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「ドラゴンボール」の悟空の人間性と、悟飯はその後継者にはなれなかった関連

 ドラゴンボールの主人公、孫悟空人間性については、未だに識者の間でも意見の分かれるところがあり、彼が何を考えでどのように行動しているのかの理解が追いついてなかったりします。そのため悟空の人間性の良し悪しについては、疑問視されることもあり、悟空は酷い人間なのでは?と思われている様子もしばしば目にします。

 物語を読むということは、とても個人的な行為だと僕は思うので、それが作者の意図や、他の人の感じ方とは違っても、ある人がそう思ったならそれがその人にとっては事実なのではないかと思います。

 

 でも、じゃあ言わせて頂きますけど、僕が悟空をどのような人間として捉えているかも、めちゃくちゃ個人的な認識で書いてやりますよ!!!

 

 僕が孫悟空は、「目的に対して最短距離しか走れない人間」だと思っています。イメージするなら、「魁!男塾」の直進行軍です。直進行軍とは、ただただまっすぐ歩く訓練です。つまり、目の前に壁があろうが他人の家があろうが、とにかくそれらを壊してでも、ただまっすぐ歩くというものです。

 人間の多くはこれをすることができません。ある地点Aからある地点Bに移動するとき、直線で進むのが一番早いのは間違いありませんが、そのためには障害にぶち当たってしまうので、普通は回避をするのです。

 このように、まっすぐ進むことが距離的には一番近いことを知っていながらも、それを回避して遠回りしてしまうのが普通の人間で、そこで最短距離を突き進むことができるのが変わった人です。

 

 悟空はそんな特異な人物なのではないかと思います。

 

 これはもう少し細かく言うと、悟空は普通の人と比べて葛藤することがとても少ないのだと思います。葛藤とは、僕の理解では、自分の中に複数の評価指標があり、一方では良しとされることが、他方では悪しとされてしまう状態ではないかと思います。

 なので、ある判断をするときに、それはある評価指標では良いことであるが、別の評価指標では悪いことでもあったりして、本当にそれを選んでいいのかの躊躇が発生してしまいます。だから、人は、その指標の優先度や重み付けをよく考え、乗り越えることで、ようやく自分にとっての最良の決断をするのです。にもかかわらず、やはりそこには何かしらの悪い要素も残ってしまいがちです。だから、決断したことにすっきりできなかったりして、それがまた次の決断の足かせになったりします。

 しかしながら、こと悟空にとっては、このような状態のときに内面と外面の乖離がほとんどないのだと思います。そして、内面が持つ評価指標も矛盾せずにほぼひとつに統一されているようにも思いました。

 だから、悟空はあらゆるシチュエーションにおいて、すぐに明確な答えを出せます。そして、それを実行することに躊躇がありません。なぜなら葛藤がないからです。内面の中でも、外面との境界でも、矛盾がなく、ただあるがままであればよいだけだからです。

 

 もちろん、これは悟空が作中で百パーセント常にそうだったということでもありませんが(予防線)。

 

 内面の葛藤が少なく、考えた通りに即実行に移せるという性質は、強くなることや問題解決においてはとても強い性質です。どうすればいいかの答えを出せずにまごついている時間なく、目的を達成するための行動だけに集中することができるからです。戦うことの意味や意義や価値を考えずとも、強くなるということに集中することができるからです。

 このような性質を抱えた悟空は、戦闘民族サイヤ人であるという土台を元にどんどん強くなっていきます。ハンターハンターのキメラアント編でも、人間と他の生物と融合して生み出されたキメラアントたちは短期間で強くなっていきました。それは人間的な規範から解き放たれた彼らは、強くなるための欲求に素直だからです(悟空との対比は誤解を招く悪い例えかもしれませんが)。

 そして、悟空はどんどん頼られる存在となっていきます。ベジータ戦でも、ギニュー特戦隊戦でも、フリーザ戦でも、悟空の到着は遅れ、そこにいかにして間に合うかという話になります。圧倒的な力の差があったとしても、それでも「悟空ならなんとかしてくれる」という気持ちを皆が抱えるようになります。

 

 悟空が心臓病で死んでしまった未来では、悟空を知る誰もが悟空さえいればという気持ちを抱えていました。その気持ちが理解できないのは悟空を知らないトランクスだけです。悟飯もトランクスもスーパーサイヤ人になれる未来では、悟空の戦闘力が突出していたというわけではありません。それでも敵わないぐらいに人造人間たちは強いのに、それでも、皆は「悟空さえ生きていれば」という気持ちになるのです。

