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褒める評価が行われにくい構造関連

 なんらかの商品やサービス、そして人に関して、評価をする機会やタイミングがあったりします。日本ではそういった場において、低い評価がつけられやすいという話があり、場所や対象にもよりますが、統計的にも傾向が出ていることもあれば、日々の生活の中でそれに直面することもあります。

 

 それって何らかの文化的なものなのかなと思いますが、それの傾向が温存されているならば、そこには何らかのメカニズムがあるのではないかと思うので、そこについて考えてみたいと思います。

 

仮説1:評価習慣が乏しい

 そもそも評価が行うこと自体に消極的という話もあります。その場合でも、我慢ならないと悪かったときだけ意見表明や懲罰感情によって積極的に評価を行うことがあるため、結果的に総合すると低い評価になりがちになってしまいます。つまり、評価を低くつけがちなのではなく、高い評価の場合は表明をしないことで結果的に評価が低く見えているという状態です。

 

仮説2:褒め方が分からない

 何かを褒めるときの語彙と、何かを貶すときの語彙で、後者の方が豊富であるため、貶す方向に言葉が重なりやすいということが考えられます。それは日常的に褒めて褒められるということをあまりやってこなかったという鶏と卵のようなものではないかと考えられます。どのように褒めるかが効果的かが分からないため、貶し言葉の方を多く使ってしまうという循環がある可能性があります。

 

仮説3:自分が褒められることに飢えている

 2とも共通する部分がありますが、日常生活の中で褒められる経験が少ない場合、しかし、自分では自分にはとても価値があると考えていると、それを表明したくなることがあると思います。つまり、人とのコミュニケーションの中で「自分はすごいんだぞ」ということを主張したくなってしまい、評価の場においても、自分以外の何かを褒められるタイミングを、自分自身を褒めることに使ってしまうために、評価タイミングを逸してしまうということがあるのではないでしょうか?

 その自分はすごいんだぞという主張は、相対的にそれ以外のものは自分よりもすごくないという主張となって、低評価をしていると解釈されると思います。

 

仮説4:評価を格付け的なものと捉えている

 自分以外の何かを高く評価することを、自分をそれよりも一段下げる行為と捉えている場合があると思います。3とも共通しますが、そうなると、自分を下げないためには自分以外の何かを褒めるわけにはいかず、逆に何かを貶して見せれば相対的に自分に価値があると確認ができるため、そのような傾向になるかもしれません。

 そのような人が何かを褒める場合もあり、それは褒める対象と自己を同一化した場合です。これがすごいということは自分もすごいとなる場合に褒めが発生し、さらに、それがすごいということを踏み台にして、別の何かをすごくないと貶せるタイミングでは、2つのメリットが重なっているために選ばれがちな行動です。何かを褒めるときに何かを貶す行動というのはこの考えで説明ができます。

 類似するものとしては、高く評価することを有限の資源と考えていて、その貴重なものを与えてやっているという態度もあるように思います。それは、なかなか褒めないことで褒めの希少性を上げ、それを与えることに意味を感じて欲しいという行動だと捉えられるため、それによって自分の価値を高めようとしているとも解釈が可能です。

 

仮説5:完璧であるということにこだわっている

 何かの9割9分がよかったとしても、残りの1分がどうしても受け入れがたいときに、9割9分がよかった話よりも残りの1分が悪かった話をしてしまうことがあると思います。そこにあるのは、「その1分さえなければ完璧だったのに」という気持ちではないかと思います。そこにこだわってしまうとき、9割9分の良さに関しては、そのほどんどがよかったにも関わらず、そのほとんどのよかった部分に言及されることが少なくなってしまうでしょう。

 

 他にも原因が考えられるかもしれませんが、このような仕組みが色んな場所で複合的に発生することで、全体として低評価がつけられやすい傾向が出ているのではないかと僕は考えています。

 

 とはいえ、自分が何かをしたときに良いところには無反応で低評価ばかりをつけられるとテンションが上がりませんし、どっちの方向に進めばいいかの手がかりにもなりにくいです。なので、もうちょっと改善した方がいいのではないかと思います。

 

 対策としては、「自分が良いと思ったときにはその部分をちゃんと表明すること」だと思います。これは、特に仕事などでは重要な部分で、人が作ってきた成果物にダメな部分だけ指摘していると、その部分は直ったものの、良かった部分まで壊れてしまっていることがあるからです。その場合、ここが良かった、この良かった部分は生かす形で直して欲しいと伝えた方が精度が上がりますし、実務的な意味を持った褒めがあると思います。

 

 良いところに何もリアクションを返さなくてもそれが温存されるというのは、たまたまそうなってくれたという運が良いだけの話で、そこで良いものを維持しようとする志が成り立たせているだけのもので、その志を持った人が去ったときに崩壊してしまう危険性があります。それを避けるためにも、物事を良くしていくためには、良い部分悪い部分の双方に対する反応を返していく必要があるのではないかと思います。

 

 僕の周りでは、人の良かった部分を気軽に素直に良かったと表現することが多いです。これの良い部分としては、他の人に褒められるということで日常的に満たされるし、不安にならなくて済むので、自分はすごいんだぞと他の人たちに向かって主張する必要性が低くなる部分です。余裕があることで、機会を他人を褒めることに使えるようになり、それによってそのサイクルがより強固になるので、良いことだなと思います。

 気を付けて欲しいのは、無理矢理褒めろという話ではなく、良いと感じた部分は感じたままに良いと表現することです。それはあくまで自分がそれをそう感じたというリアクションであって、それによって相互の関係性や今後の行動を調整するための手掛かりに過ぎません。

 上手くやっていくためには、良いも悪いも気軽に表明できる場を作って維持することで、常に「より良い」を目指せる場所にすることが大切だなと思います。

 

 褒めが行われにくい環境があったときに、その原因を場所にいる人間性の悪さに求めたりするのはあまり意味がないように思えて、皆自分がいる場所において最適な行動をとっていたらそうなっているだけなのではないかと思います。そういう構造があって維持されているという話です。

 なので、それによって居心地が悪いと感じるなら、構造をどのように変化させれば、別のメカニズムが動き出すかを考えるのがいいと思っていて、僕は自分が属している場所で日々そういうことをしています。