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歳をとると新しい漫画をなかなか読めなくなる話と老害の仕組み関連

 歳をとると、新しい漫画がなかなか読めないという話を、身近でも聞くようになってきました。

 

 僕自身も新しい漫画に手を付けて読み始めるまでが億劫になることは近年感じつつあって、子供の頃は、朝から晩まで新しい漫画をむさぼり読んでいたのに、今は買った本もその日のうちに読めないことも増えました(それは単純に自由時間の制約もあるのですが)。

 

 漫画に限らず、新しいゲームを始めることが億劫だったり、全然知らないことの勉強を始めることも億劫だったりします。いや、加齢が原因だとは限らず、もともと自分はそういう人間なのでは?という疑惑もありつつも、昔の自分と比べると、やっぱり加齢による変化もあるだろうなと思っています。

 

 そこにあるもののひとつは、「自分が完成してきた」ということではないかと思います。

 

 「完成してきた」というのは別にポジティブな意味とは限らなくて、「硬直してきた」と言い換えることができるかもしれません。外部的な刺激によって、自分の中にある考え方や情報を一旦ばらして組みなおすというようなことをどんどんとしなくなっていき、今既に自分の中にあるものを使って、周りの全てを理解しようとしてしまうということです。

 それは経験を積んできて、どういうときにどうすればいいかが分かってきたということですから、もちろんポジティブな側面もあります。一方で、周囲の環境に変化があったとしても、今手持ちの道具だけで全てを賄おうとして、変化に合わせた最適な行動をとることができないというネガティブな側面もあると思うのです。

 

 人は自分の経験を積み重ねることで、硬直化していくことがあります。僕の知っている話で言えば、ある研究開発で、若手が提案した手法について、元研究者の管理職が「それはかつてやったが上手くいかなかった」と、一蹴したことがありました。その経験は確かにそのかつての時点では正しいものでしたが、しかしそのかつてと今では、様々な実験環境が異なっており、実際には、若手のやり方で成果が出たりしました(出ない方のケースだってもちろん沢山あります)。

 個人の経験は、個人の中において強い影響を持つので、上手く取り扱わないと過度に囚われてしまうことがあります。このケースでは、実際には、「かつて上手くいかなかったときと今回では、どのような条件が異なるのか」を精査する必要があったのですが、「この方法は上手く行かない」という自分の中の経験を重要視し過ぎたために、条件の精査の前に、既に自分の中に確立していた価値判断に放り込んでしまったための判断ミスがあったのだと思います。

 

 人生を重ねていくと、自分の中に考え方や情報は積みあがってきます。頭の中の本棚は初めは空っぽですが、色んな経験を経て様々な本がみっしりと埋まっていきます。

 しかし、一回本棚にきれいに並べた本を、もう一回全部外に出して並べなおす必要があるときに、とても面倒でやりたくないな…と思ってしまうことと同じで、自分の頭の中の本棚にあるものがある程度整ってきてしまうと、「もう本を並べなおすことなしに、そのままで全てをやっていきたい」と思ってしまいがちなのではないでしょうか?

 とはいえ、自分の外の環境は常に変化しますし、今の正解がいつまでも正解とは限りません。なので、そのように硬直化した状態では判断を誤ってしまうことだってあるわけです。

 

 漫画を読んだりすることでも、そういうことはあると思っていて、何かを読んで影響を受けるということ自体にストレスを感じてしまう可能性があります。なので、それを回避するために、例えば強く感動して影響を受けてしまいそうなものを後回しにしてしまい、別にどうでもいいと思える感じのものの方を優先的に読んでしまったりすることはないでしょうか?

 あるいは、新しい登場人物を頭に覚えること、新しい漫画の中のルールを覚えることが億劫になってしまったりします。そのせいで、続編やリバイバルなどの、既に知っているキャラクターの出る漫画を優先的に読んでしまうかもしれません。

 さらには、何かを読む前から、自分の中に既にある「ああいう漫画」という分類箱に入れてしまったり、パラパラとしか読まず、ちゃんと読まない部分を自分の中に既にある部品で埋めて、「ああ、こういう漫画ね」と勝手に思って終わりにしてしまったりはしないでしょうか?

