はじめに
家にある漫画、電子書籍で買ったのも含めるとたぶん8000冊以上はあります。あと、以前何かのときに数えたら、毎月80冊以上(週刊誌は4週分カウント)は読んでいるはずです。ということで、僕は一般的な平均値から比較すると多めに漫画を読んでいるのではないかと思っています。
さて今回は、そんな僕が大好きな漫画の中から代表的なものを5つ書いてみようと思います。
(1)ドラゴンボール(鳥山明 全42巻)
ドラゴンボールの面白さのひとつは、そのめまぐるしく変化する内容ではないかと思います。物語の進みに従って、どんどん新しい要素が導入されます。しかし、それでも煩雑にならないのは、徹底した合理主義によって裏打ちされているのではないでしょうか?
再読しているとおどろくのはそのスピード感で、毎回テンポよく物語が進行します。アニメの引き伸ばしの印象も強いですが、ベジータとナッパが地球に到着してから完全に決着がつくまでの戦いは単行本にしてわずか2巻と少しです。ドラゴンボールは他の漫画と比べ1話あたりのページ数が少なめ(13〜15ページぐらい)なんですが、その短いページの中で十分にお話が展開します。そこにあるのが合理主義だと思います。それは具体的には、目的と結果を一気に結びつけるような作劇であり、格闘アクションであると思います。過程を吹っ飛ばして、結果だけを得るような合理性を持ちえたことが、物語のスピード感と、虚実の実しかないようなお話作り、そして、その変化のスピードによる、先の読めなさが生まれているのではないでしょうか?
空間を縦横無尽に使った戦いのために、悟空たちは当たり前のように空が飛べるようになり、内的な気の力を光のエネルギーで表現し、それが放たれる大きさて強さを表現するだけでなく、纏うことであふれ出る強さを表現し、そして、その気の光の動きが高速移動の軌跡として用いられることで格闘アクションのテンポを良くすることができます。場面転換がおっくうなら瞬間移動が登場します。状況説明が必要なら頭に手をかざすだけで記憶を探れるようになります。大怪我の完治にかかる時間は仙豆が、そしてナメック星人の不思議な力が解決します。修行の時間が足りなければ精神と時の部屋の登場です。そして、そもそもドラゴンボールという存在がそういうものです。複雑な手順を経なくても、結果を得る術です。それらを大量に導入することで、物語の中から無駄を排除し、高密度の物語展開を可能としていると思います。だから飽きる暇がなく、だから夢中で読んでしまうのではないかと思いました。
作者の鳥山明は照れ隠しか面倒くさいからといって、色んなことを説明づけますが(ベタを塗らなくていいから金髪にしたり、街を描かなくていいから荒野で戦わせたりなど)、それは実際は、描くべきものと描かなくてもいいものを選り分け、描かなくてもいいものを徹底的に省略した合理化しているとも受け取れます。描かなくてもいいものがなくなることで、描いているものが明確になるんじゃないかと思います。
僕は子供の頃からドラゴンボール夢中で、全部好きなので、まだまだ何度も読み返しますし、新作のアニメも見ています。ドラゴンボールは僕の中で完璧に面白い漫画のひとつです。
ドラゴンボールに関しては今まで以下のようなエントリを書きました。
(2)幽遊白書(冨樫義博 全19巻)
幽遊白書における人間の描かれ方、特に嫌な人間の描かれ方には子供心に強く影響を受けました。隠されない強欲さ、他人を嫌な気持ちにさせることを快感と受け取る嫌な人、手段の卑怯さなど、人間が持っているものの、直視することがはばかられるような嫌な人間が数多く描かれ、それに対比されるような純粋な繊細さと、その繊細さゆえの暴走が描かれます。主人公の幽助のポジションは絶妙で、清廉潔白ではまるでなく、とはいえ変に正々堂々としていて、そして、適度ないい加減さを持ち合わせています。それは中庸であることで、どちらかに振り切れ過ぎない、中庸な人間の強さがあるように思いました。
汚いものと綺麗なものの振り幅が幽遊白書の魅力のひとつで、そのどちらにも振り切れない位置にいるバランス感覚が物語を成り立たせていたように思いました。極端に悪いやつも、極端に純粋で繊細なやつも、だいたい主人公ではありません。主役でないからこその振り幅です。人間の悪さに絶望した仙水忍も好きですし、悪さで塗り固めた権化のような戸愚呂(兄)も好きです。THE俗物のような垂金権造も好きですし、惚れた女に操を立てて、人間を喰わなくなった雷禅の、ついには餓死する様も大好きです。どぶのような場所を出自に持つ躯の心の中には、その汚さでも消せなかったほどの綺麗なものがあったわけでしょう。呪われた子として生まれて捨てられ、当座の目的だけで空虚に生きていた飛影が、その胸にそっと抱え続けていた想いがあるわけでしょう。
