間と人間が平等であるならば、誰しもが平等な権利を持つはずです。だから、どちらか一方の要望だけが通るということはおかしいはずです。

 ガァララは最初から良い落としどころになる場所を探ろうとしていますが、パックはそれを受け入れません。パックは自分のことばかりです。だからパックは間違っているわけです。その態度はガァララとの歩み寄りを拒否し、傷つけるものだからです。

 

 でも一方で、それだけパックが辛いと感じていることも想像できます。パックにだって正しいことが何なのかは分かっていたのかもしれません。何が正しいかはとっくに決まっていて、それは自分を抜きで勝手に決まっていて、それに合わせるのが大人の対応で、でも、それを受け入れると自分が損をしてしまうと思ったときでも、受け入れるしかないということは、悲しいことなのではないでしょうか?だって、それはこれまでガァララを苦しめてきたことと同じではないですか。

 みんなのために自分が我慢するのが一番いいんだということが、これまで自分の一番大切な人を苦しめてきたのに、それでも我慢することが一番いいんだという考えを肯定できるでしょうか?それを肯定できないことは本当に悪いだけのことでしょうか?

 

 その結果、「新しい友達なんていらない、あの楽しかった2人だけの毎日があればそれでよかった」と言って暴れるパックと、それ以外の全員という戦いが始まってしまいます。

 

 らぁらちゃんは「みんなトモダチ」という言葉とともにこれまでやってきた女の子です。だから当然、今回も友達になることの方が正しいと思っているはずです。らぁらちゃんはきっとパックとも友達になれるはずだと思っていますし、そうなるための行動をとります。それが正しいと思っているから当然です。

 しかし、そのせいでらぁらちゃんは塔と融合して巨大になったパックの中に閉じ込められてしまいました。そして、パックはそのまま自分の体を凍らせて、自分とらぁらちゃんに流れる時間を止めてしまいます。

 誰の声も聴きたくないということです。コミュニケーションの拒絶です。

 

 らぁらちゃんには沢山の友達がいます。止まった時間を動かそうとして、様々な仲間たちがやってきてライブをし、ファララの時間を動かしたように、パックの時間も動かそうとします。それは友情が生んだとても素晴らしい光景で、そして同時に、とても残酷な光景でもあるように思えました。

 誰とでも友達になるらぁらちゃんのために皆が必死で友情を発揮し、友達がいないパックを間違っていると証明しようとしているからです。

 

 その場にいる人間の誰一人として、パックの気持ちを考えようとしている人はいません。パックは間違っていて、そして間違っていることは誰の目にも明白で、観ている僕の目にも明白で、そして、だからこそ誰からも共感されることがありません。

 僕はそれを見て、パックはなんて可哀想なんだろうと思いました。

 

 誰もパックのことを考えてなんてくれないんだなということです。

 

 それがつまり友達がいないことの悲しみなのかもしれません。らぁらちゃんを想う皆のライブの力で、止まった時計はじりじりと動き出し、ついに氷が破壊される寸前にまで到達します。しかしそこで、パックの抵抗は時計を一気に巻き戻します。そのときの僕の心情はかなりパックの味方でした。なんで自分のことを考えてもくれない人たちのために、お前が望みを捨てなければならないんだよ、なあ?パック?ということです。負けるにしても、せめて必死で最後まで抵抗してやれよという気持ちになっていました(僕の歪んだ感情かもしれません)。

 

 皆の笑顔のために自分が我慢することが正しいとされる世の中ならば、そんなもの受け入れなくてもいいだろうよという歪んだ感情です。

 

 ここで僕が観ながら思っていたのは、このパックに届く言葉を発することができるとするならば、ガァララちゃんの言葉だけだろうなということです。だって、ガァララちゃんだけが苦しむパックの心を考えてやることができていたのだから。

 

