「皇国の守護者」は佐藤大輔の小説です。後に作中において歴史上の人物となる新城直衛を主人公とした、皇国と帝国の間の戦争を描いた物語です。舞台は現実よりも少しファンタジックです。テレパシーのような能力である「導術」を使う者や、知性を持った「天龍」、動物としての「翼龍」などが存在し、技術の発展は現代よりも少し昔の水準です。銃は既に存在しますが、まだ火薬と弾丸が分離しており、銃口から先込めして火打石で着火する、所謂フリントロック式の銃です。蒸気機関も既に発明はされているものの、まだ一般的ではないというようなレベルです。現在9巻まで出ており、続刊は予定されているようですが、しばらく新刊が出ていません。9巻では、帝国を一時退け、皇国の内紛が終わった状態であり、まだ皇国と帝国の戦争には最終的な決着がついていません。しかしながら、それまでに登場した皇国内部の人間関係などの伏線に対して概ね決着がついた節目とはなっているので、第一部完というような感じで十分カタルシスのある結末が読めると思います。
さて、この皇国の守護者には伊藤悠による漫画版があります。こちらは原作で言うと2巻までの内容となっており、新城直衛が帝国と皇国の初戦(皇国が敗戦)があった北領という場所から脱出するまでが描かれています。漫画版も非常に面白く、僕はこれを大変素晴らしい漫画化(小説から漫画への変換)だと思いますが、小説という形式の特性と、漫画という形式の特性から、両者には多くの違いが存在します。では、原作と漫画版はどのような部分が異なるのか?ということについて書こうと思います(なぜなら最近両方読み返したので)。
ざっくり知人に聞いた範囲では、漫画版は読んだものの原作は読んでいないという人が比較的多かったのですが(僕の知人が漫画好きのことが多いからかもしれませんが)、世間的にもそういう割合だとすると漫画版だけ読んだ人に質問したいことがあります。
「皇国と帝国が戦争をしていた理由とは何でしょうか?」
僕が思うに、漫画版だけの読者には明確に答えられない人が多いのではないかと思います。ざっくり言えば、それが原作と漫画版の違いです。原作は、戦争という現象を構成する様々な要素、その根底にある経済問題や、それを生じさせた政治体制、文化の差異、そして、その中で行動する人々、国土の環境や歴史的な経緯、軍隊の構成と戦略戦術の違いなどが仔細に描かれていますが、漫画版ではその多くが簡略化された説明のみに留まっています。原作小説に書かれている大量の情報は、連載漫画というフォーマットに合わせて非常に要点のみに絞って省略されています。
であるため、皇国の守護者は、一年の日数や時間の単位などからして現代の地球とは異なる場所を舞台とした物語であるにもかかわらず、漫画版には説明的なページが思いのほか存在しません。原作では地の文で書かれていたことが、エッセンスのみ抽出され、キャラクターの会話として表現されていることも多いです。文字による仔細な説明が省略される代わりに、絵によって雄弁に描かれたりもします。その結果、原作と漫画版では、起こっている出来事や重要な台詞はほぼ共通しているにも関わらず、得られる読後感に違いがあると思います。どちらがよいという話を言いたいわけではなく、ただ違うということです。
原作では、緻密に構成された大量の情報を背景に、彼らが何故このような状態になり、その中をいかに戦ったのか、戦わざるを得ないのかが描かれる一方、漫画版では、それらの情報をポイントのみに絞ることで、その代わりにキャラクターに重きを置いて描かれています。戦場という場所の中で戦う人々の姿を描く、ということに注力するために、紙面を割く量を調節していると思われるのです。
ここには発表形態の違いもあるでしょう。ウルトラジャンプにおける月刊連載という形式の漫画版には、毎回の見せ場が必要です。連載という形態では、最初にとっかかりを持ってもらえなければ、続きを読んでもらえないからです。それゆえに、漫画版においては原作で起こった出来事を事実関係はそのままにしつつも、語り方をリミックスし、見せ方を変えるということが望ましいはずです。媒体には特性がありますから、それを十全に発揮するには、適切な変換が必要です。
ここで、物語上起こった出来事としてはほぼ原作に忠実な漫画版が、ひとつだけ大きく変更を加えている部分があります。それが第一話の西田少尉のエピソードです。西田少尉自体は原作にも登場しますが、役どころが異なります。漫画版の西田少尉は、帝国軍のトップである東方辺境領姫ユーリアに直接立ち向かい、敗北し、死の淵で、皇国には新城直衛という男がいるということを伝えるという役割を得ています。それにより、物語の導入において読者に印象付けるためのケレン味が与えられていると僕は感じました。しかしそのため、ユーリアが新城の名前を知るという時系列が少しおかしくなっています。これに関しては最終的に、北領での戦いが終結後の新城とユーリアの会話を原作者の佐藤大輔が書き下ろすことで辻褄が合わされているのでした。