全編通して描かれるのは、キャラクターの強い魅力だと思います。終盤の魔界編は特に顕著で、あるキャラクターの背景が一話語られるだけで、そのキャラクターに強い共感や興味を僕は得てしまいました。悪いやつの象徴のようであった黄泉が、国を解散し、一人の妖怪となることを決めた台詞だけで、黄泉を好きになってしまうわけです。そこにあるのは「やはりオレもバカのままだ」のただの一言ですが、それまで描かれた権謀術数に長けた黄泉が「変わった」ということを一瞬で理解できます。そして、その後のトーナメントで、ただの戦争の切り札として使う予定だったはずの修羅に、父親として接しているシーンでは、その姿によってもはや、大好きなキャラクターとなっています。
この強いキャラクター性と、それを最小限の演出で一気に理解させてくれる魅力が幽遊白書にはあったように思いました。なので、おかげで連載が終わったあとの、空虚さは強かったように思います。いたはずの人々が、いなくなってしまったからです。それが寂しいので、僕はたびたびこの漫画を読み返しています。
幽遊白書関連では今まで以下のようなエントリを書きました。
(3)SLAM DUNK(井上雄彦 全31巻)
スラムダンクの好きなところは、「何かを好きになることが描かれているところ」じゃないかと思います。女の子目当てでバスケ部に入った桜木花道が、バスケットボールを心から好きになるという道程が非常に丁寧に追われていて、読者としての僕の気持ちもそこに沿うように読みます。桜木は、驚異的な運動能力を持つ男ですが素人です。素人ながらにバスケの試合に出ることになりますが、なかなか上手くなりません。全31巻の中で、桜木が普通のジャンプシュートを決めるのは24巻です。物語の後半になってやっとです。驚異的な運動能力を持っていても、それをベースにインターハイの選手と渡り合っても、やはり素人である桜木が、徐々にバスケにのめり込んでいく過程がとても好きです。
特に好きなシーンのひとつが、ゴール下のシュートを教えて貰うことになったときの桜木で、それまでもくもくと基礎ばかりを教えられた桜木が、初めてシュートの練習をさせてもらえるというところ、それが楽しくて、ひとりで延々と練習を続けてしまうところです。何かを好きになったときに、「好き」と口に出すのもいいですが、口に出さなくても分かるではないですか。ジャンプシュートを教えてもらうところでもそうです。自分の無茶苦茶なフォームのビデオを見て、格好悪くてあれは自分ではないとわめく桜木と、ハードな練習の中で上手くなっている自分の姿に、ぐっと拳を握る力が強くなる桜木の姿を見る僕は、作中で桜木を見守る仲間たちの言うのと同じ「母鳥の心境」です。徐々に上手くなる桜木は、対抗意識から馬鹿にしようとしていたライバル、流川の上手さにも気づくようになります。
最後の試合で桜木は「大好きです、今度は嘘じゃないっす」と口にします。女の子の気を惹きたくて始めたバスケのことを、こんなにも大好きになった桜木は、怪我の痛みをこらえて試合を続けます。最後の最後、試合を決めるのは桜木のジャンプシュートです。スラムダンクというタイトルにも関わらず、桜木が決めるのはジャンプシュート、それは彼がバスケットマンになった証でしょう。素人の見よう見まねでやったダンクとは違い、それは桜木が地道な練習と激戦を戦ってきたことで身に着けたものです。そのシュートは桜木のバスケに対する想いの集大成です。最高ではないですか。
何かを好きなるということはこんなにも素晴らしく、そして、それはある日突然そうなったわけではなく、ずっと接してきたことが徐々にそう変わるのだということ、いつの間にかそれがとても大切なものに変化しているという感覚がとてもグッときます。
SLAM DUNK関連だと、以下のようなことを以前書きました。
(4)DRAGON QUEST-ダイの大冒険-(原作:三条陸 漫画:稲田浩司 全37巻)
ダイの大冒険は、歳を経るごとに「良い…良い…」と思いながら、涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら何度も読み返しているのですが、この漫画の好きなところのひとつに「祈りに応える人がいるところ」があるんじゃないかと思います。
「祈る」ということについて僕がどう思っているかというと、「何もできることがなくなった」ということなのではないかと思います。何かの困難に直面したとして、それを乗り越えるためにできることがあれば、祈ってなんかいないで当然それをすべきですし、それを乗り越えるためにできることが万策尽き、ついに目の前の困難に対して何もできることがなくなったとき、人は祈るんじゃないかと思います。それ以外に何もすることができないからです。