 

 自分の中に新しい何かを構築するのが億劫ということは、何を読んでも、自分の中にあるものを変えずに済むのであれば楽ということです。しかしながら一方で、結局読んだところで自分の頭の中のものが何も変わらないのであれば、最初から読まなくてもいいのでは??とも感じてしまうかもしれません。

 これが何かに飽きてしまうということにも通じているように思います。

 

 このようなことは漫画を読むことに限らず、新しいゲームをやってみるとか、何かの勉強を始めてみるとかについてでもあるはずです。自分はもう今の状態で完成していて、それを一回崩してまで手を入れたくないという気持ちがあると思います。

 例えば、鎌倉幕府の成立は、様々な議論の結果、今ではかつてのように1192年だと学校では教えていないそうですが、それでも「いいくに(1192)作ろう鎌倉幕府」の語呂合わせは印象的ですし、自分の生活にとって別に大して関係がないのだから、1192年と思ったままいでもいいじゃないか?なんて思ってしまうかもしれません。

 でも、そういう硬直化した完成形となってしまうことで、環境に合わせて自分を変えることができなくなってしまうことは不利に働くことがあると思います。自分が変えられない状態で周囲と軋轢が生じた場合、「周囲の方が自分に合わせて変わるべき」という考え方になってしまったりもするからです。

 

 これが「老害」として認識される存在のひとつの形だと僕は思っています。つまり、新しいものに触れることで、そこからフィードバックを受けて自分自身を変えていくということをやらなくなり、「自分の中に既にある完成した考えに合わせて周りの方が変わるべきだ」と考えてしまう性向です。

 こういうこと自体は別に年齢が若くてもあることです。しかし、それが若い頃であれば、その意見は周囲に通らないかもしれません。だから認識されないだけのことです。一方で、歳をとってそれなりに影響力を保持していたりすると、実際に周りの方を変えることができてしまったりします。

 そういう状況になってしまうと、自分が凝り固まっていることに対する正当性も生まれてきて、もはや自分を変えることはできず、そこから抜け出せなくなってしまったりすることもあるのではないでしょうか?

 

 人間が色んなものを積み上げていくことは別に悪いことではありません。今持っている考えとかを一回捨てて、またそれを再構築したりするのが面倒だなという気持ちも分かります。僕だって同じ気持ちを持ち合わせています。それでも、周りの変化に合わせて自分を変えていくことができるということこそが、人間の持ちえる強さのようにも思えるんですよね。

 

 このように考えると、新しいものに触れることができなくなるのは、結局まだ何もしないうちから、自分の頭の中をできるだけ変えたくないと思ってしまうということでしかないのかもしれません。ただ、それはまだ事前にそう思ってしまっているだけで、いざ読み始めてみると、するする読めてしまったりすることもあります。

 経験を重ねることで、省エネで生きられる方法を学んでしまったということです。でも、実はまだまだ何にもできないほどには老いてはいないだろうとも思うわけです。今そこそこ居心地がいい場所にいるからなんとなく動きたくないだけで。

 

 なので、新しいものに触れてみて自分をそのたびに作り直すことは、億劫な部分もありますけど、自宅でコタツに入って出たくないというぐらいのことなのかもなと思ったりします。

 コタツに入って出たくないだけのことで、自分は動かず、周囲の人を動かして何かしようとすることが老害みたいなやつのひとつだろうなと思いました。

 

 少々面倒くさかったり、えいやという気持ちが必要だったりもするかもしれませんが、新しいものに触れて自分を変えていければ、退屈しにくくなったり、環境変化についていけることで周囲との差がなくなってストレスを減らすこともできるかもしれません。

 なので、新しいものに触れていくことは結果的に今いる場所に居続けるためには役立つことのように思います。でなければ、日々退屈だなと思いながら、ただただ動けないことになってしまうように思ったりするからです。

 まあ別に、今の趣味にずっと拘る必要もなく、別のことを始めても同じことなので、人は退屈をしないように、人生の移り変わりとともに、自分を変えても良いと思える場所に移動したりするのかもしれませんね。

 

 ともあれ、今日買ってきた漫画の単行本を読みます。