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「BEASTARS」と加害性の苦しさと平等関連

 チャンピオンで連載していた「BEASTARS」が完結し、最終巻も今月出ました。よい物語だったなと思ったのでその話をします。

 

(免責:この文章には物語の核心部分のネタバレが含まれます)

 

 BEASTARSは様々な動物が人間のように生活をしている世界を舞台にした漫画です。この物語の主軸部分は、肉食動物と草食動物が同じ社会を営むということによって社会に発生するトラブルです。主要な登場人物は、主人公であるオオカミのレゴシ、かつて社会の裏側で食べ物として売られる運命にあったシカのルイ、レゴシと恋愛関係になるウサギのハルです。

 この物語を大きく2つに分けると前半の学園編と、後半の社会編になると思います。前半では、ヒグマのリズが肉食側の象徴として登場し、後半ではヒョウとガゼルのハーフであるメロンが肉食と草食の狭間に存在する社会の矛盾の象徴として登場します。

 

 この物語は、学園の中でアルパカのテムが何者かに喰い殺されたところから始まります(このような事件を食殺事件と作中では呼称)。加害者はその後も何食わぬ顔で学園生活を送っており、一見日常の平和な生活は薄氷の上のもので、その下には暗く広い水底が広がっていることを思わせます。

 肉食動物も草食動物もこの社会において、同等の権利と尊厳を有した平等な存在です。しかしながら、その根底には喰う者と喰われる者という不平等な関係性があり、社会はそれを覆い隠すベールを必要としているように見えました。

 

 そんな中でリズが起こした食殺事件の真相が描かれました。そこで描かれたことの驚いた部分は、「クマは体が大きく力が強いため、その筋肉の発達を抑える薬の服用を義務付けられている」ということです。この物語の世界では、様々な動物が存在するため、その筋力的な力に現実の人間社会以上に極端な差が存在しています。じゃれているぐらいのつもりが、例えばうっかり同級生の腕をもいでしまうほどの事故を引き起こす可能性もあるのです。

 だから、安全性の確保のために極端に強い力を持つ種族は、事故を避けるために薬の服用を求められました。もしかするとかつて、そのような事故が多発したことがあるのかもしれません。それは当たり前のこととして社会では受け入れられています。

 

 しかし、たまたま力が強く生まれてしまったために、その個性を無くすための薬の服用を求められることは、果たして本当に平等でしょうか?しかしながら、そのような不公平感はきっと、「現に沢山事故が起きているじゃないか?」という事実の前では大きな力は持てないのではないかと思います。

 クマ以外ではゾウもまた心を病みがちであることを知らされます。自分の体が大きくて強いために、必然的に自分の一挙手一投足が外部に与える影響を意識し続けなければならないからです。

 

 生来の肉体の持つ不平等さが、現実の世界の世界よりもより一層強調されているこの物語の世界の中では、平等であるということを達成するために、凸凹を均すための様々な、ときに残酷とも思える施策が行われているのでした。

 

 力が強く生まれてしまったがために、自分があるがままでいられないという苦しみを抱えていたリズは、テムにかけられた何気ない一言に影響を受けてしまいました。体が大きくて優しいクマさんという雰囲気の裏にあり、決して表に出してはならないと社会に求められたリズの暴力性に、テムが気づいたと感じたからです。

 リズの中では、これが「気づいてくれた」として機能してしまいます。社会の誰からも、あることを認めてはならないものとして、存在することすら認めて貰えなかったものとして存在する自身の暴力性を、テムだけが気づいてしまいました。そして、リズはその気づいてしまったものをもはや無視することができなくなってしまいます。

 そして、その先にあったのは悲劇でした。

 

 BEASTARSの物語の特徴的なところは、このような生来の特徴を、加害性として社会に忌避されている存在を、明確に描いたことではないかと思います。そこで起こった事件を悲劇は悲劇、犯した者の罪は罪として描きながらも、その背後にある、加害性として、自身が生まれ持った特性を抑圧された状態で生きることの苦しさもまた描くんだなと読んでいて思いました。

 

 もう一点、生まれ持ったの加害性の象徴として描かれているのは、コモドオオトカゲのゴーシャだと思います。コモドオオトカゲは口の中に毒管があるため、その唾液が常に、他人を傷つける可能性がある状態で生活をしています。彼は自分の存在が、同族以外を傷つけることに非常にセンシティブです。彼にとって、それは生まれながらのもので、どうしようもないものですが、それでも、自分が気遣いなく好き勝手に振る舞えば、それによって誰かが死んでしまうかもしれないという中で生きてきました。

