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「ディザインズ」における美しくおぞましい生命讃歌関連

 五十嵐大介の「ディザインズ」の最終巻が発売されました。

 ディザインズは「HA(ヒューマナイズドアニマル)」という人間のような見た目を持つ動物が生み出され、それが軍事利用されたりされなかったりする漫画です。この漫画の前日譚として「ウムヴェルト」という読み切りがあり、そこに共通して登場するのは蛙のHAの少女です。

 

 ウムヴェルトは「環世界」と訳される言葉で、ある生物が自身の置かれて環境を何の感覚器を使ってどのように認識しているかを意味する言葉です。

 人間なら、光を目で感じ、空気の振動を音で感じ、物質の組成を味覚や嗅覚で感じ、そして、物体との接触を触覚で感じます。生物に搭載されている感覚器の種類や性能は様々で、例えば蝙蝠は超音波で物体の存在を感じますし、蛇は熱で他の生物の存在を感じます。犬は嗅覚を使って、残留物の情報から、そこに何かがあった時間の感覚までを複数重ね合わせて感じられるそうです。それらは、人間の持っている感覚になぞらえて理解することもできるかもしれません。でも、そのなぞらえはどのような形でも完全ではないでしょう。

 環世界が異なる生物は、同じ世界に生きていながらも感じているものが異なるわけです。その差は同じ感覚器を持たない者の間では決して完全には共有できないものかもしれません。

 

 HAは人間化された動物です。決して、人間に動物の能力を付与したわけではありません。彼らは遺伝子的には動物そのものなのです。つまり、彼らは人間のような見た目を獲得していたとしても別の生物なのです。だから、彼らの感じるものは、同じ環境にいる人間とは異なるはずです。

 同じ世界に生きていても、異なる視点を持つ彼らの存在は、今の世界に対しての異なる見方を提供してくれるかもしれません。ディザインズは、そんな物語だと思います。

 

 僕は物語には大きく2種類あると思っていて、それは「収束するもの」と「発散するもの」です。収束するものは、物語の中で登場する人間的課題や事件などの全てに何らかの答えが示され、始まりと終わりを体験することができるものです。ふりまかれた伏線は最後に全て回収され、ひとつの単独で完成されたものとしての美しさを感じることができます。

 一方で、発散する物語はそうではありません。読むことで頭の中に新しい課題や理解や考えを植え付けられるものの、その物語の中でひとつの明確な答えが与えられるわけではないものだからです。発散する物語は、最後まで読み終わってようやく始まりです。物語を読む中で、新たな考えを獲得し広がった読者の脳内は、読後にただそのままに残されます。

 ディザインズはそういった発散する物語ではないかと思います。

 

 ディザインズを読んだことで少し変質した自分の考え方とともに、この先やっていく感じになるからです。

 

 この物語は、あらゆる生物にとっての生命讃歌です。世界には絶対的な正誤がなく、ただ環境への適応があるだけです。生物の在り方は、遺伝子と環境のジャムセッションのようなものかもしれません。作中でも、遺伝子は「楽譜」になぞらえられます。楽譜は音楽を記述したものですが、決して音楽そのものではありません。HAを生み出したオクダは、その楽譜をもとに自由に音楽を奏でることで、まるで人間のような姿の動物たちを生み出していきます。彼は同時に、他の生物の感覚器を移植し、自分自身をも改造していきます。そうすることによって、異なる環世界へと越境することを望んでいるのです。

 オクダは世界で最もイカレた人間かもしれませんが、同時に、世界に存在する生物の全ての在り方を同時に愛しているとも言えます。生物の持つ形質が、それがどれほどよくある形から乖離していたとしても、「そう在ること」を決して否定しないからです。

 

 オクダは「病」を愛し「病」と友達になろうとします。ある種の病は、生物の形質や感覚器の性能を変えてしまいます。それは、異常だと捉えることができるかもしれません。というか実際、その病になることによって、現在の環境では不都合があるからこそ、それを病とネガティブに呼んでいるのでしょう。しかしながら、別の環境に行けば、それらの形質はむしろ有利に働くかもしれません。最初は突然変異であったものが、変わりゆく環境への適応できる形質であったことで、その後、その種族における支配的な形質へとなっていくなんてことも、生物の進化の中ではままあることです。

