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漫画版「光圀伝」を読んで思った歴史物語の点と線関連

 冲方丁の「光圀伝」を原作に、三宅乱丈が描いていた漫画版「光圀伝」ですが、4巻が出て以降、数年単行本が出ていませんでした。にもかかわらず、先日単行本予定表を見たら、愛蔵版の上下巻が発売予定になっていて、あれ?いつのまに最終巻まで出ていたの??と不思議に思いましたが、どうも紙の単行本は4巻で終わり、5巻から7巻は電子版のみとなり、その代わりに全部が収録された一冊3000円の愛蔵版が上下巻の2冊に収まったものとして同時に出たようです。

 

 なんでこんなことに?と思いましたが、連載作品の途中まで出た単行本の続きが紙で出なくなり、電子版のみになるケースは最近体験することがちらほらあり(「もっこり半兵衛」とか「ブルーストライカー」とか)、採算とれるぐらいに売れるなら紙でも出すと思うので、売れる見込みが立たなかったのかな?と想像しました。4巻からの時間が空いて、既刊も書店では手に入りにくくなっていると思いますし、1~4巻を買った人以外は5~7巻は買わないでしょうから、難しい話だなとも思います。

 

 たとえ赤字だったとしても紙の本を出してくれ!と頼むには、自分が儲からない仕事を頼まれたときのしんどい気持ちがよみがえってしまって気後れする部分があり、とりあえず買いなおしになったとしても愛蔵版としては出してくれたのはありがたかったなと思いました。この本も多分あまり多くは刷られてない予感なので、紙で欲しい人はさっさと買った方がいいと思います。

 

 さて、僕は原作小説を読んでいないので漫画版の話をします。原作にあって漫画版にはないもの、そして漫画版にはあって原作にはないものがあると思いますので、これはあくまで漫画版を読んでの話だと思って読んでください。そして、これがめちゃくちゃ良かったです。

 

 「光圀伝」は、タイトルの通り、水戸黄門として有名な徳川光圀の生涯を描いた物語です。そして、僕が読み終わったときに思ったのは、これは人間の生涯に「義」という背骨を通すことで一本に繋げた話なのだなということです。

 

 僕が思うに、実際の人の人生は物語ではありません。もっと猥雑で混沌とした、離散的な事実の連なりです。しかしながら、それを一本に繋げて線形に理解することもできます。離散的な事実と事実の間を結んで線として理解するとき、そこには何らかの式が必要です。

 つまり、離散的な点の全てを理解するためには点の数だけの記憶領域を必要としますが、それを式で記述することができれば、もっと少ない記憶領域で済むはずということです。ただし、それはあくまで近似式でしかなく、本来は存在しなかった点と点の隙間を埋めてしまったり、その線から外れたものを無視することも生み出してしまうでしょう。

 人の人生をある種の価値観を式として利用して理解しようとすることは、そこに存在しなかったいくらかのものを生み出し、そこに存在していたいくらかのものを無視するということです。しかしながら、それによって、本当は理解できないほどの巨大な情報を持つ人間の人生を理解できるものに落とし込むことができます。

 

 光圀伝は「義」という概念を線として、徳川光圀の人生を理解することができる物語だと思いました。

 

 この物語の中でとにかく心に響いたのは、読耕斎(林羅山の子)と光圀の会話でした。同じ母から生まれた兄を差し置いて、水戸徳川の後継ぎに選ばれてしまった光圀は、それが「義」に反する「不義」であると悩み苦しみます。しかしながら、自分よりもはるかに知識があり弁が立つ読耕斎との討論の中で、彼は自身の人生を「義」に戻すことができる光を見るのです。

 それは、史記に記されている伯夷と叔斉の行動に自身の境遇を重ね、史上の人間の行動を解釈することで、自分にとっての最も良い選択に至れる可能性を見ることができたということでした。

 

 これも「線」の話でしょう。歴史書に記されている離散的な「点」と「点」をどのように選び、どのような「線」として理解し結ぶかによって、その記載の持つ意味は変わり得ます。もしかすると、そこに絶対的な正しい解釈は存在しないのかもしれません。ただ、光圀は、伯夷と叔斉について読耕斎の知恵を借りた「不義」を「義」に変える解釈を得ることで、自分自身の人生に光を見いだすことができたのです。

 

 徳川光圀は、後に大日本史を編纂した人物でもあります。大日本史は、紀伝体で書かれた歴史書です。紀伝体とは、事実の年代的な羅列(編年体)ではなく、人や国を切り口に、情報をひとまとまりにして記載する様式です。

 この物語の中で過去の人の生き方の解釈から自身の生き方を見いだした男が、同じように過去の人の生き方を記載した歴史書を作ることが描かれ、読者である僕もまた、その生き方の中から自分の人生にとって必要なものを見いだします。

 

 これは「義」の物語です。そして、その裏側には「史」がある物語でもあるのだと思います。徳川光圀という実在した点を、「光圀伝」という線をもってして、読者に届ける存在だと思うわけです。そこには本当の歴史には存在しなかった点が含まれるかもしれません。線に必要がなかった点は出てこなかったかもしれません。この物語は、実在した徳川光圀の人生とは全く異なるものかもしれません。

 でも、それを読む僕自身にとっては、この物語における光圀にとっての伯夷と叔斉のように機能し得るわけです。

 

 この物語は、「不義」の男が「義」の人生を追い求める物語です。ただし、その「義」はあくまで光圀にとっての「義」であって、別の視点から見れば異なるのかもしれません。つまり、「義」もまた「線」なのではないかと思います。「不義」として解釈される「線」を、「義」として引き直したところで、それはやはり無数の可能性の中のただ一本の線でしかなく、別の視点から見れば、別の線をいくらでも引くことができるものかもしれません。

 

 この物語の中では別の「義」も描かれます。ネタバレ配慮で、それがどこの何かは書きませんが、そこもまたすごく良く思ったところでした。

 

 人がなぜ歴史物語を読むのかというと、それがいかに過去の史実に基づいたものを描いたものであったとしても、今の自分にとって意味があるからなのではないでしょうか?都合よく解釈して読んでいるだけなのかもしれません。ただ、歴史は、これまで生きてきた人間の営みの連なりです。

 そこには今の人間が悩むような全てが既に存在し、記録されているのかもしれません。いや、それはただ今の人間が、過去の点の間に勝手に線を引いて見いだしているだけなのかもしれませんが。この文章のように。