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人間は他人の仕事を適切に評価できるのか関連

 仕事をしていると人間の評価をどのようにするかという課題に突き当たります。なぜなら、その人の報酬はその人の仕事の評価に連動する形で決められた方がよいのではないかと思うからです。適切な報酬を支払うためには、適切な評価が必要ですが、果たして適切な評価とはどのようなものでしょうか?

 

 僕は人間から人間への評価というのは、ある種の意志表示だと思っていて、つまり、良い評価はその評価対象となることをもっとやってほしいということ、悪い評価はその評価対象となることをやってはいけないと表明していることと同じだと思います。でも、実際の評価ってそうなっているでしょうか?そうなっていないことも多いんじゃないでしょうか。

 仕事で人間の評価をする場合の辛いところは、全員が頑張ったからといって全員を高評価にできないということです。これがそもそもおかしいんじゃないか?と思うことがあるんですが、しかしながら基本的に人に報酬として払えるお金には限界があります。全員が頑張ったことで、事業収入もまた大きく増える種類の仕事なら別でしょうが、僕が関わってきた多くの仕事は、最初に予算がほぼ決まっており、その中でやりくりして利益を出す仕組みのことが大半でした。つまり、どれだけ頑張っても事業収入自体は固定的であり、その中から人に払えるお金の総額が決まってしまっています。赤字で続けるわけにはいかないからです。

 なので、同じ事業に関わった人の中でも、重要なことをした人に高い評価を、そうでもない人には高くない評価を付けざるを得ません。すごくよい仕事をしてくれた人がいたとしても、それ以上によい仕事をしてくれた人がいると、相対的には評価が低くなってしまいます。これはほんと良くないと常々思っているんですけど、全員に高い報酬を支払うことはお金の流れ的ににできないので、そこをなんとかしたいなら、そもそも事業でより大きく儲けることを考えなければいけません。

 

 やってほしいことは褒める、やってほしくないことは叱るというのは、他人に指示をする際の原理原則だと思うんですけど、世の中でたまに目にしてよく分からないと思うのは、やってほしいことをやってもらうために叱るというシチュエーションがあることです。叱るというのは基本的に行動を抑止する効果が強いと思うので、叱られたくないからやるというのは、つまり、「やる」ということよりも「やらなくて叱られるということを避ける」という目標設定ということになります。なので、「やってないことはないですよ?」というレベルのことしか結果は期待できないんじゃないかと感じてしまいます。

 

 やってほしいことをやってもらうためには、それをやってくれたことへの感謝を伝えるとか、褒めるとか、報酬を支払うとか、何かしら自分がそれを好ましく思っていて、もっとやってほしいと思っているということを当人に対して意志表明をする必要があるでしょう。また、それ以前のそもそもの問題として、相手がまずこちらにより高く評価されたいと思ってくれていることが重要です。

 これもたまに勘違いしている人を目にするんですけど、例えばインターネットでよく知らない人から「あなたがもっとこうしたら私は高く評価するのにな?」みたいなメッセージを貰ったとして、僕がだいたい思うのは、別にあなたに高く評価されたいとはちっとも思っていないですけど?ということです。だってよく知らない人だからです。もしそれが、僕が大好きな人であったとしたなら、ウワーッ!評価されたい!!この人にもっと好かれたい!!って思ってそうしてしまうかもしれません。でもそうでなければ、知らねえよ、お前誰だよって思うだけじゃないですか。

 

 報酬を支払うというのはそういう意味で分かりやすいです。人間関係的な下地がなかったとしても、より多くのお金を貰えることは、嬉しいと思ってくれる人は多いからです。なので、よい仕事をしてくれる人には、僕の裁量の範囲で多くのお金を支払えるように調整をしたいと思いますし、そこをちゃんとすることが次もまたいい仕事をしてくれることに繋がってくれるはずだという信仰を僕は持ち合わせています。

 