 どれだけ悲惨な状況でも、どこかあっけらかんとしていたのがドラゴンボールの漫画の世界です。しかし、悟空のいない未来の外伝では、とてつもなく閉塞感のある世界が描かれました。それこそが悟空がいる意味です。悟空がいること、悟空がいさえすれば、どんな状況でもなんとかしてくれると思えること、それが、この世界に光をもたらしていたということが分かります。

 だから、ブルマはタイムマシンを発明し、トランクスを過去に送り込んで悟空が生き延びる未来を生み出しました。

 

 このように人造人間編の序盤において、悟空の存在の神格化は始まっていたように思います。悟空がいれば未来は明るく、悟空がいなければ未来は暗いということ、いつのまにか悟空はそんなものを背負う存在になっていました。天下一武道会でピッコロを倒したあとに、地球の神を引き継がないかという提案を断った悟空が、知らずに信仰の対象のような存在にまでなってしまっていたのです。

 

 僕が思うに、悟空にはこのとき既に自覚があったのではないでしょうか?心臓病の治療が終わるまでの眠りから覚めたあと、悟空の在り方は少し変わったように思いました。それはつまり、自分がいなくなったあとのことを考え始めたのではないかということです。

 「悟空がいたから楽しかった」は、ドラゴンボールGTの最後の言葉です。GTの意味のひとつは悟空がいたから楽しかったです。でも、悟空がいないから楽しくない世の中でもいいのでしょうか?いや、よくないでしょう。だってそれなら悟空はいつまで経っても去ることができないし、ドラえもんが安心して未来に帰れないわけですよ。

 

 そして、悟空は自分の後継者として息子の悟飯のことを考えたのではないでしょうか?精神と時の部屋での2人っきりでの修行の中で、悟飯の持つポテンシャルは自分よりも強いことを感じ取り、自分がより強くなるために修行をすることを止め、完全体のセルに対しても早々に敗北を認めて「お前の出番だぞ」と悟飯に呼びかけます。

 しかし、悟空には誤算があります。それは、悟飯は悟空の悟空性を受け継いでいなかったということです。強い力を抱えながらも、悟飯はその内面に葛藤を抱えた普通の人間でした。父親から期待されていることは分かっても、それを実行することができません。そのやり方が分かりません。

 そして、怒りとともに力を解放したあとにも、悟飯はセルをいたぶってしまいます。これも悟空にはない性質でした。悟空は戦う力や戦意を失った相手にとどめを刺すことにはこだわらず、ただ、脅威を収めることでよしとします。もちろん、それでも敵意を失わず人を傷つけようとする相手にはとどめを刺しますが、それそのものが目的にはならないわけです。目的さえ達することができれば、それ以外のことにはこだわらない悟空に比べ、悟飯は、相手を苦しめることを求めました。そして、そのことがセルの自爆へと繋がる隙を作ってしまいます。

 

 そして、悟空は膨れ上がったセルを連れて界王様の星に瞬間移動しました。皆を助けるためです。巻き添えにされた界王様はたまったものではないですが、それでも悟空は十分に考えた末にその決断を行ったのです。セルの自爆から皆を助けること、その代わり自分と界王様とバブルスくんが死ぬことを天秤にかけ、出た答えをあっけらかんと実行します。それがいいと思ったならば、こともなげに実行できてしまうこと、それが悟空の悟空たるゆえんなのではないでしょうか?

 また、悟空は自ら退場することを望んでいたふしもあります。そこには、悟空の息子は特別な存在である悟空とは異なり、別の人格を持った人間だったと分かったということも関係しているのかもしれません。

 

 神話の時代に自ら幕を引き、代わりに残った、かつて自分を頼った人間たちに世界の舵取りを任せて、悟空は自ら表舞台から身を引くことになるのでした。

 

 しかしながら、そう簡単にはいきません。神は死に、人間の時代が来たと思いきや、ドラゴンボールの世界の在り方は、それを許しません。死んだはずの悟空を呼び戻し、魔人ブウとの戦いに雪崩れ込みます。

 魔人ブウ編は、悟空の悟空性と世界との齟齬の物語と読むことができるかもしれません。これまで悟空の価値を生み出してきた率直さと目的に対して最短の解を出す素直さが、むしろ、悟空を悪く見せるように機能しているからです。そして、ここには悟天とトランクスという、悟空を知らない子供たちがまず悟空に向けるのは懐疑の目がありました。

 神のいない時代に生まれた子供たちは、信仰の意味を知りません。そんな中で、悟空は自分の力で倒せたはずの魔人ブウを見逃しました。それは現世の人々の力で倒せた方がいいと思ったからです。

 

 それによって、悟空がいたから助かる世界ではなく、悟空がいなくとも助かる世界を望むこと、つまり、自分がいなくなることをむしろ望むことが、一度は幕を引いたはずの神話の時代の先に、悟空が再び成し遂げようとしたことではないでしょうか?

