昨日、日本のRPGのビデオゲームで、恒常的な仲間として主人公の兄がいるケースが少ないという話を読みました。確かに、思い返してみればパッと出てくるものがなく、何故なのかを考えてみたのですが、おそらく兄というポジションは主人公と同じ立場で年長であるために、上位互換になってしまうからだと思います。
つまり、主人公が一番強くなる上では、乗り越えないといけない存在となってしまうために、「常に身近にいられるとよくない」のではないかと思いました。
そういうことを考えてから、漫画のことも考えてみたのですが、少年漫画でも主人公の兄やあるいは兄弟子などの存在(以下は面倒なので血縁に限らず全てポジション概念として、兄と呼称します)は、あまり良い立場ではないかもしれないなと思いました。理由はゲームの場合と同じで、主人公を最高の男に成長させる上で、邪魔だからです。
なので、物語に登場する兄は、例えば、主人公よりもすごい才能を持っていたものの、敵側に寝返ってしまい、倒すことで、上位互換であったはずの存在を乗り越えるとともに、人間的成長を遂げるための糧とされてしまいがちなのではないでしょうか?
そういえば直近では「鬼滅の刃」でも、善逸の兄弟子がそのような存在でしたね(善逸は主人公ではないですが)。他には「ロトの紋章」の剣王サーヴァイン(キラも主人公ではないな)や、「グラップラー刃牙」のジャックハンマー(寝返ったわけではないですが)、「北斗の拳」のラオウ(これも寝返ったわけではないですね)など、あるいは、「うしおととら」の秋葉流(上位互換ではないかも!)など、微妙に条件に合わないように思えて、なんとなくそういう感じに都合よく解釈できそうな存在を、僕の記憶から便利にピックアップすることができます。あ、「彼岸島」の篤は、かなり条件に合う気がしますね。他には「将太の寿司」では佐治や、鳳寿司の親方の兄弟子なんかも、主人公を引き立てるための糧にされてしまった気がします。
他にも事例は大量に思い浮かんでいますが、キリがないので省略します。
このようなタイプの兄は主人公の成長のための起爆剤や、マイルストーンとして消費されてしまいます。
一方で、主人公の身近に魅力的で強い兄のような存在がいることは、主人公以上に魅力的に映ってしまうために、主人公の魅力を描く上では邪魔になってしまったりもするわけです。「からくりサーカス」では、そんな理由もあってか、物語は勝から鳴海を引き剥がし、鳴海のいない中で成長する勝の姿が描かれました。
魅力的な兄は、主人公が将来なるはずの場所として存在し、そのポジションを空けるために死んでしまうことも多いです(鳴海は生きていますが勝と再び会うことがなく物語が進む)。
死んでしまった兄は、主人公の理想を担いつつも、もう決して届かないポジションとして、物語上は存在し続けたりします。「修羅の門」では、主人公の九十九は、天才であった兄、冬弥を修行の中で自らの手で殺してしまいます。冬弥はその性格から修羅にはなり得なかった男ですが、九十九の心の中には、自分よりもずっと天才だった冬弥の姿が刻み込まれています。
「シュート」の久保先輩は、主人公のトシを導くような存在でしたが、病気で命を落としてしまい、ラオウのように死後に理想的存在としていっそうの神格化が進んでいきました。
このように、主人公の兄ポジションには、物語という化け物の食欲から逃れることができず、その牙から逃れて、幸福に生きていくことが難しいように思いました。
そんな恐ろしい物語を目の前にして、兄がどうやれば生きていくことができるのかを書こうと思います。
兄がその牙から逃れる構造的な方法のひとつが「学校」という概念です。学校の何が助かるかというと「卒業」が存在するということです。主人公の成長に合わせて卒業できることで、上位互換としての立場があったとしても、その座をスムーズに明け渡すことができるようになります(シュートの久保はそれでも間に合わず、逃れることはできませんでしたが)。
例えば「弱虫ペダル」の3年生たちは、上手く格や命を失わされることなく、物語の中心から外れることができました。そればかりか、スピンオフでは主役を張れるという好待遇です。
学校もそうですが、つまり、主人公と同じ土俵に上がらないということが生きていく上では重要なのではないかと思います。「はじめの一歩」の鷹村は、主人公の一歩とボクシングの階級が違うので、直接戦う必要がありません。常に強く主人公の目の前に存在していても、それが主人公の成長の邪魔になるわけではないので生きていけるわけです。
同じ土俵に上がらないということは、そもそも主人公が身を投じている戦いに参加しない存在であったり(頭脳ポジションで後方支援役になるなど)、特異な能力があってピンポイントでのみ活躍する存在であったり、あるいは、体が弱くて長時間戦うことができないことが、むしろメインのポジションをはずせる理由となり、物語の登場人物としては寿命を伸ばす可能性もあります(北斗の拳のトキですね、結局最後は死にますが、人間は皆いずれ死ぬので)。
そして、同じ土俵に上がったとしても格も命も失わない方法を使っている人物として印象的なのが「ダイの大冒険」のヒュンケルと、「聖闘士星矢」の一輝です。この2人は共通点が多く、例えば、主人公たちよりも年長のポジションであり、最初、敵として登場しつつも、その後、付かず離れずの味方になるという共通点があります。そして、ピンチになると、どこからともなく現れ、主人公たちを助け、それによって大ダメージを負ったり、これは死んだか?と思わせて死んでおらず、ピンチになると、再びどこからともなく現れます。
この最初にイニシエーションとしての敗北を受けた上で、強く魅力的な味方のポジションを確保し、とはいえ、常に一緒に行動するわけではなく(一緒に行動すると邪魔ポイントが貯まって死の可能性が高まる)、ここぞというところにだけ登場するという行動は、そういう観点から見ると、命と格のマネジメントがとても上手だなと思ってしまいました。
この2人の存在パターンに似通っている部分があるのは、少年漫画の中で命と格を守りつつ、兄として戦いに身を投じ続けるための生存戦略の結果のように感じたという話です。
そう考えれば、「鬼滅の刃」の富岡義勇も、主人公と常に行動をともにしていなかったからこそ生き残れたとも言えると思います。代わりに煉獄杏寿郎が兄の立場の一部を担って死んでしまいました。
兄が物語の中で、いかに生きようとしたという謎の見方をすると、色んな物語が別の見え方がしてくると思います。北斗の拳でジャギが言った「兄よりすぐれた弟なぞ存在しねえ」という台詞は、そんな不遇になりやすい兄が、物語の中でせめても生きようとした叫びのようにも聞こえてきました(幻聴)。
最後に、これまで出てこなかった、主人公とその兄ポジションが最後まで一緒に戦い続けられた例としては「フルアヘッドココ」があると思います。主人公のココは、海賊バーツの船に乗り込みますが、そのままの関係性で2人は戦い続けることができるのです。
それができた理由は、ココの方が、戦いの中心人物というより、特殊な力を持つ存在として、微妙に同じ土俵に乗らなかったということがあると思います。そして、バーツとココは十分に歳が離れていることも、兄だけでなく親子的な関係性があることとして作用してくれたのかもしれません。
そして、近年始まった続編の「フルアヘッドココ ゼルヴァンス」ではココは成長し、バーツと対等に戦うことができる存在に成長しました。こうなってしまった以上、ココとバーツの関係性は今までのままでいることはできないかもしれません。海賊スイートマドンナのクレイジーバーツは、今後どのように物語の中で生きていくことができるのか?
ドキドキしながら見守ることにしようと思います。