 ゴーシャとトキの間に生まれた娘は、後にレゴシを生み、レゴシもそんなゴーシャの側面を受け継いでいるようにも思えます。

 

 そんな彼が、異種族であるオオカミと結婚をしたことは、驚くことでした。しかし、ゴーシャは同じ空間で生活する中で、自分の妻であるトキを自分の毒で傷付けてしまわないかを朝から晩まで気にしてしまいます。しかしながら、トキがとった行動は特異なものでした。トキがなぜそうまでしたのかを、僕は明確に理解することはできませんでしたが、彼女はゴーシャに自分との生活の中で、ゴーシャが生まれてからずっと気にし続けてきた、「毒という他者へのどうしようもない加害性」を、ついに忘れさせることに成功します。

 そして、その成功は、自分がその毒で死ぬという結果をもたらしてしまいました。

 

 トキはきっとやり遂げたのだと思います。自分の死の瞬間、やってのけたと思ったのででしょう。そして、そうなってしまったことが、その後もたらすことについて、何を思っていたのかは分かりませんでした。

 

 自分の中に他人を傷つけてしまう部分が備わっていることもまは、とても苦しいことかもしれません。肉食動物は、草食動物と社会をやっていく上で、それを隠すことにしました。大人は誰もが裏市の存在をしています。裏市では、死んだ草食動物の肉が売り買いされ、ときに生きている草食動物も肉として売り買いされます。

 肉食側の「喰いたくなってしまう」という気持ちは、そのような形で秘密裡に解消され、裏市の存在を知らないものとして振る舞うことによって、ギリギリ成り立っている薄氷の上に作られた社会です。

 

 この物語の中で描かれたことは、「反社会的な欲望がここにある」ということは認めることだと思います。そして、その欲望を持ってしまうことが、何も暴力的だと蔑まれることだけではなく、ときに「それを抱えてしまう人間の苦しさでもある」ということだということです。

 ある肉食動物は、裏市を初めて見てしまった草食動物に対して、それが存在するという恥ずかしさから、こんなものを見せていいはずがないと店を壊そうとします。それは存在しているものだが、だからといって見せたくなんてなかった、見られたくなかったという心です。

 

 ここにあるのは、肉食動物はどうしても草食動物に対する食欲を消すことはできないが、それでも草食動物と上手く社会をやっていきたいという願いがあるということでしょう。その「願いがある」ということがきっと希望です。仮に頭の中に反社会的な欲望が渦巻いいていたとしても、それを実行せずに一生を終える人は、やはり善人なのではないかと僕は思うからです。

 仮に反社会的なことを心の裏側で望んでいたとしても、同時にそれによって誰かを傷つけたくなんてないという希望があれば、それで人は社会はやっていけるのではないでしょうか?

 

 そして、それはその狭間における事件が全く起こらないということを意味しません。事件はきっとどこかで起こります。事件は起こり得るということを踏まえた上でやっていくのだというところが、強い物語だなと思いました。

 

 メロンは草食動物であるガゼルと肉食動物であるヒョウの間に生まれた子供です。彼は幼い頃からずっとストレスの中で生活してきました。仮に表面上は平等を謳っていても、その陰には、歴然とした違いがあることが認識される社会があります。子供というのは、その上にかけて覆い隠すベールが大人よりもずっと薄いものです。肉食でも草食でもない彼には居場所がありません。

 そして、彼は自分の母が、きっと父を食べたのだろうと確信しています。母が自分を見て父を思い出すのは、父の味を思い出しているのだろうと想像してしまいます。学校にメロンの居場所はありませんでした。そして、家庭もまたメロンの逃げ場ではありません。

 

 そのストレスの中で、彼の生き方は歪んでしまいます。

 

 社会が暗黙のうちに分断されているために、彼には居場所がありません。社会の歪みによって道を外してしまった哀れな人、というところならば居場所ができるかもしれません。でも、きっとメロンはそれを拒否するんじゃないかと思います。カテゴライズに上手く当てはまるか当てはまらないかということこそが、彼を傷つけてきたものであるからと思うからです。

 

 実際のところ、社会はほどよく分断されていた方が生活はしやすいことも多いはずです。異なる条件で生きていかざるを得ない人同士が同じ場所にいることは難しいことです。そうだった方がいいよねという気持ちだけで達成できるような簡単な話ではないのではないでしょうか?

