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物語の等価交換と作品のリアリティについて

 現在、商業的に出版されている漫画の多くは等価交換っぽい感覚で物語られているのではないかと感じています。それはつまりどういうことかというと、例えば、物語の中で何かの事象が起こったとき、その事象が起こるべき相応の理由が求められているということです。それはおそらく、読者の期待に応えた結果ではないかと僕は考えています。

 もう少し具体的に書くならば、例えばあるキャラクターが死ぬとして、物語の中ではそのキャラクターが死ななければならない理由、あるいは死ぬことによって得られる何かが描かれがちです。特に準主役的な重要なキャラクターが、全く意味も脈絡もなく理不尽に死ぬということは、多くの商業誌で連載される物語の中では考えにくいです。もし、それが描かれるとしたら、「準主役的なキャラクターが全く脈絡なく理不尽に死ぬ」ということを描きたいというような理由が明確にあったときでしょう。重要なキャラクターには、重要であればあるほどに、それなりの花道が退場の場として与えられることが多いのです。

 

 ここでいう「等価交換」というのは「読者の納得」という言葉に置きかえてもいいかもしれません。その出来事が起こるに足る理由を、それまでの物語の中から等価に足るだけ発見できた読者は納得し、その展開は妥当だと考えるでしょう。そして、その理由が不足していると考えた場合、例えば「ご都合主義」や「超展開」などと評され、批判の対象になったりします。それとは逆のパターンで、キャラクターが支払った代償がとても大きいにもかかわらず、まったく報われない結果になったとしたら、それは「鬱展開」などと呼ばれるかもしれません。

 あるキャラクターが報われるべき理由や、酷い目にあうべき理由を物語の中から読み取っていた読者は、その理由に見合う結果が得られない場合、びっくりしてしまうのではないでしょうか?そこにあるのはおそらく、フェアであろうとする目線です。「悪はいつか必ず滅ばされるべきだ」「こつこつと善を成してきた者はいつか報われるべきだ」、などというような感覚は、「そうであるならばフェアであると納得できる」という原理の元に肯定され、そうならなかったものは、読者に少なからずの不快感を残します。そして、その不快感もまた物語の醍醐味のひとつであるのだとも思います。

 

 このあたりの問題は、キャラクターの強さに関する見解でも頻出すると思います。つまり、あるキャラクターが強いとして、なぜ強いかという理由に納得できるかどうかということです。例えば、「人一倍の努力をしてきたから強い」や「伝説的に強い男の息子であるから強い」、もしくは「相応の代償を支払っているために強い」などです。最後のはHUNTER×HUNTERにおける念能力では「制約と誓約」という形で、仕組みとして取り入れられていますね。つまり、自分の力に特殊な条件による制限と、それを守れなかったときの大きな代償を設定することで、その強さの理由とすることができるということです。

 理由が納得できない強さについて読者がどう反応するかは、現在連載中の「刃牙道」において「本部以蔵が強い」と描写されていることに対する読者の困惑具合を見ていれば一目瞭然です。しかし、刃牙道では、本部以蔵が強いに足る理屈を毎週毎週追加してくることで、遂に最近では「本部は本当に強いんじゃないか?」と思えてきた読者も多いのではないでしょうか?それは、天秤の片方の皿の上に乗った「強さ」とバランスをとるために、もう片方の皿の上に「理由」がどんどん追加されているからだと思います。最初はバランスが崩れていたと感じられた交換が、だんだんと等価交換に近づいているというわけです。

 

 少し話が脱線しますが、HUNTER×HUNTERに登場するアルカの能力もまた「等価交換」の原則に基づいています。アルカにはナニカという別人格(?)があり、他人の願いを聞き届け、何でも叶えてくれるのです。そして、そのナニカの夢のような念能力は、叶えた願いに相応の代償を要求します。

 物語を読み進める中で、ナニカへ要求される大きな願いは、その後に代償として起こるであろう大きな悲劇を読者に予想させました。しかし、その結末はある種の読者の納得を裏切ったものとなります。ナニカに「お願い」をするのであれば、代償は要求されるものの、ナニカに「命令」するのであれば、代償は要求されないというのです。つまり命令であれば、それは等価交換ではなくなってしまいました。等価交換でない能力は危険です。なぜならば際限がないからです。これから物語に起こりうるどんな困難も、何の代償もなしに得られる力で乗り越えられてしまうのであれば、物語は破綻してしまいます。それゆえか、アルカ(とナニカ)は兄のキルアとともに旅に出て、物語の中心から一時退場してしまいました。

 しかし、この謎についてはまだ続きがあるのではないかと思っています。それは、その後に始まった新展開において、暗黒大陸から持ち帰った五大災厄の中に、ナニカと同じ口癖を喋る「ガス生命体アイ」が存在するからです。もし、ナニカの能力がアイに由来するものであるならば、アイについて描かれる過程で、一旦崩れた等価交換が、また何らかの枠組みの中に収められるのかもしれません。なので連載再開が待ちどおしいですね。

 

 さて、物語と違って現実は唐突で理不尽なので、あまり納得のいかない展開も多いのではないかと思います。人は脈絡なく不幸になってしまいますし、悪が栄えることも、善人が虐げられたまま報われないこともあるでしょう。もちろんそうではないこともたくさんあります。ただ、それを観測している人たちが思えるほどに、納得のある結末を迎えるとも限りません。そして、結末というのは観測している人がその場その時に勝手に設定しているだけで、人生は続きますし、人が死んでも世界は続きます。

 現実の世の中では、努力は報われるとは限りませんし、親がすごくても子供もすごいとは限りません。そして、代償を支払うことと、得られるものの多寡には大して関係がないかもしれません。リアルな物語というものがあったとすると、その物語における等価交換は、もしかするとある程度崩れている必要があるのではないでしょうか?リアルに描写しようとすれば、人の死を取り扱ったとしても、豪華にお膳立てされたような花道はなく、唐突にあっけなく終わったりもするでしょう。そして、それはリアルかもしれませんが、納得がいかない結末と捉える人も多いのではないでしょうか?

