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「螺旋じかけの海」の「烏を屠る旅」について

 「螺旋じかけの海」は当たり前が壊れてしまう世界の物語だと思う。

 世の中には沢山の当たり前とされていることがある。当たり前のことというのは、そのまま受け入れていいことで、疑わなくてもいいことだ。それがなぜそうなのかを考えなくていいし、ただ受け入れればいい。でも、ふと我に立ち返ったとき、それはなぜそうなんだろうか?ということが引っかかることがある。

 

 1+1は2であるということを疑うことがあるだろうか?なぜそうなのだ?と問われたときに、疑うことは難しい。だって1+1は2だからだ。それを数学的に証明しようとする人は数学者だけだろうし、大半の人はただそうなんだろうと思うだけだ。そうなんだと思って特に問題がないのだから疑う必要がない。かくして、世の中には当たり前のことが沢山ある。信じるだけでいいことが沢山ある。

 でも、ときおり、それはなぜそうなんだろう?と考えてしまうことがある。それがなぜそうなのかも考えずに、自分がそれを受け入れてしまっているのはなぜだろうと考えてしまう。

 

 螺旋じかけの海の物語は、異種化ウィルスによって、生物同士の遺伝子が混じり合う世界を舞台にしている。だから、人が人以外の生物の遺伝子と混じり合い、体の一部に他の生物のような形質が発現することがあり得る。人が人であるという証拠はどこにあるだろうか?それが遺伝子にあるとしたなら、他の生物の遺伝子が混じり合った存在はもはや人ではないのだろうか?

 

 この世界では、一定の割合で人以外の遺伝子が混じった人間は、もはや法的に人ではないとされる。人でなければ人権もない。世の中には人が平等であるということを証明するために戦ってきた歴史がある。しかし、人が平等であったとしても、人でなかったとしたらどうだろう?そこに人権はあるのだろうか?そこに同じ人間んだいう仲間意識があるのだろうか?一体、どこからが人でどこからが人ではないのだろうか?

 

 イルカやクジラが高度な知能を持っていたとしても、人ではないのだから保護の対象となるのはあり得ないという考えを受け入れている人も多いだろう。でも、もし、そのイルカやクジラが人のような顔をしていたらどうだろうか?そこにはやはり、何かしらの違う考えが生まれるのではないだろうか?もし、そのイルカやクジラが人のような心を持っていたらどうだろうか?果たして、人はどこまでそれを人間と同じ存在として扱えるのだろうか?

 

 家畜を育てては殺し、その肉を食べて生きている。それをしないと決めている人たちもいる。それをしない人たちを、おかしな人たちだと揶揄する人もいる。でも、その違いは本当にそこまで明確だろうか?それは当たり前なんだろうか?現実の世の中には遺伝子という明確な違いを見出せるものがある。だから、その認識は強固で安心できるかもしれない。

 

 しかしながら、螺旋じかけの海の世界ではそこが曖昧になる。

 

 他の生物の遺伝子が入り混じった人間は、果たして同じ人間だろうか?人は何をもってして何かの存在を同じ人間だと思うようになるのだろうか?それは、明確な線引きができない物語の中だからこそ、より意味を持つ強い問いかけとなる。

 

 螺旋じかけの海は、月刊アフタヌーンに掲載されていた漫画だが、この度、作者の永田礼路氏による個人出版という形で続刊が発売された。そこに収録されている新作が「烏を屠る旅」である。

 

 まずは買って読んでほしい(3巻の電子版も遠からず配信されるはず)。

ecs.toranoana.jp

 

 「烏を屠る旅」は、主人公の音喜多の相棒である雪晴の過去を描く物語だ。

 ここで描かれていることは、家族という存在は何によって家族となるのか?という問いかけではないかと思う。父と母がいて、子供がいる。子供は双子で同じ遺伝子を持っている。だから家族である。でも、ここにあるのは家族ではない。

 少なくとも雪晴にとってそこは帰れる家ではなかった。

 

 父が求めているのは自分の後継者という役割であって、個別の人格ではない。母が求めているのは、自分の存在や価値の証明であって、子への愛は自分への愛にかけられたベールだ。その違いは曖昧かもしれないが、子はそう気づいている。胎児の時点でカラスの遺伝子が混じり、ほどなく法的に人ではないものとなった兄の晴臣は、弟の雪晴の人間のままの姿に自分にはなかった可能性を見てしまう。

 この家族は家族のていをなしている。父と母がいて、その間に生まれた子供がいる。だが、それを繋ぎとめているのは、愛情ではなく、役割と体面と執着だ。だからそこは雪晴にとっては帰れる家ではない。兄の体はカラスになったが、弟の心もまたカラスだ。帰れる家を探している。

 

 どこにも帰れる場所がなく、死という形でそこから逃げ出すことしか考えられなくなった雪晴を助けてくれた人物がいる。彼女と雪晴の繋がりはか細いものだ。それでも彼女は雪晴を家族だと言う。それはわずかでも彼女の遺伝子が雪晴に受け継がれているからだろうか?確かに、それはきっかけであったかもしれない。彼女はそこに自分という物語の辻褄を求め、それを埋めるように行動した。

 だが、雪晴にとってそれが家族となり得たのは、その遺伝子の繋がりがあったからではないだろう。なぜなら、それでいいのであれば、父とも母とも兄とも家族になれたはずなのだから。

 

 彼女は雪晴に、別の誰かを助けることを求める。そしてその助けられた誰かが、また別の誰かを助けることを願う。それは彼女が雪晴にしてあげたことそのものだ。その助けが受け継がれ、連なれば、それは繋がりになる。その繋がりは遺伝子に少し似ているかもしれない。

 

 家族は遺伝的な家族の条件が満たされていれば家族になるのだろうか?そうであったのなら、そんな単純な話であれば、そこに苦しみが生まれることはなかったのではないだろうか?これは螺旋じかけの海という物語全体が抱えるものの一部であると考えられる。家族を家族たらしめるものが、もし遺伝子でなかったのなら、それはいったい何なのだろうか?

 人を家族たらしめる繋がりを雪晴は受け取り、そして、それを同じ人物から別の形で受け取っていたのが音喜多である。だから、音喜多と雪晴は家族になる。同じ人間から繋がった先にいるからだ。血は繋がっていなくとも、法律の裏付けがなくとも、彼らが家族となったということ。雪晴がついに帰れる家を見つけることができたということ。それが、この何もかも曖昧にしてしまう物語の中だからこそ、むしろくっきりと浮かび上がった信じられるものだろう。