漫画版では、この西田だけでなく、旋条銃(ライフル)を与えられ自陣で最後まで戦う兵藤や妹尾、北領での戦いの終結における象徴のように描かれる漆原のように、原作にあったエピソードを膨らませて味付けし、強調して描かれています。よって、漫画版は人間ドラマとしての側面が強くなっています。それゆえ、漫画版を読んでから原作を読んだ人は、原作のあっさりとした描写に肩すかしのような気持ちを抱いてしまうかもしれません。しかし、出来事は同じなので、同じものを読み取りやすいかどうかという問題なのではないかと思います。
例えば「帝国万歳(ウーラン・ツァール)」と声を挙げながら突撃する帝国の騎兵は、この文字だけから読み取るのと、見開きで迫りくる数多くの力強い騎兵の絵を見るのでは、同じことが起こっていても読者によって得る印象は異なります。前者の文字描写から、後者の絵と同等の映像を想像できる人もいるかもしれませんし、いないかもしれません。しかし、後者の直接的に描写された絵は、読者の読み取る力の差異に関わらず、それよりずっと具体的で明確になります。
新城直衛の率いる軍事用に訓練された剣牙虎(サーベルタイガー)の動きも、僕の持ち合わせている想像力では決して到達できないほどの素晴らしい躍動感とともに漫画化されています。僕は漫画版の影響により、漫画化されていない3巻以降も漫画の絵で情景を想像しながら読めたので、伊藤悠の手による映像化する力はとても素晴らしく、漫画版を読むことだけでなく、小説を読むということにおいても、想像力を拡張してくれたという点において強い影響を受けました。
このように、漫画版は原作で描かれたものを元に、情報の取捨選択や、想像力の補助、そして、描かれ方の再構成によって改めて提示するという、皇国の守護者という小説における「ある読み方」を提示しているものではないかと思いました。そしてその提示された読み方は、多くの場合、普通の読者一人の力ではできないことでしょう。少なくとも僕には、小説の文字描写を読んでも、自分の頭の中で漫画版のように素晴らしく映像化をすることができません。それゆえ漫画版は、見方を変えれば、皇国の守護者という小説の非常によくできた副読本として機能すると思われます。一方、原作には漫画版に変換される過程で抜け落ちた大量の情報があります。つまり、原作には、漫画版が提示した以外の読み方も沢山あるということではないでしょうか?
例えば、最初に提示したように彼らは何のために戦っているのか?ということを考えれば、別の見方があることに気づきます。戦闘の勝った負けたではなく、戦争に至った根本原因が解決しない以上は、この戦争は終結を迎えないかもしれないということを考えます。物語の中に悪い人は存在しますが、それを倒せば全て解決し、平和になるというような物語ではないことが分かります。それは人間対人間の単純な力比べではなく、仕組みとして構築されてしまった不協和であり、その狭間ですりつぶされてしまう人々のお話でもあると思うからです。抗うことは新たな仕組みを構築するということであり、それはただ敵を倒せばいいということのように単純ではありません。
皇国の守護者は、様々な魅力を内包した物語です。特に、僕が仕事関係で様々なプロジェクトの統括をしたりするようになってから、読み取るものが増えたようにも思います。自分で手を動かすことよりも、部下への指示やパートナーへの依頼を行うことの方が多くなり、上層部やお客さんからの要望に、限られた資源と時間の中で応え続けることで、僕自身が変化したからでしょう。ある計画を遂行する上で、持てる視点の数が増え、それゆえに多くの制約も新たに見えるようになりました。そして、その中で最善とは思うものの決して理想とは言い難い選択をしなければなりません。そしてそこで自分が行った選択は必ずしも正解ではなく、その責を負うことにもなったりします。これらの経験はミクロな経済の話であり、戦争とは違いますが、僕にとってそこに共通点を探せる部分が増えたということだと思います。
この辺、さらに色々思うことがあるのですが、今回は「原作と漫画版との差異」についてということで書いているので、余談はこのへんで切り上げることにします。
今回、この文書を書いているのは、漫画版の皇国の守護者が面白いことに異論はないとはいえ、それがどこまで原作に既にあるもので、どこからが漫画化によって新しく現れたものであるのかを区別したいというモチベーションからです。それによって明確になるものがあるのではないかと思いましたが、自分の中では多少整理がつきました。
今回書いたこともひとつの視点に過ぎません。そして、自分が知らないことを本の中から読み取ることは困難です。できることはせいぜい、分からないと思っていたものが実は分かるものの組合せであったと気づくことぐらいではないかと思います。なので、人の数だけ視点は存在するはずです。感想を書くにせよ、二次創作をするにせよ、その元になっている一次創作の中にある無数のものの中から、自分が何を読み取ったかとう一本を手繰ることがその根本にあるのではないかと僕は思っています。