 余談ですが、事業が儲かっていないときには本当に精神的に辛くなることをしないといけなくなることがあって、例えば、その事業を継続するために、費用を削減することで採算性をアップしなければならない状況になります。そういう指示が経営層から来ます。そんなときに、すごくよい仕事をしてくれている人たちに対しても、何らか条件を従来から変更するなどして報酬額を少なくしてもよいか?という交渉をするはめになり、その窓口として立つはめになります。やりたくないです。でも、そんなやりたくないことを立場上やらざるを得ないので、その矛盾から精神的に負荷がかかります。でもやるし、やってきました。最悪だなと自分でも思うことがあります。

 

 人を評価するとき、その人の何を評価するか?ということが重要な部分です。それはよく人を見ておかなければならないことですが、ずっと監視しているわけにもいかないので、基本的には、与えた仕事をちゃんとやってくれているかということと、与えてないことでもやってくれたことを申告してくれたことの2本立てになります。申告してくれてないけど、やってくれていることというのも世の中には無数にあるんですけど、そこをよく見るのは結構難しくて、なぜなら、その人だけをじっくり見ているわけにはいかないからです。たくさんの人を見なければならないので、どうしても見落としも発生しますし、僕の場合は、やってくれたことは箇条書きでもいいのでできるだけ申告してほしいと伝えることにしています。もちろん、自主的にやってくれていることも見ようとはしています(でも、全部見れているとは言えない…)。

 できればやめてほしいのは、やってくれたことを一言も言ってくれないのに、その部分を評価してほしいとその人が思っていることなんです。僕自身もそういうところがあると思うのですが、自分がやったことをアピールすることが苦手だったりするケースもあると思うんですよね。でも、それはやっていかなければいけないし、その代わり、アピールしてもらったものは、ちゃんと考慮しなければいけないと思います。

 

 僕自身が評価される立場のときの話で言えば、僕が最初いた仕事場では、期末にする自己評価をベースにして賞与査定が行われる仕組みだったのですが、若い頃は自己評価の低さから、色々やっているのに平均ぐらいの点数しか自分につけていなくて、「おれは自分のよくないところも見えてしまうから、よい点はつけられないけれど、もし上の人がよいところも見つけてくれるなら、そこで加点してくれ~」というようなことを思っていたような気がします。でも、それはよくないわけですよ。そういうことをしてくれる上司もいますが、そうでない上司もいます。なんせ相対評価ですから、最初から低い自己評価をつけてくる人は、心理的な問題で低いままに据え置かれる可能性が高まるのです。高くつけてきた人を低くして、低くつけてきた人を高くするよりも、高くつけてきた人を高くして、低くつけた人を低くする方が気楽でしょう?

 結構一生懸命働いているのに、お給料があんまり上がって行かないな~と思っていましたが、それはそもそも自分が悪くて、まず自分が自分を低く評価してたらダメだ!!至らないところはあるにせよ、色々役に立つことをやってるやんけ!!とあるときやっと気づいたので、自分にバンバン良い点をつけるようにしたら、そこから年収がぐんぐん上がりました。馬鹿みたいな話ですね。仕事に取り組む姿勢はずっと変わらないんですよ?ただ他人に伝える自己評価の方法を変えただけです。

 

 黙って真面目にやっているから誰かが見ていて評価してほしいというのは、その環境ではあまり意味がないことであったと言えます。これがよくないのは、自分だけの問題ではなく、本当は重要な仕事をいくつもやっているのに、自己評価の低さから、その重要な仕事を大したことでないこととして申告しないので、それらの仕事が評価すべき重要なものとして仕事場の中で目に留まらない可能性があることです。

 全体の工程の中で、何が重要で、自分はいかにそれをやったかを明示するということは大切なことです。人が永遠に同じ場所にとどまることがない以上、人から人に仕事が引き継がれなければなりませんし、それらの仕事を大したことないことだ思って言わずに勝手にやっていたら、上手く引き継がれないですし、その後にやる人の評価まで落としてしまうかもしれません。

 評価される側は、評価する側に対して、自分はこれだけ重要なことをやっているのだから評価してくださいよ?されないならやりませんと明確に主張するぐらいでなければ、それが問題の火種に成りうるのではないでしょうか?そして、評価する側は、それを重要な評価対象項目として認識すべきだと思います(実は重要ではない場合もあるのかもしれませんが)。

 