ダイの大冒険の終盤には祈りのシーンがあります。代表的なもののひとつは業火の中で朽ちていきつつある魔王ハドラーがひとりの人間のために行った祈り、もうひとつは、大魔王バーンの驚異的な力と周到な計画を前に、地上を守るために世界をひとつにすることを祈ったダイの祈りです。彼らにはもう打つ手がなくなってしまいました。しかし、それには応える力があります。目の前の絶望とそれに対する自分の無力のどん底で、その祈りに応えて彼らを助ける人々がいます。その人たちがいるということが、とても嬉しく、嬉し泣きです。
どうしようもない絶望だからこそ、そこに希望があること、それが他者の手によって応えられるということ、それらが今までの旅の中で培ったものであること、そのような人間の絆の強さを思い、何度読んでもぼろぼろ泣いてしまいます。
ダイの大冒険関連で書いたのは以下です。
(5)うしおととら(藤田和日郎 全33巻+外伝1巻)
蒼月潮と妖怪のとらが関われば、人々は抱えたその喪失を埋めることができる。うしおととらの物語の中で繰り返し描かれているのはそういうことではないかと思いました。その前提には強い喪失感と、その失われたものへの憧憬や妄執、渇望があります。それがとてもとても悲しくて悲しくて、だからこそ、うしおやとらによってそれらが埋められることに強い喜びを感じてしまいます。
喪失を埋めるということは必ずしも幸福な終わり方ではありません。それらはある種の悲劇であることすらあります。しかし、彼らがその悲劇的な運命で死んでいったとして、それでも彼らにはその欠けたものを埋められたという満足感があるんだと思います。それが彼らの生き方だったのだと、彼らはその命を犠牲にしても、取り戻したい何かがあったということに、生きるということの意味と生きたという証拠を感じることができます。
放っておけば不幸になっただろう人々がうしおととらのおかげで笑顔になります。その戦いの中で、うしおもとらの抱えた喪失も、彼らが誰かを助けたように誰かに助けられて埋められることになります。憎しみで失われたものが、笑顔で埋められることになります。誰かのために何かをするということ、その行為が巡り巡って人々を幸福に導くということです。うしおやとらや人間や妖怪の敵に立つのは、あらゆる者からあらゆる物を奪おうとした悪の権化であり、その彼も、彼が決して持ちえることのなかったものを、善なるものをただ欲しかった存在なのです。清浄で無垢なる善に憧れた、悲しい悪の混沌です。
善なるうしおととらは喪失感を埋めるために他人を助け、悪なる白面の者は喪失感を埋めるために他人から奪おうとしました。白面は物語上の絶対悪ですが、自分たちと切り離せる存在でもないのです。事実、憎しみで戦ったとら以外の字伏たちは、その憎しみから白面の者と同じ存在になりつつありました。白面は悲しいですが、それは白面と同等になる人間も悲しいことです。そして、同じ字伏でも白面にならずに済んだとらがいたこと、その希望が描かれること、それが、うしおととらの素晴らしさだなあと思います。
物語の最後で妖怪は消えてしまいましたが、不思議と辛い喪失感はありません。彼らは悲しみのうちに消え去り失われたのではなく、満足していたからです。
「満足する死とはなんだ?」とは物語の中盤で、ある妖怪が問う言葉です。彼らはその言葉の通りに消え、そしてまた生まれてくるのでしょう。
台詞を覚えるように散々読み返しまくっていますが、それでもアニメが始まれば、テレビの前できゃーきゃー言いながら見ているので、もう全く全然飽きない大好きな漫画です。
うしおととら関連で書いたのは以下のような感じでしょうか。
まとめ
さて、この5つは僕が好きな漫画の中で代表的なものですが、僕は好きなものに順位をつけることを好まないので、特に何かの順番の上から5つというわけではありません。ただ、大好きで何度も読み返している漫画です。
そういえば、人生において最高の本10冊には十代のうちに出会っているものみたいな話を何かで読みましたが、思い返してみると実際そうだなあと思っていて、一方、三十代になっている今考えてみると、人生において最高の本は既に100冊以上には増えていて、そのうち10冊以上は十代の頃にであっているなあと思いました。このペースだと、たぶん、死ぬまでには最高の本は今の倍以上にはなるんではないかと思います。
好きな漫画はどんどん増えますが、でもだからと言って、昔から好きなものが好きではなくなるとかそういうことはないな!というお話です。
そして、この文章を書いた経緯です(ここから紆余曲折)。
「『月に漫画雑誌を100冊読む僕がオススメする7つの漫画と7人の漫画家』というタイトルのエントリーを書け」と知人からメッセージが来たんですが、月に85冊ぐらいしか読んでないのでお断りしました…。
— ピエール手塚 (@oskdgkmgkkk) February 19, 2016