 

 それでも、フュージョンの力で悟空に匹敵する戦闘力を獲得した悟天とトランクスも、老界王神の力でおそらくはそのとき世界で一番強くなった悟飯もやはり悟空の代わりを務めることができません。魔人ブウは何もかも吸収して強くなり、悟空とベジータも合体することでそれに対抗します。

 そして、魔人ブウはこれまで吸収し続けた人々を失い、悟空もベジータとの合体が解けて、最期の戦いに向かっていきます。

 

 ここでの印象的な出来事は、ベジータが悟空をナンバーワンだと認めるということです。常に対抗意識を持ち、勝つために敵に心を売るまでしたベジータが、魔人ブウとの戦いの中でついに、自分は力不足と認め、悟空に戦いを託すのです。これは良い話でした。感動しました。しかし、感動する良い話ですが、それによって決定的に破綻するものがあります。

 ついにベジータまでもが、「悟空助けてくれ」になってしまうのです。悟空を信仰の対象としてしまうのです。沢山の人の気持ちを一心に背負うことになった悟空は、もしかすると、とてつもない孤独になってしまったのではないでしょうか?

 

 誰も彼もが、自分自身で戦うことを放棄し、戦う役目を悟空に押し付けたと捉えることもできるからです。

 

 悟空に祈れば何でも叶います。それはさしずめ何でも願いを叶えてくれるドラゴンボールの別の形なのかもしれません。願いを叶えてくれる存在を手に入れた人々は、自分たちで戦うことを止めてしまいます。なぜ、悟空がその責任をたったひとりでとらなければならないのでしょうか?

 しかしながら、ここには救いがあります。魔人ブウを倒すために決定的となった元気玉は、地球の人々の力を集めたものであったことです。それは悟空を知らない、悟空を信仰していない人々の力です。

 

 それは、たったひとりの絶対的な存在になりそうだった悟空を、その責務から解放してくれる強い力です。

 

 魔人ブウにとどめを刺す瞬間、悟空はブウのことをねぎらいます。たったひとりでよく戦ったということをです。考えてもみてください。あの場において、誰もが自ら戦うことを放棄したとき、孤独に戦い続けたのは、悟空と魔人ブウだけだったじゃないですか。

 倒されたのは魔人ブウですが、もしかすると悟空でもあったのかもしれません。元気玉魔人ブウが倒されたとき、このドラゴンボールの世界において、悟空という神が死に、遂に人間の時代が、それも英雄ではなく普通の人々の形作る時代が来たのです。

 

 調子こいて書きましたが、この後のドラゴンボール超の話をすると、この辺めちゃくちゃ矛盾が出てくるので、これはあくまで原作漫画だけで完結した与太話だと思ってください(予防線2つ目)。

 

 結局のところ、悟飯は悟空の後継者にはなれませんでした。悟空は神格化された存在であって、悟飯は人でしかなかったからです。でも、それが悪いわけではありません。神話の時代が終わり、人間の時代が来たのなら、そこでは人間として生きることの方が良いと思うからです。

 そして、悟空は、魔人ブウの生まれ変わりであるウーブとともに去ることで物語は終結します。それはつまり、たったひとりで戦い続けたウーブこそが、悟空の後継者になり得る存在であって、そして、そんな彼らの居場所はもうなかったということなのではないでしょうか?

 

 その後、ドラゴンボール超が始まってしまったのは、また神話の時代が求められてしまったということなのかもしれませんね。時系列的に言えば漫画の最終回よりまだ手前なので、結論は同じなのかもしれません。この捉え方を念頭に置いたとき、物語の再開のきっかけとなった映画が「神と神」だったのは、果たして偶然でしょうか?

 

 これは偶然ではありません!!なぜなら、僕がそれに寄せようと思って書いたからです。おしまい。