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雑な議論(オレオレ定義)とリスキーダイス

 「雑」っていう言葉を割とよく使うんですが、僕がどういう基準でこの言葉を使っているかというと、「解決すべき問題に対して、考慮すべき要素としてピックアップしているものが少なすぎる」という意味で使っていることが多いです。「雑に言うと」という言葉を僕が使うとき、言い換えれば「正確な話をするなら、本当は沢山の色々なものを考慮する必要があるけれど、それを無視して言うと」という意味合いです。

 何かの構成要素が10あった場合に、本当は10のことを全部考えないといけませんが、手間を省いてその中から2や3だけピックアップして雑な議論すると、残りの7や8が無視されたままになります。ここでこのまま実行しようとするといざ手順を進めたときに初めて発覚する問題が沢山発生する可能性があります。なぜなら議論されなかった部分が何もしなくても想定通りであるとは限らないからです。そして、その場になってようやくそれまで考慮されていなかった部分を検討しなおしたとき、もしかするとそこで出る結論は当初と異なったものになるかもしれません。あるいは、雑な議論で決められてしまったことに合わせてごり押しするために、色んなものが犠牲にすることになるかもしれません。

 

 さて、ここで言っている「雑な議論」と、かなり似た概念が他にもあるのではないかと思います。それは「理想論」です。こちらの理想論も、定義にはよりますが、現実に存在する諸問題のうちのいくつかを無視することでようやく綺麗に成り立っている論のことではないかと考えています。なので同様に「理想論で言えばそうかもしれないが、現実的には難しい」ということがあります。

 

 だとするなら、理想論には意味がないのでしょうか?僕の考えではそうではありません。なぜなら、適切な理想論は、沢山ある考慮すべき要素の中から、いくつかの重要な要素のみをピックアップすることで、その問題が何であるかをシンプルに分かりやすくすることができるからです。

 では、このような「理想論」と、前述な「雑な議論」は何が違うのでしょう?それは、「何を考慮すべき要素として選んでいるか」ということだと思います。「要素の選ばれ方が適切である」というごく限られたときにのみ、それらは「理想論」と呼ばれ、それ以外が「雑な議論」であると思います。多くの雑な議論は、つまりは理想論の出来損ないです。多くの雑な議論は、理想論を唱えようとして、全然有用な要素をピックアップできていないときに起こるものだと思います。

 

 しかしながら、ここには何をもって選ばれた要素が適切か?という問題は依然として残ります。そして、それは多くの場合、悲しいかな結果論で判定されがちなのではないでしょうか?ある人が要素の選び方が適切だと思ったとして、それが本当に何かを推し進める上で有効に機能するかを、実際に行ってみる前に正確に判定することはとても難しいことです。周囲に雑だ雑だと言われても、本人はいっぱしの理想論を言っているつもりかもしれません。そして、そのいっぱしの理想論は実際の結果を出せたとき、本当の理想論として後付けで周囲に受け取られたりもします。

 なので、それが「理想論」か「雑な議論」かの境界を正確に判定することは難しく、ことが起こってみる前には、見分けられるものではないとでも思っていた方がいいのではないかと思われます。逆を言うと、最終的に実行されさえしなければ、この曖昧な状況を継続し、検証がされない永遠の理想論(の可能性があるもの)という振る舞いも可能だと思います。

 

 ただし、その雑さが無視できないぐらいに明確であり、方法論からいって否定すべきな「雑な議論」というものもあります。それは、「論を立てた人が、そこに自明な考慮すべき要素がどれぐらいあるかすらを知らない場合」です。つまり、十分把握できている要素の中から、時間や予算や人員などが限られた中で、必要最低限を厳選して、これだけを選んだということではなく、ただの無知であり、自分が知らないことすら知らない状態だからです。もしかするとそれでも上手くいく可能性もありますが、それはただの偶然だと思います。少しでも確率を上げるためには、無知であることを排除する、より正確には、自分が現在手元に抱えている要素が全てではないことを認識し、可能な限り考慮すべき要素を集めておく、という行為を抜きには、議論はまともにはならないものだと思います。

 

 世の中にはあらゆる制約があります。何かを進めようとしたとき、時間と予算と人員などの制限から、全てを万全にして進めることができないことも多いです。なので、ある程度の雑さは先に進むための必要な要素かもしれません。雑さを織り込んだ不確かな理想論をコンパスにして、先の見えない道を進んでいかざるを得ないのも実情でしょう。ただ、そのような不確かなものにはリスクがつきまといますし、それは実際に実行する人が、自分のリスクで引き受けつつ行うものだと思います。

 

 なので、僕が思っているのは、何かを考える上で自分がどれぐらい雑かを理解しようとすること、そして、その雑さは自分(あるいは自分とリスクと利益を共有する集団)が引き受けるときのみ利用し、決してそれ以外の他人に強要はすまいということです。

 なぜなら、それはHUNTER×HUNTERで言えば、リスキーダイスをモタリケさんに強要して振らせていた人殺しのボマー達と同じような行為だと思うからです。振れば高確率で巨大な幸運を得られる代わりに、低確率で命に係わるような悲劇に見舞われてしまうアイテムであるリスキーダイスを、上記の論と喩えるとすれば、あるべき議論は全ての面を「大吉」の表示に変えるということ、理想論は、ダイスの偏りを考慮して、出やすい面だけを「大吉」にしておくこと、雑な議論はそもそもダイスが何面あるかすら知らず、そのほとんどを「大凶」のままにしておくということです。

 

 そしてそれを他人に振らせようとすることは、非常に邪悪だと感じます。

 

 これが僕が考える雑な議論と、その取扱い方針です。少なくとも自分に人間としての余裕があるうちは、雑な議論を元に他人に何かを強要するようなことはしないでおこうと思っています。が、それでも自分が理想的なやり方だと思って雑なやり方を提案してしまうという可能性は消せはしないと思うので、やっかいなところです。