 仕事は探せば無限に生まれますが、予算も人の稼働も有限しかありません。上手く仕事を進めるためには、取捨選択が必要です。つまり、その中でどの仕事が重要でどの仕事が重要でないかを考えなければなりません。そしてそれは、重要な仕事を評価し、重要でない仕事は評価しないということで達成すべきだと僕は思っています。でも、なかなかそうはならないですね。なぜなら、あらゆる仕事を全て把握して俯瞰して全工程を見るということは、プロジェクトが大きくなればなるほど人間の認知の限界を超えてしまったりするからです。

 

 仕事に従事している人をいかに評価するかということは、経営戦略や技術戦略そのものと言ってもいいぐらいに重要なことだと思いますが、それを上手くやることはとても手間がかかる上に難しいので、現実では、楽をしたいために適当な数値化しやすいKPIを定めて、それが達成されたかされてないかだけで評価してしまったりします。それもある程度はしかたないことです。評価する行為それ自体が大きなコストになる可能性もあるためです。なので、それ自体はそこまで悪いことであるとは思いませんが、では、数値化しにくいが重要な仕事というものはどのように評価すればよいのでしょう?そんな仕事だって沢山あるんです。

 多くの現場では、それらを責任感が強い人が評価もされないのに真面目にやっていたりするんじゃないでしょうか?あるいは、評価されないがゆえにおざなりになってしまい、それが原因で様々なトラブルが頻発したりすることもあるんじゃないかと思います。

 

 他人の仕事を適切に評価するということはとてつもなく重要なことで、そして、それを正しくやろうとするのはものすごく手間暇のかかることで、だからちゃんとやられていないような現場もよく目にします。でも、ここをちゃんとやらないと、どんどんおかしくなっていくと思うんですよ。特に昨今は働き方改革を求められている状況です。限られた時間で結果を出さなければなりません。そのためには、仕事の方針として、何をやるべきで、何をやらないで済ますかを決めることは、最も重要なことのひとつのはずです。それを規定する評価尺度が必要です。

 労働者はみんな賢いので、統計的に見れば、評価されないことを一生懸命やることはやめていきます。では、評価されることだけを一生懸命やったとき、そこから零れ落ちてしまう、本当は実際はとても重要だったことというのはないのでしょうか?

 

 それを最小限に留めるためにも適切な評価が必要です。そして、それをちゃんとやることはとても困難なことです。

 

 例えば、漫画や映画やゲームなんかでも同じ問題はあるのではないでしょうか?それらには良い要素と悪い要素があるはずで、それを体験した人たち個々人の価値観によってそれぞれ評価尺度があるはずです。全体だけを見て、おおざっぱな点数をつけて、神とかクソとか言われても分からないですよね?どの部分がその人の感性において良いと感じて、どの部分がその人の感性において悪いと感じたのか。それが精緻に表現されて初めて、それにどう対応するかということを考えることができます。

 その評価者により評価されたいと思えば、それをその人の感覚に合わせて直すでしょうし、その人に別に評価されたいと思わないと思えば無視してもよいでしょう。

 

 そういう思想があるので、僕は何かを読んだとき、観たとき、遊んだときなんかは、総じてのよいとかわるいとかいう話はあまりせず、この部分がこのように自分によく感じたとか、この部分がこのように自分には受け入れがたかったとかいう話をするようにしています。もちろんそれらは僕の感性でしかないので、それらの作品を作った人たちがその文を仮に読んだとしても、その僕の感性に合わせて直せばよいというものではないと思います。

 なぜなら。それは僕がそう感じたという話でしかなく、僕に合わせることで、他の人の感性から離れてしまうことだってあるからです。

 

 合わせてくれても嬉しいし、合わせてくれなくてもかまわないんですけど、それがどのように僕に響いたかということはできるだけ正確に表現したいということがあって、それが僕がやる評価ということになります。それを仕事でもやるんですよ。でも、それが本当に仕事を上手くやる上で正しい評価かどうかはいつもおっかなびっくりです。自分の評価尺度があまりにおかしくて、全てを破綻させてしまう可能性だってあるじゃないですか。

 

 できているかは分からない。でも、必要なのでやろうとはしているわけなんですよ。