 だから、似通った人たちだけで集まり、軋轢を最小化した上で、他の種類の人たちとは、交流用に作った窓口でだけやりとりをするということは、ある程度実績のある方法のはずです。例えば、国と国も似たようなものかもれしれません。

 でもそれは、人と人は綺麗に何らかのカテゴリーに分けられるはずだということを暗黙の前提としています。そして、その分けられたカテゴリーに属することに、人が負荷を感じることもあるはずです。

 

 そこから目を逸らさないのであれば、きっと、「多様な人々が、どうすれば一緒の社会を作っていけるか」という問題に取り組む必要があるはずです。

 

 そしてそれは、何らかの意味で強い立場にいるものが、その強さを社会からの要請によって抑え込むということだけでは達成できないのではないでしょうか?他人の加害性を押さえつけるその力は、社会からその人への新たな暴力性と捉えることもできるからです。

 

 レゴシは現在のビースター(動物社会の指導的立場にいる人)であるウマのヤフヤの前に立つにあたり、自らの牙を引っこ抜きました。そうすることで、レゴシは自分が肉食動物であるというくびきから自由になり、草食動物であるヤフヤと対等な立場となると思ったからです。

 生まれながらに持っているものなのに、それを否定することでようやくまともに話すことができるというレゴシの考えは、覚悟は感じられてもとても悲しものです。レゴシは優しい男です。それは誰よりも自分の加害性に気を遣ってきたゴーシャの孫であることも関係しているかもしれません。

 結果的に言えば、このレゴシの行動は、物語の中で正解としては描かれていないと思います。しいて言うなら半分だけ正解です。そこには、肉食動物側から草食動物といるためにはどうすればいいかの悩みだけしかないからです。それはきっと不完全な話で、草食動物側から肉食動物といるためにはどうすればいいかという悩みも、やはり存在していなければならないのではないでしょうか?つまり、残りの半分は、草食動物がただの虐げられる弱者としての立場しかとらないことが、本当に正しいのか?という疑問です。

 

 この物語は、レゴシとハルの恋愛をもって集結します。ハルはレゴシにプロポーズをし、そして即座に離婚することを提案します。それがハルにとってのレゴシと対等になるための方法だからです。

 捕食される者としての立場を自覚して生きてきたハルは、誰とでもすぐに性的関係になる女でした。それは、それが彼女にとっての数少ない武器だったからです。生物としての力関係は明確にあっても、男と女として接するときには対等の関係になります。奪われる者ではなく、与える者としての立場もそこにはあるからです。

 

 ハルがレゴシに対して提示するのは、レゴシが何もかもひとりで我慢し、自分のために様々なことを諦めることで向こうから対等になろうとする姿勢への不満です。ハルはレゴシと対等の存在になりたかったわけです。自分が弱い者でしかなく、周りの我慢によってようやく目線が合わせられることに我慢がならなかったわけです。それはきっと、ハルの感じるところの平等ではないからです。

 

 自分の生得的な強さに悩むオオカミと、自分の生得的な弱さに悩むウサギは、それぞれが互いに対等であろうとするために行動します。つまり、2人の関係性はここからが始まりです。全く性質の違う人同士が、寄り添って生きていくということは簡単な話ではないからです。

 全てが解決することでよかった話ではなく、自分たちの戦いはこれから始まり、終わりなく戦い続けるというゴングのような物語でした。

 

 最後に、ルイはかつて幼い頃、裏市で売られ、肉食動物に食べられるのを待つばかりでした。しかし、財閥の後継者として養子として引き取られ、裏市を巻き込んだ様々な出来事の結果、ルイは肉食動物たちとの仲間としての関係性を持つことができる男になりました。メロンの引き起こした事件を通じて、ルイとレゴシの友情は、肉食と草食のビースターズとして、人の目に触れることになります。でも、それで社会の問題が解決するわけではありません。

 でも、それを示すことが、そして、この先も戦い続けていくことこそが、彼らの辿り着いた道だと思うわけです。

 

 BEASTARSの世界は、現実の社会以上に多様性に満ちています。そして、そんな多様な人々が同じ社会を平等な権利と尊厳を持った存在としてやっていくということは、容易なことではありません。そこには軋轢があり、その隙間の苦しさがあり、登場人物たちの多くは、その矛盾の中で答えを探そうともがいています。

 そこにひとつの分かりやすい答えなんてないのかもしれません。ヤフヤは海の生物からの、魚肉ならば提供できるという提案を断りました。陸の者たちは、そのような答えではなく、悩み続け、関係性を続けるということを選ぶべきだと思ったからです。

 

 なので、この物語が、草食動物であるハルの強さと、肉食動物であるレゴシの優しさをもって締められたことは、とてもよかったなと思いました。

 その互いに対等であることを求め続ける心こそが、その先に繋がるものかもしれないと思わせてくれたからです。