 

 一方、この考え方をベースにすると、「リアリティのある物語」は「リアルな物語」の対極とまではいいませんが、かなり乖離した場所に位置すると考えられます。なぜならば、読者が納得できる理由がないものについては「リアリティがない」という評価が下されがちだと思うからです。仮にそれらが現実でも起こったことがある「リアルな事実」だったとしてもです。リアリティという言葉はもしかすると、その描写に読者が納得できる理由を等価になるまで付け加えたもののことを指すのではないでしょうか?つまり、現実には起こりえないリアリティのある描写もあれば、現実に起こったことがあるリアリティのない描写もあるということです。

 例えば、物語の中で貧困にあえいでいる人の姿が筋道立てて描かれていたときに、終盤で突然宝くじが当たって貧困が解消されてめでたしめでたしとなったとしたら、それはリアリティがない物語であると考える人が多いのではないでしょうか?なぜなら、それは全くに唐突であるがゆえに、納得できないからです。過去の伏線なども全くない状態で、それが急に起こったとしても納得ができない→起こる理由が分からない→理由がないのに起こっていることはおかしい→それにはリアリティがない、などと判断されるように思います。とはいえ、現実に宝くじが当たった人にとって、宝くじが当たるべき理由を持っている人がどれだけいるでしょうか?幸運も不幸も、現実の一人の人間の中にある物語とは大して関係のない部分で勝手に決まって降りかかってくることも多いです。

 

 リアリティある描写のみで構成された物語は、そのフェアさゆえに先が予測しやすいかもしれません。悪いことをする人がいればいつか倒されるでしょうし、善いことをする人がいればいつか報われるでしょう。そして、重要な人物が死ぬには相応の理由が必要なので、もしかすると死んだのでは??というような展開があったとしても、いやいや、彼はこんなところで死ぬようなキャラクターではないでしょうなどと考えてしまいます。

 ここでいうリアリティだけの物語は予定調和に陥りがちなので退屈してしまうかもしれません。ここでいうリアルなだけの物語では理不尽で納得がいかないかもしれません。なので、多くの物語ではリアルとリアリティは作者の手により適度に混ぜられ、予測を裏切りつつも期待に応えつつ、場合によっては理不尽さによって読者の心に傷を残しつつ描かれるものだと思います。

 なので、ある作品について「リアリティがない」という評価をした人がいたとしたら、その人はその作品の中に「そうである等価な理由」を探すことができなかったという事実だけを述べているのであり、逆に「リアリティがある」という評価をした人がいたとしたら、その人は「そうである等価な理由」を探すことができたという事実だけを述べているのだと思います。そして、僕が思うに、それはその作品がリアルである、つまり現実でもあり得るかどうかとは、また別のお話だと思いました。

 

 余談ですが、インターネットには作り話だと推定される「実話」という体裁のエピソード(一部界隈のスラングで「創作実話」と呼称される)が日々大量に投稿されていると思います。それらのお話に関しては、本当に事実であるかどうかをひとつひとつ厳密に検証することは難しいとして、僕がなんとなくそれら分類する基準として使っているものがリアリティです。つまり、作り話はリアリティがしっかりしているということです。

 ある事件が起こるべくして起こること、そして、その事件が解決されるべくして解決されることのような等価交換性が満たされていると、僕はそこに少なからずの創作性を読み取ります。もしかすると、それらのエピソードは事実に基づきつつも「盛った」創作であったり、聞き手に理解しやすくするために「再構成」した創作であるかもしれません。だとしても、どこまでそうであるかを個々のお話について完璧に見分けるのは不可能です。しかし、リアリティがしっかりすると、ある副作用があります。それは「その文章の意図が明確である」ということです。

 例えば、「属性Aの悪い人がいて、それを属性Bの善い人がこらしめた」というリアリティがしっかりしたエピソードがあると、それが「属性Aは悪者であり、属性Bは善人である」ということを肯定するために作られた物語であると判断できます。それが事実であるかどうかは別として、重要なのは語り手はそのような事実を表明したいために語っていると判断できる点です。それを感じ取ってしまった瞬間に、そのお話はある種の意図のもとに語られているため、肯定も否定もせず、ただスル―するというのが個人的なポリシーです。それは、その事実関係の確認がとれていないお話を肯定すること自体が、誰かしらへの攻撃性の表明になってしまう場合があると考えているからです。攻撃性は表明すれば、対象からの恨みは買いやすくなるものの、特に得る利益がないので、保身のためにそうしています。

 

 さて、僕は今「『創作実話』を披露する人が、他人に攻撃性を表明している人である」というような印象操作の文章を雑に書いてみましたが、みなさんは読んでいてどう感じたでしょうか??その「印象操作」と「理由」に等価交換と感じられるほどのリアリティを感じたでしょうか??