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評論家文化と推し文化の摩擦関連

 最近の世の中的には、何かに対する否定的なことをどんどん言いにくくなっているみたいな雰囲気があるように思います。とはいえ、実際、何かに対する否定的な言説は普通に全然あり、否定的な言説に対する忌避感を表明する人が増えているような雰囲気があるという感じではないかと思いますが。

 

 昨今は特にネットなんかでは、何かを褒めることが何かを否定することよりもよしとされる風潮もあり、その流れの中では、否定的なことを言っていることが、否定的なことを言っているという理由から忌避されたりすることもあるように思います。

 僕自身も否定的なことばかりを言っている人がそんなに好きではありません。それは自分のこれまでの人生の中で、他人を否定的言説で動かそうとする人と出会って、うわっ!すげえ嫌!!って思った経験が多いからだと思います。だって、この人の意に沿わないことをすると嫌なことを言われるから、この人に嫌なことを言われないように言うことを聞くのがましかなと思ってしまうのって、めちゃくちゃ嫌な環境じゃないですか??

 そういった経験をしている人も多い感じがしていて、近年は特に、そこに対して嫌と言うことがあまり憚られない世の中になってきているように思うんですよね。

 

 さて、何かの創作物を見て、人は、それを良いと思ったり悪いと思ったり、あるいは、その社会的な位置づけや歴史的な位置づけに対して色んなことを思ったりすると思います。誰が何を思ったっていいと思いますし、それをやってはいけないことだとは思いません。

 だって、僕がが好きな作品を面白くないと言っている人がいたとして、その人は心から面白くなく感じたのだとしたら仕方ないじゃないですか。それに対して、「面白くないだなんて言ってはいけない」ともし僕が言うなら、その時点で僕は「自分の思った通りにならない人を、嫌な気持ちにさせることで、自分の思った通りの行動をとらせようとしている」ということになってしまいます。

 自分が嫌いだなあと思っている人と自分が同じになってたらめちゃくちゃ嫌ですよね。自分が嫌いなんですもん、日々の生活が最悪になってしまいます。

 

 なので、人は何を思ってもいいですし、それを表明してもいいと思います。一方で、他人に干渉することはまた別の話です。その人の中でしか成立していない話をこちら側に強要してきたとしたら、あるいはその逆のことが起きたとしたら、おいこらふざけんなよという小競り合いが互いに発生してしまうと思います。

 

 前置きが長くなりましたが、近年、何かの創作物に対して何かを言うときのスタンスが結構割れているのではないか?と思っていて、すごいざっくりとした話としては「評論家文化」と「推し文化」というものがあると思っていて、それらが互いに相容れないスタンスとなっているのではないかと思いました。

 

 僕が思うところの評論家文化というのは、何かの創作物が良いか悪いかを評論家としてジャッジするという文化です。世の中にある沢山の創作物を、自分の感覚や、参照する別作品を元に、良いや悪いや、その位置づけなどをそれぞれ定めていくというスタンスです。

 そこでは、「作品の持つ価値の源泉は評論家自身」となると思います。なぜなら、様々な根拠はあれど、最終的にその評論家が良いや悪いと判断することによって、それまで良くも悪くものなかった作品の価値が定められるからです。

 一方で、推し文化というものはまた異なります。推し文化では「価値の源泉は創作物そのものが最初から所有」しています。その作品を推す人々は、最初から既に価値があると定まっているものを後押しするというスタンスで創作物に接します。

 最初から価値がないものであれば推す気持ちが生まれないので、それも当然のことではないかと思います。

 

 細かい部分を検討すれば様々な例外もあると思いますが、僕が感じているところの評論家文化と推し文化の大きな違いは、「ある創作物が持つ価値の源泉がどこにあるか?」という部分です。

 

 それによって両者は相容れないスタンスになると思います。なぜならば、評論家文化では評論家が創作物を良いか悪いか検討しますが、推し文化ではそれは既に自明なので、コミュニケーションの余地がありません。評論家がいくら説得的にそれを悪いと言ったところで、それを推している人の中では既に価値があるものとして確定的になっています。そのため、評論家文化の中では、推し文化の人々は「言葉や論理が通じない人々」だと思われることでしょう。

 一方で、推し文化からすると、評論家文化は苦々しく見えると思います。なぜならば、自分たちの中では自明である創作物の持つ価値を、評論家文化の中では、あたかも「評論家が与えてやっている」かのように振る舞っているように見えるからです。それはおそらくある種の不敬なことと感じられるのではないかと思います。そこには、なぜこの素晴らしいものの価値の源泉を、誰とも知らない評論家が持っているかのように振る舞うのか?という苛立ちがあるかもしれません。

 

 評論家文化も推し文化も、どちらかが正しいということもないと思います。それぞれに意味があり、どちらの文化圏に属するかを選べばいいと思います。一方で、そのような異なる文化圏に足場を置く人々については、互いに上手く認められない状況はあるだろうなと思います。

 でも、互いにそれを貶めてもしょうがないので、違う立場の人は違うなと思うだけで、人それぞれやっていくしかないのでは??という気持ちが僕にある感じです。

 

 ただ、最近は特に若年では、評論家文化よりも推し文化に入ろうとする人が多いような気がするんですよね。それはシンプルな理由で、推し文化の人の方が日々楽しそうにしているからではないかと思います。僕自身も好きな漫画の好きな話をただしている環境が好きですし、そっちのスタンスでいることが多いです。

 とはいえ、推し文化も楽園ではなく、実際は心から推せるものが上手く見つからなかったり、推していたものが何らかの理由でなくなってしまって代替がないという苦しさもあったりすると思いますが。

 

 このような形で、近年は特に、評論家文化に対して推し文化の方が人数的に強くなってきているような雰囲気を感じていて、大きくなってきたからこその文化同士の摩擦があるように思っています。ここで、互いに別の文化圏だと思って、適切な距離感を保っていれば揉め事も起こらないと思いますが、実際は適切な距離感なんてなかなか上手くとれないのが人の世の常なので、文化と文化がぶつかる界面では、揉め事が起こったりするだろうなと思います。

 これは、なんかそういうのを見たという日記です。