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オタクとして老いる関連

 僕自身40代に入っており、周りの人間も1年に1つずつ歳をとっているので、「老い」が身近な話題となってきました。

 僕の周辺にはオタクが多いため、「オタクとしての老い」について考えるきっかけが多くあり、最近はそれについて考えていることが多いです。

 

 「オタクとして老いる」ということがどういうことかというと、僕の感覚では「変わることがなくなる」ということではないかと思います。新しい作品を見たとしても、その体験によって自分が変わることが全然なくなってくることが老いているということです(逆に言えば「オタクとして若い」というのは、実年齢に関わらず色んなものを見てはそれに影響を受けて、どんどん変わっていく状態を意味するように思います)。

 

 老いの要因となる行動は2つあると考えています。1つ目は「作品を見る上で量を追うことができなくなること」そして、2つ目は「見た作品を咀嚼して自身に反映することをしなくなり、既に知っている何かに当てはめて終わりにしてしまうこと」です。

 そしてそうなってしまうことに共通する理由としては、加齢による体力気力の低下があるように思います。

 

 つまり、オタクとして老いるとは、加齢による体力気力の低下により、若い頃のように沢山の作品を見ることができなくなり、なおかつ、見たものに影響を受け、自分の中に取り込んで変わることもなくなるために、何を見ても新鮮さを感じることがなくなっている状態であり、何を見てもこれは昔見たものと変わらないと感じてしまって、だから退屈してしまうという状態ではないかと思います。悲しいですね。

 

 さて、オタクとして老いているということは、最近のものをもうあまり網羅的に見ていないですし、見た作品の感想や批評も書けなくなっていたりします。感想は、それを見た時に自分の心がどれだけ動いたかがなければ熱心に書くことが難しいですし、批評は、それがどのような独自性を持った作品であるかの認識がなければ書くことが難しいからです。

 何を見てもあまり心が動かなくなり、昔見た何かと一緒という箱に放り込むだけになってしまうと、ひとつひとつの作品に対して時間を使って何かを考え、文章にするなどはできなくなっていきます。

 つまり、もうその分野に対して詳しい人ではなくなっているということです。

 

 オタクの老いについて考えた方がいいのは、とりわけ、「自分がその分野において詳しいオタクであった」という自意識を持つ人ではないかと思います。そんな人が老いて、もう詳しくなくなってしまったのですから、「自分はもう詳しくなんかない」ということを受け入れていかなければなりません。

 実際、僕は1990年代から2000年代ぐらいは、少年誌と青年誌は出ているものは増刊等も含めて全て読んでいたので、その時期の漫画については詳しいと考えていましたが、今ではもう全然詳しくない人だという認識に改めています。なぜなら、もう全ての漫画雑誌を追うことができなくなっていますし、ウェブ系の漫画も以前は新連載はできるだけ読んでいたりしましたが、今はそれもできなくなっています。

 なので書店の新刊コーナーを見ても、昔は出ている漫画を大体知っていると思っていましたが、今では知らない漫画の方が多いです。これはもう詳しくないです。詳しくないのだから、今の漫画について色々読んでいますみたいな詳しい人のような顔をするのはやめようと、ある時期に思いました。

 

 実態としてもう詳しくないのに、「自分は詳しい人である」というような自意識だけを温存しようとすると、他人と上手くやっていけないような気がするし、その矛盾の中で自分自身をすり減らすような気がするんですよね。

 

 具体的にどうなるかというと、例えば、老いたオタクが最近の漫画の話をするときには、知らないものや、そこまで熱心に読んでいないので内容について語れないものがあることに直面してしまいます。これはつまり、詳しくないということなのですが、でも自分はそこで詳しい人としての体裁を保たないといけないと考えると、その矛盾を解消するために「そんな漫画には価値がないので読む必要がない」みたいなことを言ってしまったりします。

 自分が詳しい昔の漫画に重きを置き、自分が詳しくない最新の漫画を価値のないものとして傾斜をかければ、自分は価値あるものを知る詳しい人であるという面目を保つことができるので、こういう仕組みで「昔の〇〇はよかった、今の〇〇はダメだ」と言ってしまう人が出てくるのではないかと考えています。