 つまり、病は、今は病かもしれませんが、異なる環境に適応するための準備でもあるかもしれません。それは生物の持つ可能性でもあるはずです。病の根源となる遺伝子を根絶し、多様性の無くなった生物ならば、あるときの環境変化で一気に絶滅してしまうかもしれないからです。

 

 生物の種はそのようにできていて、一定の割合で現在の環境には適合できない個体が生まれたりもします。しかしながら、それは異常で根絶すべきものとは限らないということです。いや、確かに生きる上で不利にしかならないように思える「病」もあるような気もします。でも、それはもしかすると、今ここではない、いつかのどこかでなら上手く生きるための武器になるかもしれないのです。そこで想定する環境が無限の多様性を持っていたら、あるいは、もしかしたら、いつかの、どこかに。

 生物の中に一定割合で枠から外れた個体が存在してしまうこと、それは生物という存在が流れとして強くあるために太古の昔から続けてきた営みです。そうであるからこそ、生物は長い時間を変化に適応しながら生きることができたわけなのではないでしょうか?

 だから、あらゆる病を含めて、全てを是とすること全てを讃えること、オクダの脳内はそんな多幸感で包まれているように思えました。それはとても素晴らしく、なおかつおぞましくも思えることでした。なぜならば、それは今の環境には上手く適合できない存在が生まれてしまうことを許容する考えで、そこには少なからずの個体レベルの苦が存在し、それをも織り込んだ上で全体を讃える行為でもあるように思えたからです。

 

 ディザインズの物語を読む中で自分の中に再確認した感覚は、「今ここの環境を、世界の全てとは思わないこと」です。自分の抱えるある種の肉体的精神的な異常さも「誤り」ではなく、ただ、今ここではなく他の環境に先に適応してしまっただけなのではないかと思えたことです。準備ができたのだから、その適応できる環境に自ら移動したっていいはずです。

 この物語は生物の話ですが、人間社会の話に置き換えて理解することもできます。人間社会における苦は、「自分を取り巻く社会のルール」と「自分の中に存在するルール」が乖離するところで起きることが多いです。今ここに適応できないことは病と認識されるかもしれませんが、それはその環境では病とされても、別の環境ならそうではないかもしれません。

 

 ただし、これはポジティブな希望だけを意味するとは限りません。例えばとてつもない暴力の才能がある人は、現代社会では犯罪者になりやすいと思われるかもしれませんが、無法の世の中であれば賞賛されるということだったりもするからです。ここが合わないならば、暴力が支配する無法の世の中に身を移せばいいという話になるでしょうか?世の中がいつかどこかでそうなっている可能性はありますけど、そんな世の中に適応する才能を持って生まれることが、果たして本当に良いことなのかどうかを考え出すと難しい顔をしてしまいます。

 食べても太らない体質は、食うに困らない世の中を生きるにはポジティブな性質かもしれませんが、もし食料が潤沢に供給されない世の中ならば食べても太れないのは命の危険に繋がるかもしれません。なら太りやすい体質の人は、食料が潤沢ではない世の中であれば幸せなのでしょうか?

 

 人間は生まれる時代や場所を選ぶことができません。環境はある程度は変えられるかもしれませんが、どうしようもないことだってあるでしょう。自分が生まれもった性質が、生まれてきた場所に適合するかどうかは運の問題かもしれません。

 ただ、その自分の抱える性質がいかに、今いる場所に適合できないものであったとしても、それは別のどこかに適応するための可能性であると認識することはできます。自分は「悪い性質」を抱えているのではなく、それそのものは「多様性」で、たまたま今いる世の中に適合できなくて運が悪かったと思うしかありません。あるいは、もし世の中が激変したときの保険のようなものと捉えることもできるのではないでしょうか?

 

 生物が種として強くあるには、自分のような外れた存在もまたひとつの可能性なのだろうと思うことができます。今の環境に適合できなくても、だがそれでいい、みんなちがって、みんないい。その中の一個人の人生がたまたま運悪く苦しみに満ちていたとしても、それでもその全てを肯定することが種としての強さの裏付けとなる、美しくおぞましい生命讃歌であるのかもしれません。

 これは僕がディザインズを読みながら感じたことです。これもある種の環世界と解釈できるかもしれません。皆さんが読んだならまた別のことを思うかもしれません。環世界は人の数だけあり、だがそれでいい、みんなちがってみんないい。