 ここでガァララちゃんの発した言葉は、思い出の話です。かつて、自分が昼間眠らせられないために皆の夢を奪っていた時期のこと、沢山の人から奪った夢の結晶を飾りつけながら、夢というものはなんて綺麗なんだろうと2人で言ったじゃないかという思い出の話です。つまり、パックはとっくに知っていたということです。夢というものがとても綺麗だ価値のあるものであるということを。そして、それを人々から奪ってきたことは、とてつもなく残酷なことであったということを。

 

 僕が経験的に思うには、人は他人の言葉で変わることはありません。他人の説得に応じたとしても、それは表面上そう応じることが一番ましだと思っただけで、心の中ではやっぱり別のことを考えているんじゃないかと思います。人が変わるとしたら、自分で変わるしかないのではないかと思います。だからやっぱり、変わるきっかけは自分自身が心から発した言葉からでなければならないのではないでしょうか?

 夢は綺麗で価値があります。それをパックはとっくに知っていました。ただそれを忘れていただけで、とっくに知っていたわけじゃないですか。そして、その夢は他人だけでなく自分にもあるはずです。

 パックが自覚したパック自身の夢は「ガァララが笑っていること」でした。そうあって欲しいという願いでした。全ては、ひとりぼっちで悲しんでいたガァルルのために起こしたことです。だから、そんなことはとっくに分かっていたかもしれません。それでも、それと反発するような様々な欲求とぶつかって、まっすぐにその道を歩くことができなくなってしまっていたのではないでしょうか?

 自分のことばかりだったパックは、ガァララちゃんが自分にそうしてくれたように、自分にとってのたった一人の友達がどう感じるかを考える答えを出しました。

 

 世の中は必ずしも2つの対立する価値観が戦い、どちらかが勝利することが最良の結末とは限りません。対立する価値観は2つどころか、実際は方向性の違う価値観が無数にあり、それはひとりの人間の中ですらぶつかって、全てを満たすことは不可能なのかもしれません。

 

 だからきっと、誰もが望み、誰もが我慢をしています。この物語の結末も結局パックの少なくない我慢で成り立っているのかもしれません。結末はパックにとって最良ではなく、妥協した最善でしかないのかもしれません。

 皆は笑顔でパックの友達になりたいと言ってくれましたが、それは別にパックにとって救いではないようにも思えました。だって、パックは皆と友達になれなくて苦しんでいたのではないと思うからです。

 

 でも、パックの望みだけが全て叶うことは、他の誰かの望みを傷つけることでもあります。だから、パックの望みだけが通るというような道理はないわけです。多くの人が集まる場所では、そういったことは必ず起こってしまいます。皆の望みの全てが叶うことがありえないのは悲しいことかもしれません。

 そう、人の世は悲しいわけです。自分の抱える100の望みが、他の誰かの犠牲なしに100全て叶うことはありません。例えば、自分が働かずに暮らしたいと思っても、他の誰かには働いていて欲しいと思うわけでしょう?

 

 パックの選択は、そんな世の中で生きていくことを選択したということではないかと思いました。それは少し悲しいことで、そして少し希望があることだと思います。それが希望でないなら、人はひとりで生きていくしかないからです。

 

 「みんなトモダチ」であるということ、それはこのプリパラの物語の最初から最後にまで存在しています。そして、プリパラの物語が持つ誠実さは、パックのように、ただそれだけでは救いきれない存在がいることも描いたことではないでしょうか?

 疑いようなく最初から「正しい」と与えられているものなら、それだけで救われない存在は、最初から存在しないことになります。存在しないものとして扱われるということは、その気持ちをもし持ちえた人がいたとしても、表明する機会を与えられないということです。でも、気持ちはあるじゃないですか。ありますよ。ないわけがない。

 

 だから、それが「ある」という上で、それでも、みんなトモダチということを描いたということは、目を背けない誠実なことだなと思って、そして、この世の中はやっぱり少し悲しいなと思ったのでした。