 これと類似するものとして、「最近の若いオタクは〇〇も読んでいない」と言ったりすることもあります。自分も最近の漫画を読めていない場合に、これはアンフェアな話になります。つまり、自分が読んでいて他人が読んでいないものの話をし、他人が読んでいて自分が読んでいないものの話をしないことによって、自分がその分野で優位であるということにしようとする行為と捉えられるからです。

 

 様々な実例を見ているため、具体例は他もたくさん挙げられるのですが、そこで何が発生しているかというと、「作品をたくさん見て、それぞれひとつひとつの作品に対して感想や批評を書いてたくさん考えるということをせずに、自分がその分野で詳しい人であるということを示そうとしている」という行動です。

 その分野で詳しい人であるということを詳しさを披露して、詳しいなと思われるのではなく、それ以外の方法で示そうとするということは、つまり「お前らは自分と比べて詳しくない人間だ」という意味のことを、他人に対して言って回ってしまう人になってしまっているということです。なので、周囲の人たちから嫌がられる存在になってしまったりするんですよね。

 

 なので、老いてしまうと、オタクとしての行動が、身近な他人、あるいはネットを通じて見ず知らずの他人に対して急に話しかける形で、「お前らは分かってないな」という話をし続けることになってしまうという事例が多くあり、そのような老いたオタクが、他のまだ若いオタクたちから忌避される存在に変化していくという様子を目にします。それを悲しい話だなと感じています。

 当人にとってみれば、自分にとって大切なものを守ろうとしている行為なのに、それを維持するための体力気力が足りなくなってきたことで、それでも守ろうとする行為が、周囲からすると迷惑人間の暴走と捉えられてしまうからです。

 

 これを回避する方法はシンプルで、「その分野で詳しい人である」というオタクの自意識を手放すことではないかと思います。別に詳しい人であるということはそんなに重要ではないですし、当人が既に作品を網羅性を持って見ることができなくなっているのだから、そもそも楽しいことではもう既になくなっているということだと思います。だからもう手放した方がいい。それでも手放したくないのであれば、ちゃんと作品をたくさん見た方がいいと思います。

 

 もしくは、詳しさにおける網羅性を手放して、ひとつひとつの好きな作品に対してじっくり鑑賞したり、自分がそこで何を思ったのかを考えたり、それを文章にしたりすることに重きを置いたりするのもいいのではないかと思います。それが、作品を鑑賞するということに対する根源的な楽しさを取り戻す行為だと思うからです。

 僕が思うには、「何かの作品を見ることで、自分が変化する」ということこそが、見ることの意義であり楽しさであると思うので、自分が変わりもしないのに何かを見続けることは苦痛に近くなってくるし、そんなことをしなくてもいいんじゃないかと思うんですよね。

 

 あとはオタクであることにも拘らなくてもいいと思っていて、これまでやってきたオタクから何かを得ることがもう難しくなっているのであれば、自分がレベル1に戻れる別の分野に初心者として入るのもいいと思います。初心者になれば、無理に体裁を取り繕う必要もなくなりますし、見るものがすべて新しく、何かに取り組む上でも自分の能力の伸び代が大きいので楽しく取り組める可能性が高いです。

 

 まとめると、作品に向き合えなくなることがオタクとして老いてくるということで、その場合に、オタクとしての自尊心の確保のために他人にウザがらみをし始める場合があります。そうなると周囲からも疎まれ、孤立していき、しかもオタクであることが楽しくもないという最悪の状態になったりすることもあります。

 そうなっている人を見るのも辛いし、自分がなるのも怖いなと思うので、自分がオタクの中で詳しい人かどうかみたいなことにこだわるのは早めにやめてしまい、自分が好きだなと思えるものを見つけて量は少なくとも、世間で話題になっていなかったりしても、それに対して向き合っていれば楽しくオタクを続けられるのではないかと思います。

 また、オタクであることで得られるものが少なくなっているのであれば、他の分野に初心者として入門してみるのも大切だと思います。その場合もハードルになるのは、自分がその分野で初心者になるということを受け入れられるかという部分だと思います。でも、初心者って色んなものが新鮮に見えるし、それらを見る上で自分の変化も感じられて楽しいので、いいことだと思うんですよね。

 

 僕も会社の仕事や漫画家として、定期的に全く新しいことに取り組んでは、自分が拙い状態と、そこから少しずつましになっていく過程を面白く感じているので、実体験からもオススメです。

 老いと上手く付き合っていきましょう。